かすてら音楽夜話Vol.63
この間ジャニーズ事務所の話を書いたところですが、吉本興業でまたもやきな臭い動きが出てきました。
なんちゅうか、芸能界はやっぱりというか古い体質を引きずっていますね。今や芸能界もたくさんの芸能プロダクションが出てきました。その中で音楽業界の老舗といえば「渡辺プロダクション」です。
創業者は渡辺晋。もともとはジャズミュージシャンで、戦後のミュージシャンたちの収入面の不遇さに対抗するために自らプロダクションを経営し、それまで興行師というあいまいな存在な人たちが仕切っていた現場を自分たちで執り行うことで、会社が大きくなってきて、やがては芸能界のドンといわれるまでになってきたのです。
当初から所属していたのはハナ肇とクレージーキャッツ、ドリフターズなどですが、クレージーキャッツをメインに据えた歌謡バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」やクレージー映画のゲスト出演者に当時所属の歌手やタレントを起用していました。
こうなると泣く子も黙る渡辺プロですね。1970年代初期に女性アイドルとして人気を二分していたと思われる小柳ルミ子も天地真理も実はナベプロでしたし、GSではザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズもナベプロです。歌謡界では内山田洋とクールファイブ、森進一、およそ考えられるほとんどのタレントがナベプロでした。
ナベプロはタレントに月給制を取り入れたといわれています。当初は目的にかなっていたんでしょうが、人気が出てきても大して給料が上がらず、より良い収入を求めてナベプロから独立しようとしたタレントはしばし、「干された」状態になったそうです。つまり、「(独立した)Aというタレントをお宅のテレビ番組に出演させるならうちの(ナベプロ所属の)タレントは出さない」という一種の脅しです。怖いですねぇ。
そんなナベプロですが社長の渡辺晋が亡くなり、夫人の渡辺美佐子が後を継ぎ、だいぶ丸くなってきたようですが、巨大プロダクションであることには変わりありません。
そんなナベプロで弱かった部門があります。それは、ロック・ポップス系のミュージシャンたちです。当時は「ニューミュージック」と呼ばれました。こちらに強かったのがホリプロで、スパイダースからモップス、井上陽水、RCサクセション、浜田省吾などが所属していました。
ナベプロもそちらを強化しようと、吉川晃司などを発掘しています。そうしたプロジェクトの一員となったのが別府出身の生粋のシンガー、山下久美子です。
こちら、山下久美子のデビュー曲、「バスルームから愛をこめて」です。
デビューは1980年。21歳でした。その年の大晦日、ワタクシはバイト帰りにこの曲が含まれるデビューアルバム『バスルームから愛をこめて』を購入しています。アルバムジャケットは山下久美子自身が写っているのですが、なんとも田舎臭い風貌でございました。ま、髪は今からは考えられませんがカーリーヘアというちりちりのパーマ頭で、それがかえって歳を食って見えました。
でも、歌は上手かったですね。
この曲はよくできていますよね。作詞・康珍化、作曲・亀井登志夫。YouTubeの映像はライヴなので直接関係ありませんがアレンジは松任谷正隆です。つまりは女性心理を伝える曲なのに男性が作った曲です。それもすごい。アルバムの中でも「一枚だけのビリー・ジョエル」とか何か引っかかる、当時の言葉でいえば「胸がキュンとなる」、胸キュンです。
この路線で行けばまずまずの歌の上手いシンガーのまま終わったかもしれません。その後、彼女最大のヒット曲「赤道小町 ドキッ」がリリースされます。そして、当時の学園祭に多数呼ばれ、「学園祭の女王」「総立ちの久美子」という呼ばれ方もしました。
この曲のクレジットは作詞・松本隆、作曲・細野晴臣です。このころから職業作家ではなくプロミュージシャンの作る曲へシフトしていったようです。そして、布袋寅泰との結婚。その後は布袋が全面バックアップをし、ロック系の曲が多くなっていきます。山下久美子はたぶん楽器を人前で演奏することはないし、布袋のバックアップがあったにせよせいぜい自作曲は作詞がメインだったと思います。
しかし、布袋が今井美樹に走り、ふたりは離婚します。
YouTubeの映像は2010年のものだとか。デビュー後30年のデビュー曲ですが、味が出てきたと思いませんか。わたしゃ、「赤道小町」なんかよりもこっちのほうがいいと思うけどな。それにしても、久美子さん若いですわ。
2019/07/25夜中のアップでしたので、やや文章がひどかったところを修正しました。
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