かすてら音楽夜話Vol.92
本日取り上げるのは1970年代に日本にやってきて、成功を収めた歌姫です。
ただの輸入歌手ということになると、古くはベッツィ&クリス、インド人演歌歌手のチャダ、そして韓国の歌手もいますが。リンリンランランも忘れちゃいけませんが。ですが、今回取り上げる3名の歌姫は日本での活動も長く、そして誰もが知っている人物であります。
<九份>K-7/DA16-50mm
まずは欧陽菲菲さんです。
日本にやってきたのは1971年、「雨の御堂筋」で日本デビューし、大ヒットしました。
ルーツは台湾生まれの台湾育ち。確証はありませんが、顔立ちからは少数民族の血も入っているのではないかと思います。台湾でのデビューは1967年だそうです。
中華系民族の2文字の姓ですが、数は少ないものの、いることはいますね。有名どころでは諸葛孔明、現在の香港の長官もそうかな。在日中国人YouTuberの李姉妹によれば3文字の姓もあるとか。
「雨の御堂筋」はデビュー曲にしてオリコンシングル週間チャート1位を獲得しました。この曲は彼女を有名にしたばかりでなく、御堂筋も全国に知られるようになりましたね。
セカンドシングルは二匹目のドジョウを狙ったのか、「雨のエアポート」という曲をリリースします。こちらもトップ10に入るヒットです。彼女はその後拠点を日本に移したようなところがありますが、それは元レーシングドライバーの式場宗吉氏と結婚したためでしょう。
さて、台湾での成功というものがありながら、なぜ日本で歌手活動をすることになったのでしょうか。それは、台湾のマーケットがあまりにも小さいからではないでしょうか。
そして、彼女の父親はパイロットで生活も何不自由なくできたはずです。台湾にとどまらなかったのはより大きな成功を夢見てというより、このショウビズの世界が大好きだったから、苦労もいとわずやってきたのではないかと思います。
彼女の代表曲として、「Love Is Over」があまりにも有名で、カラオケなどに行くと歌に自信のありそうな女性が歌う曲のひとつですね。この曲は初めはB面曲でしたが、彼女が歌い続けることでじわじわと火が付き、ついにシングルA面として発売されたものです。
でも、取り上げるのはこちら。
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「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」でした。
「雨のエアポート」に続くサードシングルです。作者は橋本淳・筒美京平というゴールデンコンビです。当時「Chase」というアメリカのブラス編成のバンドがあり、それを意識させるようなアレンジがされてます。ちなみに、編曲も筒美さんですね。
そして、まだ日本語もたどたどしかったはずの彼女の歌いっぷり、ため息を織り交ぜながらのヴォーカルは和田アキ子にも負けていません。なんと、来日後まだ半年もたたないうちの曲です。
1972年の紅白歌合戦にはこの曲で初出場しました。その時の映像 もありますので、ぜひご覧ください。ダイナマイトぶりがよくわかります。
<香港の夜景>K-7/DA21mm
ふたり目はアグネス・チャンです。
彼女は香港出身で、本名、陳美齢(チャン・メイリン)。アグネスは洗礼名で当時の香港人の持つイングリッシュネームですね。
1971年に姉のアイリーン・チャン(陳依齢)とデュエット曲をリリースし、香港での芸能活動を開始します。翌年香港のテレビ番組に出演した平尾昌晃によって日本に紹介され、「ひなげしの花」でデビューしました。「ひなげしの花」の作曲は森田公一ですが、平尾昌晃とはセカンドシングルで仕事してます。
彼女の場合、もともとの中華圏での知名度は高くないでしょう。欧陽菲菲さんがより大きなマーケットを狙って来日したのに比べると、日本でやってみるかといったほとんど華僑にも通じる大胆さがあったのではないかと推測します。
日本で上智大学に進学後、トロント大学に留学しますが、レコードは出し続けていました。比較的最近までシングルをリリースしているものの、主な活動はユニセフの親善大使などに移行していきます。その間に中国でのチャリティコンサートを行うなど、ただの歌手とはいえないようなことにも手を染めていきます。
彼女の場合、香港人であり香港の中国返還ということも相まって活動を大陸にまで広げることができたと思いますが、現在の香港の状況を考慮すると、芸能活動をするにしても(もはやあり得ないと思いますが)、今のユニセフ親善大使として活動するにせよ、下手に動くことができませんね。
アグネスは自作曲もあり、今回取り上げる人の中では最も芸能色が薄い感じです。代表曲としては、ほとんどがティーンエイジャーであった70年代のものがほとんどです。
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「ポケットいっぱいの秘密」でした。
のちに柏原よしえがカバーした「ハローグッドバイ」(柏原よしえ盤は「ハローグッバイ」♪紅茶のおいしい喫茶店~の歌い出し)という隠れた名曲もありますが、中華歌謡っぽくない、「ポケットいっぱいの秘密」にいたしました。
この曲は作詞:松本隆、作曲:穂口雄右なんですが、アレンジを東海林修とともに、キャラメルママが担当しています。ということは、演奏も担当しています。これまでのアグネスの曲調とはどこか違う軽快さを持つ曲です。のちに、ティンパンアレーと改名するキャラメルママですが、ティンパンアレー時代に別のシンガーを起用し、この曲をカバーしてます。
また、松本隆の作詞家転向第1作なんですね。
ま、今後どうなっていくかわからない香港と中国、それに付随する世界の情勢ですけど、アグネスはしぶとく生き残っていくんじゃないすかね。
そして最後はテレサ・テンです。
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ほぼ説明いりませんね。「時の流れに身をまかせ」です。作詞:荒木とよひさ、作曲:三木たかしです。
欧陽菲菲、アグネス・チャン、テレサ・テンという順番ですが、来日順です。
テレサ・テン、本名、鄧麗君(デン・リージュン)。台湾出身で、日本デビュー時にはすでにアジアの中華圏の大スターでした。その人気に目を付けた日本人が日本に招いたのですが、欧陽菲菲やアグネスほど爆発的に売れませんでした。
当初はアジアでのポップ路線を引き継いだものの、路線変更して演歌調の曲をリリースしたことで、ヒットの兆しが見えてきました。ですが、何度目かの来日時に所持していたパスポートが問題視され(当時は偽造パスポートと報道されました)、しばらくは日本での活動ができなくなります。
活動が再開されたのは1984年のことです。荒木・三木コンビの「つぐない」、「愛人」と続く1985年のこの曲で200万枚を売り上げる大ヒットとなります(「つぐない」、「愛人」もそれぞれ150万枚のヒットでした)。彼女のこれらの曲はオリコンのチャートではトップ10入りしたにすぎませんが、じわじわと売り上げを伸ばしていったのです。
それにしても歌が上手いです。台湾で10歳の時に歌唱コンテストで優勝後、14歳でプロデビューを果たしたのですから、テイストは違うものの、台湾の弘田三枝子とでもいえましょうか。
ですが、彼女は台湾生まれであるものの、父母は大陸からやってきた国民党の人物でありました。つまり、外省人であったわけです。この辺りは、蒋介石がやってくる前後の台湾の事件と結びつくわけです。台湾から日本が引き揚げた後に大陸からやってきた国民党はそれ以前から台湾に居住していた中国人(内省人)のインテリ層をことごとく弾圧していたんですね。
蒋介石・蒋経国の時代は戒厳令が敷かれ、大っぴらな外省人と内省人との対立はなかったものの、深い溝ができていました。つまりは、テレサ・テンの歌は外省人の歌ということで、台湾でのテレサの人気はいま一つだったのではないでしょうか。そういうこともあり、テレサは台湾と香港で活動し、台湾事情がそれほど伝わらない、アジアの中華圏、つまりシンガポールやマレーシアなどでも人気が拡大していったのでしょう。
個人的な話になりますが、台湾で「時の流れに身をまかせ」を口笛で吹いていた時、近くの爺さんが近づいてきて、何やらいうんです。決して肯定的な態度ではなかったので、上記のような外省人の曲をやるんじゃないよみたいな注意だったのではないでしょうか。
と、いうような台湾の事情は抜きにして、中国本土でもテレサの歌は放送禁止処置を受けていたにも関わらず、人々の間で秘かにテープがダビングされ、誰でも知っていたとのことです。のちに中国本土でもテレサの歌は解禁されました。しかし、1989年の天安門事件後、テレサは香港でそれに対する抗議活動を行います。とうとう中国本土でのコンサートは実現しませんでした。
その後、チェンマイで謎の死を遂げます。亡くなったのはインペリアル・メーピンだったかな。現在テレサの墓は金山というところにあります。ここは公共交通機関はないものの、誰でも行くことができます。ワタクシも訪れました。
もしかしたら、歌で中国に何らかの影響を与えたかもしれない、テレサ・テン、残念ですね。
1970年代からおよそ半世紀が過ぎ、日本を取り巻く環境も変化してきました。中国が国連に加盟し、台湾は入れ替わりに脱退し、国連の常任理事国も中国に譲ることになります。そして、香港が中国に返還され、中国も経済的な結びつきを台湾と取っていた時期もありました。カルチャー面では体制の違いを超えて結びつきそうになっていましたが。
香港があのような状況になってきたので、香港の映画や芸能はほぼダメになっていくんじゃないでしょうか。テレサ・テン以降わざわざ日本に活路を求めなくとも中華圏で頑張ることができたのですが、台湾あたりから日本語で歌う新しいシンガーがまたやってくるかもしれませんね。今は、その役割はK-Popが一手に引き受けてますけど。
★ご要望リクエスト、引き続きお待ちしています。
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