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2011年9月27日 (火)

ベジターリー

ヴァラナシー最終日の夕食。やっと終日出歩いたし、3食きちんと食べられるようになりました。出かけたのは、ヴァラナシー駅北側にある5つ星ホテルが点在するエリア。サイクルリキシャで連れて行ってもらったので、あとで調べてわかりました。ここ、高級ホテルが点在するといっても、実態は広い公園とか中層の住宅があるくらいで、町としての機能はなさそうなエリア。その、BROWNIEという店です。

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<トマトスープ>GR DIGITAL

そんなエリアなので、当然グレードの高い店のようです。天井や壁がテント張りのようになっていて、ちょっと心憎い演出にも見えますが、日本人旅行者にとってはあまり高級感が感じられないような…。まあ、このあたりはインド人の嗜好なんでしょうが、メニューを見るとやはり高いです。

もちろんビールもありましたがここはまだ自重し、ミネラルウォーターとトマトスープ、ベジタリアンのターリーをオーダー。「これは肉がありませんよ」といってくれましたが、まったく問題なしです。

トマトスープですが、一口飲んでみると、胡椒でも入っているのかヒリヒリしてスパイシーです。インドで食べたもののうち最もスパイシーなものです。でも、唐辛子系ではないので、お腹の心配は無用で、しかも前菜としては次に出てくる料理への期待がふくらむ味ではないでしょうか。個人的にはこのスープ、かなり自分好みの上位に入るものかも。

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<ベジターリー>GR DIGITAL

そうこうするうちにやってきたのが、ベジターリー。カレーを中心とした定食みたいなもので、これひとつで十二分すぎるくらいの量があります。では、これを1品ずつ解説していきましょう。

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<パパル>GR DIGITAL

これは、主食ではなくて、豆をすりつぶして焼いたもの。あまり塩味のないポテトチップのような感じといったらわかってもらえるでしょうか。

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<チャパティ>GR DIGITAL

パパルの下に隠れていたのが、チャパティ。あまり熱々ではなかったのですが、カレーにつけるとやはり美味しい。ナーンではなかったのですが、もしナーンだったら、量からいってももてあましそうで、これはこれでよかったのかもしれません。

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<キュウリとトマト>GR DIGITAL

インド料理での初の生野菜。ドレッシングなどはなし。

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<ダール>GR DIGITAL

豆のカレー。辛みは少ないです。豆の種類はよくわからないんですが、黒くて小粒のやつです。ネパールでもダールがありますが、もうちょっとさらっとしているかな。

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<メインの野菜>GR DIGITAL

インゲン、にんじん、ジャガイモ。つぶれた豆も入っているかな。なんというか肉のない肉じゃがみたいな感じですね。味も似ている。これもあまり辛くないです。ノンベジのターリーだと、ここに肉のカレーが来ると思います。

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<パニールのカレー>GR DIGITAL

パニールとはインドのチーズですね。見た目は小さく切った豆腐みたいです。これに合わさるカレーはちょっとスパイシー。

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<アチャール>GR DIGITAL

ちょうど漬け物といった方が良さそうな野菜。ここではにんじんでしたが、ライム系の味がしました。

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<アイスクリーム>GR DIGITAL

ここではデザートも大皿で一緒に出てきました。店によってはここにヨーグルトが付くこともあると思います。ヨーグルトの場合はデザートではなくて、おかずのひとつです。

高級料理店なので、スプーンやフォークも出るのですが、極力指を使って食べてみました。これまた、チャパティと各種おかずの場合は比較的簡単なのですが、中央にあるライスと混ぜ合わせて食べるのはかなり難しい。まあ、わたしゃ旅行者なので、ライスの場合はスプーンにするという折衷的なことになってしまいましたが。

ひとつひとつも美味しいのですが、上に紹介したいくつかをミックスして食べるとまた新たな味が見つけられます。

ダールとパニール、などが考えられますけど、ひとつ革新的だったのはアチャールに付いているたれのようなものをダールやパニールと混ぜ合わせると、かなり美味かった。さすがにご飯すべてを平らげることはできず、ラストのエスプレッソを飲んで、お勘定。全部で420ルピーでございました。

さて、この店悔しいことに、フリーWiFiが入っていたんですね。高級ホテルのエリアにあるためか、この間まったく停電もなく、あらかじめわかっていたら、ネットブック持参で来るんだったなと思いました。もう遅いけど。

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2011年9月24日 (土)

カミサマカウカ?

深夜特急の足跡を追うVol.3

それはヴァラナシー最終日の奇跡であった。この日はリキシャワーラーとも無縁で、ひとりでメインガートの近くまでやってきた。だが、雨が降ってきて雨宿りしていた時に、声をかけてきた男がいた。

最初は決まり切ったことを英語できいてくる。たぶん土産物屋の関係者だろうと思っていた。日本が好きなようで日本の地名がよく出てくる。そのうち男は流ちょうな日本語になった。「私の兄の店、日本人がよく来ます。『ガンジス川でバタフライ』のたかのてるこも来たし、この間は芸能人が来たね。私の兄、『シェンヤトッキュウ』にも出てたね」

なんだそれはと思ったが、聞き返してみると大沢たかおという名前も出てくる。大沢たかおでヴァラナシーと来れば、あれしかないではないか。しかも、ヴァラナシーでの出演者というと、ヒンドゥの神様を売り歩いていたあの少年しかいない。「店に来る?」気に入らなかったら買わなくてもいい、日本の雑誌や本もあるので、飲み物だけ飲んで休んでいけばいいとのことなので、迷わず立ち寄ってみた。

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<モホニーシルクショップ>K7/DA21

連れて行かれたのは、モホニーシルクショップ。狭い店内には、インド人3人と日本人の観光客が二人。また、サリーを着こなした日本人女性もいた。チャイが運ばれる。棚には商品の他に、日本人旅行者が置いていったらしい本がずらり。すると、自分を案内した男が、古い写真を出してきた。

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<カミサマカウカの1シーン>K7/DA21

ここの店主の名前はムケ。「劇的紀行・深夜特急」の中ではモケという名前で大沢たかおと絡む重要な役どころだった。ムケの弟はさらに堀田あきお&堀田かよの「インドまで行ってきた」という漫画を取り出し、主人公の杉田君がヴァラナシーでムケと出会うシーンも見せてくれた。

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<ムケと記念撮影>GR DIGITAL

ようやく暇になった店内でムケにインタビュー。

現在28歳。深夜特急出演時は13歳。今は日本人の奥さんをもらい、この小さな店を経営している。ムケはインド商人としては非常にクリーンな商売をしている。客は呼び込むものの、決して押しつけがましい売り方はせず、あっさりとしている。

日本人観光客には正しいシルクの見分け方を教えている。それは、糸を燃やすのだそうだ。これを見ていて、数日前の雨宿り中に購入した安いシルクのスカーフは偽物だなと思った。

大沢たかおは優しかったかときくと、まだ子供だったからよくわからないとのこと。記念撮影をしようとGR DIGITALを取り出すと、「オレ、それ持ってる。日本の友達に送ってもらった」とのこと。

ムケは金を受け取るときちんと棚の金庫の鍵を開け、そこにしまうとまた鍵をかける。やはりしっかりしてますね。今後の予定をきかれ、ネパールにバスで行くと答えると、「その歳で」といわれてしまった。歳のことをインド人はしつこくきくので、「大沢たかおと同じ」とごまかしておいた。「あのとき大沢たかおは26歳だったから」などと計算している。「それは、ドラマの主人公の年齢で、実際はもっと上だよ」と教えると初めて知ったようだった。

ムケからは紅茶を買い、今もそれを飲んでこれを書いている。「またあなたは、ヴァラナシーに来るね」「何年後かわからないけどね」と答えて、分かれる。ゴードウリーヤの交差点までは弟が送ってくれた。

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<ホテル・ガンジス>K7/DA21

ヴァラナシーの旧市街だけでも、沢木耕太郎の「深夜特急」の足跡をそのまま追うことになってしまいますが、これまでのカルカッタとブッダガヤのようなはっきりと足跡を残したところは記述されていないので、今回は「劇的紀行・深夜特急」からピックアップしてみました。

ホテル・ガンジスは大沢たかお扮する沢木耕太郎が泊まった設定になっている宿。入口近くは工事中であまり綺麗じゃない感じはしたが、まあまあの宿のような気もする。このあたりにいれば、かなり便利だろうと思う。

モホニーシルクショップ

D.17/129A-1,Ashutosh Market Opp.Chitranjan Park Dashashwamedth

E-mail:mohonisilk@yahoo.com

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2011年9月22日 (木)

プーリー朝定食

いやあ、台風すごかったですね。電車が止まってしまい、雨がやむのを待って震災以来2度目となる徒歩で2時間以上かけての帰宅です。もう今年は勘弁してもらいたい。

またしても朝食の話です。前に紹介した揚げパンカレーの店が休みだった時、どうしようかと歩いていたら、またしてもリキシャワーラーに出会ってしまい、連れて行かれたのが、ここでした。

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<プーリーとカレー>GR DIGITAL

有無をもいわせず連れて行かれたのではなく、「ぷーりーは好きか」ときかれ、コルカタのホテルの朝食でプーリー+ちょいがけカレーを食べていて、まあまあの味だったので、頷いた上でのことです。

店内はテーブルが4つくらい。揚げパンの店よりもやや狭く、店頭に鍋は出されていません。調理場も店内にあり、調理人とサーブする人と役割分担がはっきりした店でした。揚げパンの店よりややグレードは高そう。

とはいえ、できるメニューはプーリーとカレーだけらしく、プーリーをいくつにするか訊ねられます。2つか4つか。体調はほぼ万全だし、揚げパンの店では5枚食べていたので、まあ4つでよかろうと注文します。すると同時に金属のグラスが置かれます。上の画像の左上に見えるのがそれ。でも、中身はただの水道水です。

プーリーも小麦粉のパンを油で揚げたものですが、全体的にふっくらと仕上がっています。特にこれという味は付いていないはずなんですが、単体でもけっこう美味いですね。さて、やってきた料理は銀の盆にのっています。この店、昼以降はターリーでも出すんでしょうか。

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<ジャガイモとインゲンのカレー>GR DIGITAL

銀のトレイの上にスプーンがついていますが、これは外国人用につけてくれたわけではなくて、ここにハチミツが入っているんですね。甘い物好きなインド人はカレーだけでは満足せずに、ハチミツもプーリーにつけるんでしょうね。なので、このティースプーンではカレーをすくうわけではないのです。郷に入れば郷に従うの精神で、こちらも右手でカレーを頂きます。

ここも野菜のカレー。揚げパンの店のカレーほどは脂っこくなく、マサラも抑えめかなあ。でも、癖がなく、美味いです。プーリーも美味くて、カレーも美味い。揚げパンの店が安い、美味い、誰でもかかってきなさいみたいなノリだとすれば、こちらはちょっとジェントルで通の人が通うみたいな感じですかねえ。

料金の方も24ルピーとちょっと高め。でも、まったく懐具合を気にせず楽しめるところでした。

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2011年9月19日 (月)

オレンジ団

話がちょっとさかのぼりますが、コルカタからガヤに到着して目についたのがオレンジ色の服を着た集団であった。

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<ガヤのオレンジ集団>K7/FA35

その後もブッダガヤでもオレンジ色の服の集団がたくさんいた。もちろん同じ人たちではなく、こうした人たちが無数にいるのである。ブッダガヤの各国の寺院にも参拝に訪れているようで、何か宗教と関係するのだろうなと思っていた。

気になってラカンに訊ねると、シヴァの信奉者なのだという。ちょうどこの時期シヴァの祭りが1ヶ月に渡り行われ、人々はオレンジ色の服を着て、近くのガンガーまで行き、水を持ち帰ってこれを納めるというのだ。その間徒歩の巡礼もあり、その間は裸足なのだという。

その祭りはちょうどヴァラナシー滞在中に終わるという。事実、朝食を食べに行くとオレンジの軍団が腹を空かせて店に入ってきたりしたし、あちこちで見かけた。

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<ヴァラナシーのオレンジ軍団>K7/DA21

ヴァラナシーの旧市街でオレンジ軍団が列を作って並んでいた。各自の手にはガンガーで汲んできた水がある。おそらくこの先には黄金寺院で知られるヴィシュワナート寺院があるはず。水はここに納めるのだろう。

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<ポーズを取るオレンジ軍団>K7/DA21

カメラに気づいた彼らが取った行動は、「オレも撮ってくれ」であった。やはりインド人は相当なカメラ好きである。喜んで数カット撮らせてもらった。

ここには男たちしか写っていないが、女性ももちろんいる。この祭りに参加するには、家族全部というわけではないだろうが、地縁血縁などの知り合いを元にして集団が作られるのだろう。例えインド人でシヴァを信奉していても、知らない同士では100km単位の裸足の巡礼はできない。助け合ってこそなのだろう。

このあとネパールまで旅することになるが、その途中でもオレンジ軍団がいて、故郷のシヴァ神にガンガーの水を納める風景をかいま見ることができた。

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2011年9月17日 (土)

リキシャでサルナート

ヴァラナシー3日目。この日は早朝のガートを見るという約束をリキシャワーラーとしていたが、激しい雨によりこれはなくなる。その代わり雨がやんでから、サルナートに行くということになった。

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<サルナート>K7/DA15

サルナートはブッダが初めて説法を行った地である。ということでここも聖地のひとつ。でも、ブッダガヤほど人気があるようには見えなかった。もちろん、ここも以前訪れたことがあり、遺跡とストゥーパ以外は何もないようなところだなという印象がある。

その時は、観光バスで向かったが、サイクルリキシャで向かうと1時間はかかる。外国人入場料は破格の100ルピー。しかも、入場すると同時に入口にいた係は、チケットの半券を手渡すどころか、丸ごと回収して傍らのカゴに投げ入れた。これはもしかして、もう一度同じものを使い、入場人数を過小申請し、自分たちで儲けを山分けするのではなかろうか。とっても怪しい。

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<熱心な仏教徒>K7/DA21

サルナートの遺跡公園内にあるダメークストゥーパがここでは有名だが、その周りで僧侶を伴い熱心に祈り、ストゥーパを右回りする人たちがいた。東洋系の顔立ちだが、話している言葉は日本語ではなかった。

以前はこのあたりで観光していると日本人の僧侶がやってきて寄付を募ったものだったが、今回はそれはない。それにしても、のどかなところで、ガンガー近くのヴァラナシーの喧噪とは無縁である。

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<アショカ王の石柱>GR DIGITAL

この遺跡公園内で有名なのは、アショカ王が立てた石柱である。アショカ王は各地で石柱を立てまくっているが、ここの石柱がもっとも有名なもののひとつ。だが、すべて折れてしまい、石柱の上部は隣の博物館にある。それは四方にライオンの頭があるもので、インドの紙幣にもデザインが取り入れられている。

以前来た時にもこの石柱を撮影したが、金網越しの写真にしかならなかった。しかし、今はコンデジをかざすだけでこんな写真が撮れる。

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<ムルガンダ・クティ寺院>K7/DA21

ここには日本人絵師、野生司香雪によるブッダの生涯を描いた壁画があるのだが、入ることはできなかった。博物館もダメ。遺跡公園で時間を取りすぎたらしい。実はこの寺院の奥に、観覧車が見えた。いつの間にか遊園地ができていたようだ。そちらの方が人気があったような気もする。

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<日月山法輪寺>K7/DA21

サルナートには仏教国が建てた寺院があるが、ここは日本の寺院である。勤行に参加すれば宿泊できるとか。

サルナートの帰り、本格的に雨に降られた。小雨ならばサイクルリキシャでも幌があり、何とかしのげるが、本降りになると走ることはできない。休憩と称して土産物に連れて行かれた。ちなみに、ヴァラナシーはシルクの産地らしくそのような店がたくさんある。

11年ぶりということもあり、サルナートにも立ち寄ってみましたが、なしでもよかったかも。もしヴァラナシーに来て、ガンガー近くの宿に泊まっているのなら、静寂を求めていく価値はあると思う。

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2011年9月14日 (水)

ガンガー遊覧

ヴァラナシーに到着してまず行ったことは、ネパールへのチケットの手配である。ここは、宿から離れているものの、もちろん歩いていこうとしたら、後ろからついてきたサイクルリキシャに捕まった。断固として断ったのだが、10ルピーでいい、ガンガーまでなら50でいいなどと熱心な勧誘に断り切れなかった。

チケットは無事手に入る。ではリキシャに乗ってガンガー観光と行こう。到着したら、ガートで写真を撮りまくるつもりでいた。そこを見透かしてか、リキシャワーラーは「今ガンガーは、とても増水していてガートの間を歩いて観光することはできない。ボートなら大丈夫だ」という。ホンマカイナ。体調が回復中ということもあり、ボートに乗ってとりあえず今日はそこから戻って来ようということにした。

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<牛とともにガートへ>K7/DA21

ヴァラナシーではオートリキシャも多いものの、ペダルを漕いで客を乗せるサイクルリキシャが多い。リキシャワーラーは痩せた長身の男だったが、筋金入りのリキシャ漕ぎらしく、スピードはそれほどでもなかったが、混雑した道をスイスイとバイク、オートリキシャ、クルマ、人、そして牛を交わしながら進む。このサイクルリキシャには結果的にかなり世話になったのだが、それらとの接触は全くなかった。一度だけ、成人した手のようなリキシャワーラーのサイクルリキシャに乗ったが、力任せにぐいぐい進むものの、乗り心地が悪く、かなり危険な感じがした。サイクルリキシャに乗るならば、じいさんかオッサンのリキシャがいいと思いますよ。

連れて行ってもらったのは、ケダルガートであった。一番有名なダシャーシュワメードガートではない。かなり上流に位置するガートである。メインロードから小道へ。もうここはクルマは入り込めない。だが、オートリキシャは入ってきていた。もちろんバイクも通る。とはいえ、狭い道には変わりない。

ここを道なりに行くとくらいアーケードのようなトンネルを通る。ここには、力無く横たわるホームレスなのか死を待つためにヴァラナシーに来ている人なのかよくわからない男女がここにはいる。そこを通り抜けるとガートであった。

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<ケダルナート寺院>K7/DA21

このガートにはこのような寺院があり、ガンガーの水を汲み、寺院に供える参拝客がたくさんいた。いずれも老齢に近い人たちであることと、ガートの傾斜が急なためにこんな姿で登っていくのだ。

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<ガンガーへ>K7/FA77

11年ぶりのガンガーはとてつもない水量であった。ガートのほとんどは水没し、かなりの流れである。11年前も夏のヴァラナシーであったが、こんなに水量はなかった。リキシャワーラーの言っていた、「ガートの間を歩いて観光できない」ということは本当であった。

ボートは、エンジンなしで漕ぎ手が3人いる。二人がひたすら漕ぎ、ひとりは船尾で舵取りのようなことをやる。水量の増したガンガーはところどころ渦を巻き、漕ぎ手が必至に漕いでもなかなか進まないような状況もある。以前のヴァラナシーでもボートに乗ったが、かなり岸から離れたところを進んだりしたが、今は漕ぎやすいところのみ進んでいる感じだった。

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<沐浴>K7/FA77

透明度ゼロの水で沐浴が行われている。地元住民にとっては毎日欠かせない習慣のひとつでもあるだろう。宗教的な意味合いだけでなく彼らはここで、身体を洗い、歯を磨き、排泄も行う。

ケダルガートの近くには火葬場もあった。あの有名なマニカルニカガートではなく、小規模なハリシュチャンドラガートである。小規模といってもボートから眺めていても火葬はもちろん行われていて、盛んに煙を上げている。背後の舵取り役が話してくれたが、金持ちは薪で焼かれるが、金のないものは電気で焼かれるとのこと。写真がないのが残念。

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<水位を示す印>K7/FA77

ある建物の壁にガンガーの増水時の印が付いていた。1976年にはあんなに高いところまで水が来ていたのだ。こうなるとヴァラナシーの旧市街は完全に水没すると思う。

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<シヴァのイラスト>K7/FA77

ヴァラナシーの守り神は破壊の神シヴァである。この時期ちょうどシヴァの祭りがあり、オレンジ色の服を着た連中が町中を練り歩いていた。川の中からガートを見るとこのようなイラスト風のものもかなりあった。

これだけの水量があるとガートによってはボートを出すのが危険なところもあり、観光客の乗った船をそれほど見かけなかった。そのような船を狙って、船に乗ったろうそく売りや土産物売りなども出没するのだが、それとも出くわさなかった。

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2011年9月11日 (日)

15ルピーの朝食

満を持しての食べ物レポートです。なんつって、実際は病み上がりだったから、ローカルな料理はあまり食べていないんですけど。まあそれでも、今後いくつかは登場するはずですので、よろしくです。

ヴァラナシーで泊まった宿には朝食は付いていなかった。身体はすっかり回復したとはいいがたく、外に出て朝メシを食べられる場所を見つけるのがいささかめんどくさかったが、かなり空腹ではあった。

外に出て大通りを歩く。朝から人だかりのしている店が2軒あった。どちらも何か食べさせてくれそうだ。宿に近い方は、かなりの人だかりがしていた。遠い方は、それほどの客の入りではなかったが、店の奥にテーブルが並んでいた。遠い方に決める。

テーブルに着くと店主がやってきたので、「メニュー」ときいてみるが、できるのは朝食セットの1種類だけだった。壁に貼りだしてあるハンバーガーやターリーの写真は昼以降のものなんだろうか。ともかく、朝食セットを所望する。

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<ジャガイモとトマトのカレー>GR DIGITAL

料理は即座に運ばれてきた。油で揚げたパンのようなものとカレーである。新聞紙を切った皿とチャイなどに使うような素焼きの容器。この素焼きの容器がカレーにも使われるとは思っていなかった。もちろん、スプーンはつかないので素手で食べることになる。

手洗い場で手をきれいに洗い、パンをつかむ。できるだけ右手だけでインド人みたいにちぎろうとするがそれは不可能に近い。まあ、外国人なんだからしょうがないなと許容してくれるだろう。店の客をよく観察してみると、自分のように左手を補助的に使う人もいるので一安心。また、左利きでもあるのか、逆に右手を使わず左手だけで食べている人もいる。

さて、パンをちぎったら、これをカレーにつけて食べるのだ。それはごく簡単である。問題なのは、具のジャガイモやトマトをいかにして右手だけで食べるかだ。液体状のものを指で食べることは、パンがあればそこに浸して食べるので別にどうということはないのだが、これを指で触れることはとても熱くて冷めるまで待つしかなかった。

料金15ルピー。パンは揚げてあるのでやや胸焼けがするかもしれない。頼まなくてもこのパンとカレーは店の人が勝手に追加しようとするほどである。また、これでも満腹できない場合、サイドディッシュとして揚げたお菓子みたいなものを頼む人もいた。

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<ジャガイモと豆のカレー>GR DIGITAL

この店にはヴァラナシー滞在中の5日中3回通った。翌日は、ジャガイモと豆。どうやらジャガイモ主体のベジタリアンのカレーの店のようである。それにしてもこのカレーは朝ではあるものの、量も適度でちょっと病みつきになりそうである。

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<ジャガイモとパニールのカレー>GR DIGITAL

その次の日は店が休みで、一日おいてまた行った。やはりジャガイモのカレーだが、インドのチーズ、パニールが入っていた。野菜がこんなにも美味しいとは新しい発見である。

ちなみに、宿に近い店は知り合ったリキシャワーラーによると「あそこはダメ」とのことであった。「この店はグッド」なのだそうだ。

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2011年9月10日 (土)

移動に13時間

病気の話もさらしてしまったことだし、ひとまず前に進もうと思います。

宿でクルマを出してもらい、ガヤへ。ところが列車は遅れていた。7時には列車は来ることになっていたが、きくと9時、12時、14時とだんだん遅れがひどくなってくる。

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<ガヤ駅の朝>K7/FA35

チケット表記の列車名はShm Gkp Expressというものだが、週1便でコルカタ郊外のターミナル、シャリマールとヴァラナシーとネパールの間にある中継点でもあり、ブッダ入滅の地クシナガルに近い、ゴーラクプルとの間を走る列車であった。これは待合室に行ってようやくわかった。

結局列車到着は14時過ぎ。何が原因かわからないが、ヴァラナシーまでの所要時間は余り変わらず、乗客も疲弊した様子は見られない。あとで考えてみたが、チケットの出発時間のところに印が付けられていて、出発前にもう一度時間を確認せよというマークだったようだ。それにしても7時間の遅れは異様である。体調不良の身にとって、よくぞ我慢したと思う。

ガヤを出てしばらくすると、雨が降ってきた。尋常な雨ではなく豪雨である。しかも、屋根から激しい雨漏りがして、荷物が塗れそうになった。しばらくすると車掌がやってきて、席を変えてくれた。向かいになった座席ではなく、通路を挟んで反対側にあるひとり用の座席である。ここは、常に寝台がセットされている。誰にも干渉されないので、都合がいい。

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<駅での生活>K7/FA35

列車はやがてムガール・サライに到着した。ヴァラナシーのひとつ手前の駅である。列車によっては、ヴァラナシーを経由しないため、ここで発着する列車を利用するというケースもある。

自分の乗った車両はちょうど駅で生活をする人たちの手前に止まる。赤いシャツの男性がひとつの鍋からカレーを作っていく。インドの人たちはどんなに貧しそうな生活をしていても、見事な金属製の鍋や食器を使っている。

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<ガンガー>K7/FA35

列車はやがてガンガーを渡る。ガンガーはかなりの水量でさすがは雨季という感じがした。やがて列車は鉄橋を越え、左にカーブするとそこがヴァラナシーであった。

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<ヴァラナシー駅>K7/FA35

駅を出ると宿の客引きはやってこなかったが、オートリキシャの運転手(リキシャワーラー)が近づいてきた。列車の中でここにしようとチェックしていた中級ホテルの名を告げる。「俺は病気なんだ」とアピールしておくと、詮索がましいことはせず、素直にその宿に連れて行ってくれた。

ヴァラナシーでは、このパーラヴィ・インターナショナルという、宿を起点に半分静養しながら過ごすことになった。

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2011年9月 7日 (水)

インドで病気

今回の旅行先がネパールはともかくインドということで、正露丸の特大瓶を用意していったのですが、これまでの経験からまあ大丈夫かなと思っていました。もちろん軽い下痢とか風邪引きなどはありますが、さほど深刻になったことがありませんでした。

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<宿のバスルーム>GR DIGITAL

コルカタからブッダガヤに向かう朝、腹が下り気味になる。だが、ブッダガヤに到着するまで何ともなかった。軽い下痢なので、毎食後正露丸を飲む。翌日ラカンによる観光が入ったが、バイクに乗り、どうということはなかった。

ブッダガヤ3日目。前日からエアコンのある宿に移っていた。ブッダガヤは暑くて、体調を崩す前にそうしたのである。ただし、中心部からはちょっと離れた場所だ。もちろん朝食を食べることのできるレストランからも遠い。

朝食を食べに行くついでに近くの寺院を見て歩くことにする。レストラン…というか、ただの食堂。インドなのにカレー料理はなく、トーストとか簡単なものばかり。ここで、紅茶(チャイではなくプレーンなもの)とインド風オートミール、卵焼き(オムレツと表記されていた)を頼む。んー、不味い。特に卵の油がヘビーだ。半分以上残す。それにしても、すごい発汗である。朝だというのにシャワー浴び直しだな。

で、その後マハボディ寺院に行き、ナイランジャラー川を眺め、飲み物を買い宿に戻る。しばらく横になっていたら、突然の吐き気。食べたものをすっかり戻してしまったので、嘔吐をそれ以上繰り返すことはなかったものの、下痢が激しくなり、その後の食事も取ることなく朝までこの部屋で過ごしていたというわけです。

この翌日、ヴァラナシーまで行くことになりますが、半日以上静養していたためか、困ったことにはならず、駅に近いクレジットカードの効く宿に。観光は半日どこかに出かけたら、もう半分は宿で休んでいるような状態でした。フルに動き回れたのは、ヴァラナシー最終日のみ。その間はほぼ昼食抜きでした。

これが功を奏したのか、インドを出る頃にはすっかり回復しました。でも、一時はマジでインドの薬局に飛び込んで薬を買おうかとも思ったほど。そうした方がよかったのかもしれないけど。

実際に体調不良ということもあったでしょう。特に、ブッダガヤの食べ物はレストランとはいえ、専門の調理人が作っているのかどうか非常に疑わしい感じがします。たぶんに最後に食べた卵の油とミルクが疑わしい。だいたいものを食べて吐くなどということは、これまでの生涯に片手で足りるほどのはず。

また、ガイドの客引き合戦に巻き込まれたということも、精神的な負担が大きかったかも。ラカンは観光のあと、知り合いの土産物屋に連れて行き、いらないというものをけっこうしつこく売ろうとするし、別の日本語を話せる客引きはラカンの話になると「ああ、あいつか」みたいな評価だし、うつった宿は日本人が経営に加わっているところながら、評判が悪いし。

体調が悪いことで仕方なかったともいえますが、超スローペースで、思うままに任せず観光を続け、相当のフラストレーションがたまったことが残念でした。ただし、海外という超アウェーの地で体調を崩した時の身の置き方は学習したかもしれません。

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2011年9月 5日 (月)

印度山日本寺

深夜特急の足跡を追うVol.2

前回のインドでは、「北インド仏跡を巡る旅」というテーマがついていたものの、エアインディアの未曾有のディレイに巻き込まれ、ブッダガヤで泊まるはずが通過ということになってしまいました。滞在時間わずか3時間。観光をして、マハボディ寺院近くのアショカホテル(今は経営母体が変わったか何かで、別の名前のホテルになっています)で昼食を食べるともう出発という強行軍でした。

それでも、ブッダガヤに数ある各国の寺院の中で日本寺だけは訪れることができたのでした。

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<印度山日本寺>K7/DA21

 私がぼんやり眺めていると少年が近づいてきて言った。数珠を買わないか。それがあまりにも上手な日本語なのに驚いた。仏教の聖地ということで日本人の観光客がよく来るのかもしれない。いやいらない、と言ったあとで、ジャパニーズ・テンプルはどこにあるのかと訊ねてみた。

「ジャパニーズ・テンプル?日本寺ね」

 少年が指さした方角を見ると、広い空き地の向こうに確かに日本風の寺院の建物があった。

 その寺は近づいてみるとかなり広壮な建物だった。門を入り、案内を乞うと、中から僧侶が出てきた。正真正銘の日本の僧侶だった。泊めてもらえないだろうかと頼むと、多少もったいはつけたものの意外に簡単に受け入れてくれた。

 通されたのは二段ベッドの部屋だったが、他に泊まっている人はいないようだった。しかも内部は清潔でいかにも快適そうだった。私はベッドに横になるとそのままぐっすりと寝入ってしまった。

(沢木耕太郎「深夜特急」から引用)

…ということで、沢木さんはカルカッタからパトナに向かう列車の中で乗客のインド人から無料で泊まれる寺の話を聞き、列車を乗り換えてブッダガヤにやってきます。それが、この印度山日本寺。

当時の日本寺では、朝夕の勤行に参加することと、食事は提供できないので自分で何とかすることというのが、泊まる条件だったそうだ。

当時はこの他にもラージギルにある日本山妙法寺も、部屋を旅行者に開放していた。沢木耕太郎ほど有名じゃないが、ルバング島で小野田さんを「救出」した鈴木紀夫という人の、「大放浪-小野田少尉発見の旅」(朝日文庫)の前半では、アジアと中東、ヨーロッパを行ったり来たりしていたが、ラージギルで泊めてもらう記述があります。

今でもブッダガヤでは、ブータン寺、ミャンマー寺、チベット僧院などでは泊めてくれるらしい。また、ヴァラナシーに近いサルナートの日月山法輪寺では受け入れてくれるらしい。いずれも、「地球の歩き方」の情報ですが。残念ながら、印度山日本寺ではもう旅行者を受け入れることはないようだ。

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<本堂>K7/DA21

 此経さんとは、勤行が終わったあとに、本堂の廊下に腰を下ろし、地平線から黒い雲が湧き、雷鳴が轟き稲妻が走る空などを眺めながら、よく話をした。

(沢木耕太郎「深夜特急」から引用)

此経さんとは、この日本寺で出会う「未だならざる日本語講師」であった。ブッダガヤの近くにはマガダ大学があり、ここで日本語講師を募集していたらしいが、返事が遅れ、なら行ってみようとブッダガヤで生活していた人である。

やがて、此経さんがブッダガヤにやってきた農大生たちが、近くのサマンバヤ・アシュラムでボランティアをすることを聞きつけ、沢木さんも誘い、アシュラムの生活が始まります。大沢たかおの「劇的紀行・深夜特急'97~西へ、ユーラシア編」では、このアシュラムの出来事がまるまるカットされ、「劇的紀行・深夜特急'98~飛行よ!飛行よ!ヨーロッパ編」で回想シーンとして登場します。まあ、カルカッタも「劇的紀行・深夜特急'96~熱風アジア編」のオープニングで登場するのみですけど。

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<菩提樹学園>K7/DA21

現在は宿泊施設がなくなってしまい、沢木さんたちが生活していたあたりの推測もつきません。ただ、日本寺はブッダガヤの人たちにかなり慈悲深い活動をしていて、この菩提樹学園もその一つ。ここは、ブッダガヤの貧しい家庭の子供が対象の無料の幼稚園。

訪ねた時はすでに活動が終わっていたようだが、前の庭で無邪気に遊ぶ子供たちの姿があった。

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<光明施療院>K7/DA21

こちらは、無料の診療所。2度目に足を運んだ時気づきました。朝からかなりの数の人たちが治療をしてもらおうと順番を待っていました。この写真ではわかりませんが、さらに左側に治療を待っている人たちがいます。(そうした人たちを撮さないようにしたのです)

ブッダガヤに数ある各国の寺院を非常に短時間ではあるものの、訪問してみましたが、これだけの活動を行っているのは印度山日本寺くらいだと思いました。なんといっても、敷地面積が違いすぎる。ただし、ここにいる日本人の僧侶は数少ないのか、姿を見かけませんでしたねえ。他の寺院ではかなりの数いますが。

旅行者の宿泊を受け入れなくなった日本寺ではありますが、朝夕の勤行(読経)には、日本人外国人を問わず参加可能らしいし、日本語の本がある図書館もあり、借りることも可能らしいです。わたしゃ、3泊しましたが、それ以上の長期滞在をもくろむならば、お寺通いも楽しいものになるかもしれません。

印度山日本寺ホームページ

ちなみに、「にほんでら」ではなく、「にっぽんじ」です。

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2011年9月 3日 (土)

マハボディ寺院

やはりブッダガヤのハイライトは、マハボディ寺院である。ゴータマ・シッダールタはここにある菩提樹の木の下で瞑想し、やがて悟りを開き「ブッダ」となった。マハボディ寺院はこの跡地に建てられたのである。

大半がヒンドゥ教徒であるインド人だが、この寺院とブッダが悟りを開いた菩提樹(現在4代目だそうだ)には、かなりの敬意を持って接しているように見えた。

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<マハボディ寺院>K7/DA15

ブッダガヤといえばマハボディ寺院、これ以外ないといいきることができ、自分も4回くらい訪れてしまった。入場料は無料ながら、1日有効のカメラチケット20ルピーと、履き物の預け料が必要。この旅行直前にインド各地でテロと思われる爆弾騒ぎがあり、上の写真を撮ったあたりにも、X線のゲートが設けられていた。

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<本殿>K7/DA15

マハボディという名前の寺院は、ネパールのパタン、ミャンマーのバガンにもあるが、いずれもこのブッダガヤのマハボディ寺院から影響を受けて作られたものである。

ここには、アショカ王の石柱も残る。それにしてもアショカ王という人物は各地に石柱を残していった人物のようである。もっとも有名なのはサルナートにある石柱なのだが、それはぽっきりと折れてしまっている。こちらは健在。

この本殿の中には黄金色の仏像があり、ここだけがひんやりとした空気に包まれている。事実そこだけはエアコンが効いているのである。しかし、昼から午後にかけてここを訪ねる観光客には苦行が待っているのである。本殿を中心とした寺院の敷地内では裸足にならなくてはならず、太陽に熱せられた石が容赦なく足の裏を焼き尽くしてくれるのだ。

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<菩提樹と金剛座>K7/DA21

ラカンとここを訪れた時が昼近くで、足裏が熱くてたまらないので説明も聞いていられなかった。なので、翌朝まだ涼しい時間に来てみた。この時間ならば足の裏は安全である。ちなみに、X線のあるゲートを通らなければ、靴やサンダルを履いて眺めることができる。しかし、金剛座のあるあたりや本殿には近づけない。

さて、これがブッダが瞑想した菩提樹である。もっとも、2500年以上前のことなので、その時の菩提樹ではなく接ぎ木を重ねたもの。その下に瞑想をしたという金剛座があるのだが、今はしっかりと固められてしまい、有名な高僧などが来た時くらいに解放されるのだとか。

その金剛座も昔は解放されていたのだが、ある時日本からやってきた松本さんという人物がここで瞑想し、自分はブッダの生まれ変わりだと発言し石持て追われるようにしてブッダガヤを去っていった。わかりますね。あの人のことです。

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<仏足跡あたり>K7/DA15

誰がこんなに綺麗に並べたのか。前日はこのようなものはなかった。仏足跡は悟りを開いたブッダがここを歩きながら今後のプランを練ったところである。その足跡らしきところに石を置いているのだが、一歩の間隔が広すぎる。

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<マニ車を回すチベット女性>K7/DA21

ここは履き物を履いてよいエリア。マハボディ寺院の本殿を見渡すことができ、マニ車が設けられている。それにしても、マニ車を回すところは、実に写真に撮りにくい。ほとんどの人はマニ車の方に顔を向けてしまうので、姿はうつっていても、顔は明確でない写真になってしまう。

マニ車は内部にチベット仏教の経文が書かれたものが入っていて、これを回すことでお経を唱えたことと同じ効果があるという。そのお経は「オム・マニ・ペメ・フム」で始まるのである。

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<ライトアップされたマハボディ寺院>K7/FA35

マハボディ寺院はなんと夜でもやっている。このようにしてライトアップもされるのだ。

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2011年9月 1日 (木)

トトロの木と青空教室

ブッダの洞窟のあとはスジャータのセーナ村へ。途中アウトカーストの村を通っていく。確かに貧しそうに見えたが、チベットキャンプの方が遙かに物がなさそうである。もちろんこの村は農業しか仕事がなく、雨季なのに雨が降らず、金のない者は田んぼに水を引けないそうである。金があれば、ポンプで井戸水をくみ上げることができるので、農業には差し支えないらしい。

そんな話をしているうちに、セーナ村へ。まずは、日本人観光客の間で「トトロの木」と呼ばれている巨木の元へ。それにしても安易なネーミングである。なんと、「地球の歩き方」にもこの名称で載っているのである。

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<巨木のガジュマル>K7/DA15

またこの木も伝説があり、前正覚山から降りてきたゴータマ・シッダールタがセーナ村に行く途中ここで瞑想したというのである。ホンマカイナ。

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<ナイランジャラー川と前正覚山>K7/DA15

近くには、ナイランジャラー川が流れ、先ほどまでいたブッダの洞窟の山が見える。ラカンも井戸水から顔を洗っている。

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<セーナ村の祠>K7/DA15

そして、トトロの木からセーナ村に入ったシッダールタは、菩提樹の元で何も食べずに修行に入ったらしい。身体が衰弱していくがなすすべもなく、そこに現れたのがスジャータである。スジャータはこの修行者の噂を聞きつけ、ミルクで煮た粥を持って行った。これが、シッダールタの衰弱を止めることになり、ブッダの伝説のひとつとなっている。

現在はその菩提樹の元に祠のようなものが作られ、信仰の対象となっている。ここには登場しないものの、この周囲には修行者のような老人たちが数名いた。いずれも、「バクシーシ」なのであった。

また、この祠の傍らには、青空教室があった。このセーナ村周辺のアウトカーストの子供たちを集めた学校である。なんでも、海外の篤志家が金を出し、作ったものだというが、その後の運営費をなかなか捻出できず、観光客などの寄付に頼っているらしい。

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<青空学校の児童>K7/DA15

どうやら英語の授業らしい。それにしても、屈託のない子供たちである。

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<児童たち>K7/DA15

なるほど。まあ頑張ってくれたまえ。何々、寄付も受け付けますってか。じゃあ、100ルピーほど置いていきましょうか。少ない額だけど…。と、お金を渡そうとすると、ラカンが「これだけの子供たちがいるのです。ドルとかありませんか」と口を挟むので、「ない」(本当は持っていた)と答えると、「それならいいです」となった。100ルピーでも、いいと思うんだけどなあ。

さらに観光は続くのである。

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