カテゴリー「Music Talk」の93件の記事

2020年9月19日 (土)

史上最強の職業作曲家

かすてら音楽夜話Vol.93

Tsushumi

<筒美京平氏>

今回のテーマは日本の歌謡史においてこの人を抜きには語れないという人物です。

今年のNHKの朝ドラ「エール」では古関裕而氏を取り上げております。そのほか、国民栄誉賞の古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実等々、昭和の有名作曲家は数多くいますが、1940年生まれの存命人物である筒美京平さんをワタクシとしては「史上最強の職業作曲家」と言い切ってしまいたいです。

今すぐ国民栄誉賞をあげてもいいと思うぞ。

なんと、自身の手掛けた曲の総売り上げが7560万枚で1位です。ちなみに2位は7148万枚の小室哲哉ですね。

京平さんは東京生まれで中学から大学まで青山学院に在籍していました。大学ではジャズバンドでピアノを弾いていたそうです。音楽的教育は幼少期から習っていたピアノだけです。そのバンドの1年先輩(やはり青学在学)のウッドベース担当が橋本淳氏でした。

卒業後はレコード会社に就職し洋楽ディレクターになりました。一足先に作詞家として活動していた橋本氏の紹介ですぎやまこういち(フジテレビ社員、作曲家)に出会い、作曲・編曲の道に入ることとなりました。

初めて世に送り出した作品は1966年の「黄色いレモン」(作詞:橋本淳)でした。1968年には早くもいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」(作詞:橋本淳)でオリコンシングル週間チャート1位を獲得します。年代別で見ると、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とオリコン1位を獲得していて、10位以内の曲を含めると、2010年代まだ記録が伸びているのですね。

日本レコード大賞は尾崎紀世彦の「また逢う日まで」とジュディ・オングの「魅せられて」で2度受賞しています。

1960年代は橋本淳氏との名コンビでほとんどの曲を様々な人に提供していました。そんな中でも橋本氏以外の作詞でしかもテレビアニメの主題歌というものがあります。お聴きください。

 

テレビアニメ「怪物くん」のテーマソング、「おれは怪物くんだ」でした。

作詞は藤子不二雄です。これ、コンビ解消以前の名義ですが、正確にいうと我孫子さんのほうですね。リードヴォーカル(といっていいのか)は声優の白石冬美さんです。

アニメではやはり藤子不二雄作品(今回は藤本さんのほう)で「パーマン」の劇中歌「パーマン2号はウキャキャのキャ」も担当しています。作詞は藤本さんです。

そして現在も放送されている「サザエさん」のオープニング曲「サザエさん」とエンディング曲「サザエさん一家」(それぞれ作詞は林春生、歌は宇野ゆう子)も京平さん作品です。「怪物くん」が1968年、「サザエさん」が1969年となります。

1970年代になると、橋本氏以外ともコンビを組むようになります。

 

太田裕美で「木綿のハンカチーフ」でした。作詞は松本隆で、松本の初のヒット曲です。発売は1975年です。

こちらは150万枚のミリオンセラーとなりましたが、同時期にリリースされた「およげ!たいやきくん」に阻止され、オリコンシングルチャートでは2位どまりでしたが、名曲ですよね。

京平さん自身も後年のインタビューで「また逢う日まで」「さらば恋人」(堺正章)と「木綿のハンカチーフ」が気に入っているとの発言がありました。

松本の作詞も男女の掛け合いを女性アイドルひとりが表現するという、それまでになかった作品になりました。ちなみになんですが、あの宮本浩次もシングル「P.S. I Love You」のカップリングでこの曲を収録しましたし、「木綿のハンカチーフ」を含む全曲カバーのアルバム(しかも全部女性の曲)を近々リリースします。

1980年代に入ると、男女を問わずアイドルへの提供が増えてきます。

 

松本伊代で「センチメンタル・ジャーニー」でした。作詞は湯川れい子で1981年の作品です。

こちらの詞は「自分を名前で呼ぶ」、「♪伊代はまだ、16だから」というところですかね。ま、京平さん自身とは直接関係ないんですが。ちなみに、2020年現在、「♪伊代はもう、55だから」とのことです。

「センチメンタル・ジャーニー」はオリコンチャート9位どまりでしたが、インパクトありますよね。なにしろ、40年近くなっても松本伊代の代表曲としてだれもが覚えていますしね。

それ以前にも、新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)、新三人娘(小柳ルミ子、天地真理、南沙織)等には曲を提供してきましたが、80年代からは期待の新人に曲を提供するようになります。

すなわち、柏原芳恵や早見優、中山美穂などなど。また、C-C-Bや少年隊などからも依頼がありました。

これは、京平さんの曲なら大丈夫という、いわば安全パイ状態ですね。でも、京平さんからしてみれば「絶対にこけることができない」ものすごいプレッシャーですよね。

しかし、京平さんは曲を依頼してきた相手(事務所やプロデューサー、シンガー)のことをしっかりとリサーチして、相手が自分の曲にふさわしいか判断するようなこともあったそうです。そして、曲を提供してもたまにレコーディングスタジオにやってくることもあったそうです。また、作詞家との間で、言葉を手直しするようなアドバイスもあったそうです。そこまでして、曲を完璧に近づける執念のようなものを感じますね。

1990年代からはドラマとのタイアップ曲が多くなりました。2000年代、2010年代に入ると提供曲は確実に少なくなってきます。それでも、2003年にTOKIOの「Ambitious Japan!」をオリコン1位に送り込んでいます。

冒頭で手掛けた曲の総売り上げのことを書きました。2位の小室哲哉ですが、安室奈美恵やglobe、華原朋美などの売り上げがでかいです。また、彼はレコード大賞を4回受賞していますが、一過性のものであり、筒美京平作品と比べると薄っぺらであるといい切ってしまいましょう。筒美作品は心に刻まれていますが、小室作品はほとんどどこにも残ってないです。せいぜい美里姐さんの「My Revolution」くらいだな。

京平さんの作品は年々少なくなってくるのは仕方ないことかもしれませんが、これからも年に数曲でいいので、珠玉の作品を送り込んでもらいたいものです。

今回取り上げたのは3曲だけでしたが、個人的に好きな曲はもっとあるし、その中で新しいテーマも見つかっておりますので、京平ワールドがまた顔を出すと思います。

ちなみに、かすてら音楽夜話で取り上げた筒美京平作品は次の通りです。リンクもつけておきます。

桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」
尾崎紀世彦「また逢う日まで」、ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」
弘田三枝子「渚のうわさ」
欧陽菲菲「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」

★引き続き、リクエスト、ご要望等お待ちしています。

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2020年9月12日 (土)

中華圏からの輸入歌姫

かすてら音楽夜話Vol.92

本日取り上げるのは1970年代に日本にやってきて、成功を収めた歌姫です。

ただの輸入歌手ということになると、古くはベッツィ&クリス、インド人演歌歌手のチャダ、そして韓国の歌手もいますが。リンリンランランも忘れちゃいけませんが。ですが、今回取り上げる3名の歌姫は日本での活動も長く、そして誰もが知っている人物であります。

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<九份>K-7/DA16-50mm

まずは欧陽菲菲さんです。

日本にやってきたのは1971年、「雨の御堂筋」で日本デビューし、大ヒットしました。

ルーツは台湾生まれの台湾育ち。確証はありませんが、顔立ちからは少数民族の血も入っているのではないかと思います。台湾でのデビューは1967年だそうです。

中華系民族の2文字の姓ですが、数は少ないものの、いることはいますね。有名どころでは諸葛孔明、現在の香港の長官もそうかな。在日中国人YouTuberの李姉妹によれば3文字の姓もあるとか。

「雨の御堂筋」はデビュー曲にしてオリコンシングル週間チャート1位を獲得しました。この曲は彼女を有名にしたばかりでなく、御堂筋も全国に知られるようになりましたね。

セカンドシングルは二匹目のドジョウを狙ったのか、「雨のエアポート」という曲をリリースします。こちらもトップ10に入るヒットです。彼女はその後拠点を日本に移したようなところがありますが、それは元レーシングドライバーの式場宗吉氏と結婚したためでしょう。

さて、台湾での成功というものがありながら、なぜ日本で歌手活動をすることになったのでしょうか。それは、台湾のマーケットがあまりにも小さいからではないでしょうか。

そして、彼女の父親はパイロットで生活も何不自由なくできたはずです。台湾にとどまらなかったのはより大きな成功を夢見てというより、このショウビズの世界が大好きだったから、苦労もいとわずやってきたのではないかと思います。

彼女の代表曲として、「Love Is Over」があまりにも有名で、カラオケなどに行くと歌に自信のありそうな女性が歌う曲のひとつですね。この曲は初めはB面曲でしたが、彼女が歌い続けることでじわじわと火が付き、ついにシングルA面として発売されたものです。

でも、取り上げるのはこちら。

 

「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」でした。

「雨のエアポート」に続くサードシングルです。作者は橋本淳・筒美京平というゴールデンコンビです。当時「Chase」というアメリカのブラス編成のバンドがあり、それを意識させるようなアレンジがされてます。ちなみに、編曲も筒美さんですね。

そして、まだ日本語もたどたどしかったはずの彼女の歌いっぷり、ため息を織り交ぜながらのヴォーカルは和田アキ子にも負けていません。なんと、来日後まだ半年もたたないうちの曲です。

1972年の紅白歌合戦にはこの曲で初出場しました。その時の映像もありますので、ぜひご覧ください。ダイナマイトぶりがよくわかります。

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<香港の夜景>K-7/DA21mm

ふたり目はアグネス・チャンです。

彼女は香港出身で、本名、陳美齢(チャン・メイリン)。アグネスは洗礼名で当時の香港人の持つイングリッシュネームですね。

1971年に姉のアイリーン・チャン(陳依齢)とデュエット曲をリリースし、香港での芸能活動を開始します。翌年香港のテレビ番組に出演した平尾昌晃によって日本に紹介され、「ひなげしの花」でデビューしました。「ひなげしの花」の作曲は森田公一ですが、平尾昌晃とはセカンドシングルで仕事してます。

彼女の場合、もともとの中華圏での知名度は高くないでしょう。欧陽菲菲さんがより大きなマーケットを狙って来日したのに比べると、日本でやってみるかといったほとんど華僑にも通じる大胆さがあったのではないかと推測します。

日本で上智大学に進学後、トロント大学に留学しますが、レコードは出し続けていました。比較的最近までシングルをリリースしているものの、主な活動はユニセフの親善大使などに移行していきます。その間に中国でのチャリティコンサートを行うなど、ただの歌手とはいえないようなことにも手を染めていきます。

彼女の場合、香港人であり香港の中国返還ということも相まって活動を大陸にまで広げることができたと思いますが、現在の香港の状況を考慮すると、芸能活動をするにしても(もはやあり得ないと思いますが)、今のユニセフ親善大使として活動するにせよ、下手に動くことができませんね。

アグネスは自作曲もあり、今回取り上げる人の中では最も芸能色が薄い感じです。代表曲としては、ほとんどがティーンエイジャーであった70年代のものがほとんどです。

 

「ポケットいっぱいの秘密」でした。

のちに柏原よしえがカバーした「ハローグッドバイ」(柏原よしえ盤は「ハローグッバイ」♪紅茶のおいしい喫茶店~の歌い出し)という隠れた名曲もありますが、中華歌謡っぽくない、「ポケットいっぱいの秘密」にいたしました。

この曲は作詞:松本隆、作曲:穂口雄右なんですが、アレンジを東海林修とともに、キャラメルママが担当しています。ということは、演奏も担当しています。これまでのアグネスの曲調とはどこか違う軽快さを持つ曲です。のちに、ティンパンアレーと改名するキャラメルママですが、ティンパンアレー時代に別のシンガーを起用し、この曲をカバーしてます。

また、松本隆の作詞家転向第1作なんですね。

ま、今後どうなっていくかわからない香港と中国、それに付随する世界の情勢ですけど、アグネスはしぶとく生き残っていくんじゃないすかね。

そして最後はテレサ・テンです。

 

ほぼ説明いりませんね。「時の流れに身をまかせ」です。作詞:荒木とよひさ、作曲:三木たかしです。

欧陽菲菲、アグネス・チャン、テレサ・テンという順番ですが、来日順です。

テレサ・テン、本名、鄧麗君(デン・リージュン)。台湾出身で、日本デビュー時にはすでにアジアの中華圏の大スターでした。その人気に目を付けた日本人が日本に招いたのですが、欧陽菲菲やアグネスほど爆発的に売れませんでした。

当初はアジアでのポップ路線を引き継いだものの、路線変更して演歌調の曲をリリースしたことで、ヒットの兆しが見えてきました。ですが、何度目かの来日時に所持していたパスポートが問題視され(当時は偽造パスポートと報道されました)、しばらくは日本での活動ができなくなります。

活動が再開されたのは1984年のことです。荒木・三木コンビの「つぐない」、「愛人」と続く1985年のこの曲で200万枚を売り上げる大ヒットとなります(「つぐない」、「愛人」もそれぞれ150万枚のヒットでした)。彼女のこれらの曲はオリコンのチャートではトップ10入りしたにすぎませんが、じわじわと売り上げを伸ばしていったのです。

それにしても歌が上手いです。台湾で10歳の時に歌唱コンテストで優勝後、14歳でプロデビューを果たしたのですから、テイストは違うものの、台湾の弘田三枝子とでもいえましょうか。

ですが、彼女は台湾生まれであるものの、父母は大陸からやってきた国民党の人物でありました。つまり、外省人であったわけです。この辺りは、蒋介石がやってくる前後の台湾の事件と結びつくわけです。台湾から日本が引き揚げた後に大陸からやってきた国民党はそれ以前から台湾に居住していた中国人(内省人)のインテリ層をことごとく弾圧していたんですね。

蒋介石・蒋経国の時代は戒厳令が敷かれ、大っぴらな外省人と内省人との対立はなかったものの、深い溝ができていました。つまりは、テレサ・テンの歌は外省人の歌ということで、台湾でのテレサの人気はいま一つだったのではないでしょうか。そういうこともあり、テレサは台湾と香港で活動し、台湾事情がそれほど伝わらない、アジアの中華圏、つまりシンガポールやマレーシアなどでも人気が拡大していったのでしょう。

個人的な話になりますが、台湾で「時の流れに身をまかせ」を口笛で吹いていた時、近くの爺さんが近づいてきて、何やらいうんです。決して肯定的な態度ではなかったので、上記のような外省人の曲をやるんじゃないよみたいな注意だったのではないでしょうか。

と、いうような台湾の事情は抜きにして、中国本土でもテレサの歌は放送禁止処置を受けていたにも関わらず、人々の間で秘かにテープがダビングされ、誰でも知っていたとのことです。のちに中国本土でもテレサの歌は解禁されました。しかし、1989年の天安門事件後、テレサは香港でそれに対する抗議活動を行います。とうとう中国本土でのコンサートは実現しませんでした。

その後、チェンマイで謎の死を遂げます。亡くなったのはインペリアル・メーピンだったかな。現在テレサの墓は金山というところにあります。ここは公共交通機関はないものの、誰でも行くことができます。ワタクシも訪れました。

もしかしたら、歌で中国に何らかの影響を与えたかもしれない、テレサ・テン、残念ですね。

1970年代からおよそ半世紀が過ぎ、日本を取り巻く環境も変化してきました。中国が国連に加盟し、台湾は入れ替わりに脱退し、国連の常任理事国も中国に譲ることになります。そして、香港が中国に返還され、中国も経済的な結びつきを台湾と取っていた時期もありました。カルチャー面では体制の違いを超えて結びつきそうになっていましたが。

香港があのような状況になってきたので、香港の映画や芸能はほぼダメになっていくんじゃないでしょうか。テレサ・テン以降わざわざ日本に活路を求めなくとも中華圏で頑張ることができたのですが、台湾あたりから日本語で歌う新しいシンガーがまたやってくるかもしれませんね。今は、その役割はK-Popが一手に引き受けてますけど。

★ご要望リクエスト、引き続きお待ちしています。

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2020年9月 1日 (火)

グループの裏方、実はすごい

かすてら音楽夜話Vol.91

本日はThe Beatles(ビートルズ)とThe Rolling Stones(ローリングストーンズ)の地味な存在を取り上げます。

まずはビートルズから。

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<ジョージ・ハリスン>K-7/DA16-50mm

ビートルズのリードギタリストにして、最年少、George Harrison(ジョージ・ハリスン)です。

ロックグループの花形というと、リードヴォーカルとギタリストですね。当然ヴォーカリストは常にスポットライトを浴びていて、曲の合間にギタリストは印象的なソロを弾きます。この時はギタリストにスポットライトが当たります。要約するとボーカリストはバンドの花であり、ギタリストはバンドのまとめ役やリーダー的な扱いを受けます。

ところがビートルズにはふたりのヴォーカリストがいて、ジョージがスポットをあてられることはほぼありませんでした。そのふたりとはもちろん、John Lennon(ジョン・レノン)とPaul McCartney(ポール・マッカートニー)です。曲もふたりの作品がほとんどで、ジョンかポールのどちらかが単独で作っていても、「Lennon-McCartney」という表記で共作の形をとっていました。

ジョージはせいぜいコーラスに参加する程度。これは彼がグループ最年少ということもあり、主導権を握れなかったことが原因なんじゃないですかね。残るRingo Starr(リンゴ・スター)は曲を作りませんが、ドラムという特別なパートで、代役がききませんからグループの主導権を握れなくとも重宝されたんじゃないすかね。それに、リンゴはビートルズに最後に入ってきた外様みたいな存在でしたから、あまり関係なかったのかもしれません。

しかし、ジョージは12弦ギターを取り入れたり、インドでラビ・シャンカールに師事し、シタールを習得するなどしました。特にシタールはサイケデリックなサウンドを生み出し、中期から後期のビートルズに大きな影響を与えました。次第に存在感の増してきたジョージですが、グループ内での不満はだんだん大きくなってきたようです。アルバム中せいぜい2曲がジョージの曲で、リードギターにもけっこう注文が入ったようです。

 

こちら、「Here Comes The Sun」はシングルカットされてませんが、ジョージの曲としてあまりにも有名です。このレコーディングにはジョンが参加していません。ジョージはギターのほかにシンセサイザーなども担当するマルチな奮闘ぶりでした。

 

もう1曲は「Something」です。「Come Together」との両A面シングルとして、ビルボードで1位を獲得しています。なお、YouTubeの映像ですが、この2曲は2019Mixということで、原曲には登場しない音が入ってますし、古い映像も差し替えられています。

こういう曲を聴くと、ジョージの才能は自分でも埋もれてしまうんじゃないかという危機感が出てくるんじゃないすかね。

そして、ビートルズは解散し、ジョージはソロに転じますが、ソロでビルボード1位を獲得した「My Sweet Road」が盗作訴訟にあったりします。一方、バングラデシュ救済コンサートなどを行い、社会派としての声を上げることはこの時代なかなかできなかった、いわば先駆者でもありますね。

晩年、ボブ・ディラン、ジェフ・リンなどと組んだ覆面グループ、Traveling Wilburys(トラベリング・ウィルベリーズ)などで活躍しますが、2001年、脳腫瘍と肺がんのため亡くなりました。享年58歳でした。

もし、ジョン・レノンがもう少しジョージに寛容であったら、ビートルズももう少しキャリアを長くできたかもしれません。

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<ビル・ワイマン>

次はストーンズのベーシスト、Bill Wyman(ビル・ワイマン)です。出生名は異なりますが、後に改名して芸名が本名になりました。

もともとベースという楽器はリズムの要ではあるのですが、いかんせん地味でして、ロックバンドで見ていっても派手に目立つという人はなかなかいません。当時ビートルズの陽に対して、ストーンズは陰。いいとこのお坊ちゃん風なビートルズに対して、ワルのイメージのストーンズ。という図式がファンの間では抱かれていました。実際にはビートルズは低所得者層の出身で、ストーンズは中流家庭出身ではあるのですが。

酒に女にドラッグという絵にかいたような負のイメージのストーンズの中で、ビル・ワイマンはいかにも地味でSilent Stoneと呼ばれていました。ストーンズ加入時のエピソードとして、当時ストーンズが持っていなかった大きなアンプを持ち込んためという話があります。つまり、ビルの演奏ではなくアンプに惹かれ誰でもよかったと。

ま、これはかなり怪しい話で、実際1962年から1992年までの30年間、ビルはストーンズ唯一のベーシストとして活動していました。ビルの脱退後、ストーンズはパーマネントメンバーのベーシストを置かず、ツアーのときのみ外部のベーシストのサポートをつけるという具合です。

Charley Watts(チャーリー・ワッツ)のドラミングとビルのベースのフレーズは、とても安定していて、これにKeith Richards(キース・リチャーズ)のギターが絡み合い、独特のうねりのあるビートを生み出すのです。ビルの抜けた穴はとても大きく、ビル脱退後のストーンズのサウンドは別物という人もいるほどです。

 

この曲はビルのファーストソロアルバム『Monky Grip』収録の「I Want To Get Me A Gun」という曲です。ストーンズの楽曲とはほとんど重ならないような感じです。

このアルバムは1974年にリリースされほぼ不発に終わりましたが。なんと、ストーンズのメンバーの中で一番最初にソロアルバムをリリースしたのがビルなのです。同じ年にRon Wood(ロン・ウッド)もソロアルバムを初めてリリースしましたが、まだロニーはストーンズのメンバーではありませんでした。

そんなビルなんですが、機会があったら自分も前に出てみたい願望が常にあったのではないでしょうか。

ストーンズの場合、ほとんどの楽曲がMick Jagger(ミック・ジャガー)とキースの共作です。このシステムはほとんどビートルズと同じですね。初期のリーダーであったBryan Jones(ブライアン・ジョーンズ)は曲を作らず、演奏だけにのめりこむタイプでした。チャーリーもバンドの要で自作曲には興味がありません。そうなると、バンドの権力構造はミックとキースに握られていくことになりますね。

そんなストーンズですが、『Their Satanic Magesties Request』というコンセプトアルバムの中でビル・ワイマンが自作しリードヴォーカルも担当した「In Anothe Land」がなんとアメリカではシングルカットされ、ビルボード8位に入りました。ストーンズのヴォーカリストはミックです。アルバムやツアーではキースがごくわずかにリードヴォーカルを取ることもありますが、それらはシングルカットされたことはありません。

異例中の異例ですね。

 

つまり、ミックとキース以外がヴォーカルを担当したことはないし、曲のクレジットもジャガー=リチャーズが99%(ロン・ウッドの追加クレジットはあります)。ま、ヴォーカル部分にかなりのサウンドエフェクトをかけていますので、だれでもよかったとはいえます。ただ、作者がビルなので、そのままビルがヴォーカルを担当したということでしょうか。

ビルは、やはりソロ志向があり誰よりもたくさんのソロアルバムをリリースしています。ま、売れないのですが。

ストーンズの特徴として、長時間に及ぶレコーディングというものがあります。長期間でもあるのですが、レコーディング自体に終わりが見えないのですね。朝スタジオ入りし、深夜どころか翌朝までレコーディングが及ぶのは日常茶飯事です。こういう時、ビル・ワイマンは予定の時間が来ると帰ってしまうんだそうです。ビルが帰った後はベースはキースやロニーが弾くこともしょっちゅうでした。

かくして、アルバムリリース時に、一部の曲ではビルのクレジットがどこにもないということが起こります。ツアーなどではそのパートをビルが弾くことができないなんてことはないのですが、こうしたことが長年蓄積してくると、ビルの不満も高まってくるでしょうね。かくして脱退するに至ります。

ストーンズ脱退後はBill Wyman & His Rhysm Kingsというバンドを作り、現在も活躍中です。このバンドはメンバー固定ではなく、ビル以外のメンバーがランダムに集められ、時にはソロヴォーカリストも参加します。

 

ということで、リズムキングス、「Honky Tonk Women」でした。ストーンズよりはノリが緩いですけど、味はありますね。

ところで、ビルは1936年生まれなので今年84歳です。ビルがミックにもキースにも遥かに勝っていたことがありまして、それは彼らにも負けない性豪であったことといわれます。ま、セックス依存症なんじゃないすかね。もういい加減なおったろ。

今回、lastsmileさんのリクエストにお答えしました。

★引き続きリクエスト、ご要望お待ちしています。

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2020年8月25日 (火)

Topを張り続けるということ

かすてら音楽夜話Vol.90

Yuming

<デビュー直後>

このカテゴリーもめでたく90回目を迎えました。本日は満を持しましてユーミンこと松任谷由実です。

デビューは1971年、加橋かつみ(元タイガース)のシングル「愛は突然に…」の作曲としてでした。この時、わずか17歳。

1954年1月生まれ。八王子の老舗呉服店、荒井呉服店の二女として生を受けます。生まれながらのお嬢さんですね。この荒井呉服店は八王子駅の西側、甲州街道沿いに今でもあります。

実家を継がなくてもいい立場ですので、自由奔放に生きることができたでしょう。立教女学院から地元の多摩美術大学に進学したのは、染色を学ぶためだったようで、ある程度家業のことも視野に入れていたのでしょうか。立教女学院時代には学祭でバンド活動もやったとテレビで語っていました。

17歳でデビューというコネを作ったのは、わずか中学生にして当時文化人の集うイタリアンレストラン、「キャンティ」に出入りしていたからともいわれます。1972年にかまやつひろしのプロデュースによって、「返事はいらない」(作詞作曲:荒井由実、基本的に自作はすべて本人です。)でレコードデビューし、翌1973年アルバム『ひこうき雲』をリリースします。

当時は全く売れませんでしたが、1975年のシングル、「あの日に帰りたい」がオリコンシングル週間チャート1位を獲得します。

 

映像は1996年のものです。印象的なコーラスは山本潤子(元赤い鳥、元ハイファイセット)ですね。この曲の直前、バンバンに提供した「いちご白書をもう一度」がやはりオリコンシングル週間チャート1位を獲得しています。

そして、1976年にアレンジャー、松任谷正隆氏と結婚します。それからわずかなブランクを作りますが、1977年のシングル「潮風にちぎれて」と1978年のアルバム『紅雀』で松任谷由実としてカムバックします。

松任谷正隆氏ですが、ユーミンのデビュー以来ずっと寄り添ってきたといえましょう。セカンドシングル、「きっと言える」の演奏をキャラメルママが担当しますが、このキーボードが松任谷氏でした。後のメンバーは細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)という面々です。このバンドで、しばらくは演奏を担当します。

3枚目の「やさしさに包まれたなら」からは、アレンジも松任谷氏になり、以降現在までユーミンの楽曲アレンジは一貫して松任谷氏ということになります。この夫唱婦随ぶりは山下達郎・竹内まりや夫婦以上に続くもので、今後も不変でしょう。でも、松任谷正隆氏は本人のソロ活動はほぼなく、40年以上にわたりユーミンをサポートしていくことになります。

 

1994年のシングル、「Hello, my friend」でした。ユーミンのオリコンシングル週間チャート1位獲得曲としてはこの曲と次のシングル「春よ来い」が今のところ最後となります。

ユーミンはシングルリリースも多いですが、基本アルバムアーティストです。1983年の『Voyager』から1999年の『Frozen Roses』まで、毎年の年末にアルバムをリリースするのがお約束のようになっていました。これがほとんどミリオンセラーとなります。

この間のタイアップもかなりのもので、数多くの楽曲がCM等で使われました。

このユーミン現象というものですが、1980年代の一億総中流からバブル期にかけてのものだったのではないでしょうか。

ユーミンが10代から20代あたりに行っていたスキーやサーフィン、海外旅行といったものが時代に追いついてきて、普通の若者でも「ちょっと頑張れば手が届く」ようになってきたのです。

このあたりを見事に体現したのが、1980年にリリースされたコンセプトアルバム、『Surf & Snow』で、「灼けたアイドル」という曲ではかっこいいサーファーと再会してみたらみずぼらしいフリーターだったとかの名曲ぞろいです。あの、ファンファン大佐(岡田真澄)とのデュエット、「恋人と来ないで」なんてのも収録されています。

その中で、「サーフ天国、スキー天国」と「恋人がサンタクロース」が1987年の映画「私をスキーに連れてって」で効果的に使われました。ちなみに、この製作チームは「ホイチョイプロダクション」といい、大半のメンバーが成蹊大学というお坊ちゃま学校で、代表の馬場康夫氏は例のマスクの首相と同期です。

時代がユーミンに追いついてきたというか、当時のファンも共感度が高かったのではないかと思います。

今の若者と真逆ですね。クルマも必要ないから免許も取らない、スキーもスノボもしない、金があったら近くで楽しいことをするとかね。

このバブル期のユーミンが取り組んだことの一つに、苗場でのコンサートとか、葉山マリーナでのコンサート、大規模なアリーナツアーなどがあります。とくに、アリーナツアーでは、水中バレエ団、空中バレエ団、ロシアのサーカス団と共演し、ステージに象が登場するなど、豪華さを示しました。おそらく億単位の金がかかっているでしょう。このあたりのコンセプトも松任谷夫妻で考え抜いたことなんじゃないかと思います。さぞ、儲けたとも思われがちですが、これは赤字になるでしょうね。必要以上に金を貯めこまないで、ファンに還元することを優先したのではないでしょうか。

2000年代に入ってからは派手な活動はあまりしなくなりました。これからは、時代に受ける曲ではなく、自身が楽しめる曲を作っていくことにシフトしたのではないでしょうか。それでも、デビュー40周年の2012年には『日本の歌と、ユーミンと』がオリコンアルバム週間チャート1位を記録し、その後も『宇宙図書館』、『ユーミンからの、恋の歌。』が1位を獲得しています。いわば、レジェンドになったということでしょうか。

ちょっとした都市伝説のようなものがありまして。それは、あるバックパッカーがカトマンズの安宿にチェックインしたら、ユーミンがいたというものです。なんかありそうな気もしないではないです。ワタクシ、1回だけユーミンのコンサートに行ったことがありまして、それはそれは年齢層の幅広いファンが来ていました。後方から見ていると、禿げ頭や白髪頭が目立つほどです。そして、コンサートが始まり、ユーミンが歌いだすと、曲の合間などに最前列のファンが差し伸べる手に握手し続けるユーミンがいました。必要以上に威張ってないし、人間性あふれる人だなと思ったものです。

テレビの歌謡番組には出ない、そんな「ニューミュージック」の先駆けで、思いっきり個性を打ち出してきたユーミンです。確かニューミュージックでひとくくりにされるのは嫌だという発言もあったような。それでも、彼女には『Neue Musik』というベストアルバムがあるんですね。嫌っていたテレビにもついに紅白に登場し、数回「SONGS」にも出演しました。

最後にワタクシがユーミンを知るきっかけになった曲でお別れしましょう。

 

1975年リリースのシングル、「ルージュの伝言」でした。映像は2016年のものです。当時、62歳ですか。ほぼ風貌は変わりませんが、二の腕あたりはまあしょうがないかな。

当時のチャートは45位というものですが、ラジオで流れてきたものと思います。原曲ではキャラメルママは使われてませんが、バックコーラスに山下達郎、吉田美奈子、大貫妙子らを起用しています。ビッグになるユーミン以前の曲ですが、この曲も後年「魔女の宅急便」で使用され見事に日の目を見たと思いますね。

なお、今回の記事はスクムビットさんがご自分のブログでつぶやいていたことからインスパイアされたものです。長らくお時間いただきました。

★引き続きリクエスト、ご要望等募集いたしております。

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2020年8月13日 (木)

う~ん、マンダム

かすてら音楽夜話Vol.89

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ほぼ、現在の若い人にはわからないと思いますが、このブログの読者には当たり前のように理解できる話です。

A「お前、顎に何かついてるよ」
B(手のひらで顎を撫でる)
A「う~ん、マンダム」

それほど影響力の強いCMでございました。

現在の株式会社マンダムですが、もともとは「丹頂チック」という頭髪をスティック状のもので固めて整髪する男性化粧品会社で、社名も丹頂でした。ところが、資生堂がMG5という男性化粧品シリーズを発売すると、会社はジリ貧状態となり、倒産の危機を迎えます。

そこで、1970年にチャールズ・ブロンソンをCMに起用したマンダムシリーズを発売すると、これが大ヒットし、社名もマンダムに変更し現在のマンダムがあるわけで、チャールズ・ブロンソンは社の救世主だったわけです。ちなみに、CMの監督はあの大林宣彦氏でした。

そのCMをバックに流れるのが次の曲です。お聴きください。

 

この曲はアメリカのカントリーシンガー、Jerry Wallace(ジェリー・ウォレス)の「Lovers Of The World」(邦題:男の世界、再リリース時は、マンダム~男の世界)です。原題と邦題がややニュアンスが違いますが、曲中では確かに「♪Mandom」と歌う個所はあります。

CMではブロンソンは演技をするだけで、吹替の大塚周夫さんが「う~ん、マンダム」といっていたのではないかと思います。

でも、これは曲も大いに当たりましたね。当然アメリカではシングルカットもされてないCM用の曲ですが。でも、これは歌詞も曲もジェリー・ウォレス自身が作りました(別の作者がいるという説もあります)。

日本限定の曲でしたが、その後、日本人歌手によってカバーされます。

まずは、尾崎紀世彦ヴァージョン。

 

それにしても、ここで尾崎紀世彦を2回も取り上げるとは思いませんでしたよ。演奏のアレンジはややオリジナルと異なりますが、歌は原曲に忠実ですね。英語も上手いです。

ブロンソンと比較すると迫力はやや弱いですが、キャラ的にはだいぶ濃いですよね。もしかして、マンダムの二代目キャラクターを狙っていたとかじゃないだろうな。

お次は斎藤任弘ヴァージョン。

 

この方、ネット検索してもほぼ情報がないのですが、カントリー&ウエスタンのシンガーのようです。

この曲の情報もないのですが、ジェリー・ウォレスのリリースと同じ年に日本語詞をつけて発売されています。シングルだったんですね。日本語詞の作者もわかりません。もしかして、本人か。

歌は日本語なんですが、途中の西部劇風の効果音と被った形の台詞は英語ですね。尾崎紀世彦がジェリー・ウォレスを踏襲しているとしたら、この方は少しでもオリジナリティを出したかったのでしょうか。

なお、1972年に細野晴臣のプロジェクトに参加し、カントリーのコンピレーションアルバムに参加してます。ちょうど「はっぴいえんど」の末期で松本隆もドラムスで参加してますね。

最後にブロンソンズをどうぞ。

 

ブロンソンズとは、みうらじゅんと田口トモロヲによるユニットです。台詞はあの大塚周夫さんが担当しています。とんでもない台詞ですが。

二人ともチャールズ・ブロンソンの「男気」に意気投合し雑誌連載から発展してCDデビューまでしてしまったものですね。仕掛け人はもちろん、みうらじゅんでしょう。

みうらじゅんは平成初期のバンドブーム時に業界人と「大島渚」というバンド名で「イカ天」に出演し、「カリフォルニアの青いバカ」をいう曲を演奏しアルバムもリリースするほどでした。1995年リリースのシングルがこの曲ですが、当時みうらじゅんにはチャールズ・ブロンソンが降りてきたに違いありません。

田口トモロヲは現在落ち着いた仕事が多いですが、伝説のパンクバンド、「ばちかぶり」のヴォーカルでしたから、同学年のみうらと共感することも多かったのではと思います。

現在の田口トモロヲのような立ち位置の人で、うじきつよし、陣内孝則、赤坂泰彦などが降りますが、いずれもミュージシャンでした。

25年前のブロンソンズですが、テンガロンハットにジーンズ、ウエスタンシャツ、付け髭というファッションでした。とても、チャールズ・ブロンソンほどの迫力はありませんでしたが、現在のみうらじゅんは髭も自前でいい味出してます。

わたしゃ、一部マンダム製品を使ってますが、特にチャールズ・ブロンソンに感化されたことはありません。現在の男性化粧品業界ではあのような男くさいキャラクターはNGなんだろうな。今なら、加齢臭対策のボディソープとか、汗をかいたときにふき取るボディシートとかあるんですが、そういうCMはなんかあざといかも。

ブロンソンならこう言うね。「う~ん、マンダム」

1曲目ジェリー・ウォレスの「Lovers Of The World」と4曲目ブロンソンズの「マンダム~男の世界」はそのままだと再生できませんので、再生ボタンをクリック後、YouTubeに飛んでください。お手数かけます。

☆一部訂正・加筆しました。

★引き続きリクエスト、ご希望受け付けてます。

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2020年8月 4日 (火)

カルトな洋楽カバーPart2

かすてら音楽夜話Vol.88

Hw0606

<アラワイ運河>KP/DA21mm

梅雨明けしましたね。そして連日暑いです。

そして、ネタ切れの定番、ミュージックトークのお時間がやってまいりました。連日の半自粛状態ですから、音楽のネタはいくらでも涌いてまいります。今回、カルトな洋楽の日本語カバー後編です。

前編はごく普通のシンガーが洋モノを日本語で歌う意外な人の組み合わせでご紹介いたしました。今回はアレンジが凝っていたり、裏方に凄いミュージシャンが演奏していたりする、音楽性の高いものです。でも、かな~りカルトです。

では行ってみましょう。

1曲目

 

小林麻美「雨音はショパンの調べ」でした。

原曲はイタリア人歌手のGazeboの自作曲「I Like Chopin」です。1983年にヨーロッパ各国でヒットし、日本でもオリコン洋楽チャート1位、週間シングルチャートでも9位にランクした曲です。ユーロ圏のヒット曲は比較的鳴り物入りで登場するのですが、日本では期待外れというか半分コケた人たちが多いですね。アラベスクだの、ボニーMだの、ジンギスカンなどなどありますけど、ほぼディスコ御用達みたいな使われ方をしました。成功したといえるのはABBAくらいでしょうか。

それでも、ガゼボは成功したほうでしょうか。ワタクシ的にはあまり聞き覚えがないのですが。

麻美さんの「雨音はショパンの調べ」ですが、日本語詞はあのユーミン(松任谷由実)が書いているのです。リリースは1984年でした。当時麻美さんは30歳。以前はアイドルとして1972年に「初恋のメロディ」でデビューしていますが、アイドルとしては大成せず、モデルや女優として活動していました。彼女の出演作として1980年の「野獣しすべし」があり、松田優作に射殺されてしまうという役を演じています。

アイドルとしてデビューした時もハイレベルな美人でしたが、この曲をリリースしたころはかなり退廃的な気配を纏っております。いわば大人の女ですね。いやあ、デビュー当時はすごい可愛かったですね。単純比較はできませんが、今でいうなら白石麻衣か齋藤飛鳥かといったところです。

この「雨音はショパンの調べ」の後しばらくは歌手活動を継続していましたが、1991年に所属事務所の社長、田辺昭知と結婚・引退いたしました。

2曲目

 

金沢明子「イエローサブマリン音頭」でした。

原曲はもちろんビートルズの「Yellow Submarine」です。これを音頭にアレンジしたのは、植木等やクレージーキャッツのほぼ全曲を作曲した萩原哲晶です。そして、日本語詞はあの松本隆ですね。プロデュースは大瀧詠一が担当しました。1982年のリリースです。

イントロや間奏はいかにも萩原さんらしさが出ています。萩原さんは東京音楽学校(現在の芸大)出身で、非常に真面目な人だったそうです。その真面目な人がコミカルな曲を真剣に取り組んだわけです。代表作「ハイ!それまでヨ」のムード歌謡調からのどんでん返し、ツイストで締めるあたりが真骨頂でしたね。なお、萩原さんはこの曲が遺作となりました。

アレンジとは別に曲中に様々な効果音が入っていますが、これは大瀧さんの仕事でしょう。原曲の「イエローサブマリン」も同様の遊びが入っていて、これを見事に踏襲しているわけです。

そして曲のエンディング、数名がわけの分からないことをつぶやいたり叫んだりしています。一番最初の「はざまけんじ」はビートルズの「イエローサブマリン」のカップリング「Eleanor Rigby」の歌詞に登場する「ファーザー・マッケンジー」からいただいたものです。これは杉真理が担当しています。次の「魚雷発射用意!」は伊藤銀次ですね。次の短い言葉はディレクター(平井夏美)と大瀧詠一で、ラストの叫びは佐野元春です。当時並行して製作されていたコンピレーションアルバム『Niagara Triangle Vol.2』のメンバーと佐野のバックバンドにいた伊藤銀次が加わったものです。

聴いただけではおふざけで作った感じですが、手はかかっていますね。こういうものほど、手抜きしてはいけない丁寧な作りが必要なのでしょう。一応、この曲はポール・マッカートニー公認だそうです。それにしても、金沢さんよくこのオファーを受けたものです。

3曲目

 

忌野清志郎「サントワマミー」でした。

原曲はベルギー人歌手のSalvatore Adamo(アダモ)の「San Toi Ma Mie」です。曲もアダモが書いてます。アダモ自身も「雪が降る」などを日本語でリリースしたりしてまして、日本語ばかりでなく、各国の言葉で自分の曲を歌っているみたいです。

「サントワマミー」は越路吹雪が最初にカバーしていて、日本語詞は岩谷時子です。ただ、越路ヴァージョンは元々男性の視点で書かれたものを女性に置き換えて岩谷さんが書きました。清志郎は岩谷さんの詞をもとに独自に自分で修正したものを歌っています。見事にロックになってます。

元々は全曲洋楽カバーの『Covers』というRCサクセションのアルバムに収録されていたものです。YouTubeの日比谷野音の映像ではすでにRCは解散していたので、ソロの表記なんですね。

この『Covers』というアルバム、原子力発電所批判の内容だったり、かなりの社会的メッセージを含んでいます。当時RCが所属していたのは東芝EMIというレーベルで、親会社の東芝が原発を作っていることからお蔵入りし、かつて所属していたキティレコードから発売になりました。

清志郎はこれ以降、さらに社会的なメッセージを強めていくのですが。現在の日本のコロナの状況を、清志郎が存命だったら間違いなく曲にして我々に届けてくれたと思います。

さてさて、本当はもっとすごいカバーがあるんですが、なんとYouTubeに上がってませんでした。その曲はザ・ナンバーワンバンド「六本木のおじさん」です。ザ・ナンバーワンバンドはあの小林克也がリードヴォーカルを務めるプロジェクトですね。「六本木のおじさん」はOtis Reddingの「The Dock Of The Bay」のカバーです。

内容は元歌からものすごくかけ離れています。毎日六本木で遊ぶに遊べず女性にもてあそばれて…というものです。そのおじさんがふと我に返り、久しぶりに自宅に帰ったら妻がいなくて、年老いた母親だけが待っていたので、おじさんは妻を探しにまた出ていき、二度と戻ることはなかったという、セリフで語られます。そして、最後に年老いた母親に見えたのはおじさんの妻でしたという超ブラックな内容。すごい引っかかる曲なんです。誰か音声だけでもいいからYouTubeに上げてくれないかな。

★引き続き、リクエストお待ちしています。コメントもらえますと、さらに嬉しいです。

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2020年7月29日 (水)

追悼天才ダイナマイト娘

かすてら音楽夜話Vol.87

Hw0917

<夏休み>KP/DA21mm*イメージです。

歌手の弘田三枝子さんがお亡くなりになりました。享年73歳。1947年の早生まれで沢木耕太郎の1学年上ということになります。

Hirota1

<デビュー当時>

彼女は1961年にデビューいたしました。まだ14歳の中学生ですね。

ここでお断りしておきますが、ワタクシ当時はこの世にいたことになってますがまったく記憶にございません。後年の「人形の家」では大人たちが「あの弘田三枝子が…」という感想を話していたのを覚えていますが。

ですが、この中学生、とんでもない才能の持ち主だったんですね。ともあれ、デビュー3曲目のこちらをお聴きください。

 

弘田三枝子「ヴァケーション」でした。

天童よしみのところでも紹介した曲ですが、イタリア系アメリカ人、コニー・フランシスの「Vacation」の輸入ポップスということになります。当時は、輸入ポップスに日本語詞をつけて日本人シンガーが歌うものがある種流行っていました。「Vacation」にしても伊東ゆかりとの競作になりますが、もう弘田三枝子の2ラウンドノックアウト勝ちでしょう。ちなみに伊東ゆかりヴァージョンは「ヴァケイション」という表記です。

弘田三枝子ヴァージョンですが、最終版のリフレイン、かなりアドリブが取り入れられています。制作側のアドバイスもあったにせよ、「One more time」とか「Woo」とかのフレーズを15歳の少女が乗りに乗って歌いきってしまうというのは、天才であるといい切ってしまいましょう。後年、日の目を見ることのなかった松原みきというシンガーも、わずか19~20歳くらいでこういうノリを曲でやっていますが、15歳ですよ。こうしたことができるというのは天性のもの以外にありません。

弘田三枝子と伊東ゆかりなんですが、生まれは同じ年ながら弘田三枝子のほうが1学年上でした。ですが、伊東ゆかりは11歳でプロデビューしてます。そしてどちらも米軍キャンプで歌っていました。プロキャリアでは伊東ゆかりのほうが長いですが、歌うことに関しては弘田三枝子のほうが培ってきたものがはるかに勝っていたことになりますね。

ちなみに、伊東ゆかりはナベプロ所属であり、その後も安定してシングルをリリースし、長いキャリアを築きました。所属事務所の違いがその後の弘田三枝子のキャリアにある程度は影響しているでしょうね。

Hirota2

<人形の家当時>

弘田三枝子のその後ですが、洋楽カバー等をリリースするものの、次第に人気が低迷。日本の職業作家の曲も歌うようになります。あの、筒美京平作品も歌うようになるのですが、1969年にリリースしたこの曲が大ヒットし、2年ぶりに紅白歌合戦に出場することになります。

 

弘田三枝子「人形の家」(作詞:なかにし礼 作曲:川口真)でした。この曲で日本レコード大賞歌唱賞も受賞しています。

この曲、オリコンシングル週間チャート第1位、45万枚の彼女の最大のヒットとなりました。曲調も「ヴァケーション」とは全く違う悲しげな曲ですので、アドリブを入れるどころじゃありませんよね。

わずかにサビの「♪私は あなたに 命を 預けた」の部分の「あなた」が「ハナタ」というように聴こえる部分がせめてもの過去をたどれる部分でしょうか。

いや、それにしても大変身です。おそらくはダイエットも美容整形もしたのだろうとは思います。イメージまったく違うもんな。当時、まだ22歳でしたが、すっげえ大人に見えたもんな。

この曲にはオマケもありまして、「ミコのカロリーBOOK」というダイエット本が売れることになりました。

カムバックといっても紅白には2年ぶり。「ヴァケーション」と「人形の家」の間にどんなことをしていたのか調べていましたら、面白い曲がありました。お聴きください。

 

弘田三枝子「渚のうわさ」(作詞:橋本淳 作曲:筒美京平)でした。

1967年、それでも20歳の時の曲です。これも、30万枚のヒットとなりました。なんと、筒美京平氏初のヒット曲だそうです。ここから橋本淳氏とのヒット路線が築かれるようになります。

「ヴァケーション」のころの弾けるような歌いっぷりも残されてますね。

ドメスティックな歌謡曲といった感じですが、当時はすでに洋楽を日本語で歌うというトレンドは消滅し、そちらの感性はGSに流れていった頃かと思います。やっぱり、弘田三枝子は「ヴァケーション」ですね。

ここからは余談です。

「ヴァケーション」の歌詞(灘健児)に「♪マッシュポテトを水辺で あの人と踊ろう」という部分があります。伊東ゆかりヴァージョンも同じなんですが。当時、「マッシュポテト」というものが一般庶民はわからなかったといいます。ですが、これは料理名ではなく、当時のアメリカで流行っていたツイストのひとつの踊り方なんですね。訳詞の灘健児も含めてわかっていた人がいたかどうか。料理名を理解しても水辺で踊る?意味不明ですよね。

また、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」、サビの「♪心から好きだよチャコ」のチャコは飯田久彦。2番では「ミコ」になって、弘田三枝子が登場します。3番は「ピーナッツ」です。

桑田佳祐にも絶大なる影響を与えた弘田三枝子。この国はひとりの天才を失ったことになりますね。合掌。

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2020年7月18日 (土)

カルトな洋楽カバーPart1

かすてら音楽夜話Vol.86

Hw0912

<カイルアコナ>KP/DA21mm*イメージです

いまだに半分ステイホーム状態なんですが、やたらめったらYouTubeを見ております。必ずしも音楽ものばかりではありませんが、時に引っかかるものが出てまいります。

今回取り上げるのは、洋楽カバーです。つまり、あちらの作者によって作られた楽曲を日本在住のシンガーやグループが歌ったものです。こういう分野になりますと、もともとあちらに志向のある人が出てきます。例えば、尾崎紀世彦とか朱里エイコですね。朱里さんなどは16歳で単身渡米しあちらのショウビズを経験してますから、英語で歌って全く不自然さを覚えません。尾崎さんはカントリー&ウエスタンバンドなどにいて、スタンダードナンバーも得意としていました。

こういう人たちを取り上げてもいいのですが、今回はもうちょっと掘り下げて、洋楽の大ヒットを日本語の歌詞で歌う、意外な人を取り上げたいと思います。

1曲目

 

ゴールデンハーフ「ゴールデンハーフのロコモーション」でした。

おそらく今回取り上げる曲の中では、唯一シングルカットされたものです。原曲は「The Loco-Motion」といい、1962年にLittle Evaが歌い、ビルボード週間シングルチャートで1位を獲得しています。また、1974年にGrand Funkというハードロックバンドがカバーし、またしてもビルボード週間シングルチャート1位を獲得しています。

でも、「ゴールデンハーフのロコモーション」は1973年リリースなので、グランドファンクよりも早いですね。

原曲の作詞はGerry Goffin。作曲はCarol Kingです。ゴーフィン&キングは当時のヒットメーカーでキャロル・キングはのちにアルバム『Tapestry』(邦題:つづれ織り)、シングル「It's Too Late」でメガヒットを記録し、グラミー賞4冠を獲得しています。まあ、すごい人の作品なわけですよ。

この曲はぶっちゃけ、子供向けでして、当時夫妻であったゴーフィン&キングのベビーシッターであったリトル・エヴァが歌ったものですね。日本語詞はあらかはたかし(音羽たかしのペンネームもあり)がつけました。ゴールデンハーフ以前には伊東ゆかりがカバーしてます。オリコンのチャートが不明なんですが、当時ゴールデンハーフは「8時だヨ!全員集合」にレギュラー出演してましたので、それなりにヒットしたと思います。

さて、ゴールデンハーフですが、デビューは「黄色いサクランボ」で当時は5人組。すぐに一人抜け、4人組になりました。「ゴールデンハーフのロコモーション」当時も4人組でしたが、直後に一人が脱退し、3人組となりました。YouTubeの映像は3人ですね。全員集合のレギュラーであったということは、ナベプロ所属です。

全員がハーフであるというのが売り文句でしたが、この映像で残った3人だけが正真正銘のハーフですね。ステージに向かって左がルナ、センターエヴァ、右がマリアですね。ハーフであることからか、デビュー曲のみが日本人の作った曲で後のシングルはすべて洋楽のカバーでした。とはいえ、所詮はB級アイドルです。1974年に解散いたしました。

2曲目

 

小山ルミ「カム・トゥゲザー」でした。

原曲はいわずと知れたBeatles「Come Together」です。作者はJohn Lennon&Paul McCartney。これまたビートルズのヒットナンバーですね(ビルボード週間シングルチャート1位)。小山ルミのカバーはシングルカットされてません。おそらく、アルバム『ビートルズを歌う』の中の曲ではないかと思われます。日本語詞は千家和也です。

小山ルミさんも実はハーフですね。そしてこれまた「全員集合」に出ていたような気がします。加藤茶との交際も噂になりました。

カバーなんですが、かなり原曲に忠実なアレンジです。特に、リンゴ・スターのドラミングを忠実にコピーしてますね。ジョンの歌詞はかなり難解とされ、千家さん見事に女性の視点で言葉をつけたといえますね。

それにしても、なんで小山ルミがビートルズのカバーアルバムを出したのか。まるで意図がわかりません。歌い手のわがままが通るほど、当時の芸能事務所は甘くないので、逆に事務所側の意向があったのでしょうけど。ヒットするとか思っていたのでしょうかね。

色々調べていて、すごいことを発見。小山ルミは、海道はじめ「スナッキーで踊ろう」のバックコーラスに加わっていたそうで。トーマスさん、情報お持ちでしたら教えてください。

3曲目

 

草刈正雄「アローン・アゲイン」でした。

原曲はGilbert O'Sullivanの「Alone Again(Naturally)」です。これまた、ビルボード週間シングルチャート1位獲得曲です。

アレンジは原曲とはだいぶ違っていますが、草刈さんのヴォーカル部分はギルバート・オサリバンの抑揚を抑えた歌い方に忠実だと思いますね。日本語詞は山上路夫です。その言葉もかなり原曲に近いですね。かなり内省的で暗い内容ですけど、ギルバート・オサリバン同様、さらっと歌ってます。

個人的にはギルバート・オサリバンの「Get Down」がもう少し感情を込めた曲で好きなんですが。草刈さんの「アローン・アゲイン」はシングルカットされてないですね。いくつかのアルバムでの収録曲のうちのひとつですね。映像はそのアルバムジャケットでしょうが、どことなく「大草原の小さな家」のお父さん風。相変わらず爽やかでございます。

4曲目

 

天童よしみ「ヴァケーション」でした。

原曲はConnie Francis「Vacation」です。1962年のヒット曲ですが、残念ながら9位止まり。でも、日本では弘田三枝子や中尾ミエなどがカバーしてます。日本語詞は灘健児です。おそらく、アメリカよりも日本での知名度が高い曲です。

民謡出身で「田舎っぺ大将」の「大ちゃん数え唄」の天童さんがそれほどこぶしを回さず歌い上げてます。この意外性ですが、全曲洋楽カバーのアルバムを出しているみたいですね。

YouTubeではその他の洋楽カバーも上がっているのですが、中にはまるでこぶしを回さず歌い上げるものもありました。まあ、あれだけの優れたシンガーですから、何を歌っても上手なんでしょうね。

こちらの「ヴァケーション」のカバーでは少しこぶしを回しているのですが、それは日本で最も「ヴァケーション」でのダイナマイトのようなヴォーカルを聴かせた弘田三枝子に敬意を表してのものではないかと思います。

第2弾あります。次はやはりカバーですが、もっとカルトな曲です。でも、音楽性は高かったりして。

★引き続きご意見、リクエストお待ちしています。

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2020年7月14日 (火)

旅に出たくなる曲・番外編

かすてら音楽夜話Vol.85

Hw0388

<ハレイワ>KP/DA15mm

旅に出たくなる曲、番外編です。

1回目が日本の曲で日本をテーマにしたもの。2回目が海外の曲で海外の旅をイメージしたものでした。その範疇に収まりきらないものになりますね。今回、5つくらい出しちゃいます。

1曲目

 

浜田省吾「家路」(作詞作曲:浜田省吾)でした。

今回のコンセプトは日本語曲で海外をイメージするというものです。浜田省吾でいうと、「America」とか「夏の終わり」がふさわしいのですが、YouTubeの公式チャンネルに上がってませんので、映像的にいいかなと思い選ばせてもらいました。

この曲は1980年発売のアルバム『Home Bound』に収録され、アメリカでの録音です。歌詞についてはアメリカで書いたとのことです。YouTubeでの音源はリメイク版で2006年のベストアルバム『The Best Of Shogo Hamada Vol.2』のものです。

浜田省吾は基本的にテレビに出ない人ですが、プロモーションビデオは積極的に作っているほうですね。この「家路」の映像はおそらく、ハワイ、ニューヨーク、メキシコあたりで撮られていますが、かなりの部分が過去の映像を編集したものだと、ワタクシは考えてます。

その映像なんですが、出演する女性が最後に海に向かって遺骨らしきものを撒くシーンがあります。どこか意味深ですが、浜田省吾には「サイドシートの影」という曲があり、運転中に助手席に向かい「眠ってなよ。朝が来たら起こすから」と語りかけ、最後の最後で「そこには誰もいない」という内容です。これを女性に演じさせている感じですね。その「サイドシートの影」と前述の「夏の終わり」を収録した1990年のアルバム『誰がために鐘は鳴る』では精神的に参ってしまい、「このままひっそりと引退してもいいかなと思った」とも述べています。

アルバムで「家路」を聴いただけではなんとなくドメスティックなイメージなのかなと思っていたのですが、アメリカでの作詞であることと、映像的に素晴らしいものなので、選ばせていただきました。

浜田省吾も精神的なトラブルから立ち直り、今なお現役です。なんと今年68歳になるのですが、2015年にリリースした今のところ最新のアルバム『Journey Of A Songwriter』はオリコンの週間アルバムチャートで1位を獲得していて、これは日本人アーティストの最年長記録です。

2曲目

 

佐藤奈々子の「サブタレニアン二人ぼっち」(作詞:佐藤奈々子 作曲:佐藤奈々子、佐野元春)でした。

さて、「Subterranean」とは、Google先生によると「地下」と出てきます。ボブ・ディランの「Subterranean Homesick Bruce」なんて曲もあるようですし、深読みすれば「地下鉄構内の人」みたいなことでしょうか。バンコクや台北の地下鉄にはほとんど見かけませんが、パリやロンドンの地下鉄には職業ミュージシャンやパフォーマーがいます。ニューヨークにもいるでしょうね。

イメージ的には東京メトロ、もとい当時の営団地下鉄や都営地下鉄ではなく、ニューヨーク地下鉄あたりではないかと。アメリカ英語だし。その地下鉄を縦横に駆使する恋人たちという描写でしょうか。

さて、佐藤奈々子ですが、いうなれば不思議ちゃんです。1955年生まれで杉真理や竹内まりやと同じ慶應義塾大学卒業です。つーことは、B級グルメの巨匠でYouTuberのあの方もキャンパスですれ違っていたかも。

奈々子さんですが、音楽サークルに入っていて、立教にいた佐野元春と出会い音楽活動を共にするようになります。二人の共作の「綱渡り」という曲がシンガーソングライターコンテストの最優秀作詞賞を受賞し、1977年に大学在学のままアルバム『Funny Walking』でデビューします。「サブタレニアン二人ぼっち」もこのアルバムに収録されています。

まだ大学生ですからね。プロの世界ではプロのアレンジャーが付くのですが、佐野元春が奈々子さんに表現してもらいたいような感じには仕上がらなかったようです。とはいえ、まだまだアマチュアの佐野元春は自身でアレンジする力量もなく、やがて奈々子さんとは袂を分かつことになります。

クレジットでは奈々子さんの作詞ということになってます。ですが、初期の頃は作詞を佐野元春が指導していたらしく、「サブタレニアン」などという言葉をとっても21~22歳の不思議ちゃんにはとても出てこないものですね。でも、当時の奈々子さんも佐野元春も日本国外には出たことはなかったのではないでしょうか。かなり背伸びした二人ですよね。なお、この曲のアレンジャーは大野雄二ですね。

その後の奈々子さんはさらに3枚のアルバムをリリースし、Spyというグループに加わります。「サブタレニアン二人ぼっち」、歌は決して上手くありませんがどこか引っ掛かり、耳に残らないでしょうか。ほかの曲も聴いてみたくなりません?なお、奈々子さんはカメラマンに転向後、とてもゆっくりなペースでアルバムなどもリリースしています。

3曲目

 

庄野真代の「ルフラン」(作詞作曲:庄野真代)でした。

この人の場合、大ヒット曲で紅白歌合戦にも出場した「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平)があるじゃないかとご指摘を受けるはずです。

lastsmileさんご指摘の久保田早紀「異邦人」あたりと同時期なもので、いろいろ探したんですよ。もちろん「飛んでイスタンブール」は浮かびました。でも、これが出てきたんですよね。

「飛んでイスタンブール」も「ルフラン」も1978年リリースのアルバム『ルフラン』収録です。ワタクシの財政的な問題で、このアルバムは2年遅れくらいで購入しました。理由は「飛んでイスタンブール」が入っていたからです。でも、アルバムのラストナンバーである「ルフラン」のほうがしっくり来たんですね。

曲のイメージ的には旅をしていてバスか列車に乗っていて、それが最終目的地に向かっている。そして翌日には帰国する。車窓を見ながら旅のシーンを「繰り返し」思い浮かべる。といったところですかね。ま、当時のワタクシは第二外国語にフランス語を取りましたが、「Refrain」を「ルフラン」と発音するということに気づいていなかったです。なんとモチベーションの低い人間だったか。

真代さんですが、あまりにも「飛んでイスタンブール」(彼女の最大のヒット)の印象が強すぎて、当時のニューミュージック出身のシンガーソングライターであることに気づかない人も多いのではないでしょうか。

「飛んでイスタンブール」にも触れておきましょうか。もともとは、京平さんが野口五郎のために作曲したものだったそうです。でも、京平さん自身がこの曲は女性の声のほうがあっていると判断し、いったんお蔵入りします。それが真代さんで蘇ったのですね。まるで韻を踏むようなちあき哲也の作詞はやりすぎ感もありますが、インパクトありますよね。そして、中東風のアレンジは船山基紀で京平さん直々のオーダーだったそうです。

これがヒットしたので二匹目のどじょうでリリースされたのが「モンテカルロで乾杯」(作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平)です。またもや大げさなアレンジですが、これは京平さんが担当しました。

真代さんの曲には「スロウボートでチャイナへ」とか「シンガポール航海」など、ワールドワイドなタイトルの曲が並びます。ご本人も海外に出かけていろいろな支援活動を行っているようです。

おまけ

 

説明いらんですね。PUNCH先生の「ラウ・コン・トン・ペン・フェーン・カン」。

あー、バンコク行きてー。

★引き続き、リクエスト、テーマ等募集しております。

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2020年7月10日 (金)

旅に出たくなる曲・洋楽編

かすてら音楽夜話Vol.84

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<旅の風景>K-7/DA16-50mm*イメージです

旅に出たくなる曲、第2弾。第1弾はドメスティックということで、日本の楽曲で日本の旅をイメージするものをセレクトいたしました。今回は海外の楽曲(といっても英語圏のものですが)で海外の旅をイメージするものを選びました。

では、行ってみましょう。

1曲目

 

Olivia Newton-John(オリビア・ニュートンジョン)の「Take Me Home, Country Roads」(邦題「故郷へ帰りたい」)でした。

これはかなり古い曲ですが、スタジオジブリのアニメ映画でも主題歌になっていますので、結構幅広い年齢層に知られていると思います。

オリジナルはJohn Denver(ジョン・デンバー)というカントリー歌手が1971年に歌ったものです(ビルボード誌週間シングルチャート2位)。オリビアのカバーは1973年ですが、アメリカでは100位圏外です。

ではなんで、オリビアのカバー版かというと、日本でもこの曲がシングルカットされ、オリコン洋楽チャートでは堂々の1位だったんですね。でも、まだまだ日本での知名度はいまひとつだったんですが、1974~1975年にかけての「I Honestly Love You」(邦題「愛の告白」)と「Have You Never Been Mellow」(邦題「そよ風の誘惑」)のビルボードシングル週間チャート連続1位によって、知られるようになりました。

それによって、日本でもラジオ等で特番が組まれ、この曲も含めて過去のシングルなども紹介されました。テレビなどでもオリビアの顔とか映像が流れるようになったと思います。あのルックスですからこりゃ売れますよ。声もさわやかですし。

個人的にはジョン・デンバーでもいいのですが、ノリがカントリーぽくオリビア版のアカペラコーラスから始まるこちらが好みです。ジョン・デンバーよりもテンポもやや速くて好きですね。

オリビアはその後デュエットを含めて3曲の全米1位を獲得しています。ジョン・デンバーは1997年に自分で操縦したプロペラ機の事故で亡くなってます。

2曲目

 

Electric Light Orchestraの「Last Train To London」(邦題「ロンドン行き最終列車」)でした。

エレクトリックライトオーケストラ(以下ELO)は映像からわかるように、ロックバンドとクラシックの弦楽器を合体させたグループです。あまりないタイプですよね。

日本では後追いみたいな感じですが、上田知華+KARYOBINや葉加瀬太郎のクライズラー&カンパニーなどがありますが、いずれも音大系のクラシック畑の人が始めたグループですね。ELOのリーダー、Jeff Lynn(ジェフ・リン)はマルチプレイヤーではありますが、クラシック系の楽器を演奏する人ではありません。

男性のみのバンドで、ルックスもすっかりおっさんばかりなんですが、アメリカやイギリスはこういう人たちでも、音がしっかりしていればそれなりにヒットするんですね。この曲を含むアルバム『Discovery』はELO最大のヒットとなりました。

この曲には「Last train to London」という、どこかの駅のアナウンスが入っているそうです。でも、ロンドンには「ロンドン駅」はないんですよね。ヴィクトリア駅とかウォータールー駅とかですね。深読みすると地方の人が土地勘のないロンドンに行くようなものでしょうか。それも、窓の外が真っ暗で駅の明かりしか頼るものがないといった不安感があふれた感じですかね。

ちなみに、その後のELOは映画「Xanadu」で前記のオリビアと曲を出しています。

3曲目

 

Linda Ronstadtの「Desperado」(邦題「ならず者」)でした。ちなみに、シングルカットはされてません。

オリジナルはEaglesでドン・ヘンリーとグレン・フライの作品です。イーグルス版では同名タイトルのアルバムに収録されています。これはコンセプトアルバムで、アメリカ開拓時代のギャングがテーマとなったものです。

これをリンダがカバーすることになったのは、もともとイーグルスはリンダのバックバンドとして集められたグループだった関係からでしょう。

この前の記事内のコメントでlastsmileさんが井上陽水の「積み荷のない船」を挙げていらっしゃいましたが、その「劇的紀行・深夜特急」ではオリジナルのテレビ版、第二便の「西へ!ユーラシア編」のラストで、この曲が使われました。場面は大沢たかお扮する沢木耕太郎がイランのどこかでヒッチしたピックアップトラックから放り出されるところです。テヘランへ行くはずが、途中の砂漠のようなところで降ろされてしまったシーンですね。

テレビ版ではLed Zeppelinなども効果的に使われていたのですが、のちのビデオやDVD化にあたり、この曲を含めほとんどが「積み荷のない船」に差し替えられていたんですね。著作権料などの問題もあったんでしょうけどね。でも、イランの砂漠の街道で「Desperado」と「積み荷のない船」では印象が全く違います。

このシーンは音楽と相まってこのドラマで一番の見どころかもしれません。それだけに残念ですが。で、紹介するのもイーグルスのオリジナルではなく、リンダ・ロンシュタットなのであると。

以上、ワタクシの勝手なセレクトですが、いかがだったでしょうか。まだまだあると思いますよ。ご意見もお待ちしております。

予告ですが、日本の楽曲でも海外の旅を連想する曲がいくつかありますので、第三弾やります。また、よろしくです。

今日のナニコレ

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<布マスク>PowerShot

コロナが長引きそうでございます。まだ不織布のマスクのストックはありますが、通販で買ってしまいました。やっぱりこの時期暑苦しいかも。

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