« まぼろしのナベプロ三人娘 | トップページ | 主導権争いののちグループ追放 »

2024年12月28日 (土)

ニューミュージックとは何だったのか

かすてら音楽夜話Vol.201

Mj0024

1970年代中ごろから1980年代の初めごろまで「ニューミュージック」というカテゴリー分けがありました。

それ以前の邦楽ではは、演歌、歌謡曲、フォーク、ロック程度のカテゴリー分けで、単純に聴けば誰でも判別できるものといえると思います。

演歌、歌謡曲に入る人たちはテレビに出るのが当たり前。この時期、フォークとロックにカテゴライズされるシンガーとバンドはまずテレビからはお呼びがかからないです。と、いうか人気の目安となるレコードの売り上げもごく少なく、自然とテレビとは無縁になっていったと思われます。そして、フォークとロックの人たちの中にはこれを逆手にとって、「テレビには絶対に出ない」というポリシーを持っている人もいました。

吉田拓郎「結婚しようよ」「旅の宿」、井上陽水「傘がない」「夢の中へ」、荒井由実「ルージュの伝言」「あの日に帰りたい」、かぐや姫「神田川」「妹よ」あたりから演歌・歌謡曲以外の曲がヒットチャートに上がってきます。特に「旅の宿」と「あの日に帰りたい」はオリコンシングル1位を獲得し、音楽業界に風穴をあけたと思います。

ですが、この人たちはまず歌謡番組には出演せず、もっぱら自分のラジオ番組やコンサートを中心に活動していたと思います。特に井上陽水はラジオ番組もやらず、1980年代になって「日産セフィーロ」のCMで「お元気ですかぁ!」とテレビで毎日のように出てくるとは誰が想像したことでしょう。

一方、ロックの人たちはほぼ知名度もなく、宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが歌謡番組に出るくらいでした。

そのうち、フォークやロックではカテゴライズしがたい新しい音楽が出てくるようになります。それは、音楽業界の多極化ともいえます。また、ヤマハなどの努力もあり、新しい人材が発掘されたということもいえましょう。

音楽業界もこれまでの芸能プロダクションのやり方と異なり、原田真二を売り出すためにアミューズ(代表が渡辺プロを退社した大里氏)が設立され、さらに学生バンドであったサザンオールスターズをスカウトするなど、広がりを見せ始めました。

フォークやロックの人たちもテレビには出ないといわれていましたが、Char、原田真二、ツイストのロック御三家がそろって歌謡番組に出始めるなど変化も起こり始めました。

前振りが長くなりました。

「ニューミュージック」というカテゴリーあるいはジャンルは、どちらかというとメディアがいつの間にかそう呼んだようなところがあります。この人たちのルーツはフォークやロックから出来上がったものではなく、1970年代初頭のミュージシャンたちに触発されて、自分もやってみようと、彼らなりにオリジナリティを加え、出来上がった音楽なのではないかと思います。

また、彼らの所属事務所は渡辺プロやホリプロなどの大手ではなく、どちらかというと新興、中小のプロダクションであったがゆえに、まず名前を売ることを優先し、「テレビには出ない」というような頑固さがなく、歌謡番組にも出るといった具合です。あの、竹内まりやも「芸能人運動会」で走高跳に出場したというのですから、今となっては考えられないことです。YouTubeに映像があるかと思ったら、これがないんですね。

とりあえず、マスメディアが作り上げた「ニューミュージック」という言葉ですが、個人的に落としどころを見つけると、シンガーソングライターに限らず、プロの作家が提供した曲も歌う「ポップスのMiddle of The Road」にいる女性シンガーあるいはグループではないかと思います。

そんな中から3人取り上げます。

竹内まりや

 

曲は「September」(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)。1979年8月のリリースで、オリコン39位。この曲は3曲目のシングルでしたが、次の「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 編曲:加藤和彦・清水信之)がオリコン3位を記録していて、この2曲を収録している3枚目のアルバム『Love Songs』(1980年3月発売)はまりやさん初のオリコン1位に輝きます。

彼女の出自は慶応の軽音サークル、リアル・マッコイに所属していて、先輩である杉真理のバンドに参加したことがデビューのきっかけです。

1978年のデビューでアルバムでは自作曲もありましたが、2曲目のシングル「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風」のB面に「すてきなヒットソング」が取り上げられたくらいです。ほとんどが職業作家による提供を受けた曲を歌っていました。「不思議なピーチパイ」は化粧品とのタイアップでヒットしましたが、その前奏曲ともいえる「September」は個人的には「不思議なピーチパイ」よりもあか抜けていて好きですねえ。アルバムは大学生協でほんのちょっとの割引で買いました

1979年に「September」と「真夜中のドア~Stay With Me」を書いた林哲司という人も、すごいと思います。また、男性ながらも女子大生の気持ちを書いた松本隆という人もとんでもないなと思いますね。

この時代のまりやさんはまだ達郎の息が完全にかかっていない時で、提供曲とコーラス参加はあるものの、アルバム『Love Songs』は彼女のベストテイクではないかと思っております。

越美晴

 

曲は「ラブ・ステップ」(作詞作曲:越美晴 編曲:矢野誠)。1978年10月リリースのデビューシングルです。残念ながらオリコンの順位は不明ですが、当時かなりメディアで流れていたと思います。

彼女は音楽一家で、幼少期からピアノを演奏し、作曲を行うようになります。デビューのきっかけはオーディション番組「君こそスターだ!」への出演でした。クラシックからオーディション番組というのがやや違和感がありますが、デビュー時に18歳(1960年1月生まれ)ですから、ある意味天才的資質があったと思います。

ただ、YouTubeの映像を見る限り、少しだけ歌唱力に難があるかなと。おそらくは、「夜のヒットスタジオ」出演時のものだと思います。

残念なことにヒット曲はこれくらいだったような。その後の彼女は「コシミハル」名義に改め、音楽性も大きく変化しています。ただ、現在も活動中でオリジナルアルバムを23枚もリリースしています。彼女にとっての「越美晴」時代はひとつの黒歴史なのか。オリジナルアルバムは廃盤状態です。

杏里

 

曲は「悲しみがとまらない」(作詞:康珍花 作曲:林哲司 編曲:林哲司・角松敏生)。1983年11月のリリースでオリコン4位を記録しています。

彼女は1978年、17歳で尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」でデビュー。その後はやや低迷しましたが、角松敏生のプロデュースを受け、「思い切りアメリカン」(作詞:竜真知子・杏里 作曲:小林武史 編曲:佐藤準、1982年)あたりから上昇機運に乗り、翌1983年の「Cat's Eye」(作詞:三浦徳子 作曲:小田裕一郎 編曲:大谷和夫)でついにオリコン1位を獲得します。でも、これはアニメ効果ですね。

「悲しみがとまらない」はその次のシングルです。ここでも、林哲司がいい仕事をしてます。また、松本隆同様、男性ながらに女性心理をつづっていく康珍花という人、只者ではありませんね。

さて、ニューミュージックは1981年以降、徐々に下降線をたどっていくのですが、ここには歌謡曲の世界に歌唱力のあるアイドルが出現し、なおかつ職業作家ではない現役ミュージシャンによる曲提供を受け、これが大ヒットするというのがひとつの要因ではないかと思っています。

すなわち、松田聖子や中森明菜らのことですが、限りなくニューミュージックと歌謡曲の境界がなくなってきたということでしょう。

ニューミュージックという言葉は死語となり、J POPという言葉が使われ始めます。これまた、ノンジャンルで広範囲な便利な言葉ですが。

「私の音楽はニューミュージックではない」と言い切っていたユーミンですが、1998年にリリースしたベストアルバム『Neue Musik』(ノイエ・ムジーク、ドイツ語)の意味は「ニューミュージック」なんですね。まさに、ポップスの王道中の王道です。

1980年前後のニューミュージック、今回は3人だけ取り上げましたが、ある意味百花繚乱だったと思います。廃盤になってしまったアルバムやCD化されなかったアルバムもまだまだあるはず。このあたり、タワーレコードあたりに頑張ってもらいたいものです。

かすてら音楽夜話、これにて2024年はしめくくりです。2025年も早いうちに次の記事を書いてみたいです。また、コメントからヒントやインスピレーションが生まれることが多いですので、何かを感じましたら、ためらいなく反応してください。また、下記のバナーのクリックもお願いしますね。

人気ブログランキング
人気ブログランキング 

音楽評論ランキング
音楽評論ランキング 

「#jpop」人気ブログランキング 

| |

« まぼろしのナベプロ三人娘 | トップページ | 主導権争いののちグループ追放 »

Music Talk」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« まぼろしのナベプロ三人娘 | トップページ | 主導権争いののちグループ追放 »