かすてら音楽夜話Vol.90
<デビュー直後>
このカテゴリーもめでたく90回目を迎えました。本日は満を持しましてユーミンこと松任谷由実です。
デビューは1971年、加橋かつみ(元タイガース)のシングル「愛は突然に…」の作曲としてでした。この時、わずか17歳。
1954年1月生まれ。八王子の老舗呉服店、荒井呉服店の二女として生を受けます。生まれながらのお嬢さんですね。この荒井呉服店は八王子駅の西側、甲州街道沿いに今でもあります。
実家を継がなくてもいい立場ですので、自由奔放に生きることができたでしょう。立教女学院から地元の多摩美術大学に進学したのは、染色を学ぶためだったようで、ある程度家業のことも視野に入れていたのでしょうか。立教女学院時代には学祭でバンド活動もやったとテレビで語っていました。
17歳でデビューというコネを作ったのは、わずか中学生にして当時文化人の集うイタリアンレストラン、「キャンティ」に出入りしていたからともいわれます。1972年にかまやつひろしのプロデュースによって、「返事はいらない」(作詞作曲:荒井由実、基本的に自作はすべて本人です。)でレコードデビューし、翌1973年アルバム『ひこうき雲』をリリースします。
当時は全く売れませんでしたが、1975年のシングル、「あの日に帰りたい」がオリコンシングル週間チャート1位を獲得します。
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映像は1996年のものです。印象的なコーラスは山本潤子(元赤い鳥、元ハイファイセット)ですね。この曲の直前、バンバンに提供した「いちご白書をもう一度」がやはりオリコンシングル週間チャート1位を獲得しています。
そして、1976年にアレンジャー、松任谷正隆氏と結婚します。それからわずかなブランクを作りますが、1977年のシングル「潮風にちぎれて」と1978年のアルバム『紅雀』で松任谷由実としてカムバックします。
松任谷正隆氏ですが、ユーミンのデビュー以来ずっと寄り添ってきたといえましょう。セカンドシングル、「きっと言える」の演奏をキャラメルママが担当しますが、このキーボードが松任谷氏でした。後のメンバーは細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)という面々です。このバンドで、しばらくは演奏を担当します。
3枚目の「やさしさに包まれたなら」からは、アレンジも松任谷氏になり、以降現在までユーミンの楽曲アレンジは一貫して松任谷氏ということになります。この夫唱婦随ぶりは山下達郎・竹内まりや夫婦以上に続くもので、今後も不変でしょう。でも、松任谷正隆氏は本人のソロ活動はほぼなく、40年以上にわたりユーミンをサポートしていくことになります。
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1994年のシングル、「Hello, my friend」でした。ユーミンのオリコンシングル週間チャート1位獲得曲としてはこの曲と次のシングル「春よ来い」が今のところ最後となります。
ユーミンはシングルリリースも多いですが、基本アルバムアーティストです。1983年の『Voyager』から1999年の『Frozen Roses』まで、毎年の年末にアルバムをリリースするのがお約束のようになっていました。これがほとんどミリオンセラーとなります。
この間のタイアップもかなりのもので、数多くの楽曲がCM等で使われました。
このユーミン現象というものですが、1980年代の一億総中流からバブル期にかけてのものだったのではないでしょうか。
ユーミンが10代から20代あたりに行っていたスキーやサーフィン、海外旅行といったものが時代に追いついてきて、普通の若者でも「ちょっと頑張れば手が届く」 ようになってきたのです。
このあたりを見事に体現したのが、1980年にリリースされたコンセプトアルバム、『Surf & Snow』で、「灼けたアイドル」という曲ではかっこいいサーファーと再会してみたらみずぼらしいフリーターだったとかの名曲ぞろいです。あの、ファンファン大佐(岡田真澄)とのデュエット、「恋人と来ないで」なんてのも収録されています。
その中で、「サーフ天国、スキー天国」と「恋人がサンタクロース」が1987年の映画「私をスキーに連れてって」で効果的に使われました。ちなみに、この製作チームは「ホイチョイプロダクション」といい、大半のメンバーが成蹊大学というお坊ちゃま学校で、代表の馬場康夫氏は例のマスクの首相と同期です。
時代がユーミンに追いついてきたというか、当時のファンも共感度が高かったのではないかと思います。
今の若者と真逆ですね。クルマも必要ないから免許も取らない、スキーもスノボもしない、金があったら近くで楽しいことをするとかね。
このバブル期のユーミンが取り組んだことの一つに、苗場でのコンサートとか、葉山マリーナでのコンサート、大規模なアリーナツアーなどがあります。とくに、アリーナツアーでは、水中バレエ団、空中バレエ団、ロシアのサーカス団と共演し、ステージに象が登場するなど、豪華さを示しました。おそらく億単位の金がかかっているでしょう。このあたりのコンセプトも松任谷夫妻で考え抜いたことなんじゃないかと思います。さぞ、儲けたとも思われがちですが、これは赤字になるでしょうね。必要以上に金を貯めこまないで、ファンに還元することを優先したのではないでしょうか。
2000年代に入ってからは派手な活動はあまりしなくなりました。これからは、時代に受ける曲ではなく、自身が楽しめる曲を作っていくことにシフトしたのではないでしょうか。それでも、デビュー40周年の2012年には『日本の歌と、ユーミンと』がオリコンアルバム週間チャート1位を記録し、その後も『宇宙図書館』、『ユーミンからの、恋の歌。』が1位を獲得しています。いわば、レジェンドになったということでしょうか。
ちょっとした都市伝説のようなものがありまして。それは、あるバックパッカーがカトマンズの安宿にチェックインしたら、ユーミンがいたというものです。なんかありそうな気もしないではないです。ワタクシ、1回だけユーミンのコンサートに行ったことがありまして、それはそれは年齢層の幅広いファンが来ていました。後方から見ていると、禿げ頭や白髪頭が目立つほどです。そして、コンサートが始まり、ユーミンが歌いだすと、曲の合間などに最前列のファンが差し伸べる手に握手し続けるユーミンがいました。必要以上に威張ってないし、人間性あふれる人だなと思ったものです。
テレビの歌謡番組には出ない、そんな「ニューミュージック」の先駆けで、思いっきり個性を打ち出してきたユーミンです。確かニューミュージックでひとくくりにされるのは嫌だという発言もあったような。それでも、彼女には『Neue Musik』というベストアルバムがあるんですね。嫌っていたテレビにもついに紅白に登場し、数回「SONGS」にも出演しました。
最後にワタクシがユーミンを知るきっかけになった曲でお別れしましょう。
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1975年リリースのシングル、「ルージュの伝言」でした。映像は2016年のものです。当時、62歳ですか。ほぼ風貌は変わりませんが、二の腕あたりはまあしょうがないかな。
当時のチャートは45位というものですが、ラジオで流れてきたものと思います。原曲ではキャラメルママは使われてませんが、バックコーラスに山下達郎、吉田美奈子、大貫妙子らを起用しています。ビッグになるユーミン以前の曲ですが、この曲も後年「魔女の宅急便」で使用され見事に日の目を見たと思いますね。
なお、今回の記事はスクムビットさんがご自分のブログでつぶやいていたことからインスパイアされたものです。長らくお時間いただきました。
★引き続きリクエスト、ご要望等募集いたしております。
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