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2020年9月12日 (土)

中華圏からの輸入歌姫

かすてら音楽夜話Vol.92

本日取り上げるのは1970年代に日本にやってきて、成功を収めた歌姫です。

ただの輸入歌手ということになると、古くはベッツィ&クリス、インド人演歌歌手のチャダ、そして韓国の歌手もいますが。リンリンランランも忘れちゃいけませんが。ですが、今回取り上げる3名の歌姫は日本での活動も長く、そして誰もが知っている人物であります。

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<九份>K-7/DA16-50mm

まずは欧陽菲菲さんです。

日本にやってきたのは1971年、「雨の御堂筋」で日本デビューし、大ヒットしました。

ルーツは台湾生まれの台湾育ち。確証はありませんが、顔立ちからは少数民族の血も入っているのではないかと思います。台湾でのデビューは1967年だそうです。

中華系民族の2文字の姓ですが、数は少ないものの、いることはいますね。有名どころでは諸葛孔明、現在の香港の長官もそうかな。在日中国人YouTuberの李姉妹によれば3文字の姓もあるとか。

「雨の御堂筋」はデビュー曲にしてオリコンシングル週間チャート1位を獲得しました。この曲は彼女を有名にしたばかりでなく、御堂筋も全国に知られるようになりましたね。

セカンドシングルは二匹目のドジョウを狙ったのか、「雨のエアポート」という曲をリリースします。こちらもトップ10に入るヒットです。彼女はその後拠点を日本に移したようなところがありますが、それは元レーシングドライバーの式場宗吉氏と結婚したためでしょう。

さて、台湾での成功というものがありながら、なぜ日本で歌手活動をすることになったのでしょうか。それは、台湾のマーケットがあまりにも小さいからではないでしょうか。

そして、彼女の父親はパイロットで生活も何不自由なくできたはずです。台湾にとどまらなかったのはより大きな成功を夢見てというより、このショウビズの世界が大好きだったから、苦労もいとわずやってきたのではないかと思います。

彼女の代表曲として、「Love Is Over」があまりにも有名で、カラオケなどに行くと歌に自信のありそうな女性が歌う曲のひとつですね。この曲は初めはB面曲でしたが、彼女が歌い続けることでじわじわと火が付き、ついにシングルA面として発売されたものです。

でも、取り上げるのはこちら。

 

「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」でした。

「雨のエアポート」に続くサードシングルです。作者は橋本淳・筒美京平というゴールデンコンビです。当時「Chase」というアメリカのブラス編成のバンドがあり、それを意識させるようなアレンジがされてます。ちなみに、編曲も筒美さんですね。

そして、まだ日本語もたどたどしかったはずの彼女の歌いっぷり、ため息を織り交ぜながらのヴォーカルは和田アキ子にも負けていません。なんと、来日後まだ半年もたたないうちの曲です。

1972年の紅白歌合戦にはこの曲で初出場しました。その時の映像もありますので、ぜひご覧ください。ダイナマイトぶりがよくわかります。

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<香港の夜景>K-7/DA21mm

ふたり目はアグネス・チャンです。

彼女は香港出身で、本名、陳美齢(チャン・メイリン)。アグネスは洗礼名で当時の香港人の持つイングリッシュネームですね。

1971年に姉のアイリーン・チャン(陳依齢)とデュエット曲をリリースし、香港での芸能活動を開始します。翌年香港のテレビ番組に出演した平尾昌晃によって日本に紹介され、「ひなげしの花」でデビューしました。「ひなげしの花」の作曲は森田公一ですが、平尾昌晃とはセカンドシングルで仕事してます。

彼女の場合、もともとの中華圏での知名度は高くないでしょう。欧陽菲菲さんがより大きなマーケットを狙って来日したのに比べると、日本でやってみるかといったほとんど華僑にも通じる大胆さがあったのではないかと推測します。

日本で上智大学に進学後、トロント大学に留学しますが、レコードは出し続けていました。比較的最近までシングルをリリースしているものの、主な活動はユニセフの親善大使などに移行していきます。その間に中国でのチャリティコンサートを行うなど、ただの歌手とはいえないようなことにも手を染めていきます。

彼女の場合、香港人であり香港の中国返還ということも相まって活動を大陸にまで広げることができたと思いますが、現在の香港の状況を考慮すると、芸能活動をするにしても(もはやあり得ないと思いますが)、今のユニセフ親善大使として活動するにせよ、下手に動くことができませんね。

アグネスは自作曲もあり、今回取り上げる人の中では最も芸能色が薄い感じです。代表曲としては、ほとんどがティーンエイジャーであった70年代のものがほとんどです。

 

「ポケットいっぱいの秘密」でした。

のちに柏原よしえがカバーした「ハローグッドバイ」(柏原よしえ盤は「ハローグッバイ」♪紅茶のおいしい喫茶店~の歌い出し)という隠れた名曲もありますが、中華歌謡っぽくない、「ポケットいっぱいの秘密」にいたしました。

この曲は作詞:松本隆、作曲:穂口雄右なんですが、アレンジを東海林修とともに、キャラメルママが担当しています。ということは、演奏も担当しています。これまでのアグネスの曲調とはどこか違う軽快さを持つ曲です。のちに、ティンパンアレーと改名するキャラメルママですが、ティンパンアレー時代に別のシンガーを起用し、この曲をカバーしてます。

また、松本隆の作詞家転向第1作なんですね。

ま、今後どうなっていくかわからない香港と中国、それに付随する世界の情勢ですけど、アグネスはしぶとく生き残っていくんじゃないすかね。

そして最後はテレサ・テンです。

 

ほぼ説明いりませんね。「時の流れに身をまかせ」です。作詞:荒木とよひさ、作曲:三木たかしです。

欧陽菲菲、アグネス・チャン、テレサ・テンという順番ですが、来日順です。

テレサ・テン、本名、鄧麗君(デン・リージュン)。台湾出身で、日本デビュー時にはすでにアジアの中華圏の大スターでした。その人気に目を付けた日本人が日本に招いたのですが、欧陽菲菲やアグネスほど爆発的に売れませんでした。

当初はアジアでのポップ路線を引き継いだものの、路線変更して演歌調の曲をリリースしたことで、ヒットの兆しが見えてきました。ですが、何度目かの来日時に所持していたパスポートが問題視され(当時は偽造パスポートと報道されました)、しばらくは日本での活動ができなくなります。

活動が再開されたのは1984年のことです。荒木・三木コンビの「つぐない」、「愛人」と続く1985年のこの曲で200万枚を売り上げる大ヒットとなります(「つぐない」、「愛人」もそれぞれ150万枚のヒットでした)。彼女のこれらの曲はオリコンのチャートではトップ10入りしたにすぎませんが、じわじわと売り上げを伸ばしていったのです。

それにしても歌が上手いです。台湾で10歳の時に歌唱コンテストで優勝後、14歳でプロデビューを果たしたのですから、テイストは違うものの、台湾の弘田三枝子とでもいえましょうか。

ですが、彼女は台湾生まれであるものの、父母は大陸からやってきた国民党の人物でありました。つまり、外省人であったわけです。この辺りは、蒋介石がやってくる前後の台湾の事件と結びつくわけです。台湾から日本が引き揚げた後に大陸からやってきた国民党はそれ以前から台湾に居住していた中国人(内省人)のインテリ層をことごとく弾圧していたんですね。

蒋介石・蒋経国の時代は戒厳令が敷かれ、大っぴらな外省人と内省人との対立はなかったものの、深い溝ができていました。つまりは、テレサ・テンの歌は外省人の歌ということで、台湾でのテレサの人気はいま一つだったのではないでしょうか。そういうこともあり、テレサは台湾と香港で活動し、台湾事情がそれほど伝わらない、アジアの中華圏、つまりシンガポールやマレーシアなどでも人気が拡大していったのでしょう。

個人的な話になりますが、台湾で「時の流れに身をまかせ」を口笛で吹いていた時、近くの爺さんが近づいてきて、何やらいうんです。決して肯定的な態度ではなかったので、上記のような外省人の曲をやるんじゃないよみたいな注意だったのではないでしょうか。

と、いうような台湾の事情は抜きにして、中国本土でもテレサの歌は放送禁止処置を受けていたにも関わらず、人々の間で秘かにテープがダビングされ、誰でも知っていたとのことです。のちに中国本土でもテレサの歌は解禁されました。しかし、1989年の天安門事件後、テレサは香港でそれに対する抗議活動を行います。とうとう中国本土でのコンサートは実現しませんでした。

その後、チェンマイで謎の死を遂げます。亡くなったのはインペリアル・メーピンだったかな。現在テレサの墓は金山というところにあります。ここは公共交通機関はないものの、誰でも行くことができます。ワタクシも訪れました。

もしかしたら、歌で中国に何らかの影響を与えたかもしれない、テレサ・テン、残念ですね。

1970年代からおよそ半世紀が過ぎ、日本を取り巻く環境も変化してきました。中国が国連に加盟し、台湾は入れ替わりに脱退し、国連の常任理事国も中国に譲ることになります。そして、香港が中国に返還され、中国も経済的な結びつきを台湾と取っていた時期もありました。カルチャー面では体制の違いを超えて結びつきそうになっていましたが。

香港があのような状況になってきたので、香港の映画や芸能はほぼダメになっていくんじゃないでしょうか。テレサ・テン以降わざわざ日本に活路を求めなくとも中華圏で頑張ることができたのですが、台湾あたりから日本語で歌う新しいシンガーがまたやってくるかもしれませんね。今は、その役割はK-Popが一手に引き受けてますけど。

★ご要望リクエスト、引き続きお待ちしています。

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コメント

最近機会もなくなりましたが、タイでも中国、アジアでも現地の人たちとカラオケに行くと決まってテレサテンを歌います。
私の下手な歌であっも、聞く方はメロディーを知っていた方が楽しいだろうと少し気を使うんです。

でもそんな気を使わなくても、アジアに若者日本のヒット曲たいてい知っているようになりましたね。

投稿: スクムビット | 2020年9月13日 (日) 07時37分

スクムビットさん。
やはり、カラオケ行くんですね。
今は無理ですね。
言葉を必要としないコミュニケーションですね。
20年くらい前は、香港では中島みゆきや竹内まりやの曲を、香港の歌手やグループが広東語でカバーしてました。
15年位前のタイでは、バンコクの伊勢丹(閉店してしまいましたが)のCD売り場で、日本人のアルバムを売ってましたね。買って帰ったこともあります。
経済の落ち込みと重なり、日本の曲も流れなくなったんじゃないすかね。
ま、それだけアジアンポップスが成熟してきたといえます。
ともあれ、バンコクでは日本人のCDは見なくなりました。
もっとも、タイでは楽曲はCDじゃなくて、ダウンロード販売が主流みたいですが。
AKBグループだけは有名みたいですよ。

投稿: ヒョウちゃん | 2020年9月13日 (日) 20時58分

子供の頃は、欧陽菲菲は結構好き〇、アクネスチャンはまあまあというかアイドルとしか認識してなかった△、テレサ・テンは興味なし✖でしたね
今は、テレサ・テン◎、欧陽菲菲△、アグネス・チャン✖と評価が逆転しました(^^ゞ
アジア3大歌姫は、プムプアン・ドアンジャン、鄧麗君、美空ひばりですよ

投稿: kimcafe | 2020年9月13日 (日) 22時39分

kimcafeさん。
ここで取り上げた3名の個人的評価ですが、欧陽菲菲、テレサ・テン、アグネス・チャンの順ですかね。
これは日本国内の活動での評価です。
アジア圏でいえば、ボクシングでいえばパウンド・フォー・パウンドになりますか。
ここで3人選ぶなら、王菲(フェイ・ウォン)、テレサ・テン、そして日本からは松田聖子を押したいと思います。

それこそ、20年前は香港やマカオで安室奈美恵や松たか子のポスターが貼ってありました。
特に、安室人気はすごかったと思いますがね。

投稿: ヒョウちゃん | 2020年9月13日 (日) 23時18分

本名、陳美齢(チャン・メイリン)。アグネスは洗礼名で当時の香港人の持つイングリッシュネームですね。

そうだったのですね。
知りませんでした。
メイリン
なんか
可愛い名前ですね。

投稿: 裕治伯爵 | 2020年9月14日 (月) 08時32分

テレサテンの話は興味深かったです。中華圏独特の発音と苦手な助詞。
それを感じさせない彼女の耳の良さ=日本語の巧さが素晴らしかったです。

書かれていませんでしたがジュディオングですかね。
俳優業が基本ですが、ちょこちょこ歌もリリースしていて「魅せられて」で確固たる地位となりました。

あとは本国では人気があるんですが、日本では今一だったのが、ビビアン・スーですかね。
ウリナリのせいか、バラエティ色になったしまいましたが、ビビアンも紅白歌手ですし。そういえば最近久々に日本映画にも出演しましたね。

そうそう。
アグネスチャン、デビュー当時は実はファンでした(^o^)
女性アイドル歌手で初めて買ったレコードがアグネスの「草原の輝き」でした。

あ、それから。
キャンディーズは高校時代はランちゃんがかわいいってことだけで、あとはまったく興味がありませんでした。洋楽一本やりの頃なんで日本の歌謡曲は若干馬鹿にしてて、尖がっていたころです。つい数年前にyoutubeで彼女たちの音楽性の高さに衝撃を受けてしまったんですよ、今更ですが。

投稿: lastsmile | 2020年9月14日 (月) 10時23分

裕治伯爵。
香港人のイングリッシュネームですが、クリスチャンでなくても、学校などで付けられるようですし、中にはそれが気に入らなかったので、自分で勝手に変える場合もあるとか。
香港返還前は授業を英語で行う中学が普通だったようですけど、返還後は広東語で授業を行う学校が主流になったようなので、アグネス・チャンとかブルース・リーみたいな通り名は減りつつあるかもしれませんね。
チャン・メイリンさんはそろそろお孫さんもいるようなお年頃ですが、見た目若いですよね。

投稿: ヒョウちゃん | 2020年9月14日 (月) 22時00分

lastsmileさん。
中華圏のシンガーですが、すべて北京語でリリースしているわけではないので、地域に合わせて言葉も変えてるんですよね。
大きく分けると、北京語ヴァージョン、上海語ヴァージョン、広東語ヴァージョン、台湾語ヴァージョンがあると思います。
かといって、語学の天才でもない限りナチュラルに話せるわけでもないので、上記のヴァージョンに加えて日本語で歌うことは、それこそ初めのうちは歌詞を丸暗記して歌うことには慣れているんだと思います。
加えて、テレサ・テンの場合は福建語ヴァージョンもあるのではないでしょうか(ペナンが福建語)。

ジュディ・オングはほぼ在日華人ですので、今回は取り上げておりません。
ですが、近いうち「かすてら音楽夜話」で登場予定です。

ビビアン・スーいましたね。
あまり詳しくないのですが。
張恵妹(アーメイ)という、台湾の少数民族出身のシンガーがいまして、初期のころは日本語のオリジナル曲も歌っていたんです。
というのも、台湾の少数民族は部族が異なると言語の共通性が全くないので、日本統治時代の日本語が共通語みたいなところがあり、生活の中で日本語がある程度取り入れられていたからなんですね。
一時は日本でも活動したんですが、台湾と中国をマーケットにしたようです。
大陸と台湾を行き来する台湾のシンガーやタレントもたくさんいるでしょうが、現在は厳しいですよね。

アグネス・チャンはデビューしたころ、やけに甲高い声で歌うなと思ったものです。
それ以上でもなければそれ以下でもなし。
その頃はテレビの歌番組とも距離を置いてましたね。
なので、キャンディーズとも疎遠でした。
でも、アイドルだけでなくなんか耳に残ってるんですよね。

投稿: ヒョウちゃん | 2020年9月14日 (月) 22時29分

どうもです。
不幸なことに本業が、もらい火事を
くらいました。
しばらく振りのことです。まだ投稿頻度は落ちます。
今年は人生最悪かもしれません。
さてテレサテンは本当に大好きで、
20から30代にスナック通いをした頃には
最頻10曲の内に2つは入っていました。
が、貴女は鬼籍に入られております。
なので当方としては、
矢沢と桑田は丈夫そうなので、高橋真梨子さんの
行方が心配されます。

投稿: ペンタのP | 2020年9月26日 (土) 04時45分

ペンタのPさん。
ビジネスの件はご愁傷さまでした。
またお暇なときに突っ込んでください。

さて、20~30代でスナック通いというのはなかなかエキセントリックですね。
そこでテレサ・テンというのも完ぺきにおじさんですわ。
ところで台北の林森北路に点在している「スナック」をご存じでしょうか。
ほとんど、現地駐在員のテリトリーでして、日本語が標準語となっております。
実態はKTVやカラオケバーと同じです。
一見さんは入りづらいですが、わたしゃ現地駐在員に知り合いがいて、何度か連れて行ってもらいました。

矢沢、桑田の関連がよくわからないんですが、高橋真梨子さんは二次被爆の後遺症でしたっけ。
それなりに元気みたいですよ。

投稿: ヒョウちゃん | 2020年9月26日 (土) 17時03分

テレサさんのことを書いていただいて、ありがとうございます。
友人がテレサ・テンさんのマネージャーをしていて、最後の頃、フランスで暮らしていたそうですが、喘息の持病が悪化して、暖かいタイで療養していたのだそうです。
日本での復帰を目指して準備をしていたさなかに、喘息の発作で亡くなってしまわれたとのこと、さぞや無念だったと思います。
今、生きていらしたら、またきっと香港のために歌っていたかもしれませんね。

投稿: くろやぎ堂 | 2021年5月12日 (水) 16時46分

くろやぎ堂さん。
コメントありがとうございます。

久々のお名前、感激でございます。
なんと15年ぶり。
そうか、テレサは喘息の治療でチェンマイにいたんですね。
ご指摘の通り、存命だったら絶対に戦っていたでしょう。
彼女はおそらく、日本語はほぼ話せなかったと思いますが、今回登場させた他の二人よりも、日本語の歌詞を違和感なく歌ってましたね。
他の二人は日本語が堪能だけどね。

また、いらしてください。
ちなみに、lastsmileさんは「知子のロック普及委員会」にいた方です。

投稿: ヒョウちゃん | 2021年5月12日 (水) 21時27分

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