温故知新・Mike Chapman
かすてら音楽夜話Vol.203
今回は表舞台に立たない人物の話です。
以前の温故知新シリーズではBarry Mann(バリー・マン)とCarole King(キャロル・キング)を取り上げました。バリー・マンは楽曲提供者でした。キャロル・キングはキャリアの前半は元の夫(Gerry Goffin)と組んでの楽曲提供者、後半では自身が演じるシンガーソングライターというものでした。
今回取り上げるのはMike Chapman(マイク・チャップマン)というオーストラリア人で、若かりし頃はあるグループに在籍していたものの、Nicky Chinn(ニッキー・チン)と組んで裏方に回り、プロデュースや楽曲提供者に転じました。ま、やがてニッキー・チン氏とは袂を分かち、ひとりでプロデュース及び楽曲提供者としてその後の長いキャリアを重ねることになります。
出身はオーストラリアですが、イギリスに渡り、チンと出会います。この頃に手掛けたのはSuzi Quatro(スージー・クアトロ)などがいます。
ちなみに、John Lennon(ジョン・レノン)殺害犯の名前がMark Chapman(マーク・チャップマン)といい、混同されがちですが、マイク・チャップマンにとってはいい迷惑ですね。
一発屋量産プロデューサー
その後、チャップマンは渡米し、経験豊かなバンドを探していたところ、Exile(エグザイル)というバンドのデモテープを聴き、エグザイルとコラボすることを決めます。
そして、シングルを出すのですが、失敗に終わり、これで終わりにしようと思っていたところ、チャップマンの妻がエグザイルを押していたため、引き続きプロデュースすることを決めます。
アルバム『Mixed Emotions』からの最初のシングルが、チャップマンとチンが書いた「Kiss You All Over」でしたが、これがなんと1978年9月にビルボードで1位(4週連続)を獲得するという大ヒットになりました。
実はこのレコーディングが大変だったらしいです。リードヴォーカルの音程が安定しないことから、急遽ギターもヴォーカルに起用し、クリスタルキングのようにお互いを補うような形になったそうですが、これが成功しましたね。
その後のエグザイルのシングルは40位、88位と低迷していきます。ただし、アルバム『Mixed Emotions』はビルボードで14位のゴールドディスク、「kiss you All Over」はプラチナディスク認定で、1978年のビルボード年間シングルチャート5位となっております。
ちなみに、エグザイルはのちにカントリーバンドに転向しています。
そして、「Kiss You All Over」に代わってビルボード1位に躍り出たのが、次の曲です。
Nick Gilder(ニック・ギルダー)の「Hot Child In The City」でした。なんと、この曲もチャップマンがプロデュースしています。
ニック・ギルダーはカナダ人で元々はカナダのグラムロックバンドのヴォーカルでした。アルバム1枚リリースしたところで、ソロに転向しています。なお、後任のヴォーカリストにはBrian Adams(ブライアン・アダムス)がいたそうで。
「Hot Child In The City」はニック・ギルダー自身が書いた曲で、LAの児童買春を垣間見たところから発想が浮かんだとのこと。
なお、「Hot Child In The City」は1週のみの1位で、プラチナ認定されているものの、1978年の年間チャートでは22位となっています。キャッシュボックスでは6位なんですが。このあたりはビルボードとキャッシュボックスの集計の違いですね。
その後の彼のシングルはやはり売れず、2曲が44位と57位に入っているのみです。ただし、その後はPat Benater(パット・ベネター)らに楽曲提供をしておりました。
この1978年ですが、ディスコ全盛時代で、Bee Gees(ビージーズ)、Andy Gibb(アンディ・ギブ)、Commodores(コモドアーズ)、Yvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、Donna Summer(ドナ・サマー)、A Taste Of Honey(テイスト・オブ・ハニー)、Chic(シック)などなど、さらには映画「Greece」からオリビアとトラボルタ、Franky Valli(フランキー・ヴァリ)というそうそうたる面々に割って入り、5週連続1位を獲得したチャップマンなのでありました。
余談になりますが、ビージーズの所属していたRSOというレーベルだけで、1月から5月までの19週間連続の1位なのでした。ちなみに、この中にはディスコとは関係ないPlayerというバンドの「Baby Come Back」も入っております。
翌1979年、デビュー後にあっという間にナンバーワンに駆け上がったバンド、The Knack(ザ・ナック)もチャップマンがプロデュースしました。
デビュー曲「My Sharona」は5週連続の1位となり、1979年の年間シングルチャート1位です。そして、ダブルプラチナ認定。
チャップマンがなぜ彼らを担当するようになったのかがややわからないのですが、これまで担当してきたミュージシャンがほぼ短命の終わるなど、チャップマン自身も飽きっぽい傾向があったのかもしれません。The Knackは10社にもおよび争奪戦でCapitolからデビューしたのですが、この新人バンドをチャップマンに預けてみようというキャピトル側の意向もあったのかもしれません。
「My Sharona」はあまりにも有名で、一度取り上げていますので、セカンドシングルをどうぞ。
セカンドシングル、「Good Girls Don't」、ビルボード11位に沈みました。
チャップマン自身もThe Knackのセカンドアルバムまではプロデュースをしていたので、ある程度の期待はあったみたいです。ただ、年々チャートは沈んでいきます。
The Knackの演奏スタイルやファッションを見ていると、「ビートルズの再来」と評価されたのがよくわかりますね。プロモーションビデオではありますが、「Good Girls Don't」で1本のマイクを二人で使うなど、明らかに影響が見て取れます。
このあたりも、チャップマンの強い指示があったのではないでしょうか。
Exileの「Kiss You All Over」の下りでもわかるように、チャップマンはミュージシャンにかなり高圧的に接するところがあるので、ミュージシャン側からも強い反発があったのではないかと思われます。The Knackも3枚目のアルバムからはプロデューサーを変更してしまい、そして、1981年という早い段階で最初の解散をしてしまいました。
それにしても、The Knackのデビューアルバム、『Get The Knack』(アルバムチャート1位、1979年の年間チャート16位、ダブルプラチナ)はかなり出来のいいアルバムで、たったの2枚しかシングルカットがないのが謎です。
腐れ縁
チャップマンが最も多くのプロデュースをしたのがBlondie(ブロンディ)です。
1978年のアルバム『Pararell Lines』(6位、年間9位)、1979年の『Eat To The Beat』(17位、1980年年間8位)、1980年の『Auto American』(7位、1981年年間28位)、1982年の『The Hunter』(33位)まで仕事を共にしました。
意外なことにチャートが低いですが、イギリスでは『The Hunter』を除き、チャート上ではビルボードよりも上位にランクインしてますし、この中には3つのビルボード1位獲得曲があります。
ま、その後、ブロンディは一度解散してしまうのですが。
これだけ、ヒットしていても、チャップマンとの関係はよくなかったそうです。特にヴォーカルのDeborah Harry(デボラ・ハリー)は嫌っていたそうです。
この合間にブロンディは映画「American Gigolo」のテーマソング、「Call Me」(1980年)をリリースし、見事に1位を獲得します。こちら、年間チャートでも1位でした。しかし、この曲のプロデュースはイタリア人のGiorgio Moroder(ジョルジオ・モロダー)だったのでした。
ブロンディーには4曲のナンバーワンヒットがありますが、そのうちのひとつ、アルバム『Autoamerican』から「The Tide Is High」(邦題が「夢見るナンバーワン」)でした。1980年のシングルでもちろんビルボード1位、翌年の年間チャートで17位でした。
こちら、オリジナル曲ではなくジャマイカのグループのカバーです。
デビー・ハリー、今年でなんと80歳なんですね。ちなみに、チャップマンは1947年生まれ。
やっぱり、ニューヨーカーとオーストラリアから出てきた人間とはウマが合わないような気も。それでも、ニューウェイブからレゲエまで幅広い音楽性を示してくれたのはチャップマンがいたからかもしれません。
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