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2011年10月30日 (日)

ローカルバスでポカラへ

いよいよスノウリを去る日がやってきた。荷物をパッキングし、宿の食堂で食事をしていたら、バスのドライバーがやってきた。

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<ポカラ行きローカルバス>K7/FA35

乗るのはこんなバス。荷物をどうするんだときくと、車内でよいという。これはラッキー。席は自由席なので、ドライバーの後ろ2座席を独占。

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<運転席>K7/FA35

乗り込む時に、助手が車内に持ち込む荷物を見て、何か一言ありそうだったが、ドライバーがそれを押しとどめる。もちろん、他の乗客の荷物は屋根の上なのだが、これにはわけがあった。他に数名、大きめのバッグを車内に持ち込む客もいた。

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<座席>K7/FA35

普通インドのバスというと、なぜか運転席と客席の間に仕切りがあるタイプが多いと思っていたが、このバスは仕切りがない。座席は白い布が掛けてあるが、まあオンボロであることは間違いない。

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<運転席横のスペース>K7/FA35

また、仕切りがないためか、運転席の横はベンチシートが作られていた。ともかくバスは定員の半分くらいの乗客を乗せ、スノウリを出発。しばらくすると、バイラワ。この直前に軍の検問がある。だが、徹底的に調べているわけではなく、ここを通過するとバイラワのバスターミナルに到着。ここで数名が乗る。

スノウリを出発。途中の路上に荷物を置いてバスを待つ人たちがいる。そのたびにバスはスピードを緩め、助手がドアから身を乗り出して怒鳴るようにして行き先を聞いている。そんな感じで丹念に乗客を拾い、とうとう自分の席にもチベット人のじいさんがやってくる。脇のバッグを足下に置き直し、じいさんを乗せる。かなり窮屈になった。

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<最初の休憩場所>K7/FA35

道は悪くなかった。ところどころ、舗装は途切れているものの、インドと違い圧倒的に交通量が少ないので、比較的速く走ることができる。1時間ほどで最初の休憩場所に到着する。この調子で行くと、いつ食事ができるかわからないため、沢木耕太郎にならい、リンゴをひとつ買っておいた。30ネパールルピー。

ここから乗客が増えてくる。すべての席はびっしりと埋まり、運転席横のベンチシートは客が詰め合うようにして頑張っている。実は自分のキープした席にはドライバーのシートの後ろに物を置けるようなスペースがあったのだが、ここも客が座りだした。こうなると、まったく身動きができない。

それと反比例するように車窓は素晴らしいものとなっていく。山道に入ったのである。まだ、ヒマラヤというわけではないが、尾根を登り、谷を降り、近くには清流が流れるような心洗われるような景色である。

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<休憩地の売店>K7/FA35

最初の休憩ポイントから2時間くらいたち、山の中にある集落で再び休憩となる。ここでは用を足すとともに、ビスケットを購入する。もちろん、車内で食べるためである。

これで身体を伸ばすことができたが、超満員の車内が変わるわけではない。おまけに、隣のチベットじいさんがたびたび居眠りをして、こちらに全体重を掛けてくるのである。最初のうちは老人に敬意を表して、身体をずらすようにしていたが、それも限度がある。腕を使って元に位置に戻すようになってしまった。

再び山道。これを何遍繰り返したことだろうか。途中ちょっと大きい町があり、ここでチベットじいさんは降りた。何となくここがポカラのダムサイドのような感じもしたが、そうではなかった。ここからは山を下りていく感じになる。「ポカラ」の道路標識が現れ、見下ろすと遥か下にポカラの町が見えた。

さて、バスターミナルに到着したらどうしようと思っていたら、ここで降りるようにとの助手の言葉。なんだかわからないが、タクシースタンドのようである。なるほど、唯一の外国人旅行者なので、レイクサイドにしろダムサイドにしろ、ここで降ろしたわけだ。荷物を屋根に積んでしまうと、その時間に無駄が出る。バスにはインド人のグループが乗っていた。比較的裕福そうでなぜか英語で話しまくっている。彼らといえども、そんなツーリスティックな場所には泊まらないらしい。

客待ちしていたタクシーには、メーターがなかったが、150ネパールルピーでレイクサイドまで行ってくれた。ここまで来ればもう安心。

さて、1週間間隔が空いてしまいましたが、特に意味はありません。また頑張ります。

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2011年10月23日 (日)

やることのないスノウリだが…

もう言い尽くしてしまったが、何もないスノウリである。

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<スノウリ国境>K7/DA21

寝苦しい夜が明ける。スノウリの朝は意外に早く、もうトラックやバスが動き出していた。宿の前はインドへと続く一本道。人は歩いて国境を越えるが、クルマは入念なチェックがあるようで、この道が渋滞している。

上の写真はネパール側からインド側を撮影したもの。この程度の写真撮影はお咎めなし。両側のイミグレーションで確かめたところ、このゾーン内も撮影できるらしいが、真っ暗なのでやめている。この中間には、国境を示すらしい一本のラインが引かれていたが、これくらいは撮ってもよかったかな。

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<リキシャワーラー>K7/DA21

そんな早朝のスノウリを歩いていると、荷物も持たないのに、カトマンズやポカラ行きのバスから声がかかる。そんな中のひとりがこの、サイクルリキシャのドライバーである。「いや、いいんだ」と断って立ち去ろうとしたが、典型的なネパール顔なので、ポートレイトを撮らせてもらうことにした。いい顔じゃありませんか。カメラのモニターを見せると喜んでいた。

このあと、前日に一緒にヴァラナシーから到着した連中をバスまで見送る。紛れもなくローカルバスであった。日本人の大学生と韓国人は朝食も食べていない。果たしてしっかり眠ることができたのか。この二人は、スノウリにATMがないため、両替もせずにポカラまでこのまま向かうそうである。一方、イタリア・スペイン人たちは元気はつらつだが。自分はルンビニ観光を済ませ、またスノウリに戻り、夕方の撮影である。他にやることがない。

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<集結したバス>K7/DA15

朝、スノウリ発の各地行きバスが集まっていたが、夕方も同じである。ナイトバスもあるが、もしかしたら、翌朝始発のバスがもう集まっているのかもしれない。

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<バスのペイント>K7/DA15

おそらくインドでも同じなのだろうが、バスをよく見ると様々なペイントがある。もちろん飾りもある。だが、眺めていても、まったく意味がわからない。

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<タンクローリー>K7/DA15

ネパールには資源がないので、石油もすべて輸入。だが、内陸国のため、このようにしてインドから石油を運ぶのだろう。パイプラインもないだろうしなあ。こんなことを考えたのも、3月の震災でエネルギー問題が切実になったからだ。

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<夕刻の国境>K7/DA15

再び国境。あのタンクローリーもここまでたどり着いている。ここは、ネパール人とインド人にはチェックがないので、かなりの人の行き来がある。さて、また長い夜が始まる。その前に何か食べに行こうか。

スノウリ、これで終了します。

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2011年10月19日 (水)

ブッダ生誕の地

今回このルートを選んだのも、ヴァラナシーから苦労してスノウリに乗り込んだのも、天国とはほど遠いあの宿に2泊したのも、すべてはこのためにあったのだ。そう、ルンビニに来るために。

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<平和の火>K7/DA21

聖園地区にたどり着く。ここからはクルマを降りて徒歩。平和の火が燃えさかっている。この火は半永久的に燃え続けるのだろう。チケット売り場はこの先。

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<湿地帯>K7/DA21

中心部に行くにはこんな風景の中を歩く。心和む風景。地元の子供たちはブッダのことなどどうでもいいのかもしれない。また、この池や周りの湿原は綺麗に見えてもおそらく、毒蛇などが生息していると思う。決して足を踏み入れないこと。

しばらく行くとプレハブの建物があり、ここがチケット売り場だった。入場料200ネパールルピー。ガイドブックの値段よりもかなり上乗せされていたが、正規料金である。また、ガイドブックにはカメラとビデオを撮影する場合、その料金も書かれていたが、これは必要なかった。

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<マーヤー聖堂とブスカリニ池>K7/DA15

マーヤー聖堂とは紀元前3世紀から7世紀頃までここに築かれていた建物を基礎として、2003年に完成した新しいものである。内部は遺稿のようになっていて、ブッダがこの地で誕生したということを描いた石碑もある。残念ながら内部の撮影はできない。屋上のようなものも見えるが、ここにも登ることはできない。これはいわば、貴重な遺跡を建物で覆い隠したようなものである。

その手前の池は、ブッダが産湯を使ったとされる池。今は完全に整備されていて、ちょっとしたプールのような感じである。中には、亀がいて、観光客の子供たちが盛んにエサをあげていた。

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<菩提樹>K7/DA15

タルチョがはためく、菩提樹。根本の部分はちょっと一休みができるような感じに、作られている。だが、ここではろうそくを燃やすこともあるので、あまり綺麗ではない。ネパールの街中にあるような木だったら、休憩所としても使われている。

ちょうど僧侶がいたのだが、見た目はインド人のような感じだった。だが、オレンジ色の袈裟といい、東南アジアの上座部仏教の僧侶だろうとは思う。ルンビニの聖園はブッダガヤと違い、あまり俗っぽくない。物売りはいないし、ガイドをするという輩もいない。巡礼と観光客のみの世界。

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<ブッダの後光の旗とタルチョ>K7/DA21

青、黄色、赤、白、ピンクの模様の旗は、ブッダが悟りを開いた時に身体から出た光の色だという。そして、絵柄と文字が書かれているのが、タルチョである。タルチョはチベット的なものだと思う。チベット人が居住するエリアからは、こういうものがよく出てくる。

宗教的なものだけでなく、峠や橋にもこれが無数に掛けられている。

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<アショカ王の石柱>K7/DA21

マーヤー聖堂の前にすくっと立つのがアショカ王の石柱。インド各地に石柱を立てまくったアショカという国王。石柱の表面には、アショカ王がこの地を巡礼したことにより、この地の税金を1/8に減免した旨のことが書いてある。もちろん読めませんが。

どうです。世界遺産のルンビニ。正直いってあっけなかった感じはします。とはいえ、落ち着きがあって、ブッダガヤやヴァラナシーよりもくつろげる感じはしました。また、クルマをチャーターして正解でしたね。まあ、スノウリからバイラワまで出て、ローカルバスでルンビニに出ることは可能だったでしょうが、ここを歩くとなると広大なので、1日では回りきれなかったかもしれません。

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2011年10月16日 (日)

ルンビニ、各国の寺院

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<ドイツ寺>K7/DA15

ルンビニには各国の仏教寺院がある。妙法寺の次に連れて行かれたのは、この寺院だが、初めはチベットの寺院なのだなと思っていたら、ドイツが建てた寺院なのであった。

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<巨大マニ車>K7/DA15

こんなマニ車もあるし、本堂の中にはタンカのような壁画もあるので、そう思いこんでしまっていた。果たしてドイツに仏教徒がどのくらいいるかわからないが、どうやらチベット仏教の様式を忠実に再現したもののようである。

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<タイ寺院>K7/DA21

こちらはタイの寺院。でかい造りの割には観光客が中に入るスペースは少ない。敷地の入口近くにはタイ航空のステッカーが貼ってあり、予約ができるようなことが書いてあったが、果たして本当かどうか。

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<ミャンマー寺院>K7/DA15

これは寺院というより、寺院付属のパゴダ、またはパヤーなのだが。一目でミャンマーのものだということがわかる。ここは裸足になる必要があり、焼けた石の上を苦行のようにして歩くことになる。だが、訪れていたインド系の女性はサンダルのまま歩いていたな。それにしても、本堂はどこにあるのか。

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<ネパール尼僧院>K7/DA21

ミャンマー寺院の隣。あまりにも目立たないので見過ごすところだった。右側の建物は宿坊で旅行者を受け入れるらしい。妙法寺で泊まるよりは環境は良さそうだが、周りには売店くらいしかなく、やはりちゃんとしたゲストハウスやホテルのあるエリアで泊まった方がよさそう。妙法寺にしてもここにしても、夜出歩けませんよ。真っ暗だろうし。

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<中華寺>K7/DA21

なんだよ、中国かと思っていたものの、雰囲気はよかった。入っていくと、僧侶と話していた中国人の観光客から話しかけられた。中国人に間違えられたらしい。「我是日本人」と断って、それ以上お話ができない。

ここはトイレがあったので利用。この向かいには韓国寺院。ただし、造りかけ。

他にも、フランス寺院とかベトナム寺院とかあるらしいが、すべて回らなくても、十分堪能できました。次は、いよいよ、ブッダ生誕の地へ。

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2011年10月13日 (木)

遙かなヒマラヤ

ルンビニはブッダ誕生の地にして、世界の仏教国が建てた寺院の集まるところである。スノウリでクルマをチャーターし、ルンビニに向かう。やってきたのは、マルチ・スズキのアルトであった。スズキ自動車はインドに展開していて、現地での呼び名はマルチ・スズキである。

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<アルトをチャーター>K7/DA21

一応、アルトという軽乗用車のカテゴリーに入るクルマだが、エンジンは800ccまたは1000ccに置き換えられているはず。とにかく、インド・ネパールではアンバサダーじゃなかったら、スズキの車が多いのだ。ネパールでは特に多い。

で、このアルトで向かったルンビニで最初に訪れたのが、日本山妙法寺である。

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<日本山妙法寺>K7/DA21

まずここに来たというのは、日本人に気を遣ったということではなく、ルンビニに数ある寺のひとつであるに過ぎない。周りやすさの点でここが適していたんだろう。

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<世界平和仏舎利塔>K7/DA21

さすがにルンビニという白亜の仏塔。日本山妙法寺はラージギルとポカラにもあるが、こんな感じのストゥーパを建てている。ラージギルではリフトか徒歩で山に登らないと見ることはできない。ポカラのストゥーパは見上げることが可能。でも、平地にあって、行けば誰でも近づけるのはルンビニだけ。

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<世界平和を祈る>K7/FA35

ここに近づいていくと、掃除をしていたネパール人の寺男が日本語で挨拶してくれました。このストゥーパには裸足になって登ります。白いストゥーパに、金色の仏像。バックはこれでもかというような青空。

このたびに出て、初めての真っ青な空。いいですね。

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<かすかに見えるヒマラヤ>K7/FA35

森の向こうに山が見える。これはヒマラヤなのだと信じたい。スノウリとかルンビニのあたりはタライ平原と呼ばれ、山の陰もありません。あと、20~30km北に向かっていくと、山にさしかかりますが、まだまだヒマラヤの入口ともいえない。真っ平らなこのあたりですが、雨季にもかかわらず天気はよかった。

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<妙法寺本堂へ>K7/DA21

ストゥーパに比べると本堂はこぢんまりした感じ。このそばでは僧侶の見習いのような作務衣を着た日本人と地元の少年がボールを使って遊んでいました。内部では盛んに太鼓が叩かれています。

覗いてみましたが、見学はできるものの、カメラを構えると太鼓を叩いていた僧侶から日本語で制されてしまいました。確かに、修行中みたいでその通りでございます。

一応ここは旅行者が泊まることができるようですが、以前のコメントで書いたように、かなり厳しい修行へのおつきあいがあるようです。

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2011年10月10日 (月)

スノウリの退屈

かすてら音楽夜話Vol.26

スノウリの宿話です。ポールトラベルを利用して2泊した宿。名前は、パラダイスというのだが、天国にはほど遠かった。

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<201号室>GR DIGITAL

宿には20:00過ぎに到着。はじめ、日本の大学生、韓国人のバックパッカーと同じ3人部屋に入れられたが、翌日も泊まることもあり追加料金を払いひとり部屋を確保した。天井にはファン。これが唯一の文明の利器か。ドアを閉め切ってしまうとまったく風の通り抜ける余地がなく、暑くてたまらない。

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<トイレとシャワー>GR DIGITAL

トイレとシャワーは共用ではなく一応ついていた。だが、床の汚いこと。掃除をしたとは思えないものである。一応温度を変えるコックはあったが、全くの見せかけでもちろん水しか出ない。まあ、出るだけでもありがたいか。

部屋の壁には幾多の旅行者が残していった魂の叫びのような落書きがそのまま残る。この宿は落書きを消すこともなく、部屋の掃除は数日に1回行うかどうかというところだろうか。ベッドの敷物は取り替えた形跡がない。

あまりにも汚いシャワー室なのだが、暑いし爽快になりたいので、サンダルを履いたまま水シャワーを浴びた。この日到着したヴァラナシーからの旅行者は翌日も同じ服を着ていたので、ただ眠っただけでシャワーも浴びていないようだった。

翌日観光に出た。朝はスノウリの町を撮影して歩いた。ルンビニから戻ってもまだ陽が高く、もうやることをやってしまったので昼寝くらいしかやることがない。しかし、ここはスノウリ。停電が頻発し、ファンが回らない。本当に困ったものである。

 

この時の心境は「翳りゆく部屋」の歌詞みたいなものだったろうか。この曲はユーミンの荒井由実時代のラストシングルである。陽は沈まないし、暑いし、やることはないし。まったく電気はいつ来るのだろうか。

ユーミンもいいのですが、個人的にはここ数年はまりつつある、エレファントカシマシのカバーでお楽しみ下さい。いいんですよね、宮本浩次。

そんな感じでやることもなく、部屋で何もせず時が過ぎゆくのを待っている。そのうち、夕陽が出た。

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<スノウリの夕陽>K7/FA77

これで気が紛れる。カメラを取り出し、部屋の窓と廊下から撮影する。部屋は割と高いところにあり、路上ではこの夕陽は見ることができない。ここに泊まって、唯一得したのがこの夕陽を見ることができたことか。

さあ、夕方のスノウリを撮影し、この宿ではないところで食事をしよう。この宿の食事のひどさはわかっているし、これ以上ここに金を落とすこともなかろう。

この夜、新たにヴァラナシーからやってくる旅行者を待っていたが、誰も来なかった。もしかしたら別の宿に行ったのかと思ったが、翌日のバスでは外国人旅行者は自分だけだったので、やはりポールトラベルは適当に旅行者が集まるまではミニバンさえ出さないのだなと思った。

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2011年10月 9日 (日)

インドからネパールへ

インドからネパールへはポールトラベルという旅行社がやっているツーリストバスを利用することにした。ヴァラナシーからスノウリを経由しカトマンズかポカラまでというルートである。パンフレットによると集合時の朝食とスノウリ1泊の料金は含まれて800ルピーで行けることになっている。

パンフレットによればルンビニまでも運行するらしいが、ルンビニに泊まってしまうとあとのルートが面倒なことになるため、スノウリかその先のバイラワで泊まり、次のバスを見つけようと考えていた。スノウリまでなら500ルピーである。チケットを買うことになり、ポールトラベルの男がいうことには、スノウリからルンビニ往復、スノウリ2泊でポカラまでというチケットを勧められた。これで1200ルピー。

あとで値段を計算するとどうも腑に落ちない点があったが、旅行社のそばにはツーリストバスらしいものが数台並んでいたので、まあスムーズに行けるものだと思っていた。ちなみに、バスはガイドブックによれば毎日運行とあったが、この時期は客が少ないためか、指定の曜日には出ず、翌日にすることになった。

そして、当日。ポールトラベルに集合。チケットを確認去され、朝食券をもらう。次第に旅行者が集まってくる。オートリキシャが2台。現れたのは韓国人の若いパッカー…ではなくて、話しかけると日本の大学生だった。もう1台からはニュージーランド人の男女。

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<これが朝食>GR DIGITAL

指定の食堂のそばで待つ。旅行者はぽつぽつと集まってきて、今度は本当の韓国人のバックパッカー、イタリア人の男1人女2人というグループ、最後にかなり大柄なスペイン人3人の男というのが、この日乗るメンバーとなった。

レストランからは具を挟んだトーストとチャイが配られる。これだけ。出発時間をかなりすぎてようやくバスが動き出す。しかしそれは大型のものではなく、タータ製のミニバンであった。荷物は屋根に積む。一番の懸念はこのことだった。今回ザックカバーを持参するのを忘れ、荷物が濡れてしまうのが一番いやだった。

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<車内>GR DIGITAL

最後列のシートに座る。あとで思い知ったが、一番よいのは運転席の後ろあたり。とにかく狭い。だが、反対側にはスペイン人の中でも最も大柄な男が来ただけなので、荷物を置く余裕があった。

最前列に運転手と案内役なのか正体不明のインド人女性が座る。この人は出発間際にやってきて、何か注意をアナウンスしたあとはただ乗っているだけの人だった。荷物もなく、食事にも同席しない。

ミニバンはようやく出発したが、まずはガソリンを入れ、そのあとタイヤの空気を入れる。ちなみに、タイヤの空気はガソリンスタンドではなく別のところで行った。そんな具合なので1時間たってもまだヴァラナシー郊外らしかった。都市や町の境目にはちょっとした市場のようなものがあり、ここにクルマやバス、リキシャや荷車が混在し、かなりの渋滞となる。これを何回繰り返しただろうか。昼を過ぎてしばらくしやっと初めての休憩となる。

ここではヨーロッパ組は旺盛な食欲を見せていたが、日本人の大学生はかなり具合が悪いらしく、飲み物を取ったのみ。トイレにも何回も行きたがっていたようだ。韓国人はターリーを食べていたが、具合はよくないようであった。ま、そういう自分も飲み物だけをオーダーしたのみ。すっかり回復していたのだが、ぶり返しが怖かったので食べないことにしたのだ。

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<2度目の休憩>K7/FA35

午後の行程もあまり芳しくなかった。地図上で見ると、ヴァラナシーとスノウリのほぼ中間にある、ゴーラクプールに到着したのが、17:00近く。300kmくらいを8時間かかっている。そろそろ休憩が欲しいところだが、18:00過ぎにようやく2度目のストップ。ここでトイレを済まし、飲み物とビスケットを買う。

ここからは交通量が減り、ややスピードアップする。車窓の左側には大きな夕陽が見える。普通の状態だったら、カメラを構えるところだが、身体が動かない。精神的に疲れ切っている。

ミニバンは20:00ちょっと前にスノウリの国境に到着。ミニバンはここまで。あとは歩いて国境を越えるのだ。インド側の国境には今夜泊まる宿の人間が案内を兼ねてやってきていた。この国境はインド人とネパール人には行き来が自由なのである。

このあと宿へ。まるで南京虫が出そうなところで、夜だというのに、暑くてかなわない宿である。ここで、アジア組に入れられ、3人で泊まることになったが、自分は翌日もあるので、ひとり部屋に変更させてもらう。100ネパールルピーの追加。

ヨーロッパ組は元気にもりもりと食事を取っている。日本人の大学生と韓国人は元気がなく、今日は何も食べずに寝るだけらしい。

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<久しぶりのビール>GR DIGITAL

かなり腹が減っている。トーストとビスケットだけでは当たり前である。ビールとチベットの焼きそば、チョウメンをオーダー。ビールはツボルグのストロングというやつで、かなり強く感じた。だが、日本を出て飛行機の中で飲む以来のアルコールなので、これは仕方ないのかもしれない。

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<チョウメン>GR DIGITAL

チョウメンは味がしなかった。宿の係が持ってきた赤と緑のペーストをつけるとまあまあになる。だが、空腹を満たすだけ。

変更した部屋だが、天井にファンがあるのみ。トイレにはシャワーもついていたが、お湯は出ない。んー、この部屋で2泊か。

と、いうわけで、インド・ネパールの陸路国境越えに成功しました。個人的にはこれでよかったのですが、インドからルンビニを目指す人以外にはお勧めできません。ポールトラベルは、チケット確認の時にインドルピーはネパールでは使えないようなことをいって、両替させようとします。もちろん、ネパールでも使えます。ただ、建前上はインドルピーの国外持ち出しは不可となっています。

そして、スノウリの国境ですが、インド側に両替所があり、かなり悪いレートで両替することになります。ここではあまり両替しない方がいいでしょう。ネパール側も両替は至る所でやっていますが、やはりレートはよくないです。

宿でチケットのチェックが行われましたが、ルンビニと聞くとクルマ手配を持ちかけられました。1300ネパールルピーでしたが、割高です。面倒なのでOKしましたが、ニュージーランド人のカップルのようにチケットはスノウリまで、ここでは泊まらずに自分で宿を探すなどの方法の方が、より快適な旅ができそうです。

国境のイミグレーションですが、ここは緩い。書類に不備があっても、大丈夫みたいです。ネパールビザ用の写真とUSドルがあれば、楽々です。

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2011年10月 5日 (水)

ヴァラナシーで日本食

体調最悪の時には絶食という荒療治をしていたが、修行をしにインドに行ったわけではないし、食欲が落ちていても何か腹に入れなくてはならない。そんなときに何を食べていたか、今回はそれがテーマです。

ヴァラナシー到着初日。泊まったパーラヴィ・インターナショナルという宿はガートから離れていて、ガイドブックに載っているようなレストランや食堂は歩いていける範囲にはありません。歩いて見つけるにしても体力が落ちているし地理不案内なので、ホテルレストランで食べることにしました。また、戻って体力の回復のため休養などしていて出歩くのがおっくうになったこともあり、結局3回利用しました。ここではマサラ味ではないインド料理か中華料理(でもかなりインド化した代物)でした。なので割愛します。

暇なものでガイドブックを読んでいると、どうしても日本食レストランに目がいってしまいます。紹介されているレストランは7軒あり、うち4軒が日本食ができるようです。ならば行ってみようとサイクルリキシャを雇い、そのうちの1軒、イーバ・カフェを目指します。

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<マンゴーシェイクとミニサラダ>GR DIGITAL

ここは、日本人男性が経営する日本食レストランで、この店主は「インドで”暮らす、働く、結婚する”」という著書があります。ヴァラナシーとは思えない洒落た店内に入るといきなり日本語で声がかかりました。と、いっても店員からではなく、入口に近い席にいた日本人二人組からでした。持参の日本酒を飲まないかとのことでしたが、体調を考えお断り。彼らは上記の著書を読み、店主に会いたくてここに来たとのことですが、あいにくと店主は不在。声をかけてきた関西訛りのおじさんは店員をひとりずつ座らせ、スケッチしていました。

その他にも客はいますが、皆押し黙ったままマンガや店のノートを読んでいました。これは日本人客。メニューを見ると日本料理の他韓国風のものもできるためか、韓国人パックパッカーが数名いました。いずれも若く、大学生くらい。

頼んだものは、マンゴーシェイクとミニサラダ、ラーメン。サラダはトマトとキャベツ、ピーマンくらいですが、ドレッシングが美味いです。繊維質絶対不足の身体がほしがっていたようで、すべて平らげました。ミニサラダといっても、大きな皿にひとつなので、普段食べるサラダより数倍摂取したような感じです。

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<ラーメン>GR DIGITAL

日本のどこにでもあるような醤油味のラーメン。どんぶりの左上にあるのは胡椒の入った容器。まったくどこにでもある味なのですが、安心して食べることができ満足です。インドでは華僑をほとんど見かけず、メンマはどこから仕入れているんだろうと考えさせられます。また、チャーシューもやや癖のある味ですが、豚肉です。インドの農村では豚をよく見かけますが、豚肉を使った料理をほとんど見かけません。これまたどうやって手に入れているのか不思議。メンマはともかくチャーシューは自家製なのかも。

総額363ルピーでございました。ちょっと高いですが、体力回復の足しになればいいかと。

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<冷やし中華>GR DIGITAL

別の日、ガート観光後リキシャワーラーにまたしても連れて行ってもらいました。今度は冷やし中華です。ちゃんと辛子つき。具も、錦糸卵、紅ショウガキュウリと日本風。やはり安心して食べられるものはいいなあ。

でもやはり高いんですよね。アイスコーヒーと合わせて340ルピーほど。まあ、食材がなかなか手に入らないものだろうから、仕方ないですかねえ。店内はエアコンが効いているし、静かだし、日本の雑誌や新聞もあるから、これはこれでいいかと。日本で食べるラーメンや冷やし中華より1~2割安いくらいでしょうか。インドにしては高いですけど。

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<チャイとベジオムライス>GR DIGITAL

さらに安い食事を求めて行ってみたかったのが、ベンガリー・トラにあるSpicy Bites。ここは、日本食オンリーではなくて、ヨーロッパ料理、イスラエル料理などをやっているようです。

店はすぐにわかりましたが、店内改装中みたいな感じで店員らしき男性にオーダーを通したものの、理解されたのかちょっと不安。でも、しばらくすると出てきました。チャイはともかく、紛れもなく日本で食べるオムライスの味です。この時は体調は回復していましたが、毎食マサラ味では飽きてしまうので、立ち寄りました。でも、日本食といっても、温かいご飯に、みそ汁、おひたしなどではなくて、こうして手軽に食べることのできる料理がいいんですよね。そういえば、前、ラオスのバンビエンでもオムライス食べたな。

これで、75ルピー。ぐっと安くなりました。ここはさらに旅行者が多くて、ヨーロッパ系から東洋系まで様々。

この他、ヴァラナシーにはしゃん亭、メグ・カフェなど日本の食堂で食べることのできる料理を出す店があります。メグ・カフェは狭いので並ぶ覚悟で。わたしゃ、並んだのですが、閉店間際で空きそうもなかったのであきらめました。

それにしても、韓国の大学生、ほとんどの店で観察可能。いずれも4人組以上で行動し、東洋人にしてはかなりの退廃した雰囲気を漂わせています。ま、メグ・カフェにはマレーシア人(中国系とマレー系)の女の子もいたくらいなので、いずれも強烈なインドの味からしばし逃れたいみたいですね。

以前にも書きましたが、ここ数年海外での現地食にそれほどこだわらなくなりました。体調崩した時、元気を回復したい時、わたしゃ日本食があればそれを食べに行きます。ま、バンコクではあまりにも日本食が多すぎて元気すぎる時でも食べに行ってしまうほどですが。

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2011年10月 2日 (日)

ダシャーシュワメードガート

今年のヴァラナシーにおけるガンガーの水量はとてつもないものであった。

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<ダシャーシュワメードガート>K7/DA21

モホニーを出たあと、ヴァラナシーのメインガート、ダシャーシュワメードガートに向かう。ヴァラナシーの中心にして、巡礼者が最も訪れるガート。観光客もほとんどの場合ここからボートに乗り、ガート見物をする。

ここしばらくインドではテロ騒ぎがあったためだろうか、ガートの入口にはX線のゲートが設けられていた。だが、驚いたのはあきれるほどの水の量だった。ガートの石段を10段も降りるともう水際なのである。上の写真で建物が水没しているのがわかるだろう。

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<バラモン>K7/DA21

ガートの上段まで水が来ているため、乾季のガートとはだいぶ様相が違う。かなり狭い上に、巡礼者が押し寄せてくるため、まるでラッシュアワーの駅のような混みようである。

そんな中ふらふらと写真を撮っていると、バラモンに呼び止められた。有無をいわせず「私のいうことを繰り返すように」とのことで、呪文のような言葉に続き、親の名前から今は亡きじいさんの名前までいわされ、やおら額にティカをつけられてしまった。ティカというのはよくインド人が額につけているカラフルな模様のようなもので、普通はガンガーで沐浴を果たしたあとにつけてもらうものである。

まったく、こいつは観光客を狙って強引な商売をしやがって。またここには、「劇的紀行深夜特急」にも出てきたような、握手をしてマッサージに持ち込もうとする輩もいた。これは予備知識があったので防げたが。

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<聖水を手に>K7/DA21

傍らには沐浴を済ませた巡礼たちがいる。手にはガンガーから汲み上げた水を入れた壺が。この壺はガートの近くでたくさん売っている。素焼きのものからプラスチック製までとりどり。

沐浴を済ませた人たちはその後、着替えるのである。こういう時にインドの伝統的な服は便利だ。上から羽織って、中のものを落とす。見た限りでははしたない着替え方をするインド人はいなかった。

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<剃髪>K7/DA21

また、沐浴を済ますと髪を剃ってもらう習慣もあるようだ。あんたもどうだといわれたが、遠慮しておいた。

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2011年10月 1日 (土)

狭い路地の奥へ

ヴァラナシーの旧市街、ガートに近いところは、かなり狭い路地が続く。もちろん、オートリキシャ以上のものは入り込めず、たまに自転車やバイクが行き交うくらいである。ここを通り抜けるのは、人と牛のみ。

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<路地の牛>K7/DA21

ベンガリー・トラというところに、ちょっと行ってみたいレストランがあった。地図を見るのに失敗し、初日はまったく違う大通りを歩いていた。そして、再トライ。大通りではなく狭いとおりなのだと納得し、さまよったがまたしても違っていた。

ほとんど陽の差し込まない路地は行き交う人も少なく、だんだん不安になっていく。こんなところにも牛がかなりいる。大人は牛の尻を叩いてうまく交わしているが、子供などは足がすくむものもいるようだ。例えヴァラナシー育ちだとしても。

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<子供>K7/DA21

そんな路地に小さな店がたまにある。チャイ屋だったり、バーンの店であったりと様々。子供たちもこのような狭い路地で遊んでいる。

ヴァラナシーの路地はモロッコのフェズほどはラビリンス状態ではないが、ガイドブックの地図が完璧ではないので、ちょっと間違うと大変である。もうちょっと早く体調がよくなれば、ここを思う存分歩けたのに。

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<座り込む女性>K7/DA15

歩き疲れてコーヒーを飲む。店を出たところがこんな感じ。

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<井戸>K7/DA15

ようやくベンガリー・トラへの道を見つけた。狭くはあるが、シルク屋、ネットカフェ、CDショップ、八百屋などがあり、旅行者も地元民も行き交う賑やかなところだった。

ここからの戻りで、華やかなサリーを着てはいたが、道ばたのゴミをあさる老婆を見かけた。やはりまだまだこういう人はいるんだなあ。コルカタの路上生活者も、ブッダガヤの貧しい部落なども見かけたものの、彼女には頼るものが自分ひとりみたいな雰囲気を漂わせていた。

ヴァラナシーかなり長くなりましたが、あともう少し続きます。

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