西寧~ラサ・高山病と戦う旅からのエピソード(8)

<新しいバス>P-30/SMC A28mm
ゴルムドでは食事はホテルではなく近くの食堂で出されました。食事を終えてホテルに戻ると、大型のバスが止まっていました。
チベット族のローカルガイド、呉さんは前日で終了し、この日からは童(トン)さんというローカルガイドが同行することになります。ガイドとドライバー、バスはセットなので、乗り物も変わりました。

<荒涼とした風景は続く>P-30/SMC A50mm
バスは大型化しましたが、いかんせん中国製のバスで、座席の間が狭くシートも小さめでした。とはいえ、マイクロバスのようにすし詰めではなくなり、ひとりがワンボックスを使えるようになりました。正しい姿勢で座るというよりも、かなり崩したような格好で座れば、少しはリラックスできる感じです。
そして、このバスには窓に黒いフィルムが貼ってありました。当時日本では高級車を中心にして、ウィンドウに黒いフィルムを貼って乗員のプライバシーを守るという「流行り」があったのですが、これをそっくりオンボロバスでも真似たのです。
ちょっとした余談です。窓のフィルムや濃い色のガラスはサングラスと一緒で、夜は安全を保障できないというものでした。すなわち危険なのです。それに、フィルムを貼ると、プロにでも任せない限り気泡ができてしまい、非常にイケてないのです。
現在の安全基準では濃い色のガラスは乗用車の場合、後部ドアのウィンドウとリアガラスのみとされています。それに、色は濃く見えるものの、ドライバーからは夜でも見える程度に濃さが抑えられているのです。

<長江上流部>P-30/SMC A50mm
この日は青海省とチベット自治区の省境あたりまで行く予定です。つまり、ようやくチベット高原に入っていくわけです。
ゴルムドからはしばらく、なだらかな登り道が続きます。
中国製バスは窓にフィルムも貼ってあって見た目は新しそうなのですが、勾配のきつい坂に差し掛かると、めっきりとスピードを落とし、平坦な道で追い抜いて行った何十年も前に生産されたいすゞ製ボンネットトラックに、どんどん抜かれていくという次第でした。

<泉>P-30/SMC A28mm
1時間おきくらいに休憩を取りました。このあたりになると町はずれも何もなく、滅多に人家などはないので、どこでもよかったのですが。
何度目かの休憩では工場のようなところにバスが止まりました。そこは、水の湧くところで、その水をボトル詰めしてミネラルウォーターを生産しているのでした。ここで、我々はミネラルウォーターのペットボトルを分けてもらいました。
バスには助手が同乗していましたが、ドライバーともどもいかにも昔の典型的な中国人でした。すなわち、ヒマワリの種などを食べ散らかし、そのゴミやペットボトルを窓から平気で捨てたりしてました。そして、大声の会話。

<崑崙山の麓>P-30/SMC A28mm
やがて、崑崙山が見えてきてその手前で昼食タイムとなりました。

<定番の昼食>P-30/SMC A28mm
またしてもイスラム食堂に入ります。出てきたものは、前日同様の三泡台と乾麺らしきものを茹でたものです。すでに標高は富士山を超え、高度計によると3950メートルになります。このくらいになると、水の沸点も低くなり乾麺が完璧に煮込まれていないような状態になります。それでも、米を炊くよりはいいのではないでしょうか。

<調理場>P-30/SMC A28mm
調理場をのぞくと特殊なものを使用していました。ここではガスではなく灯油のコンロが使用されていました。都市ガスはもちろんプロパンガスのボンベも配達できないようなところだからでしょう。
灯油のコンロから中華料理を作るような高い熱量を引き出すために、ふいごのようなものを使って灯油を噴出させる道具が使われていたのです。それ自体は問題ありませんが、厨房だけでなく食事をするテーブル付近まで灯油の匂いが充満しているのです。気分も悪くなってくるので、お茶と丼を持ち外で食べるという始末でした。

<かすかに見える氷河>P-30/SMC A50mm
このあたりから天気はめまぐるしく変化します。崑崙山を観察すると小さな氷河の末端が見えました。ただし、見えたのはこのあたりだけでした。
これから通っていくルートは「青蔵公路」と呼ばれます。中国が国の威信をかけて通したルートですね。

<崑崙山口>P-30/SMC A28mm
先ほどの食堂から上り詰めたところが崑崙山口になります。「山口」というのが「峠」の意味になります。ここは標高4676メートル。風が吹きすさび、目も開けられないような具合です。

<道班の集団>P-30/SMC A28mm
この青蔵公路には道路補修をする労働者が働いています。道沿いに飯場のような仮住まいを建て、そこで生活しながら道路を直していくのです。ここで、我々の中では「社長」と呼ばれるSさんがポラロイド写真をあげたようです。
その後、走っていくところどころで道班の労働者に出会うのですが、我々のバスには当時30代の女性が乗っていて、その姿をウィンドウ越しに見た彼らは「ヒューッ」という歓声をあげていました。まるで強制労働のようですがもしかしたら実際に罪を犯し、ここで働かされている集団なのかもしれません。
青蔵公路は陸路でチベットに物資を運ぶ唯一のルートで、荷物満載のトラックが通ることと、雪や道路凍結などで一般の道よりも痛みが激しいはずです。

<風火山口>P-30/SMC A28mm
天気はめまぐるしく変化し、雪までちらつく始末です。ちなみに、この日の服装は下着もシャツも長袖で、さらにセーターを着こんで、一番上にスキー用のジャケットを用意しました。
さすがに上着は必要ないだろうと思いましたが、風が冷たくバスから出るときには羽織りました。
崑崙山口から数時間。風火山口に到着しました。標高5010メートルと一気に5000メートル越えです。実はこの峠はツアーの概要には記載がなく、びっくりしました。やはり風が強く、少々頭痛もしました。

<青いケシ>P-30/SMC A28mm
しかし、こんなところにも植物が咲くのでした。さすがに、まばらでしたけど。

<同室のHさん>P-30/SMC A28mm
それから数時間。すでに外は真っ暗です。絶望感がバスを支配するころ、町明かりが見えました。
本日の滞在場所である、沱沱河沿(トートーホーヤン)でした。到着したのは、交通旅社と呼ばれる簡易型の宿舎です。建物内にトイレはなく、外のトイレを使うことになります。もちろん、バスタブもシャワーもなしです。洗面所さえないというところで、部屋にはホーロー製の洗面器が置いてありました。
床はたたきの土間で、ベッドは鉄パイプ製で薄っぺらな布団と夏掛けのみ。机は物置と化しました。
部屋の電気を消すところがわからず、つけたまま眠ります。さらに、ありったけの服を着たまま眠りました。
さらには夜中に怒鳴りあう中国語とガラスの割れる音がきこえてきた次第です。
ここがこれまでで泊まった最悪の場所ですね。
続きます。
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