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2025年1月19日 (日)

温故知新・Mike Chapman

かすてら音楽夜話Vol.203

今回は表舞台に立たない人物の話です。

以前の温故知新シリーズではBarry Mann(バリー・マン)とCarole King(キャロル・キング)を取り上げました。バリー・マンは楽曲提供者でした。キャロル・キングはキャリアの前半は元の夫(Gerry Goffin)と組んでの楽曲提供者、後半では自身が演じるシンガーソングライターというものでした。

今回取り上げるのはMike Chapman(マイク・チャップマン)というオーストラリア人で、若かりし頃はあるグループに在籍していたものの、Nicky Chinn(ニッキー・チン)と組んで裏方に回り、プロデュースや楽曲提供者に転じました。ま、やがてニッキー・チン氏とは袂を分かち、ひとりでプロデュース及び楽曲提供者としてその後の長いキャリアを重ねることになります。

出身はオーストラリアですが、イギリスに渡り、チンと出会います。この頃に手掛けたのはSuzi Quatro(スージー・クアトロ)などがいます。

ちなみに、John Lennon(ジョン・レノン)殺害犯の名前がMark Chapman(マーク・チャップマン)といい、混同されがちですが、マイク・チャップマンにとってはいい迷惑ですね。

一発屋量産プロデューサー

その後、チャップマンは渡米し、経験豊かなバンドを探していたところ、Exile(エグザイル)というバンドのデモテープを聴き、エグザイルとコラボすることを決めます。

そして、シングルを出すのですが、失敗に終わり、これで終わりにしようと思っていたところ、チャップマンの妻がエグザイルを押していたため、引き続きプロデュースすることを決めます。

アルバム『Mixed Emotions』からの最初のシングルが、チャップマンとチンが書いた「Kiss You All Over」でしたが、これがなんと1978年9月にビルボードで1位(4週連続)を獲得するという大ヒットになりました。

 

実はこのレコーディングが大変だったらしいです。リードヴォーカルの音程が安定しないことから、急遽ギターもヴォーカルに起用し、クリスタルキングのようにお互いを補うような形になったそうですが、これが成功しましたね。

その後のエグザイルのシングルは40位、88位と低迷していきます。ただし、アルバム『Mixed Emotions』はビルボードで14位のゴールドディスク、「kiss you All Over」はプラチナディスク認定で、1978年のビルボード年間シングルチャート5位となっております。

ちなみに、エグザイルはのちにカントリーバンドに転向しています。

そして、「Kiss You All Over」に代わってビルボード1位に躍り出たのが、次の曲です。

 

Nick Gilder(ニック・ギルダー)の「Hot Child In The City」でした。なんと、この曲もチャップマンがプロデュースしています。

ニック・ギルダーはカナダ人で元々はカナダのグラムロックバンドのヴォーカルでした。アルバム1枚リリースしたところで、ソロに転向しています。なお、後任のヴォーカリストにはBrian Adams(ブライアン・アダムス)がいたそうで。

「Hot Child In The City」はニック・ギルダー自身が書いた曲で、LAの児童買春を垣間見たところから発想が浮かんだとのこと。

なお、「Hot Child In The City」は1週のみの1位で、プラチナ認定されているものの、1978年の年間チャートでは22位となっています。キャッシュボックスでは6位なんですが。このあたりはビルボードとキャッシュボックスの集計の違いですね。

その後の彼のシングルはやはり売れず、2曲が44位と57位に入っているのみです。ただし、その後はPat Benater(パット・ベネター)らに楽曲提供をしておりました。

この1978年ですが、ディスコ全盛時代で、Bee Gees(ビージーズ)、Andy Gibb(アンディ・ギブ)、Commodores(コモドアーズ)、Yvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、Donna Summer(ドナ・サマー)、A Taste Of Honey(テイスト・オブ・ハニー)、Chic(シック)などなど、さらには映画「Greece」からオリビアとトラボルタ、Franky Valli(フランキー・ヴァリ)というそうそうたる面々に割って入り、5週連続1位を獲得したチャップマンなのでありました。

余談になりますが、ビージーズの所属していたRSOというレーベルだけで、1月から5月までの19週間連続の1位なのでした。ちなみに、この中にはディスコとは関係ないPlayerというバンドの「Baby Come Back」も入っております。

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翌1979年、デビュー後にあっという間にナンバーワンに駆け上がったバンド、The Knack(ザ・ナック)もチャップマンがプロデュースしました。

デビュー曲「My Sharona」は5週連続の1位となり、1979年の年間シングルチャート1位です。そして、ダブルプラチナ認定。

チャップマンがなぜ彼らを担当するようになったのかがややわからないのですが、これまで担当してきたミュージシャンがほぼ短命の終わるなど、チャップマン自身も飽きっぽい傾向があったのかもしれません。The Knackは10社にもおよび争奪戦でCapitolからデビューしたのですが、この新人バンドをチャップマンに預けてみようというキャピトル側の意向もあったのかもしれません。

「My Sharona」はあまりにも有名で、一度取り上げていますので、セカンドシングルをどうぞ。

 

セカンドシングル、「Good Girls Don't」、ビルボード11位に沈みました。

チャップマン自身もThe Knackのセカンドアルバムまではプロデュースをしていたので、ある程度の期待はあったみたいです。ただ、年々チャートは沈んでいきます。

The Knackの演奏スタイルやファッションを見ていると、「ビートルズの再来」と評価されたのがよくわかりますね。プロモーションビデオではありますが、「Good Girls Don't」で1本のマイクを二人で使うなど、明らかに影響が見て取れます。

このあたりも、チャップマンの強い指示があったのではないでしょうか。

Exileの「Kiss You All Over」の下りでもわかるように、チャップマンはミュージシャンにかなり高圧的に接するところがあるので、ミュージシャン側からも強い反発があったのではないかと思われます。The Knackも3枚目のアルバムからはプロデューサーを変更してしまい、そして、1981年という早い段階で最初の解散をしてしまいました。

それにしても、The Knackのデビューアルバム、『Get The Knack』(アルバムチャート1位、1979年の年間チャート16位、ダブルプラチナ)はかなり出来のいいアルバムで、たったの2枚しかシングルカットがないのが謎です。

腐れ縁

チャップマンが最も多くのプロデュースをしたのがBlondie(ブロンディ)です。

1978年のアルバム『Pararell Lines』(6位、年間9位)、1979年の『Eat To The Beat』(17位、1980年年間8位)、1980年の『Auto American』(7位、1981年年間28位)、1982年の『The Hunter』(33位)まで仕事を共にしました。

意外なことにチャートが低いですが、イギリスでは『The Hunter』を除き、チャート上ではビルボードよりも上位にランクインしてますし、この中には3つのビルボード1位獲得曲があります。

ま、その後、ブロンディは一度解散してしまうのですが。

これだけ、ヒットしていても、チャップマンとの関係はよくなかったそうです。特にヴォーカルのDeborah Harry(デボラ・ハリー)は嫌っていたそうです。

この合間にブロンディは映画「American Gigolo」のテーマソング、「Call Me」(1980年)をリリースし、見事に1位を獲得します。こちら、年間チャートでも1位でした。しかし、この曲のプロデュースはイタリア人のGiorgio Moroder(ジョルジオ・モロダー)だったのでした。

 

ブロンディーには4曲のナンバーワンヒットがありますが、そのうちのひとつ、アルバム『Autoamerican』から「The Tide Is High」(邦題が「夢見るナンバーワン」)でした。1980年のシングルでもちろんビルボード1位、翌年の年間チャートで17位でした。

こちら、オリジナル曲ではなくジャマイカのグループのカバーです。

デビー・ハリー、今年でなんと80歳なんですね。ちなみに、チャップマンは1947年生まれ。

やっぱり、ニューヨーカーとオーストラリアから出てきた人間とはウマが合わないような気も。それでも、ニューウェイブからレゲエまで幅広い音楽性を示してくれたのはチャップマンがいたからかもしれません。

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2025年1月 4日 (土)

主導権争いののちグループ追放

かすてら音楽夜話Vol.202

A Happy New Year, 2025

例年ならば、本年の抱負などをつらつら述べておりましたが、音楽系ブログに本格移行いたしましたので、それはありません。少しでも、心地いい音楽をたくさん聴いて身も心もハッピーになる、そんなブログを目指したいでございます。

さて、今回のお題ですが、表題の通り、グループの主導権争いの話です。

Styxというアメリカのロックバンドがあります。

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デビューは古く、1972年です。オリジナルメンバーはDennis DeYoung(デニス・デヤング、キーボード、ヴォーカル、画像の左上)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ、ドラム、故人、画像の右下ヒゲなし)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ、ベース、画像の右下ヒゲあり)、John Curulewski(ジョン・クルレフスキー、ギター、ヴォーカル、故人)、James "JY" Young(ジェームス・JY・ヤング、ギター、ヴォーカル、画像の右上)の5人でした。

元々はパノッツォ兄弟(二卵性双生児)と隣人のデニスが組んでいたバンドが母体で、そこに大学時代の知り合い、クルレフスキーが加わり、さらにJYが加わりました。当初はプログレッシブロックの色合いが強く、大きなヒットも生まれませんでしたが、「Lady」がリリースから2年たってチャートを上がり始め、大手のA&Mに移籍します。5枚のアルバムを出したところで、クルレフスキーが家庭事情により脱退することになり、急遽ギタリストのオーディションを行い、向かい入れられたのがTommy Shaw(トミー・ショウ、ギター、ヴォーカル、画像の左下)で、この5人体制がStyxの最盛期であったといえます。

トミーの加入後、アルバムはヒットを続けますが、音楽性は大きく変わってきてどちらかというと大衆が好むような曲が多くなります。評論家の渋谷陽一がいう、「産業ロック」とも揶揄されますね。

お断りすると、渋谷氏のお好みはLed Zeppelinであるので、Styxは真逆のバンドといえます。

そして、1979年にリリースした9枚目のアルバム『Cornerstone』がビルボード2位、デニスの歌う「Babe」が1位を獲得します。グループ唯一のナンバーワンヒットです。

 

映像はライヴのように見えますが、オリジナル音源に歓声をかぶせたものですね。オフィシャルビデオとなっていますので、プロモーション的に使われたものと思われます。

この頃のStyxは前に出ている3人(デニス、トミー、JY)のコーラスワークもなかなかのものでした。

 

一方、こちらはトミーの曲で「Boat On The River」ですが、なんとアメリカではシングルカットされていません。なお、ドイツではチャート5位を記録していて、ヨーロッパ圏では人気のある曲でした。

この頃のStyxのアルバムではデニスが書き、歌う曲が60%。40%はトミーやJYの書いた曲、あるいは二人以上の共作といった構成でした。あくまでも、バンドの顔はデニスでした。

そして、1981年にリリースした10枚目のアルバム『Paradise Theatre』がついにチャート1位を獲得し、彼らの人気は絶頂に達したと思います。

 

デニスの曲で「The Best Of Times」。ビルボードでは3位のヒット曲です。

一方、『Parasise Theatre』ではトミーの曲もシングルカットされ、Styx在籍時のトミーの最大のヒットとなったのがこちら。

 

「Too Much Time On My Hand」でした。ビルボードで9位を記録しています。

また、このアルバムからは4枚のシングルカットが生まれました。そして、アルバム『Paradise Theatre』はシカゴにあったとされる架空の劇場(パラダイス・シアター)の開館(1928年)から閉館(1958年)までという架空の期間に沿って作られたコンセプトアルバムでした。

いやー、ここで終わっておけばよかったんですけどね。

Ms0048

1983年、11枚目のアルバムとして『Kilroy Was Here』(邦題『ミスター・ロボット』)がリリースされます。

アルバムはビルボード3位のプラチナ認定を受けています。ちなみに、前の2枚はトリプルプラチナ認定です。この期間、Styxがいかに売れたかがわかるでしょう。

アルバムからシングルが3枚リリースされますが、それぞれ3位、6位、48位を記録します。ですが、これらはすべてデニスの曲でした。

 

曲は「Mr. Roboto」でした。ビルボード3位です。

こちら、日本語も歌詞に出てきて、ロボットの表情もどこか大仏をほうふつとさせるデザインです。お辞儀もしたりしますし。

この『Kilroy Was Here』はプロモーション映像から想像できますが、前作『Paradise Theatre』以上のコンセプトアルバムなんです。いや、むしろ、オペラ仕立てといってもよいもの。

ロックの禁止された世界で投獄されたロックスター、キルロイをデニスが演じ、この世界に反発する若いミュージシャンをトミーが演じます。キルロイを投獄したのがJY演じる博士といった具合でした。キルロイはロボットに変装して脱獄、ロックの復権を目指すというものです。

なんと、このアルバムのツアーでは実際にステージでもこの演劇を行っていたそうで。いよいよ、デニスとトミー、JYとの対立が始まり、バンドは一時解散します。

Styxは1990年に再結成しますが、トミーがDamn Yankees(ダム・ヤンキース)に所属していて不参加となります。この活動は短期間に終わりました。1995年にトミーも復帰します。このころ、ドラムのジョンが過度の飲酒による不調で参加が難しくなり翌年亡くなります。また、ベースのチャックもHIVによる影響で活動が制限されツアーではほぼ演奏できなくなっていきます(ただし、現在もメンバーではあります)。そして、1999年に『Brave New World』というアルバムをリリースしますが、デニスがインフルエンザなどによる体調の不良でその後のツアーへ参加できなくなったことから、ついにバンドから解雇されます。

Styxの解散時にデニスは俳優業にも進出していたんですね。やはり、トミーとJYとの間の音楽性の溝はついに埋められませんでした。こうしてパノッツォ兄弟とデニスの作ったバンドからは後から来たメンバーが乗っ取るような形になったのです。

その後のStyxとデニスは相いれることはなく、それぞれ大きなヒットもなくなりますが、活動はそれぞれ継続しています。

Doobie Brothers(ドゥービーブラザース)なんかもオリジナルメンバーのTom Johnston(トム・ジョンストン)が病気で一時脱退後にMicheal McDonald(マイケル・マクドナルド)が加入して音楽性を変えて復活しましたが、ドゥービーはメンバーの移動が激しいバンドで、その後、マクドナルドがいなくなったり、ジョンストンが復帰したりで、一貫してバンドに残っているのはPatric Simons(パトリック・シモンズ)だけだったりします。でも、彼らもやりたい音楽をそのまま継続しているだけで、その後の大きなヒットはありませんね。

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