セカンドブログ本格運用です

当ブログ、Cafe de Castellaですが、容量が95%までに到達しまして、年頭の予告通り、今後の海外・国内の旅に関する記事は新ブログ、Cafe de Castella Annexに掲載することにいたします。

そして「かすてら音楽夜話」に関しては容量が一杯になるまでこちらで記事を書いていくつもりでおります。

どちらのブログも今後とも宜しくお願いいたします。

さて、セカンドブログですが、PC版ですとココログとは見た目が大きく変わってます。なんといっても画像が大きく表示できます。そして、容量は毎月300MBまでアップロードが可能。と、いうことはほぼ無制限に近く、これまで以上に画像をアップロードできるということになります。

その代わり、特定の記事をトップ固定といったことができず、トラックバック機能がありません。また、PC版ではコメント欄にリンクがつけられません。スマホではできるのですが。

また、自分自身でもサイドバー設定などいまいちわかってない部分がありますので、これから少しずつカスタマイズしていく感じですかね。

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いずれにせよ、どちらのブログも今後ともご贔屓に。

しつこいようですが、新ブログ(セカンドブログ)は

Cafe de Castella Annex

です。叱咤激励から冷やかし、なんでも結構ですので、遊びにいらしてくださいませ。

店主敬白

この記事は当面トップに表示させておきます。最新記事はこの下から始まります。

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2025年1月30日 (木)

スペクトラムがバズってる

かすてら音楽夜話Vol.204

Spectrum

今回はちょっと短めに。

なんと、あのスペクトラム(Spectrum、1979-1981)の「F・L・Y」という曲が北米を中心としてバズっているんだそうな。

 

セカンドアルバム『Optical Sunrise』収録の曲で、作詞:Mabo、作編曲:スペクトラム。「ミーチャン Going To The Hoikuen」との両A面として3曲目のシングルとなった曲です。

このことを知ったのは、作詞のMaboこと、篠塚満由美さんのInstagramから。


 

篠塚さんは一時期、ものまねタレントしても活動していた方ですが、「スター誕生」でグランドチャンピオンに輝いた方でもあるのです。

実は篠塚さんをインスタではフォローさせてもらっておりまして、このニュースが流れてきたわけです。

スペクトラム「F・L・Y」が45年の時を超えて世界的ブレイク

こちらのニュースによると

スペクトラムが1980年に発表したシングル「F・L・Y」が現在、45年の時を超えて世界的ブームになっている。

昨年12月からTikTokでノスタルジックなゲームやアニメを紹介する動画のBGMとして同楽曲が使われたことで、同曲を使用したTikTok動画の総視聴回数は1億回を突破(2025/1/15時点)。現在、アメリカを中心に世界中で話題になっている。

スペクトラムは、リーダー新田一郎が中心となり、海外のソウル、ファンク、ブラスロックなどの影響を受けながら、独特のファルセット(裏声)中心のヴォーカル、16ビートのリズムなど、ブラック・ミュージックのスタイルを日本にいち早く導入したグループ。1979年にデビューしてから、1981年の解散までの2年間で、シングル6枚、アルバム6枚を残した唯一無二のブラス・ロック・バンド。

シングル「F・L・Y」は1980年に発売されたアルバム『スペクトラム2 OPTICAL SUNRISE』収録曲で、シングルとしても発売された。

いやあ、トランプ氏がTikTokを全面禁止にしなくて、よかったですね。それにしても、何がバズるかわからんな。

我が地元のタワレコではほぼ見かけないのですが、12月に新宿タワレコでのJ Popのフロアに数名の欧米系男性がいまして、彼ら漢字、カタカナ、ひらがなは読めないでしょうから、店員にいろいろとたずねながら、買いあさっていたんですよね。

案外とこういうところから「ネクスト再発掘」があったりするのかも。

また、テレ朝で深夜放送している「新しい学校のリーダーズの課外授業」のロケでアメリカのブラスバンドとの共演があったのですが、そのブラスバンドの衣装が、絶対真似してるだろというくらい、スペクトラムの衣装に近いものがありました。確か、2024年中の放映のものです。

ちなみに、タワレコはレコード会社と協力の下、様々なアーティストのアルバムを再発しております。もちろん、スペクトラムも全アルバムがリマスターされ、発売されています。こちらは、Victorと協力してですよね。そのVictorも自社で再発をしているようです。ちなみに、Victor盤のほうが、やや安いです。ただし、ボーナストラックは入ってない可能性もあるかな。

スペクトラムに限らず、様々なアーティストが次々に再発されてます。これはひとえに、CDというフォーマットになる以前にCD化されなかった作品がまた、時を経て蘇ったりするんですよね。

こうなったら、編集物でもいいので、「動くスペクトラム」も見たいです。実はVHDというほとんど普及しなかったフォーマットをDVD化した『SPECTRUM Live/Time Break+Studio Live 1979』というものはゲットしているんですけど。

それだけでなく、現在のところ、スペクトラムのメンバーは全員ご健在なので、是非とも短期間でいいので、再結成してくれないかな…というのははかない願いなんでしょうかね。

ちなみに、トロンボーンの吉田氏、ドラムの岡本氏、パーカッションの今野氏はBLUFFというブラスロックバンドで活動しております。やるかどうかは新田一郎氏の決断次第かも。

ちなみに、上記の「F・L・Y」をYoutubeで見ると、「…もっと見る」をクリックすると、あちらの方が作ったショート動画がぞろぞろと出てきます。

では最後に、こちらを聴いてお別れしましょう。「Act Show(Live Version)」(作詞:宮下康仁 作編曲:スペクトラム)。もともとはデビューアルバム『Spectrum』のオープニングナンバー(スタジオ録音)ですが、セカンドシングル「イン・ザ・スペース」のB面曲としてこのライヴ盤がカップリングされました。スタジオ録音盤よりもテンポが速く、ヴィジュアルとともにスペクトラムの良さが出ていると思います。

 

早すぎたバンド、スペクトラムに時代が追いついた感じですかね。

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2025年1月19日 (日)

温故知新・Mike Chapman

かすてら音楽夜話Vol.203

今回は表舞台に立たない人物の話です。

以前の温故知新シリーズではBarry Mann(バリー・マン)とCarole King(キャロル・キング)を取り上げました。バリー・マンは楽曲提供者でした。キャロル・キングはキャリアの前半は元の夫(Gerry Goffin)と組んでの楽曲提供者、後半では自身が演じるシンガーソングライターというものでした。

今回取り上げるのはMike Chapman(マイク・チャップマン)というオーストラリア人で、若かりし頃はあるグループに在籍していたものの、Nicky Chinn(ニッキー・チン)と組んで裏方に回り、プロデュースや楽曲提供者に転じました。ま、やがてニッキー・チン氏とは袂を分かち、ひとりでプロデュース及び楽曲提供者としてその後の長いキャリアを重ねることになります。

出身はオーストラリアですが、イギリスに渡り、チンと出会います。この頃に手掛けたのはSuzi Quatro(スージー・クアトロ)などがいます。

ちなみに、John Lennon(ジョン・レノン)殺害犯の名前がMark Chapman(マーク・チャップマン)といい、混同されがちですが、マイク・チャップマンにとってはいい迷惑ですね。

一発屋量産プロデューサー

その後、チャップマンは渡米し、経験豊かなバンドを探していたところ、Exile(エグザイル)というバンドのデモテープを聴き、エグザイルとコラボすることを決めます。

そして、シングルを出すのですが、失敗に終わり、これで終わりにしようと思っていたところ、チャップマンの妻がエグザイルを押していたため、引き続きプロデュースすることを決めます。

アルバム『Mixed Emotions』からの最初のシングルが、チャップマンとチンが書いた「Kiss You All Over」でしたが、これがなんと1978年9月にビルボードで1位(4週連続)を獲得するという大ヒットになりました。

 

実はこのレコーディングが大変だったらしいです。リードヴォーカルの音程が安定しないことから、急遽ギターもヴォーカルに起用し、クリスタルキングのようにお互いを補うような形になったそうですが、これが成功しましたね。

その後のエグザイルのシングルは40位、88位と低迷していきます。ただし、アルバム『Mixed Emotions』はビルボードで14位のゴールドディスク、「kiss you All Over」はプラチナディスク認定で、1978年のビルボード年間シングルチャート5位となっております。

ちなみに、エグザイルはのちにカントリーバンドに転向しています。

そして、「Kiss You All Over」に代わってビルボード1位に躍り出たのが、次の曲です。

 

Nick Gilder(ニック・ギルダー)の「Hot Child In The City」でした。なんと、この曲もチャップマンがプロデュースしています。

ニック・ギルダーはカナダ人で元々はカナダのグラムロックバンドのヴォーカルでした。アルバム1枚リリースしたところで、ソロに転向しています。なお、後任のヴォーカリストにはBrian Adams(ブライアン・アダムス)がいたそうで。

「Hot Child In The City」はニック・ギルダー自身が書いた曲で、LAの児童買春を垣間見たところから発想が浮かんだとのこと。

なお、「Hot Child In The City」は1週のみの1位で、プラチナ認定されているものの、1978年の年間チャートでは22位となっています。キャッシュボックスでは6位なんですが。このあたりはビルボードとキャッシュボックスの集計の違いですね。

その後の彼のシングルはやはり売れず、2曲が44位と57位に入っているのみです。ただし、その後はPat Benater(パット・ベネター)らに楽曲提供をしておりました。

この1978年ですが、ディスコ全盛時代で、Bee Gees(ビージーズ)、Andy Gibb(アンディ・ギブ)、Commodores(コモドアーズ)、Yvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、Donna Summer(ドナ・サマー)、A Taste Of Honey(テイスト・オブ・ハニー)、Chic(シック)などなど、さらには映画「Greece」からオリビアとトラボルタ、Franky Valli(フランキー・ヴァリ)というそうそうたる面々に割って入り、5週連続1位を獲得したチャップマンなのでありました。

余談になりますが、ビージーズの所属していたRSOというレーベルだけで、1月から5月までの19週間連続の1位なのでした。ちなみに、この中にはディスコとは関係ないPlayerというバンドの「Baby Come Back」も入っております。

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翌1979年、デビュー後にあっという間にナンバーワンに駆け上がったバンド、The Knack(ザ・ナック)もチャップマンがプロデュースしました。

デビュー曲「My Sharona」は5週連続の1位となり、1979年の年間シングルチャート1位です。そして、ダブルプラチナ認定。

チャップマンがなぜ彼らを担当するようになったのかがややわからないのですが、これまで担当してきたミュージシャンがほぼ短命の終わるなど、チャップマン自身も飽きっぽい傾向があったのかもしれません。The Knackは10社にもおよび争奪戦でCapitolからデビューしたのですが、この新人バンドをチャップマンに預けてみようというキャピトル側の意向もあったのかもしれません。

「My Sharona」はあまりにも有名で、一度取り上げていますので、セカンドシングルをどうぞ。

 

セカンドシングル、「Good Girls Don't」、ビルボード11位に沈みました。

チャップマン自身もThe Knackのセカンドアルバムまではプロデュースをしていたので、ある程度の期待はあったみたいです。ただ、年々チャートは沈んでいきます。

The Knackの演奏スタイルやファッションを見ていると、「ビートルズの再来」と評価されたのがよくわかりますね。プロモーションビデオではありますが、「Good Girls Don't」で1本のマイクを二人で使うなど、明らかに影響が見て取れます。

このあたりも、チャップマンの強い指示があったのではないでしょうか。

Exileの「Kiss You All Over」の下りでもわかるように、チャップマンはミュージシャンにかなり高圧的に接するところがあるので、ミュージシャン側からも強い反発があったのではないかと思われます。The Knackも3枚目のアルバムからはプロデューサーを変更してしまい、そして、1981年という早い段階で最初の解散をしてしまいました。

それにしても、The Knackのデビューアルバム、『Get The Knack』(アルバムチャート1位、1979年の年間チャート16位、ダブルプラチナ)はかなり出来のいいアルバムで、たったの2枚しかシングルカットがないのが謎です。

腐れ縁

チャップマンが最も多くのプロデュースをしたのがBlondie(ブロンディ)です。

1978年のアルバム『Pararell Lines』(6位、年間9位)、1979年の『Eat To The Beat』(17位、1980年年間8位)、1980年の『Auto American』(7位、1981年年間28位)、1982年の『The Hunter』(33位)まで仕事を共にしました。

意外なことにチャートが低いですが、イギリスでは『The Hunter』を除き、チャート上ではビルボードよりも上位にランクインしてますし、この中には3つのビルボード1位獲得曲があります。

ま、その後、ブロンディは一度解散してしまうのですが。

これだけ、ヒットしていても、チャップマンとの関係はよくなかったそうです。特にヴォーカルのDeborah Harry(デボラ・ハリー)は嫌っていたそうです。

この合間にブロンディは映画「American Gigolo」のテーマソング、「Call Me」(1980年)をリリースし、見事に1位を獲得します。こちら、年間チャートでも1位でした。しかし、この曲のプロデュースはイタリア人のGiorgio Moroder(ジョルジオ・モロダー)だったのでした。

 

ブロンディーには4曲のナンバーワンヒットがありますが、そのうちのひとつ、アルバム『Autoamerican』から「The Tide Is High」(邦題が「夢見るナンバーワン」)でした。1980年のシングルでもちろんビルボード1位、翌年の年間チャートで17位でした。

こちら、オリジナル曲ではなくジャマイカのグループのカバーです。

デビー・ハリー、今年でなんと80歳なんですね。ちなみに、チャップマンは1947年生まれ。

やっぱり、ニューヨーカーとオーストラリアから出てきた人間とはウマが合わないような気も。それでも、ニューウェイブからレゲエまで幅広い音楽性を示してくれたのはチャップマンがいたからかもしれません。

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2025年1月 4日 (土)

主導権争いののちグループ追放

かすてら音楽夜話Vol.202

A Happy New Year, 2025

例年ならば、本年の抱負などをつらつら述べておりましたが、音楽系ブログに本格移行いたしましたので、それはありません。少しでも、心地いい音楽をたくさん聴いて身も心もハッピーになる、そんなブログを目指したいでございます。

さて、今回のお題ですが、表題の通り、グループの主導権争いの話です。

Styxというアメリカのロックバンドがあります。

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デビューは古く、1972年です。オリジナルメンバーはDennis DeYoung(デニス・デヤング、キーボード、ヴォーカル、画像の左上)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ、ドラム、故人、画像の右下ヒゲなし)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ、ベース、画像の右下ヒゲあり)、John Curulewski(ジョン・クルレフスキー、ギター、ヴォーカル、故人)、James "JY" Young(ジェームス・JY・ヤング、ギター、ヴォーカル、画像の右上)の5人でした。

元々はパノッツォ兄弟(二卵性双生児)と隣人のデニスが組んでいたバンドが母体で、そこに大学時代の知り合い、クルレフスキーが加わり、さらにJYが加わりました。当初はプログレッシブロックの色合いが強く、大きなヒットも生まれませんでしたが、「Lady」がリリースから2年たってチャートを上がり始め、大手のA&Mに移籍します。5枚のアルバムを出したところで、クルレフスキーが家庭事情により脱退することになり、急遽ギタリストのオーディションを行い、向かい入れられたのがTommy Shaw(トミー・ショウ、ギター、ヴォーカル、画像の左下)で、この5人体制がStyxの最盛期であったといえます。

トミーの加入後、アルバムはヒットを続けますが、音楽性は大きく変わってきてどちらかというと大衆が好むような曲が多くなります。評論家の渋谷陽一がいう、「産業ロック」とも揶揄されますね。

お断りすると、渋谷氏のお好みはLed Zeppelinであるので、Styxは真逆のバンドといえます。

そして、1979年にリリースした9枚目のアルバム『Cornerstone』がビルボード2位、デニスの歌う「Babe」が1位を獲得します。グループ唯一のナンバーワンヒットです。

 

映像はライヴのように見えますが、オリジナル音源に歓声をかぶせたものですね。オフィシャルビデオとなっていますので、プロモーション的に使われたものと思われます。

この頃のStyxは前に出ている3人(デニス、トミー、JY)のコーラスワークもなかなかのものでした。

 

一方、こちらはトミーの曲で「Boat On The River」ですが、なんとアメリカではシングルカットされていません。なお、ドイツではチャート5位を記録していて、ヨーロッパ圏では人気のある曲でした。

この頃のStyxのアルバムではデニスが書き、歌う曲が60%。40%はトミーやJYの書いた曲、あるいは二人以上の共作といった構成でした。あくまでも、バンドの顔はデニスでした。

そして、1981年にリリースした10枚目のアルバム『Paradise Theatre』がついにチャート1位を獲得し、彼らの人気は絶頂に達したと思います。

 

デニスの曲で「The Best Of Times」。ビルボードでは3位のヒット曲です。

一方、『Parasise Theatre』ではトミーの曲もシングルカットされ、Styx在籍時のトミーの最大のヒットとなったのがこちら。

 

「Too Much Time On My Hand」でした。ビルボードで9位を記録しています。

また、このアルバムからは4枚のシングルカットが生まれました。そして、アルバム『Paradise Theatre』はシカゴにあったとされる架空の劇場(パラダイス・シアター)の開館(1928年)から閉館(1958年)までという架空の期間に沿って作られたコンセプトアルバムでした。

いやー、ここで終わっておけばよかったんですけどね。

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1983年、11枚目のアルバムとして『Kilroy Was Here』(邦題『ミスター・ロボット』)がリリースされます。

アルバムはビルボード3位のプラチナ認定を受けています。ちなみに、前の2枚はトリプルプラチナ認定です。この期間、Styxがいかに売れたかがわかるでしょう。

アルバムからシングルが3枚リリースされますが、それぞれ3位、6位、48位を記録します。ですが、これらはすべてデニスの曲でした。

 

曲は「Mr. Roboto」でした。ビルボード3位です。

こちら、日本語も歌詞に出てきて、ロボットの表情もどこか大仏をほうふつとさせるデザインです。お辞儀もしたりしますし。

この『Kilroy Was Here』はプロモーション映像から想像できますが、前作『Paradise Theatre』以上のコンセプトアルバムなんです。いや、むしろ、オペラ仕立てといってもよいもの。

ロックの禁止された世界で投獄されたロックスター、キルロイをデニスが演じ、この世界に反発する若いミュージシャンをトミーが演じます。キルロイを投獄したのがJY演じる博士といった具合でした。キルロイはロボットに変装して脱獄、ロックの復権を目指すというものです。

なんと、このアルバムのツアーでは実際にステージでもこの演劇を行っていたそうで。いよいよ、デニスとトミー、JYとの対立が始まり、バンドは一時解散します。

Styxは1990年に再結成しますが、トミーがDamn Yankees(ダム・ヤンキース)に所属していて不参加となります。この活動は短期間に終わりました。1995年にトミーも復帰します。このころ、ドラムのジョンが過度の飲酒による不調で参加が難しくなり翌年亡くなります。また、ベースのチャックもHIVによる影響で活動が制限されツアーではほぼ演奏できなくなっていきます(ただし、現在もメンバーではあります)。そして、1999年に『Brave New World』というアルバムをリリースしますが、デニスがインフルエンザなどによる体調の不良でその後のツアーへ参加できなくなったことから、ついにバンドから解雇されます。

Styxの解散時にデニスは俳優業にも進出していたんですね。やはり、トミーとJYとの間の音楽性の溝はついに埋められませんでした。こうしてパノッツォ兄弟とデニスの作ったバンドからは後から来たメンバーが乗っ取るような形になったのです。

その後のStyxとデニスは相いれることはなく、それぞれ大きなヒットもなくなりますが、活動はそれぞれ継続しています。

Doobie Brothers(ドゥービーブラザース)なんかもオリジナルメンバーのTom Johnston(トム・ジョンストン)が病気で一時脱退後にMicheal McDonald(マイケル・マクドナルド)が加入して音楽性を変えて復活しましたが、ドゥービーはメンバーの移動が激しいバンドで、その後、マクドナルドがいなくなったり、ジョンストンが復帰したりで、一貫してバンドに残っているのはPatric Simons(パトリック・シモンズ)だけだったりします。でも、彼らもやりたい音楽をそのまま継続しているだけで、その後の大きなヒットはありませんね。

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2024年12月28日 (土)

ニューミュージックとは何だったのか

かすてら音楽夜話Vol.201

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1970年代中ごろから1980年代の初めごろまで「ニューミュージック」というカテゴリー分けがありました。

それ以前の邦楽ではは、演歌、歌謡曲、フォーク、ロック程度のカテゴリー分けで、単純に聴けば誰でも判別できるものといえると思います。

演歌、歌謡曲に入る人たちはテレビに出るのが当たり前。この時期、フォークとロックにカテゴライズされるシンガーとバンドはまずテレビからはお呼びがかからないです。と、いうか人気の目安となるレコードの売り上げもごく少なく、自然とテレビとは無縁になっていったと思われます。そして、フォークとロックの人たちの中にはこれを逆手にとって、「テレビには絶対に出ない」というポリシーを持っている人もいました。

吉田拓郎「結婚しようよ」「旅の宿」、井上陽水「傘がない」「夢の中へ」、荒井由実「ルージュの伝言」「あの日に帰りたい」、かぐや姫「神田川」「妹よ」あたりから演歌・歌謡曲以外の曲がヒットチャートに上がってきます。特に「旅の宿」と「あの日に帰りたい」はオリコンシングル1位を獲得し、音楽業界に風穴をあけたと思います。

ですが、この人たちはまず歌謡番組には出演せず、もっぱら自分のラジオ番組やコンサートを中心に活動していたと思います。特に井上陽水はラジオ番組もやらず、1980年代になって「日産セフィーロ」のCMで「お元気ですかぁ!」とテレビで毎日のように出てくるとは誰が想像したことでしょう。

一方、ロックの人たちはほぼ知名度もなく、宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが歌謡番組に出るくらいでした。

そのうち、フォークやロックではカテゴライズしがたい新しい音楽が出てくるようになります。それは、音楽業界の多極化ともいえます。また、ヤマハなどの努力もあり、新しい人材が発掘されたということもいえましょう。

音楽業界もこれまでの芸能プロダクションのやり方と異なり、原田真二を売り出すためにアミューズ(代表が渡辺プロを退社した大里氏)が設立され、さらに学生バンドであったサザンオールスターズをスカウトするなど、広がりを見せ始めました。

フォークやロックの人たちもテレビには出ないといわれていましたが、Char、原田真二、ツイストのロック御三家がそろって歌謡番組に出始めるなど変化も起こり始めました。

前振りが長くなりました。

「ニューミュージック」というカテゴリーあるいはジャンルは、どちらかというとメディアがいつの間にかそう呼んだようなところがあります。この人たちのルーツはフォークやロックから出来上がったものではなく、1970年代初頭のミュージシャンたちに触発されて、自分もやってみようと、彼らなりにオリジナリティを加え、出来上がった音楽なのではないかと思います。

また、彼らの所属事務所は渡辺プロやホリプロなどの大手ではなく、どちらかというと新興、中小のプロダクションであったがゆえに、まず名前を売ることを優先し、「テレビには出ない」というような頑固さがなく、歌謡番組にも出るといった具合です。あの、竹内まりやも「芸能人運動会」で走高跳に出場したというのですから、今となっては考えられないことです。YouTubeに映像があるかと思ったら、これがないんですね。

とりあえず、マスメディアが作り上げた「ニューミュージック」という言葉ですが、個人的に落としどころを見つけると、シンガーソングライターに限らず、プロの作家が提供した曲も歌う「ポップスのMiddle of The Road」にいる女性シンガーあるいはグループではないかと思います。

そんな中から3人取り上げます。

竹内まりや

 

曲は「September」(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)。1979年8月のリリースで、オリコン39位。この曲は3曲目のシングルでしたが、次の「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 編曲:加藤和彦・清水信之)がオリコン3位を記録していて、この2曲を収録している3枚目のアルバム『Love Songs』(1980年3月発売)はまりやさん初のオリコン1位に輝きます。

彼女の出自は慶応の軽音サークル、リアル・マッコイに所属していて、先輩である杉真理のバンドに参加したことがデビューのきっかけです。

1978年のデビューでアルバムでは自作曲もありましたが、2曲目のシングル「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風」のB面に「すてきなヒットソング」が取り上げられたくらいです。ほとんどが職業作家による提供を受けた曲を歌っていました。「不思議なピーチパイ」は化粧品とのタイアップでヒットしましたが、その前奏曲ともいえる「September」は個人的には「不思議なピーチパイ」よりもあか抜けていて好きですねえ。アルバムは大学生協でほんのちょっとの割引で買いました

1979年に「September」と「真夜中のドア~Stay With Me」を書いた林哲司という人も、すごいと思います。また、男性ながらも女子大生の気持ちを書いた松本隆という人もとんでもないなと思いますね。

この時代のまりやさんはまだ達郎の息が完全にかかっていない時で、提供曲とコーラス参加はあるものの、アルバム『Love Songs』は彼女のベストテイクではないかと思っております。

越美晴

 

曲は「ラブ・ステップ」(作詞作曲:越美晴 編曲:矢野誠)。1978年10月リリースのデビューシングルです。残念ながらオリコンの順位は不明ですが、当時かなりメディアで流れていたと思います。

彼女は音楽一家で、幼少期からピアノを演奏し、作曲を行うようになります。デビューのきっかけはオーディション番組「君こそスターだ!」への出演でした。クラシックからオーディション番組というのがやや違和感がありますが、デビュー時に18歳(1960年1月生まれ)ですから、ある意味天才的資質があったと思います。

ただ、YouTubeの映像を見る限り、少しだけ歌唱力に難があるかなと。おそらくは、「夜のヒットスタジオ」出演時のものだと思います。

残念なことにヒット曲はこれくらいだったような。その後の彼女は「コシミハル」名義に改め、音楽性も大きく変化しています。ただ、現在も活動中でオリジナルアルバムを23枚もリリースしています。彼女にとっての「越美晴」時代はひとつの黒歴史なのか。オリジナルアルバムは廃盤状態です。

杏里

 

曲は「悲しみがとまらない」(作詞:康珍花 作曲:林哲司 編曲:林哲司・角松敏生)。1983年11月のリリースでオリコン4位を記録しています。

彼女は1978年、17歳で尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」でデビュー。その後はやや低迷しましたが、角松敏生のプロデュースを受け、「思い切りアメリカン」(作詞:竜真知子・杏里 作曲:小林武史 編曲:佐藤準、1982年)あたりから上昇機運に乗り、翌1983年の「Cat's Eye」(作詞:三浦徳子 作曲:小田裕一郎 編曲:大谷和夫)でついにオリコン1位を獲得します。でも、これはアニメ効果ですね。

「悲しみがとまらない」はその次のシングルです。ここでも、林哲司がいい仕事をしてます。また、松本隆同様、男性ながらに女性心理をつづっていく康珍花という人、只者ではありませんね。

さて、ニューミュージックは1981年以降、徐々に下降線をたどっていくのですが、ここには歌謡曲の世界に歌唱力のあるアイドルが出現し、なおかつ職業作家ではない現役ミュージシャンによる曲提供を受け、これが大ヒットするというのがひとつの要因ではないかと思っています。

すなわち、松田聖子や中森明菜らのことですが、限りなくニューミュージックと歌謡曲の境界がなくなってきたということでしょう。

ニューミュージックという言葉は死語となり、J POPという言葉が使われ始めます。これまた、ノンジャンルで広範囲な便利な言葉ですが。

「私の音楽はニューミュージックではない」と言い切っていたユーミンですが、1998年にリリースしたベストアルバム『Neue Musik』(ノイエ・ムジーク、ドイツ語)の意味は「ニューミュージック」なんですね。まさに、ポップスの王道中の王道です。

1980年前後のニューミュージック、今回は3人だけ取り上げましたが、ある意味百花繚乱だったと思います。廃盤になってしまったアルバムやCD化されなかったアルバムもまだまだあるはず。このあたり、タワーレコードあたりに頑張ってもらいたいものです。

かすてら音楽夜話、これにて2024年はしめくくりです。2025年も早いうちに次の記事を書いてみたいです。また、コメントからヒントやインスピレーションが生まれることが多いですので、何かを感じましたら、ためらいなく反応してください。また、下記のバナーのクリックもお願いしますね。

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2024年12月12日 (木)

まぼろしのナベプロ三人娘

かすてら音楽夜話Vol.200

またもや1ヵ月ものブランクがあいてしまいました。すいません。

さて、200回を記念して取り上げますのは、100回目に続いて松原みきさんです。

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さて、今年2024年は、みきさん生誕から65年。さらに、デビュー45周年。また、残念なことにがんでお亡くなりになってから20年目に当たります。

画像はセカンドアルバム、『Who are you ?』のジャケットを持ってきましたです。1980年、二十歳のみきさんの生前の姿をたっぷりとご堪能ください。

当初は渡辺プロ所属

みきさんの所属事務所は「ポケットパーク」(代表、菊地哲榮氏)ということになっていますが、実はスカウトされたのは渡辺プロだったのです。

 松原みきさんは将来を期待されて、渡辺プロダクションの寮に住んでいたスター候補生でした。その後、渡辺プロダクションのマネージャーの菊地哲榮(きくち・あきひで)さんが会社をやめてからポケットパークという事務所を新たに作り、松原みきさんのマネージメントを始めたんです。
(伊藤銀次著『伊藤銀次自伝 MY LIFE, POP LIFE』シンコーミュージックより引用)

みきさんのアルバム(LP)の中ジャケにあるミニバイオグラフィによると、そうした記述はもちろんありません。「高校三年の時に、音楽を求めて上京(出身は大阪府堺市)、ライブハウス、米軍キャンプのディスコなどで"音楽的放浪"を続けた」という記述があり、1977年にはナベプロの寮に入っていたと思われます。

伊藤銀次はみきさんのバックバンド、「カステラムーン」のバンドマスターをやっていました。

ちなみに、大阪ではお嬢様学校の私立プール学院に在籍していましたが、東京では文化女子大附属杉並高等学校に転校しております。

細かくなりますが、菊地哲榮氏についてはこちらのリンクをご参照ください。

第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

菊地氏はザ・タイガースや木の実ナナなどをマネージャーとして担当し、天地真理を発掘したという人です。そして、ナベプロを辞める直前にはやはり新人セクションにいたわけですが、ここにいたのが松原みきだったというわけです。

菊地氏は個人的な事情で会社を辞めますが、その後ゼロからのスタートで音楽事務所「ポケットパーク」を立ち上げます。社員3人で100万円ずつ出資してのものだったそうです。ただし、所属アーティストはゼロというとき、みきさんのお父さんがやってきて「娘が菊地さんにマネージメントしてほしいといっている」と伝えたそうです。菊地氏は「渡辺プロでやったほうがいいですよ」と伝えたそうですが、お父さんはまたやってきて再度頼んだそうです。

松原みきにしてみれば、当時陰りつつあったナベプロの音楽性と自らやりたかった音楽との違和感を感じていたのかもしれません。なんといってもライバルのホリプロでは歌謡一辺倒ではなく、井上陽水や浜田省吾、忌野清志郎も所属していて、彼らの作る曲をホリプロのタレントが歌っていたりしましたからね。

菊地氏はお父さんに「私じゃなくてお父さんが渡辺プロに話をつけてきてください」と提案したところ、本当にお父さんが話をつけてきてしまったのだそうです。

と、いうことで、みきさんは晴れてポケットパーク初の所属タレントとなったわけです。

ちなみに、みきさんのデビューアルバムは『Pocket Park』です。

当時のナベプロ同期生

ここからは推測が入り混じります。

1979年1月25日、シングル「私のハートはストップモーション」でデビューした、桑江知子。1960年1月18日生まれで、19歳になりたてでデビュー。早生まれですが、学年ではみきさんと同じです。

経歴の詳細がわかりませんが、住んでいた福岡からスカウトされているので、おそらくはみきさん同様、高校時代に寮に入り、レッスンの日々だったことが想像できます。

ニューミュージック系で出遅れていたナベプロで「Non Stop プロジェクト」という次世代のニューミュージックを目指すグループの一員だったそうです。とはいえ、ニューミュージック系の人材に乏しいナベプロですので、デビュー曲からは、土着性が希薄と思われる都倉俊一に曲作りを依頼し、同じく竜真知子に作詞を依頼するのでした。まあ、無難なところでしょうね。

サードシングルあたりから佐藤健、水谷公生、パンタ、生田敬太郎、井上大輔ら(以上、作曲)を起用。作詞は喜多条忠、岡田冨美子、クニ河内あたりが起用されます。アレンジも後藤次利、佐藤準、吉田建、トランザムといった名前が出てきますね。

桑江さん、1983年くらいまでがナベプロでの活動期間でした。その後は1990年まで音源をリリースしてません。このあたりはナベプロの付焼き刃的な戦略があだとなった可能性はありますね。従来の歌謡曲的なプロデュースにはたけていたものの、ニューミュージック系に対しては、内部に思うような人材がいなかったともいえます。

1979年末の日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を総なめにしてきたのですがね。特に、これらの賞はデビューが1月ということで、ナベプロが最もプッシュして取ってきたものといえますが。この時のライバルとしては倉田まり子や竹内まりやでした。

 

YouTubeの映像(音声のみですが)は「私のハートはストップモーション」のB面、「たずねびと」(作詞:竜真知子 作曲:都倉俊一 編曲:萩田光雄)でした。

もう少し付け加えてみますと、ナベプロの詰めの甘さ、ファーストアルバム『Born Free(野性に生まれて)』のジャケ写もドイヒーです。御本人は結構可愛いのにねえ。

もうひとりの同期生ともいえるのが、山下久美子です。

1959年1月26日生まれなので、みきさんや桑江さんより1学年上のお姉さんですね。

1980年6月25日、シングル「バスルームから愛をこめて」とアルバム『バスルームから愛をこめて』でデビュー。21歳の時です。

個人的なことですが、1980年の暮れだったか1981年の年明けだったか、大久保にある某オフィスでアルバイトしておりました。年末年始の期間ですから、まともな社員は出社しないので、学生アルバイトに動員がかかりましてね、大いに稼がせていただきましたが。その時のバイトの帰りにたまたま開いていたレコードショップで、このアルバムを購入いたしました。

このアルバム、その後CD化されたのですが、布袋寅泰と結婚後に東芝EMIに移籍してからというもの、絶版状態なんですね。このアルバム、なかなかにいいんですがね。日本コロムビアさん、そのあたりお願いしたいものです。それとも、タワレコあたりがやってくんないかな。

さて、山下さんの経歴も詳細は不明です。別府の出身で高校を中退して博多のクラブで歌っていたところをスカウトされたとのことです。それがいくつのことなのか、はっきりしないのですが、慎重なナベプロのことですから、みっちりとレッスンを課せられたものと思われます。おそらくは18~19歳くらいの時にはナベプロの寮にいたのではと思いますね。

そして、彼女もNon Stopプロジェクトにいたとのこと。外注の曲の並ぶデビューアルバムですが、桑江さんの時よりは仕事の出来がいいと思います。ナベプロもノウハウがわかってきたといいましょうか。

そして、デビューアルバムでは、系列社員(渡辺音楽出版)の木崎賢治氏をプロデューサーに迎え、作詞に康珍花、作曲に亀井登志夫、編曲に松任谷正隆と鈴木茂というラインナップを中心に作り上げていきます。特に作詞作曲はいずれも当時の新人で、木崎氏からはかなりのダメ出しを受けたとのこと。山下さんのヴォーカルも博多のライヴで鍛えられていたものの、レコーディングのマイクから拾った声を聴かれたところ、どのように感情を落とし込むかをやはりダメ出しされ、悩んでいたとのことです。ここで、木崎氏は「何も考えずに童謡みたいにまっすぐ歌うように」との指示を出し、よくなっていったとのことです。

このアルバムのキャッチフレーズが「胸のここんとこがキュウンとなるような歌を唄いたいのよね…」です。元祖「胸キュン」ですわ。

ただし、セカンドアルバム以降はこの経験が彼女のヴォーカルスタイルを確立し、いわゆる久美子の歌が歌えるようになったとのこと。

曲はサードアルバム『雨の日は家にいて』収録のタイトル曲で5曲目のシングル。オリコン91位とあまり売れませんでしたが、いい曲です。作詞:康珍花 作曲:岡本一生 編曲:伊藤銀次のラインナップ。

さて、久美子さん、キャリアも長いですが、個人的にはナベプロにいた1980年代の初頭くらいがいいなあと思っております。

松原みきの当時の立ち位置は?

さて、間違いなく松原みきと桑江知子は同時期にナベプロにいてお互いデビューの日を待ち続けていたと思います。そして、山下久美子も多少かぶっていた時期があったはず。

ナベプロとしてこの3人をどのように売り出そうとしていたのか。1959年生まれでナベプロ所属、最もデビューが早かったのが石川ひとみです。また、1960年生まれの石田えりはシンガーではありませんが、1976年にすでにデビューしています。

石川ひとみの場合は「君こそスターだ」で勝ち抜いていてある程度の実力があったといえます。また、ナベプロには東京音楽学院という芸能学校があり、なんと地方にも分校があったとのことです。石川ひとみも石田えりも東京音楽学院の生徒でした。なお、東京音楽学院からはスクールメイツが選抜されてもいました。

一足早く石川ひとみがデビュー(高校卒業後に即入寮)しましたが、このラインで売り出したかったのか。それとも、ニューミュージック系のアダルト路線で売り出したかったのか。

おそらくは後者でしょう。

桑江さんは沖縄にルーツがあるものの、ポップスのセンスが天性のものであったのかどうか。

山下さんはライヴハウスでの経験はあるものの、プロの世界に入るまではあくまでも我流でやってきた人です。

みきさんはジャズが流れるような家庭で育ち、母親もジャズシンガーでした。学生時代にバンドも組んでいて、ピアノも演奏できるし、曲作りもできる人で、いわば、ポップスの申し子。スローなバラードから16ビートまで歌いこなせる天才であったといえましょう。

おそらくはナベプロの次代のエース的存在だったのではないかと思います。

デビューが1979年の11月で、桑江さんに遅れること、10ヶ月。これは、菊地氏のナベプロに対する配慮もあったんじゃないかと思います。11月デビューですと、賞レースとは無縁になりますし。

ナベプロとしてはみきさんを手放してしまったところ、どうしても桑江さんをいち早く売り出したかったのではないでしょうか。山下さんはまだ粗さがあったということで。

みきさんとしてもそのままナベプロでデビューしていたとしても、ある程度歌謡界に染まった作家陣の曲を歌うことになり、個性が埋没してしまった可能性も考えられます。なので、これはこれでよかったかと。

では、最後にこの曲でお別れしましょう。1980年4月21日発売のサードシングル「ハロー・トゥデイ~Hello Today」(作詞:三浦徳子 作曲編曲:大村雅朗)です。この頃、月1で出演していた「夜のヒットスタジオ」からの映像です。

バックの演奏はダン池田とニューブリードですが、ギターは(映っていませんが)伊藤銀次だそうです。ニューブリードでは担当できない部分を映らないところで演奏しているのだとか。

ちなみに、「ハロー・トゥデイ~Hello Today」はアルバム未収録です。

めでたく200回を迎えることができました。今回の記事いかがだったでしょうか。感想などをコメントで頂けると書き手としてはとても嬉しいでございます。
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2024年11月 7日 (木)

クリッシー姐さんの壮絶な人生 and More

かすてら音楽夜話Vol.199

約1か月のご無沙汰でございます。

プレ200回となります今回、取り上げるのはなかなかに壮絶な人生を送ってきたChrissie Hynde(クリッシー・ハインド)でございます。

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画像の左の女性になります。

クリッシーはThe Pretenders(プリテンダーズ)のリードヴォーカル、ギタリストとして1979年1月にイギリスでデビューします。ですが、彼女はアメリカ人で、1951年にオハイオ州アクロンで生まれました。

同州のケント州立大学に通っていたとのことです。また、様々なバンドを見るためにクリーブランドに出かけたとも語っているので、ラズベリーズやエリック・カルメンをもちろん知っていたでしょう。ですが、音楽性が合わなかったのでしょうね。ちなみに、ラズベリーズのメンバーとは2歳違い。

あくまでもやりたかったのは、「女だてらに」本格的なロックだったのですね。

そして彼女は1973年5月にロンドンに移住します。ロンドンでバンドを結成したかったようですが、なかなかうまくいかなかったようです。そのため、職を転々とするのですが、一時期、音楽雑誌New Musical Express(NME)に数か月在籍していたことがあり、のちにプリテンダーズでの紹介時に「NMEの記者だった」と伝えられたりしました。いかにも、有能な常勤ライターでもあるかのように。このあたりは日本まで詳細な情報が伝わってきていないのですが、インターネットなど存在しない時代ですので、まあ仕方のないことかと。

その後、フランスに渡ったり、再びオハイオに戻ったりしましたが、最終的にロンドンに舞い戻ることになります。ロンドンではマルコム・マクラーレンが経営する衣料品店(店名が「Sex」)にも努めていたことがあります。マルコム・マクラーレンはSex Pistols(セックス・ピストルズ)のマネージャーでもあり、このあたりから業界に踏み入れていったと考えられます。

さて、ロンドンでは労働許可証を得るために、ピストルズのメンバー、ジョニー・ロットン(のちのジョン・ライドン)やシド・ヴィシャスと(偽装)結婚しようと登記所まで出向いたものの、登記所が休みであったり、シド・ヴィシャスの出廷で行けなかったりしたという、エピソードもあります。

5年の試行錯誤を経てプリテンダーズの結成に至ります。同じ頃、パンクロック一辺倒にも思えたイギリスから、新しい傾向を持ったバンドがデビューしましたが、「ニューウェイブ」なんていわれていましたね。プリテンダーズもそのひとつに入るかと思います。

メンバーはギターのJames "Honeyman" Scott(ジェームス・ハニーマン・スコット、画像の左から2番目)とベースのPete Farndon(ピート・ファーンドン、画像の右)、ドラムのMartin Chembers(マーティン・チェンバース、画像の右から2番目)をクリッシーが集め、デビューします。すでにクリッシーは27歳になっていた頃です。

 

1979年11月のリリース、「Brass In Pocket」でした。のちにデビューアルバム『Pretenders』(1980年1月リリース)に収録された3枚目のシングルです。

この曲で初の全英チャート1位を獲得しました(1980年1月、80年代で最初のナンバーワンシングル)。Billboard Hot 100(シングルチャート)では14位でした。

ちなみに「Brass」とは「小銭」「コイン」といったイギリス的表現です。アメリカ人のクリッシーができるだけイギリスに溶け込もうとした表現なんでしょうかね。

作者はクリッシーとジェームス・ハニーマン・スコットです。プロモーションビデオが登場したころのもので、メンバーも演技してますね。クリッシーのウエイトレス(しかも、メイド服っぽい)というのも、結構怖いものがありますが。この頃のプリテンダーズのアルバムジャケットなどの画像、かなりひどいものがありまして、デビューアルバムのジャケ写でのクリッシーは濃いアイシャドーにマスカラ、相当なおばはん風に写っております。

このプロモビデオもそれに近いものがあります。セカンドアルバム『Pretenders II』(1981年9月リリース)のジャケ写(冒頭の画像)はちょっとグレードアップしたビジュアルですが。

さて、ファーストアルバムからはThe Kinks(キンクス)のカバー、「Stop Your Sobbing」と「Kid」がリリースされますが、どちらかというと本来クリッシーが目指していた本格的なロックではなく、ポップ寄りの曲です。「Brass In Pocket」も同じですね。

とはいえ、「Tattooed Love Boys」やインスト曲の「Space Inveder」(時代ですねえ)などは正統なロックであると思います。

さて、プリテンダーズですが、ファーンドンの薬物乱用がエスカレートしたため、1982年6月に彼を解雇します。ファーンドンはドラッグでハイになるのと正反対に、どんどんと沈み込んでいくようなタイプだったらしく、演奏にも悪影響が出ていたといわれます。

その2日後、なんとギターのスコットがやはり薬物を原因とする心不全で亡くなってしまいます。その1年後、ファーンドンも浴室で溺死体で発見されます。こちらも、薬物が関係してます。

これで、残されたメンバーはクリッシーとチェンバースのみになり、彼らの落胆は手に取るようにわかりますね。

実はこの時期クリッシーはキンクスのRay Davies(レイ・デイヴィス「Stop Your Sobbing」の作者)の子供を妊娠していて、それでもチェンバースと新曲のレコーディングに臨むのでした。

 

それが、こちら、「Back On The Chain Gang」(1982年9月リリース)です。

ビルボードシングルチャートで自己最高の5位を記録しています。この時はギターとベースに新メンバーを迎えましたが、この曲が含まれたサードアルバム『Learning To Crawl』(1984年1月リリース)では、曲によってギターとベースは違うミュージシャンを起用しています。

この映像はプロモーションビデオになりますが、出演しているのはクリッシーとチェンバースのみです。

ちなみに、クリッシーには娘が生まれますが、レイ・デイビスとの関係は悪化しており、結婚には至りませんでした。

 女って、本当にすごい。強い!これだけ傷口から血が出ているのをまじまじと眺めながら、それを歌にしてしまえる……それも、歌曲として見事な完成品にして、濁りのない声で爽快に歌ってしまえるなんて、やっぱり女性には生理とか出産とか、生命を産み出す作業としての"前向きな血なま臭さ"が、日常の中に存在しているからなんだろうか……と、妙なことまで考えてしまう。
(アルバム『Lerning To Crawl』の湯川れい子氏の解説より、抜粋)

そして、4枚目のアルバム『Get Close』(1986年10月リリース)ではチェンバースが意欲の低下(二人のメンバーを失うという喪失感が大きかったようです)により、バンドを去ってしまいます。ついにオリジナルメンバーはクリッシーだけとなります。

その中でのヒット曲がこちら。

 

1986年9月リリースの「Don't Get Me Wrong」でした。ビルボードでは10位。

アルバムリリース時にはギター、Robbie McIntosh(ロビー・マッキントッシュ)、ベース、T.M.Stevens(TMスティーブンス)、ドラム、Blair Cunningham(ブレア・カニンガム)というラインナップですが、この曲ではドラムはSteve Jordan(スティーブ・ジョーダン)が叩いてます。

スティーブ・ジョーダンはチャーリー・ワッツが亡くなった後のストーンズのバックアップメンバーですね。

この曲は現在でもテレ東、TVK、TOKYO MXなどの番組で使われることが多いです。

その後のプリテンダーズは何度もメンバーを変え、クリッシーひとりでプリテンダーズ名義のアルバムを出したこともあります。現在は、マーティン・チェンバースも復帰したようですが。

2020年代に入っても活躍している、ニューウェイブ勢はプリテンダーズだけといっても過言ではありません。いつまでも、イカしたナンバーを我々に届けていただきたいものです。

(2024/11/08:本文訂正および追記いたしました。)

<星になったふたり>

つい最近、お亡くなりになった方がおります。

Quincy Jones(クインシー・ジョーンズ)といえば、「We Are The World」やマイケルの『Thriller』や『Bad』のプロデュースで知られるところですが、ワタクシ的にはこの曲で追悼したいと思います。

 

「Theme Form "Ironside"」でした。

アメリカの刑事ドラマ、「鬼警部アイアンサイド」のテーマ曲ですが、「ウィークエンダー」(わたしゃほぼ見てませんが、曲だけは耳にこびりつていました)などでも有名です。

クインシーさんですが、女性遍歴もかなりのもので、あのイヴァンカ・トランプと交際していたという話も英語版のwikiには書いてありますね。

「愛のコリーダ」とか「Back On The Block」なんてのもあるんですが。

そして、楳図かずおさん。

少年サンデーで連載されていた「おろち」は恐々読んでおりました。

「まことちゃん」がやたらと取り上げられますが、これは「アゲイン」という作品のスピンオフなんですよね。

おふたりとも安らかに。

かすてら音楽夜話、次回は200回を迎えます。とうとう来たかという感じです。下記のバナーもクリックしてくださいませ。

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2024年10月 3日 (木)

クセがすごいんじゃ!

かすてら音楽夜話Vol.198

久々、和もの、J-Popでお送りいたします。

今回は歌い方に特徴のある…というか千鳥のノブ風に「クセがすごい」「クセが強い」方たちを3組紹介したいと思います。

まず、誰もが思いつくのがヒロミ・ゴーあたりでしょうが、そういうメジャーでだれもが知っている人じゃありません。ま、ワタクシが選ぶのですから、ぐっと知られていない人たちになりますね。

第3位

 

GRAPEVINE(グレイプヴァイン)の「羽根」(作詞:田中和将 作曲:西川弘剛)でした。1999年のサードアルバム『Here』からのシングルカットで、6枚目のシングル。オリコンシングルチャート20位ですが、GRAPEVINEのシングルでは最も売り上げの良かった作品です。

GRAPEVINEというグループ名の由来ですが、アメリカのヒット曲「I Heard It Throug The Grapevine」(邦題「悲しい噂」)からとられております。同シングルはGradis Knight & The Pips版がビルボード2位、Marvin Gay版が1位になっております。単語名自体は「ブドウのつる」という意味です。

そして、GRAPEVINEは1993年に活動を始め、1997年にメジャーデビューし、現在に至っております。コンスタントにアルバムをリリースしていて、現在までにその数28枚。

1997年あたりですと、音楽産業もかなり活発な時代で、競争も激しかったと思いますが、割と簡単にデビューできたというか、レコード会社も豊富な予算があった時代ですね。それでも、現在まで生き残っていますので、実力はバンドといえます。

さて、メンバーですが、田中和将(ヴォーカル、ギター)、西川弘剛(ギター)、亀井亨(ドラムス)のスリーピースバンドです。デビュー時からアルバム『Here』までの期間は西原誠(ベース)が在籍していましたが、ジストニアのため脱退。なお、西原はリーダーでした。

現在はサポートとしてベースとキーボードが入ります。

曲の大半を田中が作詞し、作曲は西川と亀井、田中が担当しますが、メインのライターはドラムの亀井が担当するというちょっと変則的なバンドですね。そして、田中の作詞はなかなか奥が深く、文学的であるという評価を受けています。

その田中のヴォーカルがこちら。曲にしてみると、その文学的な言葉がどちらかというと日本語のようには聴こえないという不思議さです。いわば、癖が強いんですね。

個人的には『Here』収録のラストナンバー、「南行き」という作品がお気に入りなんですが、彼らのYouTubeには上がってませんでした。こちら、さらに言葉が難解というか意味不明なところもあり、それでもノリで引っ張っていくような印象の曲です。コーラスにHicksvill(ヒックスビル)の真城めぐみが入っていて、さらにグルーブ感を出しているんですが。なお、彼らの曲はやっぱり難しく、わたしゃカラオケで大失敗したことがあります。やはり、ヴァインの曲は田中にしか歌いこなせないような気がします。

第2位

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第2位はポップス部門ということで、今回取り上げる中では最も知名度のあると思われる堂島孝平です。

彼は1995年のデビューでやはりレコード会社に豊富な予算があった時代のデビュー組ですね。ですが、現在も生き残っていて、音楽バラエティ「堂本兄弟」(番組はすでに終了)のバンドメンバーであったり、NHK「SONGS」ではバックでギターやハーモニカを演奏する姿も見ることができます。

まあ、それだけのキャリアがありながら、ヒット曲というものは「こち亀」のオープニングテーマ「葛飾ラプソディ」くらいしかないような。あと、チョコラBBのCM曲なんかもあったかな。

ですが、堂島氏はなかなかのポップセンスを持ち合わせていて、パソコン通信の音楽系会議室では話題になっていた人なんですよね。

そして、1998年の年の瀬にワタクシも渋公(渋谷公会堂、現在のLINE CUBE SHIBUYA、CCレモンホールを経てこの名前になったそう。かつては1964年の東京オリンピックの重量挙げ会場だったそうですが)に足を運んでみましたが、見事に90%が若い女性で、男性客は女性の連れくらいでした。それでも、単独で来ている男性客もちょっとはいました。なんとなくアイドルっぽい感じはありましたね。

 

映像は1997年1月リリースの6枚目のシングル、「ロンサムパレード」(作詞作曲:堂島孝平 編曲:中山務・堂島孝平)です。サードアルバム『トゥインクル』の1曲目ですね。

どうです。地声じゃないけど、ファルセットでもないという。なかなか喉に負担のかかりそうな歌い方です。癖が強いですねえ。え?わからない?では、こちらはどうです?

 

デビューシングルの「俺はどこへ行く」(作詞作曲:堂島孝平 編曲:太田要)でした。声が素のままです。

きくところによると、かつてはブルーハーツにあこがれるロック少年で一人称も「俺」を使っていたのですが、見た目とのギャップがあり、試行錯誤を重ねて「ロンサムパレード」のような変態的な歌い方にチェンジしたようです。

まあ、「俺はどこへ行く」も曲調やスピード感などその後の堂島孝平となんら変わらないと思いますが、歌い方を変えて成功に至ったのだと思います。実際、素のままではないほうが彼には合っていると思いますね。

第1位

 

ラストを飾るのはcanna(カンナ)という二人組です。デュオというよりは、二人組です。

映像は2000年の日本武道館ですが、彼らの力だけでいきなり武道館は無理で、これはTokyo FMの企画(アースデイコンサート)でして、メインは18年ぶりのステージとなる竹内まりやなんです。このライヴ、行きましたもん。

さて、cannaですが、メインのヴォーカルが谷中たかし、映像の人ですね。そして、相方がキーボードとコーラス(曲によってはヴォーカルを担当)の周水(しゅうすい)です。

ま、今回は谷中氏のヴォーカルについてなんですが、相方についてもちょっと触れておきます。現在もcannaとして活動していますが、活動量は絶対的に少なくなってます。と、いうのも周水氏がスマイルカンパニーの代表取締役社長だからですね。さんざんバッシングされたジャニー氏の問題で、スマイルカンパニーと業務提携していた松尾潔にクビをいい渡したのが周水なんです。本名、小杉周水。ジャニーズエンターテイメント及びスマイルカンパニーの元社長、小杉理宇造氏のご子息になります。cannaじたいもスマイルカンパニー所属です。ま、そうなりますよね。

彼らは1998年、Bounce Record(タワーレコードのレーベル)からインディーズデビューを果たし、翌年メジャーデビューします。タワレコのリコメンドなどにもなっていたと思います。親の七光りはあまりなかったと思いますが、「ちょっとよろしくね」くらいはあったんじゃないかなと思いますね。

でもまあ、売れなかったですね。アップした映像は8枚目のシングル「あぜ道」(作詞:谷中たかし・新井洋平 作曲:canna 編曲:重実徹)で、オリコン74位でした。セカンドアルバム『新世界』にも収録されています。

谷中氏の歌い方、声の強弱を発声のみならず、マイクを近づけたり離したり(あるいは顔をマイクに近づくまたは遠ざかる)して行うんです。それに、なんともねちっこい歌い方です。

彼らのにはYouTubeチャンネルがあるのですが、ライヴ映像がメインで、アルバム収録曲などは上がっておりません。実はセカンドアルバム『新世界』の「Survival Game」なんて曲が谷中氏の歌いっぷりが際立っているのですけど。曲中でブルース・リーまで披露してくれますけどね。

さて、ここで取り上げた3組、わたしゃアルバムもほぼ持っているし、ライヴにも行きました。ま、しょっちゅう聴きこんでいるわけじゃないんですが。たまにはクセの強いものもいいんじゃないすかね。耳もほぐしてやらないと。

かすてら音楽夜話、198回まで来ましたねえ。一応、200回目は「これ」というのを決めているんですけど、今回もそれ以前の記事にしてもコメントをお待ちしております。ヒントをくださいね。下記のバナーもクリックお願いします。

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2024年9月21日 (土)

追悼、J.D.サウザー

かすてら音楽夜話Vol.197

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J.D.サウザー(本名、John David Souther)が今月17日に亡くなりました。

J.D.サウザーといえば、この曲。

彼の唯一のTop10ヒット、「You're Only Lonely」でした。

この曲は1979年8月のリリースで、じわじわとチャートを挙げ、12月の半ばから3週間ビルボードHot100(シングルチャート)で7位を保ちました。そして、アダルト・コンテンポラリーチャートでは1位になっています。

チャート7位ながら、1980年度の年間シングルチャートでは57位。

曲調はおとなしめでありながら、やはりインパクトのある曲なんでしょう。現在でも主にテレビ東京などの番組ではかなりつかわれる頻度が高い曲です。

おそらくは1980年代に学生だったり、社会人になって間もない人にとってはかなり思い出深いものがある曲でしょう。ワタクシもそうです。

このシングルが収録されたアルバム『You're Only Lonely」はビルボードHot200(アルバムチャート)で41位ですが、彼のアルバムでは最も売れました。

さて、彼の経歴を簡単に語ると、1945年11月にデトロイトで生まれ、ミュージシャンを目指して1960年代にLAに移住。そこで出会うのが3歳年下で同郷のGlenn Frey(グレン・フライ)でした。ふたり意気投合してデュオ、Longbranch Pennywhistle(ロングブランチ・ペニーウィッスル)を結成します。住居もシェアしていたようで、同じアパートにはJackson Browne(ジャクソン・ブラウン)も住んでいたようです。

その後、デュオは解消し、フライがやっていたLinda Ronstard(リンダ・ロンシュタット)のバックバンドがEagles(イーグルス)へと発展するのですが、イーグルス契約するAsylum(アサイラム)にはいち早くJ.D.サウザーがいたとのことです。つまり、もうJDも契約済みだったと。

しかし、J.D.サウザーは結構腰の重い人というか裏方に徹するようなタイプらしく、自分の名前を関したソロデビューアルバムをリリースした後は、Chris Hilman(クリス・ヒルマン、ex The Byirds)、Richie Furay(リッチー・フューレイ、ex Buffalo Springfield)とバンドを組み2枚アルバムをリリースした後は、またもや裏方に戻ってしまいます。

ですが、彼はやはりイーグルスとの縁が深く、イーグルスには楽曲提供をしたり、バックコーラスを務めました。そんな中で、共作ではあるものの、3曲のナンバーワンヒットを提供しました。すなわち、「Best Of My Love」(邦題「我が愛の至上」1974年)、「New Kid In Town」(1976年)、「Heartache Tonight」(1979年)です。

 

JD自身が歌う「New Kid In Town」。実は「隠れたイーグルス」などともいわれていました。グレン・フライの没後、まだJDが元気なうちにイーグルスに加わっていたならば…なんて想像もしてしまいます。

でも、やっぱり、孤高の人なんでしょうね。グレンの作り上げたイーグルスというものには遠慮もあっただろうし、グレンという人物がどういうものなのか、表も裏も知り尽くしていたのだと思いますね。

個人的には「Best Of My Love」が収録されたアルバム『On The Border』での提供曲、「James Dean」が結構好きなんですが。

また、彼はアサイラム人脈もあるのでしょうが、リンダ・ロンシュタットにも曲提供しております。

アルバム『Prisnor In Disguise』(1975年)収録のラストナンバー、「Silver Blue」で曲を提供するとともに、デュエットしています。んー、やはり裏方なんですねえ。

また、彼女のアルバム『Living In The U.S.A.』(1978年)に収録された「White Rhythm And Blues」もJDの提供です。

 

このアルバム、LP時代にほぼリアルタイムで購入したので、思い出深いですねえ。JDもセルフカバーしていてアルバム『You're Only Lonely』に収録されています。JDヴァージョンはYouTubeでは違法アップロードっぽいので、リンダのヴァージョンにさせていただきました。

なお、リンダとは交際していたという情報もありました。

それにしても、アメリカという国は長寿国ではなさそう。日本で同世代というと、タモリや吉永小百合ですからね。

ともかくご冥福をお祈りいたします。Rest In Peace.

かすてら音楽夜話ではヒントを頂けるようなコメントやリクエストを募集中です。いやー、今回は洋楽がかなり続いたので、和物で行きたかったんですけどねえ。次回は和物で。下記のバナーもクリックしておくんなせい。

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2024年9月17日 (火)

ラズベリーズの光と影(4)

かすてら音楽夜話Vol.196

ミケポスカフェでの音楽談義の続き、ラズベリーズの4回目。

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ラズベリーズの4枚目のアルバムにして、スタジオ収録盤の最終作となる作品です。

題名が『Starting Over』、1974年9月のリリースで前作『Side 3』から1年置いての作品となりました。Billboard Hot 200(アルバムチャート)では、143位。

2枚のシングルが含まれていて、「Overntight Sensetion(Hit Record) c/w Hands On You」がBillboard Hot 100(シングルチャート)で18位。これは、「I Wanna Be With You」以来となるTop 20入りしたスマッシュヒットになりました。次作の「Cruising Music c/w Party's Over」は残念ながらチャートインしませんでした。

売上的には下位に沈んだアルバムながら、Rolling Stone誌は『Starting Over』を1974年度の最優秀ロックアルバムに選んだほどです。また、クレジットはないものの、John Lennonがアルバム収録にかかわったともいわれています。なお、レノンはラズベリーズのファンであり、ツアーTシャツを着用していた写真が撮られているのだとか。評論家筋ではエリック・カルメンはどちらかというとPaul McCartneyに比較されてはいたのですが。

『Starting Over』と名付けられたアルバムはほかにもありまして、レノンの遺作となったアレ、もしかしてこのセッションからいただいた?なあんてね。

・メンバー交代

このアルバムより、ベースとドラムスが交代しました。

Scott McCarl:Bass, Vocal
Michael McBride:Drums, Vocals(故人)

トップ画像では右側のふたりです。ロン毛がスコット。長いもみあげがマイケルです。

スコット・マッカールは左利きのベーシストで、元々、プロデューサーのジミー・アイナーが目をつけていた人物らしいです。曲も作り、自作曲ではリードヴォーカルも担当するのは前任者のデヴィッド・スモーリーと同じです。

マイケル・マクブライドはエリックとウォーリーが組んでいたバンド、サイラス・エリーのドラマーで旧知の仲です。前任者のジム・ボンファンティと違い、曲作りにも参加しています。

メンバー交代ですが、前作のツアー中にメンバー間の関係がぎくしゃくしてきたと、ライナーノートの解説の八木誠さんは書いています。まず、脱退を決めたのはベースのデイヴだということで、それに同調したジムがやはり辞めていったとのことです。

前回の記事では「総論としてロック色を強く押し出していこうとした」と書きましたが、音楽性の相違があったということなんですかねえ。やっぱり、辞めたふたりはオハイオの匂いを残したソフト系の音がよかったと、心にはあったのでしょうか。

・作者とリードヴォーカル

このアルバムから共作が復活しました。また、これまでのアルバムでは共作といってもすべてエリックが関わってきましたが、初めてエリックが関わらない曲も収録されています。

エリックひとりの作品が4曲。もちろん、リードヴォーカルはエリックです。

ウォリーとスコットの作品が1曲ずつで、もちろんリードヴォーカルは作者になります。

エリックとスコットの共作が3曲で、エリックのリードヴォーカルが1曲、スコットのリードヴォーカルが2曲。

エリックとマイケルの共作が1曲で、リードヴォーカルはエリック。

ウォリーとスコットの作品が1曲で、リードヴォーカルはウォリーとスコットです。

アルバム11曲収録というのも初めてで、最も収録数の多いものとなりました。

アルバムを通して聴くと、前作『Side 3』の延長線上にあるというか、さらにロック色が強化されたような感じですね。

では、曲を聴いて振り返ってみます。

 

曲は「Overnight Sensation(Hit Record)」でした。エリックの作品です。

チャート18位は何となくうなづけます。エリックのピアノから入り、サックスをフィーチャーし、重厚なコーラスが曲を仕上げます。これは、以前のラズベリーズの雰囲気そのもので、一時離れていったファンがまた戻ってきたという絵が見えますね。

あれ?でも、なんか違う。あ、メンバー変わってんじゃん!みたいな違和感もあったのかどうか。今回アップはしませんが、YouTube上にはこの最終メンバーで「Go All The Way」を演奏する映像が上がっていまして、エリックはギターを持たず、マイクをスタンドごと振り回すようにヴォーカルに専念するものでした。しかも、エリックの衣装はざっくりと胸のあたりを見せるようなジャンプスーツ風なもので、これに酷似するのは…フレディ・マーキュリーです。

時系列で見てみると、クイーンが初めてアメリカツアー(Deep Purpleなどの前座)に登場したのが1974年。年末に近い頃のようです。と、いうことはすでにアメリカでも業界人はフレディのことはある程度知られていたとは思います。でも、なんか違和感がありますよね。

ともかく、この曲のコーラスにはクレジット表記がないものの、重低音パートが含まれていて、ジミー・アイナーが加わっているようです。

 

こちら、「Party's Over」。ウォリーの曲でリードヴォーカルも彼自身です。

たまには、エリックばかりではないものを取り上げようと思いましたが、ウォリーのヴォーカルでもかなり出来のいいものだと思います。なかなかにブルージィですし、マイケルのドラミングもいいですね。また、エリックはピアノでこれまでにない曲を弾いてますね。

マイケルのドラムですが、Bruce SpringsteenのE Street Bandのドラマー、Max Weinbergに影響を与え、アルバム『Darkness On The Edge Of Town』のドラムがマイケルの演奏に基づくと語っています。

 

続いての曲は「Cry」。エリックとスコットの共作で、リードヴォーカルはスコットです。

さすがに、ジミー・アイナーの秘蔵っ子で、デイヴとは完全にテイストが違いますね。この曲にはピアノ、アコースティックギターの演奏も含まれ、バンドの総力を挙げて収録した感があります。

『Starting Over』でのエリックが歌う曲は前作『Side 3』同様に、これまでのエリックのメロディラインをロックのアレンジを加えたもの、初めからロックテイストで作ってきたものなどに分けられます。彼にとっては朝飯前くらいのものですが、やはり、このアルバムを語る上ではウォリーとスコットのヴォーカル曲も聴いてもらわないと理解できないかなと思いまして、敢えて取り上げました。

 

さて、最後を飾るのはアルバムのラスト、「Starting Over」です。もちろん、エリックの作品でリードヴォーカルもエリックです。

エリックのピアノが大きくフィーチャーされていて、ブラスも入ってますね。デビューアルバム『Raspberries』の「Waiting」のように、エリックひとりで全部やっちまうのかと思わせますが、途中からコーラスとドラムも加わり、それほど独りよがりじゃないなと安心いたしました。

「Starting Over」って、「やり直し」とか「再出発」という意味なんですが、図らずもこれがラズベリーズの最後となってしまったのは皮肉なものです。

さて、このアルバム、レーベルのCapitolがこれまでさんざん金をかけてきたのに、ジャケットなどはまるでそっけないんです。裏ジャケットも表の写真を反転させただけ。

トーマスさん説によると、すでにエリックのソロデビューが決まっていて、それでもラズベリーズの契約期間がまだ残っているので、リリースしたのがこのアルバムだと。

エリックのソロデビューは1975年の11月。ラズベリーズとしてのツアーは1975年の春ごろまでだったそうで、準備期間とか考慮すると、トーマスさん説、当たっているような気も。

もし、そうであるとしたら、バンドから去っていったデイヴとジムの行動も何となく理解できるような。これに輪をかけてギターのウォリーまで去ってしまうと、バンド崩壊です。ウォリーとしてはエリックの曲であっても独自にギターフレーズを考え、自らのキャリアを優先させたのでしょう。2曲目で紹介した、「Party's Over」はデイヴとジムに対してのものだったともいいます。ちなみに、彼はのちにジミー・アイナーの協力の下、Fotomakerというバンドに加わりました。

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こういうことをやっていると、もう夕方近く。あ、こんなものまで。ありがとうございます。ちなみに、わたくしのハンドルネームはアトムの作者の登場人物…いや謎のキャラから頂いてます。

帰るころ、ものすごい雨が降りました。一部の電車は止まったんじゃないかな。これも、エリックが「勝手なことやりやがって」と下したものなんでしょうかね。

一応、カフェにあった「人間椅子」も聴いてみたんですけどねえ。また、やりましょう!

かすてら音楽夜話は200回に向かって(ものすごく遅く)歩んでおります。リクエストなども受け付けておりますので、今回の感想やご意見とともにコメントよろしくお願いします。バナーもクリックしてねん!

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2024年8月29日 (木)

ラズベリーズの光と影(3)

かすてら音楽夜話Vol.195

ミケポスカフェでの音楽談義、Raspberries(ラズベリーズ)の3回目。

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もうおわかりだと思いますが、今回はラズベリーズの3枚目のアルバム『Side 3』を取り上げます。

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このピザも美味しゅうございます。嬉しいなあ。

さて、『Side 3』の概要です。

リリースが1973年9月と、前作『Fresh』から1年置いての発売です。ただし、『Fresh』収録の「Let's Pretend」がシングルとしてリリースされたのが、1973年3月ですので、メンバーとしてもリスナーとしてもあまり休止期間を置かず、ずーっと活動していたような印象があります。

ビルボードHot200(アルバムチャート)はまさかの128位。

リリースしたシングルは、「Tonight c/w Hard To Get Over A Heartbreak」がビルボードHot100(シングルチャート)で69位。「I'm A Rocker c/w Money Down」が94位。「Ecstasy c/w Don't Want To Say Goodbye」はチャートインしませんでした(Cash Boxでは116位)。

3枚のシングルをリリースしてますが、「Ecstasy」のB面にデビューシングルの「Don't Want To Say Goodbye」を持ってくるなど、ちょっとした迷いも感じられます。

また、このアルバムからは共作がなくなり、エリックが4曲、デイヴが3曲、ウォリーが2曲という構成です。それぞれのリードヴォーカルは作者が務めております。

・アルバムがコケた理由

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このアルバム、変形ジャケットでして、ラズベリーパイがバスケットに収まっているような形です。再発された紙ジャケット仕様(リマスター版)のCDでも、サイズダウンしてはいますが、当時の形をそのまま再現しております。

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実に見事な型抜きで、Capitolとしても製作費を大いに使っていて、ラズベリーズへの期待度もかなりのものだったと思われます。

これ、実はレコードやCDを取り出すのに慎重さが必要でして、下手をするとジャケット自体を傷つけてしまう可能性もあるんです。もしかすると、当時の販売価格が他のLPレコードよりもちょっと高めだったりすると、ティーンエイジャーには手が出しにくい…なんて、可能性もあったかもしれません。<注:再発リマスター盤の紙ジャケット仕様CDの価格では3000円です。デビューアルバム『Raspberries』も同価格ですが、ラズベリーの香りがするステッカー入りですので、これはわかりますね。他の2枚は2600円です。>

そして、このアルバムは前の2枚と違って、とっつきにくいものだったのかもしれません。と、いうのは、「Tonight」や「Ecstasy」は「Go All The Way」~「I Wanna Be With You」の路線を踏襲してはいるものの、他の曲が明らかによりハードな曲調になっているのです。シングルとなった2曲も演奏がハード路線で、これまでの「ソフトロック」から本格的なロックへと転換したアルバムであるといえましょう。

ファンの大部分を占めていたティーンエイジャーの女子が求めるものとはだいぶずれてきたのではないかと思われます。でも、評論家筋からはおおむね好評だったようですが。

それでは、エリックが書いた曲について分析していこうと思います。

 

以前、再結成された時のversionで「Tonight」を紹介しましたので、オリジナルリマスター版でのサードシングル「Ecstasy」です。

作者はエリックで、もちろんリードヴォーカルもエリックです。この曲、「君に首ったけ」という邦題がついております。いくら何でも、原題のままではティーンエイジャーに悪影響が出るだろうと輸入元の東芝EMIが判断したのかなと思ったほどです。中学生の使う英和辞典にこの言葉があったかどうか。ない場合、親を含む年長者にきいて、きかれたほうも困る…なんてね。

もっと調べてみましたら、「歓喜」「有頂天」「無我夢中」という意味もあるので、邦題もあながち間違ってませんね。ともあれ、エリックもちょっと困ったタイトルを付けてくれたものです。これ、英語圏でも紛らわしいと思われたのではないでしょうか。

さて、曲ですが、メロディラインに関してはこれまでのエリックの曲調です。これをバックの演奏でハードロックっぽく持って行った1曲ですね。バックではウォリーのギターは常にうなっていますし、ジムのドラムもいつもに増して激しいです。アレンジはラズベリーズ名義ですが、大いにウォリーが貢献している曲ですねえ。

同じことは「Tonight」にもいえます。エリックとしてはいつもの曲を持ってきたといえますが、バンドの総論としてこの路線で行こうということなんでしょうね。

この曲のカップリングがまた「Don't Want To Say Goodbye」になったのは、「Tonight」のB面が「Hard To Get Over A Heartbreak」がデイヴの曲であること。セカンドシングルの「I'm A Rocker」のB面、「Money Down」がウォリーの曲ということで、できるだけ均等に扱おうということではないかと推測します。

 

セカンドシングル、「I'm A Rocker」です。作者、リードヴォーカルともエリックです。

この曲はアレンジも何も、元からこれまでのラズベリーズとは異なる、ハード路線で作ってきた曲といえましょう。

おそらくはこれまでのファンの大部分を占めていたと思われるティーンエイジャーの女子よりは、男性のほうに受けが良かった曲ではないかと思います。

新たなファン層を獲得したともいえますが、離れていったファンも多かったのではないかと推測しますね。

そして、最後はこちら。

 

『Side 3』のエリックの曲で、唯一シングルにならなかった、「On The Beach」です。

転調に次ぐ転調。マイナーコードからメジャーコード、そしてマイナーコードへ。

なんか日本のGSがやってそうな曲調で、解説の八木誠さんもどこか歌謡曲っぽいと書いております。

今回、ミケポスカフェでも是非ともトーマスさんに聴いてほしいと用意してきた曲でして、いかがだったでしょうか。

ともかく、これまでのラズベリーズにはない、特異な曲で、海岸に波が打ち付ける音やカモメの鳴き声も効果音として入っています。まあ、オハイオには海はないのですが、エリー湖はあります。相当でかい湖ですので、波も立つでしょうし、カモメもいるかもしれません。まあ、歌詞には「Sea」、「海」という単語が入ってはおりますが。

さて、『Side 3』ですが、デイヴの曲3曲のうち、2曲はやっぱりハードな曲。ウォリーの2曲のうち、1曲はなかなかブルージィな曲となっています。

ミケポスカフェでもアルバムを発売順にほぼ通して聴いていただきましたが、『Side 3』は明らかにこれまでのラズベリーズとは違うねという感想を頂きました。

★1か月ものブランク、すんまへん。新ブログで旅のレポートを続けていたものですので。一応、そちらもひと段落つきましたので、できれば「かすてら音楽夜話」も月2くらいのペースでアップしていきたいなと思います。もう、お分かりかと思いますが、次回もラズベリーズです。また、ご意見ご感想、お待ちしております。そうしたところから筆者にとってのいいインスピレーションが浮かぶ可能性が高いので、よろしくお願いいたします。下記のバナーもクリックよろしくです。

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