カテゴリー「1986 Uzbekistan」の11件の記事

2021年3月16日 (火)

元旦観光から帰国

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(10)

軽食を取ったのち、バスでタシケント市内観光です。

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<ナヴォイ劇場>ME Super/SMC50mm

ソ連自慢の劇場でタシケント大地震にも耐え、避難者を収容することができたというものです。でも、実際にはソ連に捕虜で連行された旧日本兵が建設したものです。

正確にいうと、強制労働ということになり国際法違反になりますが、旧日本軍も同じようなことを行っておりました。劇場の内部までは入ることができませんでしたが、日本語の碑文は読むことができました。

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<トラム>ME Super/SMC50mm

当時は交通機関の撮影も禁止になってましたが、ガイドが目を離しているときこっそりとトラムを撮影しました。

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<巨大広場>ME Super/SMC50mm

次に向かったのはとても広大な広場でした。全然観光名所ではありませんが、びっくりしました。

のちに訪れることになる北京の天安門広場も広大に感じましたが、ここは周囲にほとんど建築物がなく、一層広く感じました。わずかに建っているビルにはカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの肖像画が掲げられていました。その真向かいにはレーニンの像がありました。

さすがにレーニン像はウズベキスタン独立後に撤去されたと思いますが。

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<記念撮影>ME Super/SMC50mm

その広場の中心で記念撮影です。この日のガイドは朝鮮族のPさんでした。我々が初めてタシケントにやってきたとき、別のツアーの現地ガイドをやっていた人です。はっきりいって我がスルーガイドのG嬢よりも日本語は達者でした。

なんと、これでこの日の観光は終了。バスでホテルに向かいます。

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<タシケントのメドレッセ>ME Super/SMC50mm

あとは再びハバロフスク経由で帰るだけなのですが、だいぶ時間がありバーで一緒になるメンバーで先ほどの広場を再び目指すことにしました。まずは地下鉄に1駅乗ります。

ただし、場所は違うところでした。まず目に入るのは神学校です。

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<バザール>ME Super/SMC50mm

少し歩くとバザールに入りました。女性たちは花などを購入してました。ここも新年のにぎやかさを見せていましたが、道端には酔っぱらったのが倒れて動かなくなった男性もいたりしました。

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<交代式>ME Super/SMC50mm

またしばらく進むと、公園のようなところに入ります。すると、制服らしきものを着た少年と少女たちが行進してきて止まります。

そこには燃え盛る火がありました。よくはわかりませんが戦没者を祈念する炎なのではと思いました。その炎は数名で警備され、たった今交代式が行われるところでした。

今となっては場所が特定できないのですが、もしかすると当時のコムソモール公園、現在のナヴォイ公園になるのかもしれません。

ここから徒歩で戻り、夕食を取って、深夜便でハバロフスクへ。ハバロフスクでは朝食のためにまたもホテル・インツーリストへ。そして空港に戻り、G嬢とはお別れです。

ちなみに、空港男子トイレ(個室)の状況は全く改善されてませんでした。ワタクシは鍵もかかり便座もあるトイレを使ったのですが、使用後に水が流れないということに気づかされたのでした。

小さいながらも免税店がありアルメニアコニャックをゲットしたことはいうまでもありません。イミグレのKGB職員も来た時よりは穏やかそうでした。

その後のフライトは順調で新潟で解散です。東京方面へ向かう人たちとタクシーをシェアし、同じ新幹線で戻ったのでした。<完>

★しばらく経ったら、やっぱりプライベートツアーによるチベットをレポいたします。

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2021年3月12日 (金)

タシケントの年明け

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(9)

ヒヴァからウルゲンチに戻りホテルで昼食をとって、国内線でタシケントへ移動。まったくあわただしいツアーです。

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<ホテル・ウズベキスタン>ME Supre/SMC50mm

宿泊するのはHotel Uzbekistanでした。2日目にハバロフスクから移動し、観劇後に夕食を取ったホテルです。ここは現在も存続するところのようです。

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<ツアー一行>ME Super/SMC50mm

この日は大みそかで、夕食は観劇をした劇場のホールのような場所に招かれました。バンドも入り、ほかのツアーも一緒です。いつになく豪華な料理も用意され、通常の食事では用意されない豊富なアルコール類も大盤振る舞いされました。

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<アルメニアコニャック>*イメージです

ソ連で酒というと現在のロシア時代になってもウォッカでしょうが、アルメニアコニャックの味を覚えてしまった我々は、こればっかりを狙っていました。

これをショットグラスに入れて、氷をひとかけら浮かべたものは最高でした。

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<ダンスが始まる>ME Super/SMC50mm

そのうち、バンドがアップテンポの音を流し始め、自然とダンスの輪が出来上がりました。

冒頭でほかのツアーと書きましたが、日本からのツアーだけじゃないんですね。おそらく、この日タシケントに滞在していた外国人のツアー客はすべてここにやってきたものと思えます。ダンスの輪は当然、国籍不明の人も入り混じり、ふと気づくと同室のO氏が率先して踊っておりました。結構お調子者だったんだね。

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<プロフ>*イメージです

このようなものも出たと記憶してますが、やがて記憶も薄れていきました。

さて、翌朝。頭痛がするほど飲んだらしいです。気づくと同室のO氏はいません。鍵を自らかけて外出したようです。

当時のホテルですが、2名の部屋でも鍵はひとつのみ。そして、ソ連式というか、鍵は各階にある詰所のようなところに預けることになってます。ま、O氏が鍵を預けたかは不明ですが、ワタクシは閉じ込められた形になりました。この形式は中国などでも見られました。

仕方がないのでシャワーでも浴びようとしましたが、錆びた色の水が流れるのみでした。

その後、O氏も戻ってきました。

さて、朝食ですが、この日(元旦)は用意ができないといいます。これも、新年のため従業員も少ないからではないでしょうか。しかし、「全食事つき」ツアーですから、交渉してスナックのようなところで軽食を食べることができました。

続きます。

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2021年3月 7日 (日)

大晦日のヒヴァ

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(8)

★今回は画像あります。

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<イチャンカラ入場>ME Super/SMC28mm

泊まったウルゲンチはホレズム州の州都で、かつてのヒヴァ汗国の拠点となったヒヴァまで35kmという近さです。ウズベキスタン独立から観光に力を入れ始め、ヒヴァの旧市街「イチャンカラ」にも数多くのホテルができたようですが、ソ連時代は外国人観光客を受け入れられる内容のホテルはなかったと思われます。

そのため、ウルゲンチに泊まることになったようです。

ウルゲンチからバスで移動します。いよいよ、ヒヴァの観光です。向かっているルートの近くにウズベキスタン内の大河であるアムダリアが流れているはずですが、まったく見えませんでした。

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<カルタ・ミノル>ME Super/SMC28mm

ヒヴァ内ではすべて徒歩で回りました。すぐに現れたのがカルタ・ミノルという未完成のミナレットでした。

しかしこのミナレットは未完成ながら色も形もいいため地元ではかなり親しまれているミナレットだそうです。

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<イスラム・ホジャのミナレット>ME Super/SMC28mm

ヒヴァの建築物の保存状態の良さは地の利にあったといえましょうか。ウズベキスタンの中でもかなり奥まったところにあり、ロシア帝国~ソ連の侵攻も容易ではないためでしょうか。夏は砂漠、冬はぐっと寒くなるため戦意をそがれることもあったでしょう。

ヒヴァ汗国は20世紀に入っても生き延び、君主は好き放題なことができたようです。美しい建築物を作っても、その設計士や建築家は他国でそれ以上のものを作らせないために、殺されたとか。近代になっても中世あたりの考え方が残っていたみたいです。

イスラム・ホジャの塔には登ることができました。この手の塔は螺旋階段となっていて、上部に行くほど狭くなり苦労して登りましたが、薄暗い電気が照らしているだけですぐに降りてきました。しかも、灯り取りようの煉瓦製の小窓はもろくなっているため寄りかかってはだめという注意も受けてました。

現在の基準では登ることができないはずですが、現在も公開中なので補強されたのでしょう。

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<メドレッセのタイル>ME Super/SMC28mm

建物部分はメドレッセであったところですが、博物館になっていました。その内部はイスラム文様のタイル造りでした。

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<記念撮影>ME Super/SMC28mm

ここを出る前に記念撮影です。右の毛皮の帽子の女性がヒヴァの現地ガイドです。

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<アラクリ・ハーン・メドレッセ>ME Super/SMC28mm

そのあとは、いくつかのメドレッセ巡りとなります。

この内部にはキャラバンサライもあり、この時は商店がいくつか入っていました。

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<クトゥル・ムラド・イナック・メドレッセ>ME Super/SMC28mm

東門のあたりのこの建物はかつて奴隷市場があったといわれています。

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<タシュ・ハウリ宮殿>ME Super/SMC28mm

こちらにはハレムがあったとのこと。

この日は天気がぐずりがちで寒くはなかったものの、説明をきき、写真を撮るというパターンの繰り返しでした。

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<若いカップル>ME Super/SMC28mm

バスに戻るとき、このような人に出会い、写真撮影も応じてくれました。現在もウズベキスタンの結婚式はウエディングドレスとスーツというのが定番のようです。

続きます。

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2021年3月 4日 (木)

移動エピソード

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(7)

★オリジナル画像がほぼありません。ほとんどをネットで拾いました。

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<サラダ>*イメージです

ブハラのホテルで昼食を取り、あわただしく飛行機移動です。

この日はブハラを経由して、ウルゲンチまで行きます。しかし、直行便がなく2度目のタシケント乗り継ぎです。

機内ではスルーガイドのG嬢と隣になりました。G嬢は日本語の日常会話には不足はありませんが、いかんせん日本のことを知らなすぎます。ということで、いらん会話を続けました。主にB級の日本映画のことです。

まるで宙を舞うような表情でききいっていたG嬢ですが、その後ほかのツアーメンバーにもその主人公のことをきいて回っていたそうで、悪いことをしたなと思いました。自分にとってはいい暇つぶしができましたが。

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<ベリョースカ>*イメージです

さて、再びのタシケントでしたが、乗り継ぎまで時間があります。ここで添乗員のH氏がインツーリストと交渉し、ベリョースカという外国人専用の土産物店に行くことになりました。

いわばかつて中国にもあった友誼商店、ミャンマーにあったとされるドルショップみたいなところです。外国人が自国の通貨で物品を購入できる、外貨稼ぎのためのショップですね。とはいえ、ここで購入できる商品はのちに日本でもフリークが出現するような西側のブランド物は全くなく、土産にもらっても困るようなものばかりです。いわば、ソ連側が「いいだろう」と思うものが日本人をはじめ外国人には受け入れられないギャップのある店なのでした。

さすがにこういう店は世界中で姿を消したかな。もしかすると、北朝鮮とキューバにはまだあるかもしれませんけど。

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<アイスクリーム>*イメージです

ここでは何も買わず、暇を持て余しましたが、またしてもアイスクリーム売りが登場し、いくばくかのカペイカ(ルーブルの下の単位)でひとつゲットできました。

添乗員のH氏ですが、ほかの国のツアーでは英語を使い活躍できるようですが、ソ連では英語自体が話されないため自身の仕事がなくかなり不満がたまっていたようです。日本人だけの時には「だから会社にはロシアは嫌だっていったんだよ!俺は飛ばされた!」と嘆いておりました。

さて、空港に戻りウルゲンチへ飛びます。今回は時間のロスもなくスムーズでした。

ホテルに移動し、ようやく休めます。事務手続きの間にトイレに行くと、見慣れない和式便器に似たものがありました。これが初めて対面するトルコ式トイレなのでしたが。ちなみに、部屋は割と広くトイレはもちろん洋式でしたが。

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<その時のホテルか?>*イメージです

宿泊したのはホテル・ホレズムといいました。現在確認できるのはホレズムパレスというホテルがあることです。おそらく、そこなんでしょうが、もっと古臭い外観でした。

ちなみに、サマルカンドで泊まったホテル・サマルカンドは確認できず、すっかり名前が変わってしまったようです。ハバロフスクのホテル・インツーリストはまだあるようです。

ここで夕食を取り、いつもの通りにホテルのバーに行くと、タシケントやサマルカンドほど都会ではないためか、半分民族衣装のような髭と帽子を被った男性陣がぎっしりといました。ソ連時代は宗教自体を圧迫していて、イスラムの戒律の一つ「飲酒」についても寛容だったみたいです。

現在でも下川裕治氏はウズベキスタンでラマダン中の昼間にビールをラッパ飲みし、足りなくなるとウォッカを注文するムスリムを何人も見たとのことです。

とはいえ、この状態では話もできず、H氏の部屋に各自アルコールを持参し集合ということになりました。彼は用意がよく、簡易燃料も持参して水道水を沸かし、水割り用の飲み水を作っていたのでした。

この時代、探せばあったでしょうが、誰もミネラルウォーターを買うということをしませんでした。自分自身もわざわざミネラルウォーターを買うようになったのはずいぶんと後のことです。

続きます。

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2021年3月 2日 (火)

夜行寝台でブハラ

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(6)

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<ラグマン>*イメージです

市場から戻ってホテルで夕食です。

ウズベキスタンの定番、ラグマンは毎回出たと記憶してます。この次のツアーで訪れた新疆ウイグル自治区ではラグマンの記憶があまりないのですが、あちらでは呼び名が変わるのでラグマンとしての記憶が曖昧なのかもしれません。どちらかというと、新疆ウイグル自治区では羊肉の料理が多くて、それに苦しめられたという印象が強すぎかも。

ウズベキスタンのラグマンですが、焼いたものやスープなしの麺に具をのせたものもあるようです。この時は冬場だったためか「汁ラグマン」がほとんどでした。

さて、普通ならこの後バーに行ってアルメニアコニャックを飲み、三々五々部屋に戻るのですが、この日は夜行列車でブハラに移動となります。

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<コンパートメント>*イメージです

ツアーなので自分で荷物を持つことなく、バスで駅に移動します。当然ながら駅も撮影禁止の対象ですので、画像なしです。

乗り込むときには自分で荷物を入れたのではないかと思います。4人1室のコンパートメントです。夫婦も2組いましたが、ここでは完全に男女別となりました。

今もそうかもしれませんが、ソ連の寝台車はかなり天井が高いです。荷物置き場は下段ベッドの下と、コンパートメント入口のすぐ上になります。特に上に重いスーツケースを持ち上げるのは無理があるので男性陣が行いました。

ようやく落ち着いて普通なら眠るところですが、バザールに行ったメンバーがひとつのコンパートメントに集合して酒盛りとなりました。6名くらいは楽に座るスペースがありますから、問題ありません。持ち込んだ酒はいずれも各自が新潟空港で購入してきた免税品です。ここで、コンパートメントの入口を閉めたのですが、誰かがフラッシュ撮影した光が漏れたためか、外からロシア語で注意らしきものがありました。車掌です。

一応、車内も撮影禁止なんですね。飲酒は大丈夫でしたが。とはいえ、フィルムを抜き取るということはなく、大目に見てもらえたようです。

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<ホテルに到着>ME Super/SMC50mm

きっちり眠ったのかどうか。ともかく無事に列車はブハラに到着し、バスでホテルに移動しました。しかし、このホテルには泊まらず朝食と昼食を取っただけでした。荷物はバスの中です。

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<カラーンのミナレット>ME Super/SMC28mm

ホテルから再びバスでブハラ歴史地区まで運ばれあとは徒歩で回る。ブハラはサマルカンド以上にコンパクトな都市のようですが、泊まらないのでほとんど駆け足で詳しく覚えていないというのが正直なところです。

カラーンモスクはチンギスハーンに破壊されその後再建されたとのことですが、ミナレット(尖塔)だけは破壊できずに残ったそうです。

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<ミルアラブメドレッセ>ME Super/SMC28mm

こちらは現役の神学校です。しかし、内部は覗くことはできませんでした。当時のソ連の政策により宗教に関しては制限を加えていたため、子の神学校も人気がないとのことでした。

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<タキザラルガン>ME Super/SMC28mm

このドーム状のものはタキと呼ばれる交易所です。もちろん内部は暗くここで宝石類の取引をしたそうです。この時は機能してなかったのですが、復活したかどうか。

このような建築物はイランをはじめ中東によくあります。

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<バラハウズモスク>ME Super/SMC28mm

バスに戻り少しだけ移動しました。

こちらは木製の列柱のあるモスクで非常に珍しいです。この前に池があり池を「ハウズ」と呼ぶそうです。その池は「リャビハウズ」と呼ばれているそうです。

そして、またバスでちょっとだけ移動します。

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<イスマエル・サマニ廟>ME Super/SMC28mm

ようやく陽が高くなってきました。公園の中にある、ペルシャ系のサマーン朝2代目君主の霊廟だそうです。

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<公園内のバザール>ME Super/SMC28mm

公園の中にはバザールがありましたが、舗装されてなく土がむき出しです。ここでペリメニでしょうか、餃子のような形の食べ物も売っていました。

記念撮影をしようとすると、入ってきたおじさんが。現在のインドなどにも通じますね。

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<アルク城塞>ME Supre/SMC28mm

こちらはソ連侵攻前までブハラ汗国の君主が居住していた城です。大半が破壊され、この部分が残っています。

駆け足の約3時間。せめて泊まっていればと思いますが、JTBとインツーリストが作った日程には逆らえません。このあと、ホテルに戻り昼食を食べ再びの移動です。

続きます。

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2021年2月27日 (土)

ちょっとだけタジク

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(5)

ツアー4日目。

この日はバスでペンジケント(パンジャケント)へ遠征です。ソグド人というかつて存在した民族の本拠であったゾグディアナがあったといわれているところです。ペンジケントは当時のタジク共和国にあります。とはいえ、ソ連のビザで入国していますから国境の検問などは特に問題ありません。

現在のこの辺りは国境線が入り組んでいて大変そうです。特に、ウズベキスタンは複雑な形をしてますので、サマルカンドからフェルガナに行くにしても、かつてはタジキスタンに入ってウズベキスタンに戻るような鉄道路線や幹線道路がひかれていました。ソ連が解体され、中央アジアも国が分立するといちいちビザやパスポートが必要ということになるためか、鉄道も幹線道路も越境しないようなルートを作ったともきいています。この時は全く問題ありませんでしたが。

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<ゼラフシャン山脈とソグド遺跡>ME Super/SMC50mm

手続きは簡単とはいえ、国境からタジクのインツーリストの係が我々のバスに乗ってきました。当時のソ連の観光では、スルーガイドと現地ガイドが付きます。この時は、サマルカンドのガイドも一緒だったので、あちら側のガイドが3名ということになりました。なお、現地ガイドは必ずしも日本語を話せるわけではありません。スルーガイドのG嬢が通訳します。

はるばるやってきたソグド遺跡ですが、まだ発掘中というありさまで、荒涼とした風景に何の感動もありませんでした。

その後、博物館見学をして、現地のレストランで昼食です。

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<シャシリク>*イメージです

食事をした後、外に出るといい匂いが漂ってきます。見ると、シャシリクを焼いていました。いかにも美味そう。添乗員のH氏が交渉してひとり1本ずついただくことができました。予想通り美味い!

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<レストラン前で記念撮影>ME Super/SMC28mm

シャシリクというのは、肉をミンチにして串焼きにしたものです。間違いなく炭火焼き。まずいわけがないです。タマネギと香辛料も使っていて、この味がソ連にきて一番美味いと思いました。ペンジケントでの収穫はシャシリクくらいでした。

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<晴れた>ME Super/SMC50mm

タジクでは雨模様でしたが、サマルカンドに戻ると晴れていました。戻ってからは観光はなく、夕食まで時間があるので、親しくなったツアーメンバーと街歩きです。

目的地は前日訪れたコルホーズバザールです。レギスタン広場もそっちのけで、ひたすらバザールを目指します。正確なガイドブックは誰一人持ってませんでしたが、だいたいの道順は覚えていたので、簡単に到着しました。

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<シャシリク売り>ME Super/SMC50mm

そう、目的は再びシャシリクを味わうことだったのです。またもや、ひとり1本ずつの注文。これも、ペンジケントのシャシリクに負けず劣らず、実に美味かったです。

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<肉売り場>ME Super/SMC50mm

市場の中も覗いてみました。肉を撮っていたら、大きな声を出されました。どうも、解体された肉は撮影を歓迎されないようです。イスラムの国では半分くらいは嫌がられますね。歓迎する人もいますけど。

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<レギスタン広場>ME Super/SMC50mm

前の日もこんな天気だったらよかったんですけど。

続きます。

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2021年2月22日 (月)

観光のハイライトだが、天気最悪

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(4)

コルホーズバザールからいったん引き上げます。バスに乗る直前、アイスクリーム売りが登場して、ルーブル減らしに買ってみました。これは美味かったです。ソ連の牛乳加工品は割と美味いという評判があったんですね。

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<ソ連のバス>ME Super/SMC28mm*別の日です

さて、ソ連のバスですが当然ながら西側諸国で作られたものは入っておりません。乗用車も同様です。見たこともないようなバスで、クッションなどはほとんどないに等しいものです。とはいえ、サマルカンドだけ回る分には移動も短時間だし、なおかつこのツアーは総勢20人くらいでしたので、ひとりで2席を余裕で使えました。つまりはそんなに不満はなかったです。

これがそのようなバスを使って毎日中長距離を移動するとしたら、大変だったと思いますが。

ところで、当時のソ連を中心とする経済圏はコメコンというものがありソ連が介入して戦後にできた社会主義諸国の製品も入ってきているわけです。ここで、「ソ連のバス」とは書いていますが、もしかしたら東ドイツ製だったりチェコスロバキア製だったりした可能性もあります。

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<ナン>*イメージです

さて、いったんホテルに戻りまして昼食です。毎日登場するのはナンです。現地発音で「ヌン」ともいうようですが。インドのナンも窯で焼いていくので、ルーツは同じようです。

しかも、ティムール朝が消滅後、王朝の子孫が現在のアフガニスタンに逃れ、その後インド亜大陸に入りムガール朝を建てたともいわれているので、割と信憑性はありそうです。ただし、全インドでナンを食べているわけではありませんが。

これにラグマンとサラダあたりでしょうか。夜はプロフと肉がついたような気がします。ともかく、ウズベク共和国に入ってからは食事の不満はありませんでした。

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<レギスタン広場>ME Super/SMC50mm

午後の遅い時間まで休憩です。一行はレギスタン広場に向かいます。

ところで、画像の色調が暗いのはフィルムのせいといって差し支えないでしょう。用意したフィルムはフジのISO50くらいのリバーサルでした。しかも、当時使っていたカメラはPENTAXの一眼レフで、露出をカメラ任せにできるタイプで、すべてオートで撮っていたのですね。

この、リバーサルフィルムは晴天だとものすごくコントラストのはっきりしたものに仕上がるのですが、冬場とか曇りの日はあまりそれが発揮できないのです。ともかく、この日はこんなくすんだ感じのものに見えました。

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<シルドルメドレッセ>ME Super/SMC28mm

こちらが比較的まともに撮れた画像です。ここはいうまでもなく、3つのメドレッセ(神学校)が向かい合う世界的にも稀な場所です。特にこのシルドルという神学校は正面にライオンのような動物が描かれていて、偶像崇拝を嫌うイスラム社会では当時あまり尊重されたかったとのことです。

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<ティリヤカリメドレッセ>ME Super/SMC28mm

そのため、ティリヤカリメドレッセが新たに作られたとのことです。

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<ウルグベクメドレッセ>ME Super/SMC28mm

正面から見て左側にある神学校が最も古いそうです。

現在さらに修復が進み、ここはかなりツーリスティックになっているようです。カフェもあるらしいです。

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<グルエミル廟地下>ME Super/SMC50mm

ますます、日が傾いてきたころ、グルエミル廟に向かいました。地下にティムール一族の墓があります。

ここに見えているものは石棺ですが、実際に葬られたのはここよりさらに深いところにあるようです。ムスリムは土葬を行いますので、直接見えている部分を暴かれるのを避けたのでしょう。

このあと、ホテルに戻り夕食。続きます。

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2021年2月18日 (木)

やっと観光に

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(3)

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<山の向こうはアフガニスタン>ME Super/SMC50mm

ツアー3日目。全行程8日しかないのに、まだ観光してません。この日ようやくサマルカンドを回ります。

宿泊したのはホテル・サマルカンド。前夜真っ暗な中到着し、ほとんど眠るだけだったのだが、小さいながらバルコニーがあり、そこからは雪をかぶった山が見えた。方角的にはあちらがアフガニスタンということになる。

当時すでに、ソ連によるアフガニスタン侵攻があり、アフガニスタンに行くということは事実上無理でした。でも、かなり年上の同僚はアフガニスタンに行ったことがあるといってました。その時以来の内戦継続中。どうにかなりませんかね。

同室のOさんとちょっとだけ外に出ることにしました。ホテルの敷地を出た途端、小学校低学年くらいの子供が「ガム!シガラ(煙草)!」と叫んで近づいてきましたが、この後面倒なことになりそうだったので、引き返しました。

戻りのエレベーターでは明らかに「西側」から来たツアー客に持っていたカメラのことを話しかけられました。どこかは忘れましたが北欧の国から来たとのこと。やはり、このホテル・サマルカンドも各国からのツアー客を集めているわけですが、ここで東アジアではない欧米からの人とも出会うわけです。

交易物はありませんが、さすがはシルクロードで、東西の人々がすれ違う場所でもあるわけです。

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<ウルグベクの天文台>ME Super/SMC28mm

さて、観光です。サマルカンドというとティムールですが、その孫にあたるのがウルグベクで、当時の超保守的なキリスト教会と違い、学問の上でもイスラム社会は先進的でした。ウルグベクは天文台を設けました。画像の長方形の入口から覗くと、六分儀の形が見て取れます。

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<シャヒー・ジンダ廟群>ME Super/SMC28mm

次に向かったのがシャヒー・ジンだ廟群です。早くもサマルカンドブルーと出会うわけですが、天気がイマイチ。

その次はビビハニム・モスクでしたが、すっかり崩れ落ちていて写真を撮るのをやめました。ちなみに、現在はすっかり修復されているようです。

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<コルホーズバザール>ME Super/SMC28mm

その後、徒歩でバザールへ。現在あるシヨブバザールではありません。まだできてなかったのではないでしょうか。

ここで珍しく自由行動となり、適当に見て回ります。ワタクシは、両替したお金でメロンを一切れ購入しました。金額は覚えてませんが、確実にぼられていたでしょう(そもそも、両替自体が実勢レートではないはず)。

同行していた人は、100円ライターをかなり用意してきて、物々交換でメロンをゲットしていました。しかし、メロン一切れですよ。この後、それを見ていた現地のおじさんが100円ライターとルーブルの交換を申し出ていました。両替率からしてもかなりの額となったようです。

なんでも物資の不足するソ連では、このようなライターもガスや石の補充をして、かなりの間使い倒すようなんです。このあと、同じような条件下にあると思われた中国に行き、100円ライターを用意して交換してみたのですが、金銭との交換はできませんでした。また、物々交換も渋々という感じでした。中国ではすでに100円ライターが普及していたようですし、もともと外国人は兌換券であるため、両替には積極的ではなかったのではと思われます。

本日はここまで。

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2021年2月14日 (日)

なかなかたどり着かないサマルカンド

ソ連があったころのウズベキスタンツアーから(2)

2日目になりました。ハバロフスクは日本と同じような経度にありながら1時間時差があります(日本が正午の時、午前11時)。しかも、真冬で日照時間が短い時期で、日本より高緯度になるので、なかなか陽が昇らないのでした。

朝食は今回はまともでした(でも、内容は覚えてないです)。ここですぐ空港に移動し、ウズベク共和国の首都、タシケントに向かうはずでしたが、どうやらフライトが変更になったようでその辺だったら回ってきてよいことになりました。なお、社会主義の国ですから、スケジュールの変更は頻繁にあります。例えば、党の幹部がその便を利用することになったとかですね。幹部の家族ということもあります。

なお、この場合は理由などは知らされません。

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<凍り付いたアムール川>ME Super/SMC28mm

ホテル周辺といってもハバロフスクの中心部であったのかどうか。ともかく、凍り付いた坂道を上がっていくと、アムール川に出ました。

この時は氷点下18度。

ホテルに戻りようやく出発です。

この日はタシケントまで飛び、乗り継いでサマルカンドまで行く予定です。すでにソ連に入国しているので、搭乗の手続き等は簡単です。せいぜい荷物のチェックくらいで緩いです。

さて、搭乗前にトイレに行くことにしました。尾籠な話ですが、大きいほうです。

空港の男子トイレには個室が3つ並んでおりました。そのどれかを利用するのですが、A「ドアに鍵がない」、B「便座がない」、C「水が流れない」というどれも欠陥のあるトイレでした。さて、どれを利用したでしょうか?答えは次回。

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<イリューシン62>

さて、タシケント便です。今度は新潟から利用したものよりかなり大きいイリューシン62という機材でした。搭乗券はなく、すべて自由席でした。もうあらかた埋まっていたのですが、ロシア人の間に紛れつつも、ツアーメンバーと離れないようにして座りました。しかし、移動は8時間。機内食もはなはだお粗末なものでした。また、イリューシン62には中心部と後部の間に階段があってそのあたりがトイレになってました。

(注)当時は空港・駅等の施設と航空機や列車などはすべて撮影禁止でした。その後、中華人民共和国にも行ったのですが、同じような条件であるものの、実際は注意をあまり受けなかったので、中国のほうが画像は残ってます。

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<民族舞踊>ME Super/SMC50mm

さて、タシケントでは乗り継ぎに時間があるので、中心部にあるホテルに移動しその隣の劇場でイベントを観劇。たぶん、この日ハバロフスクからやってきた外国人のツアーはすべてここに集められたと思います。

しかし、ここで問題が。ツアーメンバーの2名が消えたのです。その人たちはホテル近くに地下鉄駅があることをわかっていて、それに乗ろうと勝手に行ってしまったのでした(結局は引き戻されましたが)。

そのあと、いささか早い夕食をとりました。この時、ラグマンとナン(インドのナンの原型といわれます)が登場しました。シベリアに比べると食糧事情はいいなと思いました。

さて、その後空港に戻るのですが、いざ、出発と搭乗機に向かい乗り込んだものの、3回も引き返すことになります。今度の搭乗機はアントノフ24という双発プロペラ機で、50人も乗れないような機材です。これまで乗った飛行機の中でも一番小さいものでした。

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<アントノフ24>

この小さい機体は天候が安定しないと飛べないようでした。しかし、その時は何も知らされませんので、ストレスが溜まります。そんな時、とあるツアーメンバーが自分たちで持ってきた免税品の酒をここで飲み始めました。そういうことは許されているらしいです。この待合室では珍しくハイネケンの缶ビールがあったので、ワタクシも購入して飲みました。ちなみに、両替はハバロフスクのホテルで済ませていました。

もう、レートは覚えてませんがせいぜい1万円程度を換えたのではないかと。兌換券制度は取られておらず、現地通貨が手に入りましたが、ほとんど使う場所はなかったです。

また、こちらのトイレに行ってみましたが(今度は小さいほう)、参考までに覗いた個室は「足の踏み場がない」状態でした。

さて、アントノフでようやくサマルカンドに向かいましたがもう真っ暗です。そして、アントノフはひどく狭く、窮屈な思いをしたばかりでなく、後ろのロシア人乗客の膝が背もたれに当たって気になるのでした。冗談でやってるのかと振り向きましたが、正しい姿勢で乗っているのでした。

ようやく到着したサマルカンド。到着したホテルでは、誰かがバーでアルメニアコニャックを飲めることをかぎつけてきて、当然行きました。なんと、1ショット100円です。どういう仕組みになっているのか、日本円、それもコインが使えるのでした。

いやあ、なんて美味いんだ、アルメニアコニャック。と、いうことで、ツアーの一部メンバーはここに入り浸ることになります。続きます。次回はもう少し画像を出せるでしょう。

<2021/02/18>
画像追加しました。
現在アエロフロートはエアバスやボーイングが多いらしいですが、LCCなどでは旧ソ連製の機材を使っているらしいです。とはいえ、もはやアントノフ24は完全引退ではないでしょうか。イリューシン62は稼働しているようです。

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2021年2月10日 (水)

旅の記憶から

ソ連があった頃のウズベキタンツアーから(1)

ネタが枯渇しつつありまして、たまたま、だいぶ昔にスキャンした画像もあるので、ワタクシが初めて海外に出た時のエピソードを無理やり記事にしてみたいと思います。

・注意事項・
(1)デジカメが存在しない時代です。画像数が圧倒的に少ないです。しかも、リバーサルフィルムをフィルムスキャナーで最低画質(画質を上げるとスキャンするのに1枚で数10分かかる)で取り込んだものですので、粗いです。
(2)リバーサルフィルムは高額だったので、食事を写真に残すという発想がなく、食べ物は登場しません。
(3)人物に一部ノイズやモザイク処理をしております。おそらくは現存する人たちですので。

Uz050

<レギスタン広場>PENTAX ME Super/SMC28mm

当時、ソビエト社会主義共和国連邦という国がありまして、現在のウズベキスタンは「ウズベク共和国」というソ連を構成するひとつの共和国でした。と、いうことはソ連に入国すればソ連内の15ある共和国間の移動にはビザがいりません。

とはいえ、ソ連入国にはビザが必要ですが、JTBのツアーを利用しましたので、団体ビザということになります。

出発地はなんと新潟空港でした。初日はウズベキスタンまで行けず、ハバロフスク止まりでした。新潟・ハバロフスク間はツアーパンフレットによると日本航空となっていましたが、共同運航便のアエロフロートでしたね。機材もツポレフ154Mという、中央通路を挟んで2席ずつしかない小さなものでした。アテンダント(当時の言葉でいうと懐かしのスチュワーデス)は当然ロシア人で英語も日本語も話せません。

Tu154

<ツポレフ154M>

日本語アナウンスはちょうど乗り合わせた日ソ旅行社の人が行っていました。

さて、入国です。入管の係員は全員いかついロシア人ですが、日本語を話しました。ですが、詰問口調でかなり恐かった。なにしろKGBですから。さて、ここで問題が。新潟で買ってきた免税品を入管のブースに置き忘れてきたのです。これを空港で待ってたスルーガイド兼通訳にいうと戻ってきましたが、やっぱり係員に詰問口調でまたしつこくきかれました。

その置忘れの品はテネシーウイスキー、ジャックダニエルでした。恐らくそういうものを置き忘れる外国人は多数いるはずで、奴らも欲しいわけです。何しろ、度数の高い蒸留酒に目がないロシア人ですから。

Uz135

<現地ガイド>ME Super/SMC50mm

右の人物が我々の添乗員H氏です。左のメガネ女子は別のツアーのスルーガイド。ほぼ行程が一緒だったのでここでも写ってます。そして、中央が我々のスルーガイド兼通訳のG嬢です。

初めてお会いした時にはこのおばさん誰?とか思ってました。きくと、大学を卒業したばかりで東洋系の顔立ちはブリヤート人だからです。でも、こんな顔立ちの人日本中にいますよね。

さて、我々は眠るだけのホテルに直行します。食事も出ましたが、コーヒーはいったいいついれたんだという冷め具合で、料理もどうしようもなかったです。さすがは社会主義国。人数分作ってあとは知らねーですね。

Uz003

<氷点下28度>ME Super/SMC28mm

やることもないもんで、ちょっとだけ外に出てみましたが数分と耐えられませんでした。

さて、部屋に向かいます。わたしゃ、上の画像の白コートの男性O氏と同室です。JTBのツアーの場合、「ひとり部屋希望」にすると金額が高くなり、希望しないときは誰かと一緒になります。ひとり余っちゃった場合は非常にラッキーなんですが。

このHotel Intouristというのは、外国人向けに作られた国営ホテルです。つくりはクラシックな感じで部屋もあちこち重厚そうなニス塗りの木が使われていました。

さて、部屋にはテレビさえありませんでしたが、なぜかロシア語のラジオが流れております。これがうるさいのでスイッチを切ってみましたが、鳴り続けております。ボリュームを絞っても同じ。ではと、コンセントを抜くとようやく黙りました。今思うと、これは盗聴器ではないかと思います。

本日はここまで。たまにアップします。何回かかるかわかりません。

<2021/02/18>
画像追加しました。

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