カテゴリー「Music Talk」の209件の記事

2025年6月 3日 (火)

燃える男

かすてら音楽夜話Vol.209

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今朝、長嶋茂雄氏がお亡くなりになりました。

不肖わしも少年野球(軟式)をちょこっとやってまして、少年たちの憧れといえば、この人だったわけです。当時長嶋氏と並び立つ王貞治氏という存在があったわけですが、生涯成績で打率を除いて王氏が圧倒していたわけですけど、野球選手として魅力があったのはやっぱり長嶋茂雄でしたねえ。

後楽園球場(当時)に連れて行ってもらったこともあり、2試合くらいナイターを観戦したこともあります。その時、長嶋氏はホームランを打てず、ヒットはあったかな。

1974年、長嶋氏は引退することになりますが、最終戦、ダブルヘッダーのドラゴンズとの第一試合で、ホームランをかっ飛ばすという台本にはないことをやってのけます。そして、「巨人軍は永久に不滅です」の名文句が出るわけです。

そして、翌年からジャイアンツの監督となり、1975年はまさかの最下位。しかし、1976、1977年とセリーグを連覇。しかし、その後は低迷して1980年に監督解任となりました。

この時、わが大学(立教ではないです)の一般教養、法学の授業で担当教授が長嶋氏への思いを熱弁し、まともな授業にならず、長嶋論で終わってしまったということもありました。

ま、その後の長嶋氏の経歴は省略させてもらいます。

ちなみにわしの卒業後の話ですが、ゼミ仲間と大学ラグビーの観戦帰りに渋谷に近い某ビルにあるバーで飲んでいたら、隣のボックスでどこか見覚えのある声と顔が。当時、六大学野球で立教旋風が起きていたころのことで、その人物は長嶋一茂氏であったのでした。一応ドラフトの目玉だったんですね。余談でした。

長嶋語録、長嶋語など、独特の言い回しもあり、モノマネの対象にされるなど、なかなかに魅力的な人物であったことは間違いありません。

こういう人物、おそらく今後野球界には現れることはないでしょう。あの大谷だってこうはなれないよ。

つうことで、ちょっと長くなりましたが、このような人物であるからこそ、歌にもなるんです。これ以上はああだこうだいわず、2曲ほどを聴いていただきましょうか。

 

思いっきりベタではありますが、1959年9月リリースのシングル、石原裕次郎「男の友情・背番号3」(作詞:大高ひさを 作曲:上原賢六 編曲:塩瀬重雄)でした。

近年ではこのような曲も。

 

サザンの「栄光の男」でした。

他に、明らかに長嶋氏が出てくるわけではありませんが、馬場俊英に「人生という名の列車」という曲があり、「♪あこがれたのは帽子のYGマーク」という一節も。

 

テイストはずいぶんとバタ臭くなってはおりますが、浜田省吾の「Basball Kid's Rock」で故人を忍ぶことにしましょうかね。ちなみに、浜省はカープファンみたいですが、野球少年だったので長嶋氏のことはさんざん見ているはず。

またひとり、「昭和」を代表するひとりが星になられました。ご冥福をお祈りいたします。

今回緊急でしたが、アップいたしました。下記バナーもクリックお願いしますね。

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2025年5月11日 (日)

有名女優Bの曲+Aの追加

かすてら音楽夜話Vol.208

今回はBから始まる人名の曲をいってみます。

なんといっても有名どころではMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)の「Billie Jean」でしょうか。1983年リリースの曲でビルボード1位、年間シングルチャート2位です。

もう少しさかのぼると、Elton John(エルトン・ジョン)の「Benny And The Jets」があります。こちらは、1974年リリースの曲でやっぱりビルボード1位、年間シングルチャート9位でした。

個人的にはエルトン・ジョンは「Crocodile Rock」(1973年、ビルボード1位)をシングルで購入していたのですが、ジャケットを見て「なんだ、こいつは?」という印象を受け、その後はエルトンとは疎遠になりました。

この企画、人名が入るタイトルの曲ですが、作り手あるいは歌い手が男性ならば、女性のこと。女性ならば男性のことを歌ういわばラブソングとなるのが、当然なんですが、今回取り上げるのは、女性が女性のことを歌うという、ちょっと珍しい例なのかもしれません。

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<ベティ・デイヴィス>

今回取り上げるのは、1981年のヒット曲、「Bette Davis Eyes」(邦題「ベティ・デイビスの瞳」)です。

シンガーはKim Carnen(キム・カーンズ)という人で、シンガーソングライターなのですが、この曲はJackie DeShannon(ジャッキー・デシャノン)という人が書いたカバー曲になります。

「ベティ・デイビスの瞳」ですが、ビルボードで5週1位を続けたのち、オランダの企画グループStars On 45の「Stars On 45(Medley)」に首位を明け渡し陥落しました。しかし、2週後に返り咲き、4週1位を保ちました。つまりは、9週1位を獲得し、1981年の年間チャート1位になったばかりか、その年のグラミー賞、のSong Of The Year(最優秀楽曲賞)とRecord Of The Year(最優秀レコード賞)との二冠に輝いたのです。

ここに登場する、ベティ・デイビスとは、上記の画像の人ですが、アカデミー賞、最優秀主演女優賞を2回獲得した人で、ジャッキー・デシャノンが彼女の映画を見て曲の着想を得たとのことです。

 

それにしても、時代ですかね。打ち込みの電子楽器を多用した構成ですね。電子ドラムの音に合わせての集団ビンタ。ま、実際にはぶったたいているわけではないので、何ら問題ないのですが、昨今の過剰なコンプライアンスでは多少引っかかることもありそうな。

そして、キム・カーンズの何ともいえないしゃがれ声が印象的です。歌詞にはグレタ・ガルボも登場したりしますね。

この頃、個人的には日本で唯一ビルボードのチャートが掲載されている雑誌、「FM fan」を毎週購入しておりました。それを知る前はラジオ関東の「American Top 40」(湯川れい子がパーソナリティで、複数いたアシスタントはその後音楽評論家になってます)を聴いて手書きでチャートをつけていたりしました。ま、眠ったら終わりだし、自宅にいないときはつけられないので、購入したようなものです。

ともかく、「また、キム・カーンズかよ」というくらい毎週流れていて、格別好きでもないのに脳に刷り込まれてしまった1曲です。

余談になりますが、この年、Diana Ross(ダイアナ・ロス)とLionel Richie(ライオネル・リッチー)の「Endless Love」も9週1位を続けましたし、年末に1位になったOlivia Newton-John(オリビア・ニュートンジョン)の「Physical」は年をまたいで10週1位を続けました。流行りの曲は売れ続け、メガヒットとなり1位獲得曲が1970年代より少なくなってきた時代でもありますね。

同じくしゃがれ声で印象的な曲としてはこんなものも。

 

1973年のStories、「Brother Louie」でした。こちら、彼らの唯一のビルボード1位獲得曲。

そして、こちらもカバーです。元々はイギリスのバンドHot Chocolateの曲ですが、アメリカのバンドがカバーしたもの。

「ルイ」という少年のガールフレンドがアフリカルーツにルーツを持つ人で、両親に紹介したところ、別れることになったという悲しい内容です。ちなみに、ホット・チョコレートは全員がアフリカルーツで、ストーリーズは全員ヨーロッパルーツのアメリカ人です。それにしても、ソウルフルです。

まあ、「L」から始まる人名…ともいえますが。

邦楽系では山下久美子の「一枚だけのビリィ・ジョエル」(作詞:康珍化 作曲:佐藤健 編曲:鈴木茂)という曲が、デビューアルバム『バスルームから愛をこめて』に収録されているのですが、残念なことにYouTubeには上がっておりません。個人的にはアナログのLPで所有しているのですが、レコードプレイヤーが壊れていて聴けないっす。ここのところ、中古屋やBook Offを覗いてはCD盤を探しまくっているのですが、なかなか見つけられません。コロムビアさん何とかしてよ。

ググってみたらSpotifyにはあるみたいです。聴ける方はぜひとも一聴を。

おまけ「Alison」

前回のAの人名の曲、アニタツさんからご指摘があった、「Alison」は個人的に思い入れがありますので、紹介してみます。

元々はElvis Costello(エルビス・コステロ)のデビューアルバム、『My Aim Is True』(1977年)に収録された曲です。

個人的には1978年リリースのLinda Ronstadt(リンダ・ロンシュタット)のアルバム『Living In The U.S.A.』(邦題『ミス・アメリカ』、ビルボードアルバムチャート1位)に収録され、シングルカットもされたヴァージョンの方を先に知ってしまったのですね。

大学に入学し、アルバイトでちょっとしたお金が入ることになり、一体型のステレオを購入しました。その余ったお金で、このアルバムを買ったのです。リリースから1年以上あとでしたけど。

 

さすがにリンダは歌がうまいです。アレンジも原曲を踏襲しているような感じです。

ただ、この曲の内容はアリスンというかつてのガールフレンドに対する嫉妬のようなことが歌われているわけで、歌詞も変えてないですから、リンダ側がいい曲であることを踏まえたうえでカバーしたものと思われます。ちょっと女性が歌うには無理があるのかも。

ま、カラオケなどではそういうことに関係なく歌ってしまうこともあります。バンコク、オンヌット在住の某氏などは、タイの女性シンガーの曲を平気で歌いますし、プロでも堀江淳の「メモリーグラス」とか、「ちょっと端っこ歩きなさいよ」のあのお方など、ジェンダーに関係なく女性側のことを女性の言葉でも歌いますからね。

さて、リンダのヴァージョンはシングルカットはされたものの、100位以内にはチャートインしませんでした。

また、アルバム『Living In The U.S.A.』はこれまで提供を受けていたウエストコースト系の周辺のミュージシャンの曲をできるだけ抑え、チャック・ベリーからプレスリー、モータウン系のミラクルズなどのカバー曲を散りばめた意欲作でもありました。ですが、リンダにとってこれが最後のアルバムチャート1位となったのでした。

それまで、エルビス・コステロという人は名前だけは知っていましたが、やっぱりオリジナルの「Alison」が聴きたくて、後年アルバムを入手いたしました。

 

コステロのオリジナルですが、こちらも英米でシングルカットされたのですが、共にチャート入りを逃しています。ただ、アメリカのラジオでは比較的よく流れていたそうで、コステロの代表曲となっていますね。

コステロ、味あるわー。おそらく、売れなかったのはデビュー直後でもあり、よくわからなかったからなのではと思います。アルバム『My Aim Is True』はそこそこ売れているので、大衆全般に知られているというよりも、わかっている深いリスナーは確実に買っていたということでしょうか。

リンダはよほど気に入ったのか、次のアルバム、『Mad Love』(邦題『激愛』)でも、コステロに3曲発注し、収録されています。

次回、「C」から始まる人名ということになりそうですが、別のネタ探しも行っておりますので、どうなりますことやら。

こんなものもあるよという方は、コメント等でお知らせください。バナークリックもよろしくお願いします。

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2025年4月21日 (月)

アンジーまたはアンジェリーナ

かすてら音楽夜話Vol.207

1か月以上もブランクを作ってしまいました。すんません。

ちょっと旅に出ていたもので、もうひとつのブログでそっちのレポートをやっておりまして、写真をものすごく撮ってくるので、画像のちょっとした加工にも結構時間が割かれるといった状態です。

さて、今回の記事、〇で始まる人名がタイトルの曲。おそらく、シリーズ化すると思いますが、いいネタを思いついたときはランダムにそちらを挟んでやっていくつもりですので、どちらも反応よろしくお願いします。

第1回目ということで、「A」から始まる人の名前。個人的には思い入れも深い、The Rolling Stonesの「Angie」(邦題「悲しみのアンジー」)でございます。

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1973年1月、ストーンズはアルバム『Goats Head Soup』(邦題『山羊の頭のスープ』)の収録と並行しながらパシフィックツアーの一環として、初の日本公演が予定されていました。

ですが、Mick Jagger(ミック・ジャガー)らの過去の麻薬不法所持及び逮捕歴と、The Beatlesの来日時の混乱と同様の懸念を理由に、チケットが完売しているにもかかわらず、来日公演が中止に追い込まれたのです。

当時、ビートルズは解散していたにもかかわらず、FM、AMを問わず、特集が組まれ、洋楽覚えたてみたいな少年(不肖、筆者のことです)の頭に刷り込まれていたように思います。

一方のストーンズはビートルズを陽とすれば、陰のイメージ。ビートルズに対抗するバンドとしてはなかなかに不遇な扱いをされていたように思います。ビジュアルなんか全然わからないし。

特集は組まれないは、ラジオでは流れない、もちろんテレビでも報道されず、挙句の果てには来日中止ですからね。もっとも、その来日中止のニュースでストーンズという存在を知り始めたともいえますが。

さて、アルバム『Goats Head Soup』のリリースに先立ち、先行シングルとしてリリースされたのが「Angie」です。1973年10月20日付のビルボードHot 100で1位を獲得します。来日を中止に追い込んだ奴ら、ざまあみやがれといったところですが、残念ながら翌週には首位を明け渡しました。ストーンズは1週だけの1位という曲が多いんですよね。Eaglesもそうなんだけど。

 

つうことで、「Angie」聴いていただきました。

「アンジー」って、女性の名前なんだろうけど、英語の教科書にも出てこないようなどちらかというと少数派の名前なんだろうなあ…と当時の少年は思ったわけですよ。まあ、後に「Angie Dickinson(アンジー・ディキンソン)」なんて人も俳優にいるってことも知りましたが。

ちなみに、彼女はドイツ系で、アンジーは芸名です。ファーストネームはメルケルさんと同じじゃなかったかと。

さて、ストーンズの「アンジー」、シングル曲としては異例のバラードで、Kieth Richards(キース・リチャーズ)もMick Taylor(ミック・テイラー)もエレクトリックギターを一切弾かないという珍しい例ですね。そして、ジャガーさんのヴォーカルもいつになく明瞭な発音です。

もちろん、それまでのアルバム収録曲でバラードもカントリー調もありましたけど、どちらかというと地味な曲がシングルになって、世界中のストーンズフリークが期待していたであろうブルースを下敷きにしたロックではない曲で、1位を取ってしまうというのもすごいことです。ちなみに、イギリスのチャートでは1位にはなっておりません。

実はビジュアル面では「Angie」は2パターンあります。もちろん、サウンド面は同じテイク(というか、収録されたもの)を使っています。

 

ということで、2パターン目の「Angie」でした。

ギターのミック・テイラーがピアノに回っているというヴァージョン。ピアノを実際に弾いているのはNicky Hopkins(ニッキー・ホプキンス)という人です。

ニッキーさん、ストーンズのセッションには欠かせない人で、Billy Preston(ビリー・プレストン)、Ian Stewart(イアン・スチュワート)とともに、欠かせないキーボーディストなのでした。この3名、いずれもキーボードプレイヤーです。イアンさんは6人目のストーンズともいわれ、実はストーンズのオリジナルメンバーの一人でしたが、「容姿がバンドの雰囲気に合わない」という不当な理由でプロデューサーに辞めさせられましたが、マネージャー業務とキーボードプレイに関しては同行を許されたのでした。

「Angie」がこれまでのストーンズのシングルとちょっと違うと書きましたが、相変わらずベースのBill Wyman(ビル・ワイマン)の音が抑えられていることと、存在感の希薄さは変わらんな。

なお、アンジーは特定の人物ではないようです。

「Angie」と『Goats Head Soup』はダブルでビルボード1位とセールスはよかったのですが、これ以降アルバム1位はキープするものの、1978年の「Miss You」と『Some Girls』まで、シングル・アルバムのダブルの1位は獲得できませんでした。つまり、売り上げが落ちたということになります。キースのおクスリ問題もあったからですかね。

それにしても、ジャガーさん半世紀を過ぎても容姿を維持しているのがすごすぎ。81歳(1943年生まれ)にして、このたび婚約を発表したといいますからね。すでに子供もいるそうです。しかし、ひ孫もいるっていうからびっくりですわ。

1973年という年にいち早くプロモーションビデオを作っていたということが驚きであり、それも2パターン作っていたというのも凄いこと。

さて、アンジーつながりで、日本にも「アンジェリーナ」という曲でデビューしたのが、佐野元春です。

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この曲が出てきたときはびっくりでした。メロディにできるだけたくさんの言葉を詰め込むというやり方で、最初のうちは何を歌っているのか聴きとれないほどでした。まあ、慣れてきましたけど。

「何を歌っているのかわからない」といえば、サザンの「勝手にシンドバッド」もそうなんですが、桑田氏の手法は日本語を癖のある英語のようにして歌うことであって、元春ほどたくさんの言葉を使っているわけではないのです。まあ、ある意味革命的でした。桑田氏も元春も。

ただ、こうしたものがデビューシングルであったということは全く売れずに、オリコンのチャート圏外に沈んだ曲です。

しかし、彼は地道にライヴ活動を継続したことも成功へたどり着いたひとつの手段だったのですが、デビュー直後からTVK(テレビ神奈川)の「Fighting 80's」という音楽番組のレギュラーに抜擢されたり、「サウンドストリート}(NHK FM)のパーソナリティになったりして、意外にメディアには登場していたのです。

また、元春自身は関係していませんが、TBSラジオの深夜放送「林美雄のパックインミュージック」の「ユア・ヒットしないパレード」にも取り上げられ、ここで1位となり、意外と知名度はあったと思います。

 

本来ならば、オリジナル音源の「アンジェリーナ」を聴いていただきたかったのですが、ストーンズと違い製作費はまるでなしの新人ですから、違法アップロードを除き、佐野元春の公式YouTubeチャンネルには上がっておりませんでした。

こちらの映像は横浜スタジアムでのもの。バックの演奏は気心の知れたThe Heartlandです。

ま、この数年後にAngelina Jolieという人が出てくるとは、思ってもいなかったです。ましてや、彼女の父親が「真夜中のカウボーイ」のJohn Voightであるとは、さらにびっくりなのでした。

さて、Aで始まる人名の曲、まだまだあるのですが、これくらいにしておきます。次の予定はBで始まる…ですが、いくつか候補はあるものの、あまり詳しくないので、ヒントください。

んでは、また~。

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2025年3月 9日 (日)

マイケルにも認められたパロディー音楽

かすてら音楽夜話Vol.206

 

いきなりのMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)の「Beat It」。本日はここから、話を展開していきたいと思います。

この曲は1983年リリースでもちろんながらビルボード1位。1983年の年間チャートでも5位で、その前のシングル、「Billy Jean」(同年リリース)の方が売り上げはよかったにもかかわらず、1984年のグラミー賞では年間最優秀レコードと最優秀男性ロックパフォーマンス賞との二冠に輝くものでありました。

おまけ情報としてはあの、Edward Van Halen(エドワード・ヴァンヘイレン)が無償でギターソロを弾くということも話題になりました。ちなみに、ギターパートはTOTOのSteve Lukather(スティーヴ・ルカサー)が担当しているのですが。

ギャングの対立を歌とダンスで仲裁するという、今見れば大変陳腐な感じのビデオなんですが、当時としてはここまで歌って踊れるパフォーマーはマイケルただ一人でして、やはり同年リリースの「Thriller」のミュージックビデオにつながっていき、マイケルの絶頂期に突入していくという当時のトレンドがわかると思います。なお、この曲が収録されたアルバム『Thriller』にはなんと、7枚ものシングルが収められています。

このヒットを受けて、ミュージックビデオまでそっくりに作り上げたのが、こちら。

 

Al Yankovic(アル・ヤンコビック)による、「Beat It」のパロディ、「Eat It」です。

当初、オリジナル版をアップしようと思っていたところ、動画の共有ができませんでして、このようなものでご勘弁を。右側がヤンコビック版です。

こちら、パロディ音楽としては異例のヒットで、ビルボードで12位を記録しております。その後、なんと来日までして、「ベストヒットUSA」にも、出演するということにもなりました。

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アル・ヤンコビックの経歴としては学生の時にラジオパーソナリティに自作のテープ(もちろん、パロディ)を送っていたところ、番組で流してもらっていたそうです。

その後、The Knackの「My Sharona」のヒットを受け、若いころから習っていたアコーディオン演奏に合わせて、「My Bologna」(「マイ・ボローニャ」)を録音し、再びラジオパーソナリティに送ります。これが、番組では好評で、The Knackのヴォーカリストで「マイ・シャローナ」の作者であるDoug Fieger(ダグ・フィーガー)が気に入って、キャピタルの副社長にレコード化することを提案したそうです。

 

それにしても、ラジオパーソナリティ(ドクター・ディメント)とダグ・フィーガーがいなければアル・ヤンコビックはこの世に現れていなかったということになります。

ちなみに、「ボローニャ」とは、アメリカでよく食べられているボローニャ・ソーセージのことのようです。

たとえ、英語を理解している人でも、アメリカで生活していなければわからないという曲、それがこちら。

 

「I Love Rocky Road」でした。元歌は、こちら。

 

Joan Jett & The Blackheartsの「I Love Rock'n' Roll」でした。1983年のビルボード1位で年間シングルでも3位と、マイケルの「Beat It」より上位ですね。でも、やはりマイケルの「Billy Jean」が2位でしたが。

さて、ヤンコビックの「ロッキーロード」とは何だと、検索してみました。やたらと、アイスクリームが出てくるんで「サーティワン」のようなアメリカにあるチェーン店かなと思いましたが、マシュマロにナッツをまぶし、チョコレートでコーティングされたアイスクリームのことのようです。こら、わからんわ。

ちなみに、「I Love Rocky Road」はHot100圏外ですが、106位まで到達したそうです。後半ではアコーディオンソロを披露してますね。この曲はスマッシュヒットした「Eat It」の直前のシングルです。

元歌、「I Love Rock'n' Roll」もジョーン・ジェットのオリジナルではなくて、日本にゆかりのあるアラン・メリルが在籍していたバンド、The Arrowsの曲なのでした。ジョーン・ジェットはThe Runaways解散後に渡英して、この曲に出会ったらしいです。

さて、アル・ヤンコビックもパロディを作るには色々と大変だったようです。特に、名前が売れてくると、ご本人に許可を取ったりする必要も出てきたりするので。

その後の彼は、やはりマイケルの「Bad」のパロディ、「Fat」などもリリースしますが、オリジナル曲なども出しているようです。また、レーシック手術をし、髭を剃って、髪を切るイメージチェンジも果たしました。

その姿が、こういうものですが、1999年のシングル、「The Saga Bigins」です。モチーフにしているのは、「スターウォーズ・エピソード1」の世界観で、アル・ヤンコビックはオビ=ワン・ケノービに扮していますね。

そして、元歌はDon McLean(ドン・マクリーン)の1971年の「American Pie」です。ビルボード1位獲得曲であり、年間チャート2位。おそらく、アメリカ人ならだれもが知っていて歌える曲ですね。

この他、アル・ヤンコビックはHeuy Lewis & The Newsの「I Want A New Drug」のパロディ、「I Want A New Duck」、Queenの「Another One Bites The Dust」のパロディ、「Another One Ride Tne Bus」、Madonnaの「Like A Virgin」のパロディ、「Like A Surgeon」などもあります。

特に、「Like A Surgeon」などは、声も女性的に処理しています。

シングルとしては絶大なヒットがたくさんあるわけではありませんが、アルバムはコンスタントに売れていて、なんと、2014年の『Mandatory Fun』はビルボードのアルバムチャートで初の1位を獲得しています。

我が国内でもこうしたパロディが認められる日はあるのだろうかという気もしますが。コンプライアンス等で、うるさいんでしょうね。でも、ちょっと昔の「ものまね番組」は相当なものでしたけど。

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2025年2月23日 (日)

思わせぶりな男女のデュエット3選

かすてら音楽夜話Vol.205

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先日、またもやミケポスカフェにお邪魔いたしました。

そこで、このような音源を持ち込みました。なにがなんやらですが、一応テーマを絞ったものもあります。

今回はほぼ世間に知られていない、J Popのデュエット曲で、その声を聴いてもらって、デュエットの相手を当ててもらうというものでございました。

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おいしゅうございます。オーナーさん、料理がお上手で、美味しいのでございます。なかなか寒い1日でしたが、身体が温まりますね。では、音源を聴いていただき、さらに温まっていただきましょう。

斎藤誠「曖昧な恋人」

 

サザンオールスターズの桑田夫妻と関口氏の後輩にあたるのが、斎藤誠です。サークルの後輩ですかね。

ソロデビュー後、サザンオールスターズのツアー等で、ギタリストとしてもサポートしていたりします。

この「曖昧な恋人」はアルバム『Number 9』(1998年6月20日リリース。文字通り9枚目のアルバム)に収録の曲で、シングルにはなっておりません。

デュエット相手の女性の声に特徴がありますが、ややヴォリュームを抑え気味ですかね。Curly Simon(カーリー・サイモン)の「You're So Vain」みたいに、誰でもわかるMick Jagger(ミック・ジャガー)ほどは目立っておりませんが、存在感はある声の持ち主です。

答えは、古内東子なのでした。

ちなみに、トップ画像の柄本明が9番のユニフォーム姿で写っているのがこのアルバム『Number 9』でございます。

ご丁寧なことに楽曲ごとに斎藤誠による一口コメントがあります。「曖昧な恋人」のコメントは次の通り。

「いけない恋。困った恋。こんなウェットなメロディー歌うのも10年以上振りかな。そしてこの歌詞。出来た時から古内さんが頭にありました。」
(斎藤誠『Number 9』の歌詞カードより引用しました。)

当時の斎藤誠はEpic/Sony所属であり、同じ社内レーベル(Sony)の古内東子に声をかけたというのが真相でしょう。ちなみに、アルバム1曲目の「沸点」という曲でもEpic/Sony所蔵のPuffyがバックコーラスを担当しています。

見事に男女のすれ違いをあらわしている曲ですねえ。トーマスさんも「これ、好きかも」と仰っていただきました。

オーナーさん、Puffyは即座に当てましたね。古内さんに関しては「いわれてみれば…」という感じで答えがわかって皆さん納得でございました。古内さん、当時は「恋愛の教祖」とも呼ばれ、個人的にはユーミンの後継者ではないかとも思っていたんですがねえ。ブームは過ぎ去っておりましたねえ。

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ひとまず、ブレイクタイム。

斎藤誠がサザンの後輩であるということから、脱退した大森隆志がらみで、某宗教団体の話に飛んだりして。

☆ちなみに、映像は音声だけですが、冒頭の音は楽曲とは関係ありません。

門あさ美 「Every Night & Day」

 

門あさ美は極度の人見知りらしく、音楽活動を続けながらも一度として観客を入れたライヴ活動をしたことのない人物です。そのため、メディアにもほとんど出たことがないのですが、なぜか写真集を出したことがあるという美貌の持ち主でした。それがゆえに、謎の多い人物なのでありますね。

これは、誰とデュエットをしているかを当てるのは難しいです。なぜなら、相手の男性もほとんどメディアに登場しない人ですので。

答えは岡本一生(おかもと・いっせい、現在は岡本朗名義で活動)なのでした。

そして、この「Every Night & Day」はふたりの共作です。作詞作曲:門あさ美・岡本一生 編曲:松岡直也となっています。

岡本一生氏はシンガーソングライターとして渡辺プロと契約し、シングル3枚、アルバム3枚を1978年から1982年にかけてリリースしたのみ。ですが、昨年、ファーストアルバム『Moonlight Singing』とセカンドアルバム『MOONLIGHT MYSTERY』が2 in 1の形で、タワーレコードから再発されました。なんと、これが、初のCD化です。

その後は楽曲提供者となり、松原みき「微熱が平熱」、山下久美子「雨の日は家にいて」などを作曲しています。岡本朗名義となってからは、西城秀樹「ミスティー・ブルー」(夏女ソニアのCM曲)、斉藤由貴「砂の城」(オリコン2位)などの曲も手掛けています。

門あさ美には「セ・シ・ボン」、「下りのない坂道」を提供しています。ここでは、曲提供のみ(作詞は門あさ美)で、直接顔を合わせるようなことはなかったと思われます。

さて、YouTubeのコメントによると、このデュエット、同時にスタジオに入り、ヴォーカルを同時に収録したそうですが、お互い背を向けるようにして歌っていたとのことです。

前述のように、極度の人見知りの門あさ美ですので、個人的には別々に収録していたのではないかと思っていました。

作曲も共作なんですが、これまた、ふたりでアイデアを出し合って同時に作っていったということはまず考えられません。おそらくは、どちらかが先にベースの音を作り、もう一方がアイデアを足していくような手法がとられたのではないかと思われます。これまた推測になりますが、「セ・シ・ボン」や「下りのない坂道」などの経緯からベースを手掛けたのは岡本氏ではないかと思われます。

「Every Night & Day」は門あさ美の名義ながら、歌いだしは男性が先です。この曲が収録されたアルバム『Hot Lips』(1982年7月5日リリース)は一昨年タワーレコードの協力の下、紙ジャケット仕様で再発されました。シティポップの仕掛人であり、あまたのシティポップの再発に取り組んできた金澤寿和氏が解説を手掛けております。その中で、岡本氏の声を「ちょっと谷村新司似のスケベ声(←褒めてます)が、男女の濃ゆいムードを盛り上げている」と書いております。

YouTubeの動かない固定画像が『Hot Lips』のジャケットそのものなんですが、バスローブを着た門あさ美がバスタブにもたれかかるという、思わせぶりなものになっています。つまりは、ホテルですかね。このあたり、ユーミンが再ブレイクした80年代後半に先駆け、恋愛どころか男女のドロドロした関係を思わせるイメージなんですね。

当時の門あさ美はまさに絶頂期に入っていて、メディアに出ないはずなのに、『Hot Lips』で初のオリコンアルバムチャート10位入りをするというところまで来ておりました。当時の社会人はこぞって門あさ美のアルバムを購入し、クルマでかけまくっていたという話もあります。

ちなみに、学生時代の友人に会社経営者の息子で、お屋敷に住み、クルマを複数台持つという人物がいて、やつのクルマでドライブに行ったことがあります。同時にやつは今でいうシティポップ(しかも女性限定かつほとんど知られていない人たち)が好きで、そういった曲をずっと聴かされていたという記憶も。その中に、門あさ美も入っていました。ま、そんな野郎ばかりのシチュエーションではなく、本来は男女のドライブデートのお供が門あさ美だったのではないでしょうか。

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ここでまたもやブレイクタイム。アルコールも出していただき、ノリノリであります。

スガシカオ 「イジメテミタイ」

 

そして、真打はこちら。「脱サラの星」(トーマスさん談)スガシカオです。

「イジメテミタイ」(作詞作曲編曲:スガシカオ)はデビューアルバム『Clover』(1997年9月3日リリース、オリコン10位)収録の曲です。

スガシカオは1966年生まれで、世代的には宮本浩次、斉藤和義、トータス松本と同い年です。ですが、この中では唯一、サラリーマン生活を送っており、会社勤めをしながら曲を書き溜めていったのですね(wikiでは長崎の造船所にいたことがあるとのこと)。

1995年にタワーレコードのインディーズレーベルからシングルをリリースし、1997年にKittyから正式にデビューします。すでに30歳と遅咲きのデビューです。まあ、そんな具合ですので、「♪ゴメンナサイ」といいつつも、変態的な歌詞をつづっていけるのですかね。

こちらの、女性ヴォーカルは杏子(ex バービーボーイズ)なんですが、聴いてもらった皆さん、「いわれてみれば…」という感じでした。

このふたりのつながりは所属事務所(当時、オフィスオーガスタ)が一緒であったことですね。

杏子姐さん、バービーボーイズ時代も男女の掛け合いでフロントに立つ人でした。ただ、いまみちともたかによる曲はほとんどが「痴話喧嘩」レベルのもので、ここまで生々しい表現ではありませんでした。

なお、杏子はバービーボーイズでデビューしたのですが、もともとはライヴハウスの人気バンド(喝!タルイバンド)にいた人で、対バンの男性だけの編成だったバービーに引き抜かれたのです。当時のバービーはそこまで突き抜けてなくて、杏子が入ることによって、曲のコンセプトも男女の痴話喧嘩に変え、人気が出たのです。バービーではフロントウーマンではあったものの、近藤敦やいまみちともたかの陰に隠れたような存在だったのですが、やはり何かを持っている実力者だったのですね。

 

こちら、杏子の5作目のアルバム『Blackthorn Cider』(1999年3月3日リリース)収録の「イジメテミタイ(DrugOn Mix)」でした。

スガシカオ盤から2年後のことで、一部、歌詞を変更し、女性側の視点から歌われています。そのため、作詞のクレジットはスガシカオ・杏子となっています。アレンジは間宮工です。また、この曲はマキシシングルとしてもリリースされましたが、チャート圏外に終わりました。

ちなみに、アルバム『Blackthorn Cider』もチャート圏外なんですが、名曲「星のかけらを探しに行こう」も収録されております。

そのマキシシングルの帯には同じ事務所の山崎まさよしが「はっきり言うて、杏子さん、シカオちゃん これメチャクチャ問題作ですわ。音楽がモラルを超えとるやないけ!」と書いていますね。

Jp1317

といった具合で、音楽談義はまだ続くのでした。これで、4回目かな。

デュエット曲はまだまだあるんですけどね。オーナーさん、トーマスさん、うえださん、しょうもない話にお付き合いくださり、ありがとうございました。まだまだ、ネタはありますので、次回もお付き合いくださいませ。

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2025年1月30日 (木)

スペクトラムがバズってる

かすてら音楽夜話Vol.204

Spectrum

今回はちょっと短めに。

なんと、あのスペクトラム(Spectrum、1979-1981)の「F・L・Y」という曲が北米を中心としてバズっているんだそうな。

 

セカンドアルバム『Optical Sunrise』収録の曲で、作詞:Mabo、作編曲:スペクトラム。「ミーチャン Going To The Hoikuen」との両A面として3曲目のシングルとなった曲です。

このことを知ったのは、作詞のMaboこと、篠塚満由美さんのInstagramから。


 

篠塚さんは一時期、ものまねタレントしても活動していた方ですが、「スター誕生」でグランドチャンピオンに輝いた方でもあるのです。

実は篠塚さんをインスタではフォローさせてもらっておりまして、このニュースが流れてきたわけです。

スペクトラム「F・L・Y」が45年の時を超えて世界的ブレイク

こちらのニュースによると

スペクトラムが1980年に発表したシングル「F・L・Y」が現在、45年の時を超えて世界的ブームになっている。

昨年12月からTikTokでノスタルジックなゲームやアニメを紹介する動画のBGMとして同楽曲が使われたことで、同曲を使用したTikTok動画の総視聴回数は1億回を突破(2025/1/15時点)。現在、アメリカを中心に世界中で話題になっている。

スペクトラムは、リーダー新田一郎が中心となり、海外のソウル、ファンク、ブラスロックなどの影響を受けながら、独特のファルセット(裏声)中心のヴォーカル、16ビートのリズムなど、ブラック・ミュージックのスタイルを日本にいち早く導入したグループ。1979年にデビューしてから、1981年の解散までの2年間で、シングル6枚、アルバム6枚を残した唯一無二のブラス・ロック・バンド。

シングル「F・L・Y」は1980年に発売されたアルバム『スペクトラム2 OPTICAL SUNRISE』収録曲で、シングルとしても発売された。

いやあ、トランプ氏がTikTokを全面禁止にしなくて、よかったですね。それにしても、何がバズるかわからんな。

我が地元のタワレコではほぼ見かけないのですが、12月に新宿タワレコでのJ Popのフロアに数名の欧米系男性がいまして、彼ら漢字、カタカナ、ひらがなは読めないでしょうから、店員にいろいろとたずねながら、買いあさっていたんですよね。

案外とこういうところから「ネクスト再発掘」があったりするのかも。

また、テレ朝で深夜放送している「新しい学校のリーダーズの課外授業」のロケでアメリカのブラスバンドとの共演があったのですが、そのブラスバンドの衣装が、絶対真似してるだろというくらい、スペクトラムの衣装に近いものがありました。確か、2024年中の放映のものです。

ちなみに、タワレコはレコード会社と協力の下、様々なアーティストのアルバムを再発しております。もちろん、スペクトラムも全アルバムがリマスターされ、発売されています。こちらは、Victorと協力してですよね。そのVictorも自社で再発をしているようです。ちなみに、Victor盤のほうが、やや安いです。ただし、ボーナストラックは入ってない可能性もあるかな。

スペクトラムに限らず、様々なアーティストが次々に再発されてます。これはひとえに、CDというフォーマットになる以前にCD化されなかった作品がまた、時を経て蘇ったりするんですよね。

こうなったら、編集物でもいいので、「動くスペクトラム」も見たいです。実はVHDというほとんど普及しなかったフォーマットをDVD化した『SPECTRUM Live/Time Break+Studio Live 1979』というものはゲットしているんですけど。

それだけでなく、現在のところ、スペクトラムのメンバーは全員ご健在なので、是非とも短期間でいいので、再結成してくれないかな…というのははかない願いなんでしょうかね。

ちなみに、トロンボーンの吉田氏、ドラムの岡本氏、パーカッションの今野氏はBLUFFというブラスロックバンドで活動しております。やるかどうかは新田一郎氏の決断次第かも。

ちなみに、上記の「F・L・Y」をYoutubeで見ると、「…もっと見る」をクリックすると、あちらの方が作ったショート動画がぞろぞろと出てきます。

では最後に、こちらを聴いてお別れしましょう。「Act Show(Live Version)」(作詞:宮下康仁 作編曲:スペクトラム)。もともとはデビューアルバム『Spectrum』のオープニングナンバー(スタジオ録音)ですが、セカンドシングル「イン・ザ・スペース」のB面曲としてこのライヴ盤がカップリングされました。スタジオ録音盤よりもテンポが速く、ヴィジュアルとともにスペクトラムの良さが出ていると思います。

 

早すぎたバンド、スペクトラムに時代が追いついた感じですかね。

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2025年1月19日 (日)

温故知新・Mike Chapman

かすてら音楽夜話Vol.203

今回は表舞台に立たない人物の話です。

以前の温故知新シリーズではBarry Mann(バリー・マン)とCarole King(キャロル・キング)を取り上げました。バリー・マンは楽曲提供者でした。キャロル・キングはキャリアの前半は元の夫(Gerry Goffin)と組んでの楽曲提供者、後半では自身が演じるシンガーソングライターというものでした。

今回取り上げるのはMike Chapman(マイク・チャップマン)というオーストラリア人で、若かりし頃はあるグループに在籍していたものの、Nicky Chinn(ニッキー・チン)と組んで裏方に回り、プロデュースや楽曲提供者に転じました。ま、やがてニッキー・チン氏とは袂を分かち、ひとりでプロデュース及び楽曲提供者としてその後の長いキャリアを重ねることになります。

出身はオーストラリアですが、イギリスに渡り、チンと出会います。この頃に手掛けたのはSuzi Quatro(スージー・クアトロ)などがいます。

ちなみに、John Lennon(ジョン・レノン)殺害犯の名前がMark Chapman(マーク・チャップマン)といい、混同されがちですが、マイク・チャップマンにとってはいい迷惑ですね。

一発屋量産プロデューサー

その後、チャップマンは渡米し、経験豊かなバンドを探していたところ、Exile(エグザイル)というバンドのデモテープを聴き、エグザイルとコラボすることを決めます。

そして、シングルを出すのですが、失敗に終わり、これで終わりにしようと思っていたところ、チャップマンの妻がエグザイルを押していたため、引き続きプロデュースすることを決めます。

アルバム『Mixed Emotions』からの最初のシングルが、チャップマンとチンが書いた「Kiss You All Over」でしたが、これがなんと1978年9月にビルボードで1位(4週連続)を獲得するという大ヒットになりました。

 

実はこのレコーディングが大変だったらしいです。リードヴォーカルの音程が安定しないことから、急遽ギターもヴォーカルに起用し、クリスタルキングのようにお互いを補うような形になったそうですが、これが成功しましたね。

その後のエグザイルのシングルは40位、88位と低迷していきます。ただし、アルバム『Mixed Emotions』はビルボードで14位のゴールドディスク、「kiss you All Over」はプラチナディスク認定で、1978年のビルボード年間シングルチャート5位となっております。

ちなみに、エグザイルはのちにカントリーバンドに転向しています。

そして、「Kiss You All Over」に代わってビルボード1位に躍り出たのが、次の曲です。

 

Nick Gilder(ニック・ギルダー)の「Hot Child In The City」でした。なんと、この曲もチャップマンがプロデュースしています。

ニック・ギルダーはカナダ人で元々はカナダのグラムロックバンドのヴォーカルでした。アルバム1枚リリースしたところで、ソロに転向しています。なお、後任のヴォーカリストにはBrian Adams(ブライアン・アダムス)がいたそうで。

「Hot Child In The City」はニック・ギルダー自身が書いた曲で、LAの児童買春を垣間見たところから発想が浮かんだとのこと。

なお、「Hot Child In The City」は1週のみの1位で、プラチナ認定されているものの、1978年の年間チャートでは22位となっています。キャッシュボックスでは6位なんですが。このあたりはビルボードとキャッシュボックスの集計の違いですね。

その後の彼のシングルはやはり売れず、2曲が44位と57位に入っているのみです。ただし、その後はPat Benater(パット・ベネター)らに楽曲提供をしておりました。

この1978年ですが、ディスコ全盛時代で、Bee Gees(ビージーズ)、Andy Gibb(アンディ・ギブ)、Commodores(コモドアーズ)、Yvonne Elliman(イヴォンヌ・エリマン)、Donna Summer(ドナ・サマー)、A Taste Of Honey(テイスト・オブ・ハニー)、Chic(シック)などなど、さらには映画「Greece」からオリビアとトラボルタ、Franky Valli(フランキー・ヴァリ)というそうそうたる面々に割って入り、5週連続1位を獲得したチャップマンなのでありました。

余談になりますが、ビージーズの所属していたRSOというレーベルだけで、1月から5月までの19週間連続の1位なのでした。ちなみに、この中にはディスコとは関係ないPlayerというバンドの「Baby Come Back」も入っております。

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翌1979年、デビュー後にあっという間にナンバーワンに駆け上がったバンド、The Knack(ザ・ナック)もチャップマンがプロデュースしました。

デビュー曲「My Sharona」は5週連続の1位となり、1979年の年間シングルチャート1位です。そして、ダブルプラチナ認定。

チャップマンがなぜ彼らを担当するようになったのかがややわからないのですが、これまで担当してきたミュージシャンがほぼ短命の終わるなど、チャップマン自身も飽きっぽい傾向があったのかもしれません。The Knackは10社にもおよび争奪戦でCapitolからデビューしたのですが、この新人バンドをチャップマンに預けてみようというキャピトル側の意向もあったのかもしれません。

「My Sharona」はあまりにも有名で、一度取り上げていますので、セカンドシングルをどうぞ。

 

セカンドシングル、「Good Girls Don't」、ビルボード11位に沈みました。

チャップマン自身もThe Knackのセカンドアルバムまではプロデュースをしていたので、ある程度の期待はあったみたいです。ただ、年々チャートは沈んでいきます。

The Knackの演奏スタイルやファッションを見ていると、「ビートルズの再来」と評価されたのがよくわかりますね。プロモーションビデオではありますが、「Good Girls Don't」で1本のマイクを二人で使うなど、明らかに影響が見て取れます。

このあたりも、チャップマンの強い指示があったのではないでしょうか。

Exileの「Kiss You All Over」の下りでもわかるように、チャップマンはミュージシャンにかなり高圧的に接するところがあるので、ミュージシャン側からも強い反発があったのではないかと思われます。The Knackも3枚目のアルバムからはプロデューサーを変更してしまい、そして、1981年という早い段階で最初の解散をしてしまいました。

それにしても、The Knackのデビューアルバム、『Get The Knack』(アルバムチャート1位、1979年の年間チャート16位、ダブルプラチナ)はかなり出来のいいアルバムで、たったの2枚しかシングルカットがないのが謎です。

腐れ縁

チャップマンが最も多くのプロデュースをしたのがBlondie(ブロンディ)です。

1978年のアルバム『Pararell Lines』(6位、年間9位)、1979年の『Eat To The Beat』(17位、1980年年間8位)、1980年の『Auto American』(7位、1981年年間28位)、1982年の『The Hunter』(33位)まで仕事を共にしました。

意外なことにチャートが低いですが、イギリスでは『The Hunter』を除き、チャート上ではビルボードよりも上位にランクインしてますし、この中には3つのビルボード1位獲得曲があります。

ま、その後、ブロンディは一度解散してしまうのですが。

これだけ、ヒットしていても、チャップマンとの関係はよくなかったそうです。特にヴォーカルのDeborah Harry(デボラ・ハリー)は嫌っていたそうです。

この合間にブロンディは映画「American Gigolo」のテーマソング、「Call Me」(1980年)をリリースし、見事に1位を獲得します。こちら、年間チャートでも1位でした。しかし、この曲のプロデュースはイタリア人のGiorgio Moroder(ジョルジオ・モロダー)だったのでした。

 

ブロンディーには4曲のナンバーワンヒットがありますが、そのうちのひとつ、アルバム『Autoamerican』から「The Tide Is High」(邦題が「夢見るナンバーワン」)でした。1980年のシングルでもちろんビルボード1位、翌年の年間チャートで17位でした。

こちら、オリジナル曲ではなくジャマイカのグループのカバーです。

デビー・ハリー、今年でなんと80歳なんですね。ちなみに、チャップマンは1947年生まれ。

やっぱり、ニューヨーカーとオーストラリアから出てきた人間とはウマが合わないような気も。それでも、ニューウェイブからレゲエまで幅広い音楽性を示してくれたのはチャップマンがいたからかもしれません。

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2025年1月 4日 (土)

主導権争いののちグループ追放

かすてら音楽夜話Vol.202

A Happy New Year, 2025

例年ならば、本年の抱負などをつらつら述べておりましたが、音楽系ブログに本格移行いたしましたので、それはありません。少しでも、心地いい音楽をたくさん聴いて身も心もハッピーになる、そんなブログを目指したいでございます。

さて、今回のお題ですが、表題の通り、グループの主導権争いの話です。

Styxというアメリカのロックバンドがあります。

Ms0041

デビューは古く、1972年です。オリジナルメンバーはDennis DeYoung(デニス・デヤング、キーボード、ヴォーカル、画像の左上)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ、ドラム、故人、画像の右下ヒゲなし)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ、ベース、画像の右下ヒゲあり)、John Curulewski(ジョン・クルレフスキー、ギター、ヴォーカル、故人)、James "JY" Young(ジェームス・JY・ヤング、ギター、ヴォーカル、画像の右上)の5人でした。

元々はパノッツォ兄弟(二卵性双生児)と隣人のデニスが組んでいたバンドが母体で、そこに大学時代の知り合い、クルレフスキーが加わり、さらにJYが加わりました。当初はプログレッシブロックの色合いが強く、大きなヒットも生まれませんでしたが、「Lady」がリリースから2年たってチャートを上がり始め、大手のA&Mに移籍します。5枚のアルバムを出したところで、クルレフスキーが家庭事情により脱退することになり、急遽ギタリストのオーディションを行い、向かい入れられたのがTommy Shaw(トミー・ショウ、ギター、ヴォーカル、画像の左下)で、この5人体制がStyxの最盛期であったといえます。

トミーの加入後、アルバムはヒットを続けますが、音楽性は大きく変わってきてどちらかというと大衆が好むような曲が多くなります。評論家の渋谷陽一がいう、「産業ロック」とも揶揄されますね。

お断りすると、渋谷氏のお好みはLed Zeppelinであるので、Styxは真逆のバンドといえます。

そして、1979年にリリースした9枚目のアルバム『Cornerstone』がビルボード2位、デニスの歌う「Babe」が1位を獲得します。グループ唯一のナンバーワンヒットです。

 

映像はライヴのように見えますが、オリジナル音源に歓声をかぶせたものですね。オフィシャルビデオとなっていますので、プロモーション的に使われたものと思われます。

この頃のStyxは前に出ている3人(デニス、トミー、JY)のコーラスワークもなかなかのものでした。

 

一方、こちらはトミーの曲で「Boat On The River」ですが、なんとアメリカではシングルカットされていません。なお、ドイツではチャート5位を記録していて、ヨーロッパ圏では人気のある曲でした。

この頃のStyxのアルバムではデニスが書き、歌う曲が60%。40%はトミーやJYの書いた曲、あるいは二人以上の共作といった構成でした。あくまでも、バンドの顔はデニスでした。

そして、1981年にリリースした10枚目のアルバム『Paradise Theatre』がついにチャート1位を獲得し、彼らの人気は絶頂に達したと思います。

 

デニスの曲で「The Best Of Times」。ビルボードでは3位のヒット曲です。

一方、『Parasise Theatre』ではトミーの曲もシングルカットされ、Styx在籍時のトミーの最大のヒットとなったのがこちら。

 

「Too Much Time On My Hand」でした。ビルボードで9位を記録しています。

また、このアルバムからは4枚のシングルカットが生まれました。そして、アルバム『Paradise Theatre』はシカゴにあったとされる架空の劇場(パラダイス・シアター)の開館(1928年)から閉館(1958年)までという架空の期間に沿って作られたコンセプトアルバムでした。

いやー、ここで終わっておけばよかったんですけどね。

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1983年、11枚目のアルバムとして『Kilroy Was Here』(邦題『ミスター・ロボット』)がリリースされます。

アルバムはビルボード3位のプラチナ認定を受けています。ちなみに、前の2枚はトリプルプラチナ認定です。この期間、Styxがいかに売れたかがわかるでしょう。

アルバムからシングルが3枚リリースされますが、それぞれ3位、6位、48位を記録します。ですが、これらはすべてデニスの曲でした。

 

曲は「Mr. Roboto」でした。ビルボード3位です。

こちら、日本語も歌詞に出てきて、ロボットの表情もどこか大仏をほうふつとさせるデザインです。お辞儀もしたりしますし。

この『Kilroy Was Here』はプロモーション映像から想像できますが、前作『Paradise Theatre』以上のコンセプトアルバムなんです。いや、むしろ、オペラ仕立てといってもよいもの。

ロックの禁止された世界で投獄されたロックスター、キルロイをデニスが演じ、この世界に反発する若いミュージシャンをトミーが演じます。キルロイを投獄したのがJY演じる博士といった具合でした。キルロイはロボットに変装して脱獄、ロックの復権を目指すというものです。

なんと、このアルバムのツアーでは実際にステージでもこの演劇を行っていたそうで。いよいよ、デニスとトミー、JYとの対立が始まり、バンドは一時解散します。

Styxは1990年に再結成しますが、トミーがDamn Yankees(ダム・ヤンキース)に所属していて不参加となります。この活動は短期間に終わりました。1995年にトミーも復帰します。このころ、ドラムのジョンが過度の飲酒による不調で参加が難しくなり翌年亡くなります。また、ベースのチャックもHIVによる影響で活動が制限されツアーではほぼ演奏できなくなっていきます(ただし、現在もメンバーではあります)。そして、1999年に『Brave New World』というアルバムをリリースしますが、デニスがインフルエンザなどによる体調の不良でその後のツアーへ参加できなくなったことから、ついにバンドから解雇されます。

Styxの解散時にデニスは俳優業にも進出していたんですね。やはり、トミーとJYとの間の音楽性の溝はついに埋められませんでした。こうしてパノッツォ兄弟とデニスの作ったバンドからは後から来たメンバーが乗っ取るような形になったのです。

その後のStyxとデニスは相いれることはなく、それぞれ大きなヒットもなくなりますが、活動はそれぞれ継続しています。

Doobie Brothers(ドゥービーブラザース)なんかもオリジナルメンバーのTom Johnston(トム・ジョンストン)が病気で一時脱退後にMicheal McDonald(マイケル・マクドナルド)が加入して音楽性を変えて復活しましたが、ドゥービーはメンバーの移動が激しいバンドで、その後、マクドナルドがいなくなったり、ジョンストンが復帰したりで、一貫してバンドに残っているのはPatric Simons(パトリック・シモンズ)だけだったりします。でも、彼らもやりたい音楽をそのまま継続しているだけで、その後の大きなヒットはありませんね。

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2024年12月28日 (土)

ニューミュージックとは何だったのか

かすてら音楽夜話Vol.201

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1970年代中ごろから1980年代の初めごろまで「ニューミュージック」というカテゴリー分けがありました。

それ以前の邦楽ではは、演歌、歌謡曲、フォーク、ロック程度のカテゴリー分けで、単純に聴けば誰でも判別できるものといえると思います。

演歌、歌謡曲に入る人たちはテレビに出るのが当たり前。この時期、フォークとロックにカテゴライズされるシンガーとバンドはまずテレビからはお呼びがかからないです。と、いうか人気の目安となるレコードの売り上げもごく少なく、自然とテレビとは無縁になっていったと思われます。そして、フォークとロックの人たちの中にはこれを逆手にとって、「テレビには絶対に出ない」というポリシーを持っている人もいました。

吉田拓郎「結婚しようよ」「旅の宿」、井上陽水「傘がない」「夢の中へ」、荒井由実「ルージュの伝言」「あの日に帰りたい」、かぐや姫「神田川」「妹よ」あたりから演歌・歌謡曲以外の曲がヒットチャートに上がってきます。特に「旅の宿」と「あの日に帰りたい」はオリコンシングル1位を獲得し、音楽業界に風穴をあけたと思います。

ですが、この人たちはまず歌謡番組には出演せず、もっぱら自分のラジオ番組やコンサートを中心に活動していたと思います。特に井上陽水はラジオ番組もやらず、1980年代になって「日産セフィーロ」のCMで「お元気ですかぁ!」とテレビで毎日のように出てくるとは誰が想像したことでしょう。

一方、ロックの人たちはほぼ知名度もなく、宇崎竜童率いるダウンタウンブギウギバンドが歌謡番組に出るくらいでした。

そのうち、フォークやロックではカテゴライズしがたい新しい音楽が出てくるようになります。それは、音楽業界の多極化ともいえます。また、ヤマハなどの努力もあり、新しい人材が発掘されたということもいえましょう。

音楽業界もこれまでの芸能プロダクションのやり方と異なり、原田真二を売り出すためにアミューズ(代表が渡辺プロを退社した大里氏)が設立され、さらに学生バンドであったサザンオールスターズをスカウトするなど、広がりを見せ始めました。

フォークやロックの人たちもテレビには出ないといわれていましたが、Char、原田真二、ツイストのロック御三家がそろって歌謡番組に出始めるなど変化も起こり始めました。

前振りが長くなりました。

「ニューミュージック」というカテゴリーあるいはジャンルは、どちらかというとメディアがいつの間にかそう呼んだようなところがあります。この人たちのルーツはフォークやロックから出来上がったものではなく、1970年代初頭のミュージシャンたちに触発されて、自分もやってみようと、彼らなりにオリジナリティを加え、出来上がった音楽なのではないかと思います。

また、彼らの所属事務所は渡辺プロやホリプロなどの大手ではなく、どちらかというと新興、中小のプロダクションであったがゆえに、まず名前を売ることを優先し、「テレビには出ない」というような頑固さがなく、歌謡番組にも出るといった具合です。あの、竹内まりやも「芸能人運動会」で走高跳に出場したというのですから、今となっては考えられないことです。YouTubeに映像があるかと思ったら、これがないんですね。

とりあえず、マスメディアが作り上げた「ニューミュージック」という言葉ですが、個人的に落としどころを見つけると、シンガーソングライターに限らず、プロの作家が提供した曲も歌う「ポップスのMiddle of The Road」にいる女性シンガーあるいはグループではないかと思います。

そんな中から3人取り上げます。

竹内まりや

 

曲は「September」(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)。1979年8月のリリースで、オリコン39位。この曲は3曲目のシングルでしたが、次の「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 編曲:加藤和彦・清水信之)がオリコン3位を記録していて、この2曲を収録している3枚目のアルバム『Love Songs』(1980年3月発売)はまりやさん初のオリコン1位に輝きます。

彼女の出自は慶応の軽音サークル、リアル・マッコイに所属していて、先輩である杉真理のバンドに参加したことがデビューのきっかけです。

1978年のデビューでアルバムでは自作曲もありましたが、2曲目のシングル「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風」のB面に「すてきなヒットソング」が取り上げられたくらいです。ほとんどが職業作家による提供を受けた曲を歌っていました。「不思議なピーチパイ」は化粧品とのタイアップでヒットしましたが、その前奏曲ともいえる「September」は個人的には「不思議なピーチパイ」よりもあか抜けていて好きですねえ。アルバムは大学生協でほんのちょっとの割引で買いました

1979年に「September」と「真夜中のドア~Stay With Me」を書いた林哲司という人も、すごいと思います。また、男性ながらも女子大生の気持ちを書いた松本隆という人もとんでもないなと思いますね。

この時代のまりやさんはまだ達郎の息が完全にかかっていない時で、提供曲とコーラス参加はあるものの、アルバム『Love Songs』は彼女のベストテイクではないかと思っております。

越美晴

 

曲は「ラブ・ステップ」(作詞作曲:越美晴 編曲:矢野誠)。1978年10月リリースのデビューシングルです。残念ながらオリコンの順位は不明ですが、当時かなりメディアで流れていたと思います。

彼女は音楽一家で、幼少期からピアノを演奏し、作曲を行うようになります。デビューのきっかけはオーディション番組「君こそスターだ!」への出演でした。クラシックからオーディション番組というのがやや違和感がありますが、デビュー時に18歳(1960年1月生まれ)ですから、ある意味天才的資質があったと思います。

ただ、YouTubeの映像を見る限り、少しだけ歌唱力に難があるかなと。おそらくは、「夜のヒットスタジオ」出演時のものだと思います。

残念なことにヒット曲はこれくらいだったような。その後の彼女は「コシミハル」名義に改め、音楽性も大きく変化しています。ただ、現在も活動中でオリジナルアルバムを23枚もリリースしています。彼女にとっての「越美晴」時代はひとつの黒歴史なのか。オリジナルアルバムは廃盤状態です。

杏里

 

曲は「悲しみがとまらない」(作詞:康珍花 作曲:林哲司 編曲:林哲司・角松敏生)。1983年11月のリリースでオリコン4位を記録しています。

彼女は1978年、17歳で尾崎亜美の「オリビアを聴きながら」でデビュー。その後はやや低迷しましたが、角松敏生のプロデュースを受け、「思い切りアメリカン」(作詞:竜真知子・杏里 作曲:小林武史 編曲:佐藤準、1982年)あたりから上昇機運に乗り、翌1983年の「Cat's Eye」(作詞:三浦徳子 作曲:小田裕一郎 編曲:大谷和夫)でついにオリコン1位を獲得します。でも、これはアニメ効果ですね。

「悲しみがとまらない」はその次のシングルです。ここでも、林哲司がいい仕事をしてます。また、松本隆同様、男性ながらに女性心理をつづっていく康珍花という人、只者ではありませんね。

さて、ニューミュージックは1981年以降、徐々に下降線をたどっていくのですが、ここには歌謡曲の世界に歌唱力のあるアイドルが出現し、なおかつ職業作家ではない現役ミュージシャンによる曲提供を受け、これが大ヒットするというのがひとつの要因ではないかと思っています。

すなわち、松田聖子や中森明菜らのことですが、限りなくニューミュージックと歌謡曲の境界がなくなってきたということでしょう。

ニューミュージックという言葉は死語となり、J POPという言葉が使われ始めます。これまた、ノンジャンルで広範囲な便利な言葉ですが。

「私の音楽はニューミュージックではない」と言い切っていたユーミンですが、1998年にリリースしたベストアルバム『Neue Musik』(ノイエ・ムジーク、ドイツ語)の意味は「ニューミュージック」なんですね。まさに、ポップスの王道中の王道です。

1980年前後のニューミュージック、今回は3人だけ取り上げましたが、ある意味百花繚乱だったと思います。廃盤になってしまったアルバムやCD化されなかったアルバムもまだまだあるはず。このあたり、タワーレコードあたりに頑張ってもらいたいものです。

かすてら音楽夜話、これにて2024年はしめくくりです。2025年も早いうちに次の記事を書いてみたいです。また、コメントからヒントやインスピレーションが生まれることが多いですので、何かを感じましたら、ためらいなく反応してください。また、下記のバナーのクリックもお願いしますね。

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2024年12月12日 (木)

まぼろしのナベプロ三人娘

かすてら音楽夜話Vol.200

またもや1ヵ月ものブランクがあいてしまいました。すいません。

さて、200回を記念して取り上げますのは、100回目に続いて松原みきさんです。

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さて、今年2024年は、みきさん生誕から65年。さらに、デビュー45周年。また、残念なことにがんでお亡くなりになってから20年目に当たります。

画像はセカンドアルバム、『Who are you ?』のジャケットを持ってきましたです。1980年、二十歳のみきさんの生前の姿をたっぷりとご堪能ください。

当初は渡辺プロ所属

みきさんの所属事務所は「ポケットパーク」(代表、菊地哲榮氏)ということになっていますが、実はスカウトされたのは渡辺プロだったのです。

 松原みきさんは将来を期待されて、渡辺プロダクションの寮に住んでいたスター候補生でした。その後、渡辺プロダクションのマネージャーの菊地哲榮(きくち・あきひで)さんが会社をやめてからポケットパークという事務所を新たに作り、松原みきさんのマネージメントを始めたんです。
(伊藤銀次著『伊藤銀次自伝 MY LIFE, POP LIFE』シンコーミュージックより引用)

みきさんのアルバム(LP)の中ジャケにあるミニバイオグラフィによると、そうした記述はもちろんありません。「高校三年の時に、音楽を求めて上京(出身は大阪府堺市)、ライブハウス、米軍キャンプのディスコなどで"音楽的放浪"を続けた」という記述があり、1977年にはナベプロの寮に入っていたと思われます。

伊藤銀次はみきさんのバックバンド、「カステラムーン」のバンドマスターをやっていました。

ちなみに、大阪ではお嬢様学校の私立プール学院に在籍していましたが、東京では文化女子大附属杉並高等学校に転校しております。

細かくなりますが、菊地哲榮氏についてはこちらのリンクをご参照ください。

第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

菊地氏はザ・タイガースや木の実ナナなどをマネージャーとして担当し、天地真理を発掘したという人です。そして、ナベプロを辞める直前にはやはり新人セクションにいたわけですが、ここにいたのが松原みきだったというわけです。

菊地氏は個人的な事情で会社を辞めますが、その後ゼロからのスタートで音楽事務所「ポケットパーク」を立ち上げます。社員3人で100万円ずつ出資してのものだったそうです。ただし、所属アーティストはゼロというとき、みきさんのお父さんがやってきて「娘が菊地さんにマネージメントしてほしいといっている」と伝えたそうです。菊地氏は「渡辺プロでやったほうがいいですよ」と伝えたそうですが、お父さんはまたやってきて再度頼んだそうです。

松原みきにしてみれば、当時陰りつつあったナベプロの音楽性と自らやりたかった音楽との違和感を感じていたのかもしれません。なんといってもライバルのホリプロでは歌謡一辺倒ではなく、井上陽水や浜田省吾、忌野清志郎も所属していて、彼らの作る曲をホリプロのタレントが歌っていたりしましたからね。

菊地氏はお父さんに「私じゃなくてお父さんが渡辺プロに話をつけてきてください」と提案したところ、本当にお父さんが話をつけてきてしまったのだそうです。

と、いうことで、みきさんは晴れてポケットパーク初の所属タレントとなったわけです。

ちなみに、みきさんのデビューアルバムは『Pocket Park』です。

当時のナベプロ同期生

ここからは推測が入り混じります。

1979年1月25日、シングル「私のハートはストップモーション」でデビューした、桑江知子。1960年1月18日生まれで、19歳になりたてでデビュー。早生まれですが、学年ではみきさんと同じです。

経歴の詳細がわかりませんが、住んでいた福岡からスカウトされているので、おそらくはみきさん同様、高校時代に寮に入り、レッスンの日々だったことが想像できます。

ニューミュージック系で出遅れていたナベプロで「Non Stop プロジェクト」という次世代のニューミュージックを目指すグループの一員だったそうです。とはいえ、ニューミュージック系の人材に乏しいナベプロですので、デビュー曲からは、土着性が希薄と思われる都倉俊一に曲作りを依頼し、同じく竜真知子に作詞を依頼するのでした。まあ、無難なところでしょうね。

サードシングルあたりから佐藤健、水谷公生、パンタ、生田敬太郎、井上大輔ら(以上、作曲)を起用。作詞は喜多条忠、岡田冨美子、クニ河内あたりが起用されます。アレンジも後藤次利、佐藤準、吉田建、トランザムといった名前が出てきますね。

桑江さん、1983年くらいまでがナベプロでの活動期間でした。その後は1990年まで音源をリリースしてません。このあたりはナベプロの付焼き刃的な戦略があだとなった可能性はありますね。従来の歌謡曲的なプロデュースにはたけていたものの、ニューミュージック系に対しては、内部に思うような人材がいなかったともいえます。

1979年末の日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を総なめにしてきたのですがね。特に、これらの賞はデビューが1月ということで、ナベプロが最もプッシュして取ってきたものといえますが。この時のライバルとしては倉田まり子や竹内まりやでした。

 

YouTubeの映像(音声のみですが)は「私のハートはストップモーション」のB面、「たずねびと」(作詞:竜真知子 作曲:都倉俊一 編曲:萩田光雄)でした。

もう少し付け加えてみますと、ナベプロの詰めの甘さ、ファーストアルバム『Born Free(野性に生まれて)』のジャケ写もドイヒーです。御本人は結構可愛いのにねえ。

もうひとりの同期生ともいえるのが、山下久美子です。

1959年1月26日生まれなので、みきさんや桑江さんより1学年上のお姉さんですね。

1980年6月25日、シングル「バスルームから愛をこめて」とアルバム『バスルームから愛をこめて』でデビュー。21歳の時です。

個人的なことですが、1980年の暮れだったか1981年の年明けだったか、大久保にある某オフィスでアルバイトしておりました。年末年始の期間ですから、まともな社員は出社しないので、学生アルバイトに動員がかかりましてね、大いに稼がせていただきましたが。その時のバイトの帰りにたまたま開いていたレコードショップで、このアルバムを購入いたしました。

このアルバム、その後CD化されたのですが、布袋寅泰と結婚後に東芝EMIに移籍してからというもの、絶版状態なんですね。このアルバム、なかなかにいいんですがね。日本コロムビアさん、そのあたりお願いしたいものです。それとも、タワレコあたりがやってくんないかな。

さて、山下さんの経歴も詳細は不明です。別府の出身で高校を中退して博多のクラブで歌っていたところをスカウトされたとのことです。それがいくつのことなのか、はっきりしないのですが、慎重なナベプロのことですから、みっちりとレッスンを課せられたものと思われます。おそらくは18~19歳くらいの時にはナベプロの寮にいたのではと思いますね。

そして、彼女もNon Stopプロジェクトにいたとのこと。外注の曲の並ぶデビューアルバムですが、桑江さんの時よりは仕事の出来がいいと思います。ナベプロもノウハウがわかってきたといいましょうか。

そして、デビューアルバムでは、系列社員(渡辺音楽出版)の木崎賢治氏をプロデューサーに迎え、作詞に康珍花、作曲に亀井登志夫、編曲に松任谷正隆と鈴木茂というラインナップを中心に作り上げていきます。特に作詞作曲はいずれも当時の新人で、木崎氏からはかなりのダメ出しを受けたとのこと。山下さんのヴォーカルも博多のライヴで鍛えられていたものの、レコーディングのマイクから拾った声を聴かれたところ、どのように感情を落とし込むかをやはりダメ出しされ、悩んでいたとのことです。ここで、木崎氏は「何も考えずに童謡みたいにまっすぐ歌うように」との指示を出し、よくなっていったとのことです。

このアルバムのキャッチフレーズが「胸のここんとこがキュウンとなるような歌を唄いたいのよね…」です。元祖「胸キュン」ですわ。

ただし、セカンドアルバム以降はこの経験が彼女のヴォーカルスタイルを確立し、いわゆる久美子の歌が歌えるようになったとのこと。

曲はサードアルバム『雨の日は家にいて』収録のタイトル曲で5曲目のシングル。オリコン91位とあまり売れませんでしたが、いい曲です。作詞:康珍花 作曲:岡本一生 編曲:伊藤銀次のラインナップ。

さて、久美子さん、キャリアも長いですが、個人的にはナベプロにいた1980年代の初頭くらいがいいなあと思っております。

松原みきの当時の立ち位置は?

さて、間違いなく松原みきと桑江知子は同時期にナベプロにいてお互いデビューの日を待ち続けていたと思います。そして、山下久美子も多少かぶっていた時期があったはず。

ナベプロとしてこの3人をどのように売り出そうとしていたのか。1959年生まれでナベプロ所属、最もデビューが早かったのが石川ひとみです。また、1960年生まれの石田えりはシンガーではありませんが、1976年にすでにデビューしています。

石川ひとみの場合は「君こそスターだ」で勝ち抜いていてある程度の実力があったといえます。また、ナベプロには東京音楽学院という芸能学校があり、なんと地方にも分校があったとのことです。石川ひとみも石田えりも東京音楽学院の生徒でした。なお、東京音楽学院からはスクールメイツが選抜されてもいました。

一足早く石川ひとみがデビュー(高校卒業後に即入寮)しましたが、このラインで売り出したかったのか。それとも、ニューミュージック系のアダルト路線で売り出したかったのか。

おそらくは後者でしょう。

桑江さんは沖縄にルーツがあるものの、ポップスのセンスが天性のものであったのかどうか。

山下さんはライヴハウスでの経験はあるものの、プロの世界に入るまではあくまでも我流でやってきた人です。

みきさんはジャズが流れるような家庭で育ち、母親もジャズシンガーでした。学生時代にバンドも組んでいて、ピアノも演奏できるし、曲作りもできる人で、いわば、ポップスの申し子。スローなバラードから16ビートまで歌いこなせる天才であったといえましょう。

おそらくはナベプロの次代のエース的存在だったのではないかと思います。

デビューが1979年の11月で、桑江さんに遅れること、10ヶ月。これは、菊地氏のナベプロに対する配慮もあったんじゃないかと思います。11月デビューですと、賞レースとは無縁になりますし。

ナベプロとしてはみきさんを手放してしまったところ、どうしても桑江さんをいち早く売り出したかったのではないでしょうか。山下さんはまだ粗さがあったということで。

みきさんとしてもそのままナベプロでデビューしていたとしても、ある程度歌謡界に染まった作家陣の曲を歌うことになり、個性が埋没してしまった可能性も考えられます。なので、これはこれでよかったかと。

では、最後にこの曲でお別れしましょう。1980年4月21日発売のサードシングル「ハロー・トゥデイ~Hello Today」(作詞:三浦徳子 作曲編曲:大村雅朗)です。この頃、月1で出演していた「夜のヒットスタジオ」からの映像です。

バックの演奏はダン池田とニューブリードですが、ギターは(映っていませんが)伊藤銀次だそうです。ニューブリードでは担当できない部分を映らないところで演奏しているのだとか。

ちなみに、「ハロー・トゥデイ~Hello Today」はアルバム未収録です。

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