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2021年11月13日 (土)

私的フォーク史

かすてら音楽夜話Vol.134

今回、Naozoさんのリクエストにお応えいたします。

Ytakuro

日本のフォークといっても結構古くからあって、多種多様な人たちがいます。すべてを追い切るのは不可能ですので、自分の中に入ってきた人物やグループを取り上げてみたいと思います。

初めてフォークソングに接したと思うのは、The Folk Crusaders(フォーククルセイダーズ)ですかね。それも、「帰ってきたヨッパライ」(作詞:松山猛・北山修 作曲:加藤和彦、1967年)というテープを早回しにしたものなんですが。これはオリコン1位になり、最も売れたフォークグループのシングルともいえますね。

そこから数年。さらにビジュアル付きでインパクトをもらったのが次の曲です。

 

上條恒彦+六文銭の「出発の歌-失われた時を求めて-」(作詞:及川亘平 作曲:小室等、1971年)でした。「出発」は「たびだち」と読みます。

もともとは、第二回世界歌謡祭のための国内選考で、合歓の郷でのポピュラーフェスティバル(主催はヤマハでまだポプコンは行われてなかった)に上條恒彦も六文銭も別々にエントリーしていたそうですが、小室等に依頼していた曲がひとつしかできずに、両者がこの曲で急遽エントリーすることになったものです。

そして、「出発の歌」はポピュラーフェスティバルでグランプリを取り、その後の世界歌謡祭でもグランプリを取るなどし、シングルが発売されオリコン5位のヒットとなりました。

ワタクシが初めて聴いたのはその年の紅白歌合戦ではないかと思います。なんといっても、上條さんのひげ面にバックのメンバーの普段着みたいな恰好で、紅白出場歌手とはとても思えなかったです。こりゃ、芸能界の人と違うと。

そして、年が明けると毛髪量の多そうな長髪の男がギターをかき鳴らしながら「結婚しようよ」と歌いまくっていたのです。吉田拓郎(当時はよしだたくろう)でした。

 

映像はデビュー曲の「イメージの詩」(作詞作曲:吉田拓郎)です。

「結婚しようよ」(オリコン3位)から一転、旅の哀愁を漂わせる「旅の宿」はついにオリコン1位を取り、吉田拓郎は時代の寵児みたいな感もありましたね。ま、「旅の宿」は作詞を岡本おさみが担当していますが、これは岡本からの売り込みだったようです。

吉田拓郎の曲はこれまでのフォークのイメージ(反体制など)を一転させ、ヒットによって作曲の依頼も増えました。

また、この時期、「結婚しようよ」の通りに六文銭にいた四角佳子と最初の結婚をしております。

ワタクシは高校から国内旅行をするようになりますが、もっぱらユースホステルを使っていまして、ミーティングと称する1時間程度の会では、ヘルパーという人たちが必ずといっていいほどアコースティックギターでフォークソングを歌わせるんですね。その中では吉田拓郎の「落陽」という曲もありました。

吉田拓郎はその後フォーライフレコードを設立します。参加メンバーは小室等、泉谷しげる、井上陽水で初代社長は小室等でしたが、やがて吉田が社長となりワンマン体制に移行。ほかのメンバーは離れていき、1982年に吉田も社長を退いています。会社自体は2001年まで存続しました。

さて、その1972年あたりで、ワタクシの周囲でもギターを買ってもらうやつなどが登場してきました。また、ワタクシもいち早く芸能雑誌を少ない小遣いから捻出して買ったりしました。「明星」ですね。これには歌本が付いていたんですね。

当時のフォーク界はその後のニューミュージックのように、テレビなどのメディアにはなかなか登場しないという傾向がありました。と、いうより歌謡曲ほどのヒットがないため、なかなか出してもらえないというのが実態でしょうが。

それでも、明星の歌本にはフォークの人たちの楽譜(ギターのコード譜)と歌詞以外にモノクロの不鮮明なものではありましたが、写真も載っていたのですね。そうしたビジュアル面で確認できたのが、泉谷しげる、古井戸などですが、その後に売れ出す「ガロ」もいました。

 

映像は「地球はメリーゴーランド」(作詞:山上路夫 作曲:日高富明)です。

彼らはその後の「学生街の喫茶店」「君の誕生日」の連続オリコン1位で一躍有名になりますが、こちらは職業作家でもあるすぎやまこういちの曲提供なんですね。

メンバー3人がそれぞれに曲を作り、リードヴォーカルを担当できて楽器も演奏するという、可能性を秘めたトリオだったのですが、かなりの頻度でテレビ出演もし、周りのフォークの人たちとは異なった活動をしていました。

また、爆発的に売れたもののその後は人気も下火となり、音楽性の違いから短期間で解散することになります。「地球はメリーゴーランド」のリードヴォーカル、「トミー」はエリック・クラプトンに心酔していて、渡米してギターを集めるなど、ロック志向だったそうです。

サングラスの「マーク」こと堀内護はアコースティック志向でした。

「学生街の喫茶店」のリードヴォーカル、大野真澄の愛称は「ヴォーカル」ってそのまんま。彼は解散後裏方に回ったこともあったようです。残念なことにトミーとマークはすでにお亡くなりになっていて、大野だけが生存してますので、ガロの再結成はないですね。

Furuido

さて、古井戸ですが、「さなえちゃん」という曲がオリコン7位のヒットを記録してます。画像の右が加奈崎芳太郎、左が仲井戸麗市です。デビュー時はこの二人のデュオとなっていますが、もともとは4人組でした。

Rc

明星の歌本を購入した時期が悪かったのか、RCサクセションは歌本には掲載されてませんでしたが、同時期のデビューです。

渋谷にあったライヴハウスに古井戸もRCサクセションも出ていて、メンバー間の交流もあったようです。古井戸の加奈崎はフォーク志向が強かったようですが、仲井戸(チャボ)はブルース志向が強く、RCの忌野清志郎と惹かれあうものがあったようです。

古井戸の解散後、チャボはRCに加入し、ついにRCはブレイクを果たすのですが、すでにフォークという色合いはありませんでした。

 

映像はすでにRCの解散後でしょうか。RCサクセションのデビュー曲、「宝くじは買わない」を清志郎&チャボでやっているものです。

まあ、フォークといっても人それぞれ。

アリスの二人は歌謡曲や演歌に流れていきましたし。RCのようにブルース、ロックにシフトした例もあります。あるいは長渕みたいにスピリチュアル系(?)って人もいるし。かなり後発になりますが、「ゆず」みたいにアコースティックギター2本で正統なフォークという例もありますし。

ま、音楽のジャンル分けはあまり意味のないことなのかも。

★ご意見、リクエスト、コメントをお待ちしております。

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コメント

ありがとうございます。
全て知っている曲です。叔父がギターを弾きながら
聞かせてくれたのはいい思い出です。
落陽は日本で友人たちとキャンプしたときには
必ず唄っていました。

投稿: Naozo | 2021年11月14日 (日) 16時45分

Naozoさん。

これ以外にも陽水の「夢の中へ」とかあるんですけどね。
「落陽」はだいたいは北海道のユースで歌われてましたね。
♪苫小牧発、仙台行きフェリー♪
というのが、地域性に合っていたんじゃないかと。
でも、ほとんどの人は青函連絡船で北海道を去っていったはずですが。
ほかにはアリスはどのユースでも歌われていたと思います。

投稿: ヒョウちゃん | 2021年11月14日 (日) 19時49分

フォーク史からのお話は興味深かったです。
私の偏った認識の中ではありますが、ジョーン・バエズからのボブ・ディランというメッセージ性、ブラザーズ・フォ-、PPMからのS&Gのコーラスの流れがあって、それが日本でメッセージ性が岡林信康・加藤登紀子、コーラスが赤い鳥、BUZZという形で開花した印象です。
メッセージは吉田拓郎・井上陽水でポピュラリティをもち、ヒット路線にいきました。コーラスもトアエモア・ビリーバンバン・ガロと歌謡曲に近づいてのヒットが出ました。
逆に抒情性を追求して暗くなった(笑)オフコース、NSP、ふきのとうは売れないけど根強い人気がありましたね。かぐや姫は売れたけど。

違う展開をしたのが関西フォーク。ヒョウちゃんが書かれたフォーククルセダーズからの五つの赤い風船、そしてザ・ディランⅡ(大好きです!)。関西という独自文化と京都のブルース文化も相まって、ブルースフォークという印象でした。その後、憂歌団や有山淳司、キー坊とかですかね。

フォークのポピュラリティを更に進化させたのがヤマハライトからのポプコン。アイドル路線ともとれるような転換でした。それまで旧態依然のフォークのアイドルと言えばケメかチャボくらいでした。チャボは嫌がってたけど。
フォークがニューミュージックと呼ばれるようになって大きく変化しましたね。

ということで古井戸。
(加奈崎さんの名前は芳太郎ですので修正しておいてくださいね。)
古井戸は好きで久保講堂での解散コンサートはいきました。チャボはキヨシローとバンドを組むことが早くから決まっていたようで(これが解散の原因かな)キヨシローとRCの名曲スローバラードを演奏しました。
大変な観客で異様に盛り上がりました。客が終わっても帰らないので、ステージを解体作業しながら加奈崎さんが「もうこれ以上できないんで帰ってくださいね」と客を説得していました。(私もそのうちの一人です・・)

ちょうどその前後、BUZZの解散コンサートもいきましたが、こちらは意外と静かでした。BUZZはそのあとのコーラスグループに影響を与えたエポックグループでしたが。
小田和正がピアノを弾きだしたのは、BUZZ二人のギターとピアノのステージに憧れて。そこからピアノ始めたくらいですから。(最初はタッチミスだらけだったみたいです)

今まで一番長文のコメントになりました。

投稿: lastsmile | 2021年11月16日 (火) 19時16分

lastsmileさん。

さすがです。
古井戸、なぜか加奈崎さんの「郎」が消えてた。
BSキーを触っていたのかも。
フォークのアイドル、中世的な風貌である、ケメとチャボ。わかりますねえ。
実際動く彼らを見ていなかったのですが、明星の歌本でも特集が組まれてました。
チャボはいつまでたっても「さなえちゃん」を歌わされるのが内心辟易していたようです。

RCは破廉ケンチがステージでもギターを持っているだけで全く弾けなくなった(精神を病んで)ことから、春日博文を呼び、新井田耕造を入れてアコースティックを脱却したのですけど、清志郎がヴォーカルに専念することでもう一人のギターということでチャボが参加しました。
でも、その頃は古井戸との掛け持ちだったようです。
チャボも義理堅い人なんで加奈崎さんが解散を切り出すまで悩んでいたみたいです。

BUZZですが、TBSラジオ、土曜深夜の「ヤングタウントーキョー」に出演したのは聴いていました。
その頃の常連がまだデュオであったオフコースでしたね。
わたしゃ、オフコースがふたりという認識があったので、売れ出してからメンバーが増えていたのには違和感を感じておりました。
確か、BUZZがすでに解散後だと思いますが、松原みきのアルバムで二人でコーラス参加している曲がありました。

また清志郎に戻りますが、亡くなる数年前にイベントに登場したのを生で見ることができまして、いい経験になりました。
でも、まだ病気のことは公表されてなくて、亡くなったときはショックでしたね。

投稿: ヒョウちゃん | 2021年11月16日 (火) 21時22分

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