カテゴリー「Music Talk」の113件の記事

2021年5月 3日 (月)

フィンガー5とイアン・ギラン

かすてら音楽夜話Vol.113

 

突然でしたが、フィンガー5の「学園天国」(作詞:阿久悠 作編曲:井上忠夫)でした。

「学園天国」はのちにカバーされた小泉今日子ヴァージョンもありますが、冒頭の「♪ヘ~イ、ヘイ、ヘイ、ヘ~イ、ヘイ!」のぶっ飛び方は、とてもじゃありませんが、晃くんにはかないません。

フィンガー5というグループ名からわかるように、アメリカのJackson 5(ジャクソン5、のちのジャクソンズ)に倣った、元祖沖縄アイドルの兄弟グループです。

Finger5

ま、晃くんと書きましたが、今年還暦でございます。それにしてもリリース時12歳で小学生。声変わり前なのか、それにしても異様なハイトーンでございます。そして、歌のうまさは天才的ですし、「ガキのくせしてサングラスかよ」っちゅうイメージなので、非常に鼻につく存在として見えた方も多いのではないでしょうか。ま、ジャクソンファイヴのMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)的な立ち位置の人です。

こちらの「学園天国」ですが、1974年のリリースで、オリコンシングルチャートは2位まで上がった曲です。それ以前にも、「個人授業」(阿久悠・都倉俊一作品)と「恋のダイヤル6700」(阿久悠・井上忠夫作品)が連続の1位を獲得していて、当時のトップスターですね。現在であれば妹の妙子さん(11歳で小学生)も含め、夜の番組には出演できないことになりますが。

で、印象的な冒頭の「♪ヘ~イ…」なんですが、もとになった曲があります。

 

Gary U.S. Bondsの「New Orleans」(Frank J. Guida-Joseph F. Royster)でした。

1960年のリリースでビルボードの6位を記録したヒット曲です。

この方、1961年にビルボード1位を獲得したことがあるのですが、それ以降はヒットに恵まれず、突如1981年に復活しビルボードのチャートにも顔を出すという復活を遂げたことがあります。

この曲の冒頭の「♪Hey~」を井上忠夫がいただいたのですね。リスペクトした表現ですと、Gary U.S. Bondsをオマージュして「学園天国」で使ったということになります。なにしろ、元ブルーコメッツですから、1960年の曲くらいコレクションしていたと思いますよ。

どちらの「ヘイ」も作詞じゃないのかという話も出てくるでしょう。ですが、職業作詞家の阿久悠さんはそんな下世話な言葉を書かないでしょう。まずは、阿久悠氏が詞先で井上忠夫氏にバトンタッチし、井上氏が曲を作りますが、アレンジも担当した井上氏が「そうだ、あれがあった!」と「New Orleans」を引っ張り出してきたのだと考えます。それを阿久悠氏がOKを出し、インパクトのある曲となったのですね。

この手法、筒美京平氏のやり方にも似ています。

で、「New Orleans」の冒頭の「♪Hey~」ですが、フィンガー5と比べるとやや控えめな感じがします。これは、井上氏が晃のハイトーンを生かして、Gary U.S. Bondsよりも強調した感じに仕上げたのでしょう。

さて、「学園天国」から7年後、イギリスで「New Orleans」をカバーしたバンドがいました。

 

Gillan(ギラン)の「New Orleans」でした。1981年のUKチャートで17位と、ハードロックとしては異例のシングルヒットを記録しています。

ヴォーカリストのIan Gillan(イアン・ギラン)はDeep Purple(ディープパープル)のヴォーカリストです。

Iang

この曲の冒頭の「♪Hey~」なんですが、フィンガー5の「学園天国」に近いものがあるように思えてなりません。ま、Gary U.S. Bondsのヴァージョンをハードロックやメタル寄りにアレンジすればこんな風になるという話もありそうですけど。

イアン・ギランはパープル時代も含めて何度も来日していて、その際にフィンガー5の演奏をテレビで見たとか、はたまた、レコード収集していた、中古レコード屋で偶然見つけたなどの可能性がなくはないですね。

ディープパープルの来日としては1973年で、「学園天国」リリース前です。ですが、Ian Gillan BandとGillanとしては1977年、1978年、1981年に来日してます。

その時にレコ屋を漁るイアン・ギランの図というのもなんか夢があるじゃないすか。

日本人アーティストというと洋楽のパクリという話も出ますけど、逆パターンがあってもいいんじゃね?

★この記事は、昨日facebookにアップされた元「知子のロック」のトーマスさん(すずき銀座さん)の記事からインスパイアされて書きました。トーマスさん、ありがとうございます。

★引き続き、リクエスト等ありましたらお願いいたします。高評価の「いいね」とコメントもいただけるととても嬉しいです。

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2021年4月28日 (水)

タータンチェックの来襲

かすてら音楽夜話Vol.112

Baycityrollers

<Bay City Rollers>

ここのところ、わたしらより上の年代のミュージシャンがお亡くなりになるたび、記事に取り上げているんですが、元Bay City Rollersのリードヴォーカル、Leslie Mckeown(レスリー・マッコーエン、実際の発音はものすごく難しいと思われます)が亡くなりました。

とはいえ、ここではただの追悼記事にはなりません。

Lesliem

この方でございます。享年65歳。

ベイシティローラーズの結成は結構古く、ベースとドラムのロングミュア兄弟によって1965年に結成されたバンドが元になってます。その後、1968年にベイシティローラーズと改名し、メンバーチェンジを重ねながら1971年にデビューします。

 

彼らの代表的なヒットソング、「Saturday Night」(Bill Martin-Phil Coulter)でした。

1975年のリリース作品で、1976年の年明けにビルボード1位を獲得します。

ベイシティローラーズがアメリカ進出を始め、日本にもその噂が届くとともに日本でもシングルやアルバムが発売されました。特にティーン層の女子、すなわち、中高生あたりには絶大な人気が出たものです。当時は「ビートルズの再来」などといわれたものです。

同時期にQueenも日本で紹介されたころで、ビジュアル面などから同じように人気が出たのですが、ベイシティローラーズにはかなわなかったですね。音楽的な評価は別にしてですが。

さて、この映像は1976年ものもので、冒頭、アメリカの狩野英孝ことKCが紹介してます。また、この映像では最年長であったベースのAlan Longmuir(アラン・ロングミュア)が脱退し、その後釜としてわずか17歳のIan Mitchell(イアン・ミッチェル)がリズムギターとして参加してます。レスリーの右側の小柄な人です。

さて、この曲の特徴として、イントロと曲間で「S・A・T・U・R・D・A・Y、Night!」とメンバーで入れるチャントがあります。おそらく、英語圏の楽曲でこのような形を取るものはそれまでになかったものかと思います。いわば、ベイシティローラーズとプロデューサーの発明です。サビの最後もレスリーが「サ・サ・サ、サタデナァ~ィト」と歌ってます。これも画期的です。

と、褒めたところなんですが、実はレスリーは二代目のリードヴォーカルでして、その前任者はNobby Clark(ノビー・クラーク)といいます。

Nobbiec

実は「Saturday Night」は、ノビー在籍時に制作されたテイクのヴォーカル部分をそっくり入れ替えたものなんですね。

 

ノビーのヴォーカルヴァージョンでした。演奏は全く同じです。

違いはレスリーとノビーの声だけ。リリースは1973年でイギリスのみ。UKチャートにも全く入らなかったそうです。

強いていえばレスリーのほうが甘い感じが出ている程度ですかね。

ベイシティローラーズはスコットランドのローカルグループでしたが、UKチャートの常連になるまでは相当な戦略があったと思われます。ノビー在籍時にもUKチャートのトップ10に入る楽曲もありましたが、5歳若いレスリーを起用し、1975年に「Bye Bye Baby」(Four Seasonsのカバー)と「Give A Little Love」の2曲をUKチャートの1位に送り込み、アメリカに進出したのです。

ノビー在籍時の「Saturday Night」のジャケットを見ても、ロングミュア兄弟とノビーは確認できますが、あとの二人もEric Faulkner(エリック・フォークナー、リードギター)とStuart Woody Wood(スチュアート・ウッディ・ウッド、リズムギターのちベース)ではありませんし。

このように、アメリカ進出ということを狙う意味ですが、それはマーケットの違いです。特にベイシティローラーズはマーケットを意識し、若いメンバーを揃え、「売れる」ことを目指したのですね。ビジネスですから。

これを置き換えて説明すると、K Popの面々がいい例です。彼らが日本にやってきて、日本語の歌詞の曲までリリースするのはやっぱり韓国と日本の人口規模の違いがあります。いくら韓国で売れてもたかが知れてます。

スコットランドで売れるより、イギリス全土、果てはアメリカと。ABBAなんかもそうじゃないですか。スウェーデンの人口規模とアメリカでは段違いですしね。

さて、ベイシティローラーズはその後そこそこのヒットを飛ばしますが、やがてレスリーが脱退し、バンドは崩壊状態となります。その後、メンバーが新しいグループ(例としてロゼッタストーンなど)を結成したり、残ったメンバーが「Rollers」と改名してバンドを続けますが、1981年に活動が終わります。

それでもかつての栄光を諦められないのでしょうか、特に日本でベイシティローラーズ名義のライヴを行ったりしました。また、レスリー名義のベイシティローラーズ、イアン名義のベイシティローラーズなども活動していたようです。

そんな彼らにぴったりな曲がこちら。

 

1976年リリースの「Yesterday's Hero」(Harry Vanda-George Young)でした。ビルボードのチャートでは54位です。

元々はオーストラリアのJohn Paul Youngという人の曲です。その後のベイシティローラーズのことを予言しているような曲ですけど。これ、レスリーのヴォーカルもこれまでと違い、大人っぽいんですけどね。

そして、このテレビ用ライヴではイアン脱退後に参加したギタリスト、Pat McGlynn(パット・マッグリン)が画面の一番左で演奏してます。

ベイシティローラーズで残念だったのはバンド内にエリックとウッディの二人のソングライターがいたにもかかわらず、外注の曲やカバー曲がほとんどであったことですかね。売れるがために方向性が右往左往したともいえます。

それでも、ビルボード1位と数曲のTop10があるのだから、成功者であることには違いありません。

★引き続き、リクエストやご要望をお待ちしております。いいねとコメントもいただけるととても嬉しいです。

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2021年4月 9日 (金)

史上最高のスタジオミュージシャンたち

かすてら音楽夜話Vol.111

Shogun

<SHOGUN>

スタジオミュージシャンというと皆さんどのようなイメージをお持ちでしょう。

楽曲の収録で演奏をこなし、決して表には表れない人たちみたいな存在でしょうか。ま、現在はそのようなスタジオミュージシャンは数少なくなったと思いますが、1970年代まではそんなイメージでした。

メンバー全員が10年以上の経験を持つスタジオミュージシャンで構成されたSHOGUN(本来は「O」ではなく、長音記号のついた「Ō」となりますが、ここでは「SHOGUN」という表記にいたします。 )は、1979年にデビューします。

SHOGUNには前身のバンドがあり、ギターの芳野藤丸を中心に活動を行っていたOne Line Bandです。そのOne Line Bandに日本テレビの音楽プロデューサーが目を付け、ドラマ「俺たちは天使だ!」のサウンドトラックを任せることにしました。しかし、日本で音楽活動を行っていたCasey Rankin(ケーシー・ランキン)を加え、当時アメリカで一大ブームを起こしていた小説・ドラマ「将軍」からインスパイアされ、バンド名を改めたのです。

 

SHOGUNの「男たちのメロディ」(作詞:喜多条忠 作曲:ケーシー・ランキン 編曲:大谷和夫)でした。「夜のヒットスタジオ」からのライヴです。

ドラマ「俺たちは天使だ!」は沖雅也主演で、主題歌となったこの曲は50万枚のヒットとなりました。

当時のSHOGUNのラインナップですが、芳野藤丸(G & Vo)、ケーシー・ランキン(G & Vo)、ミッチー長岡(B & Vo)、大谷和夫(Key)、中島御(Per)、山木秀夫(D)。この曲だけは職業作詞家が担当しましたが、主な作詞はケーシーが行い、通常は英語で歌われました。

普通新人バンドですと、ヴォーカルも熱量の高いシャウト型でしょうし、ギターもギンギンに鳴るようなイメージですよね。しかし、藤丸もケーシーも力の抜けたいい感じですし、藤丸のギターもカッティング中心でギターソロも前に出すぎない控えめなものです。いわば、大人の味わい。

ベースのミッチー氏は曲によってはチョッパーも使うテクニシャンで、セカンドアルバムからは1曲はメインのヴォーカルを任されています。これがなんとも味わい深いです。

キーボードの大谷氏は火曜サスペンス劇場などの音楽を担当していました。バンドでもアレンジを任されました。

パーカッションの中島氏はフュージョンぽさやラテンの味付けをSHOGUNにもたらしました。

ドラムの山木氏は当時最年少で最も期待されたドラマーでした。

このヒットにより、スタジオミュージシャンとしてよりバンドとしての活動がメインになってきます。スタジオミュージシャンでありながら、ヴォーカルもなかなかのもので、藤丸とケーシーの味わい深い声が、歌謡曲などのザ・芸能界やアイドルを超越して支持されたのでしょう。

続くセカンドアルバム『Rotation』は全面が松田優作主演のドラマ「探偵物語」のサウンドトラックとして製作されています。

 

SHOGUNの「Bad City」(作詞作曲:ケーシー・ランキン 編曲:大谷和夫)でした。

こちら、オリジナル音源で、「探偵物語」のオープニング曲です。

 

SHOGUNの「Lonely Man」(作詞:ケーシー・ランキン 作曲:大谷和夫、芳野藤丸 編曲:大谷和夫)でした。

こちらは1998年の再結成時のメンバーによるライヴです。この曲は「探偵物語」のエンディングテーマとなります。シングルとしては「Lonely Man」をA面、「Bad City」をB面とするものをリリースしてます。なんとも豪華なカップリングですね。

ちなみに、冒頭の画像はアルバム『Rotation』のものですが、中心に映っているのは「探偵物語」に出演していたナンシー・チェニーという女優です。

この2曲ですが、松田優作の死後も缶コーヒーのCMとして当時の映像と新録音の両曲が使われ、SHOGUNを知らなくともこの曲は聴いたことがあるという人も多いんじゃないでしょうか。

ところで、SHOGUNは1980年のサードアルバムリリース後に解散してしまいます。それは、メンバー間の大人の事情等(詳しく書きませんが近年でいうと槇原氏のような事例)もありました。

そして、松田優作の缶コーヒーのCMが流れるころ、ひっそりと17年ぶりのスタジオアルバム『New Album』をリリースします。

メンバーは中島御と山木秀夫が抜けドラムスにケーシーの息子、Eric Zay(エリック・ゼイ)を抜擢。翌年の1998年には復活ライヴも予定されていたのですが、突然のケーシーの脱退により再び解散することになります。これは行きたかったです。

 

アルバム『New Album』から唯一シングルカットされた「Starting All Over Again」(作詞:ケーシー・ランキン 作曲:芳野藤丸 編曲:SHOGUN)でした。

このパフォーマンスは以前と全く変わらないですね。なんとも残念です。

この後、SHOGUNは何回か結成されています。しかし、2008年にバンドの核であった大谷和夫が亡くなり、翌2009年にもケーシーが亡くなってしまい、かつての存在感とは違っていると思います。

ですが、芳野藤丸のギターはあなたもどこかで聴いているかもしれません。「木綿のハンカチーフ」のイントロのカッティングによるギターソロは藤丸のものです。「天城越え」とかもそうらしいですよ。スタジオミュージシャンとして1万曲は演奏してきたといいますから。また、彼は西城秀樹バンドのバンマスでもありました。沢田研二に井上堯之のような。

大人も聴けるロックバンド、いつか出ないですかね。

★リクエスト、ご意見、お待ちしております。いいねとコメントも頂けるととてもうれしいです。

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2021年4月 4日 (日)

復活のおしどり夫婦デュオの結末

かすてら音楽夜話Vol.110

Candt

本日はアメリカの男女デュオ、Captain & Tennille(キャプテン&テニール)を取り上げます。

男女「デュオ」と書きましたが、キャプテンことDaryl Dragon(ダリル・ドラゴン)がキーボード。ヴォーカルは女性のToni Tennille(トニ・テニール)が担当するという形を取っています。

ダリル・ドラゴンがキャプテンと呼ばれるようになったのはいつも船長のような帽子をかぶっていたからだそうです。彼らは1975年のデビューですが、デビューが数年遅かったらキャプテンには「ゲイ疑惑」が付きまとったかもしれません。

ワタクシが彼らの写真を初めて見たとき、キャプテンの目玉の大きさにびっくりしたものです。単に眼球が大きいだけじゃなくて人の2倍はある瞳にびっくりでございます。

さて、彼らの出会いはBeach Boys(ビーチボーイズ)のツアーにサポートメンバーとして参加したことによります。その後、デュオとしてA&Mと契約し、1975年にリリースした初めてのシングル「Love Will Keep Us Together」(邦題:愛ある限り)がビルボードのシングルチャートで4週1位を獲得しました。

 

この曲はソングライターであるトニ・テニールの作品ではなく、作詞がHoward Greenfield(ハワード・グリーンフィールド)、作曲がNeil Sedaka(ニール・セダカ)によるものです。

セダカとグリーンフィールドのコンビはそれ以前にもヒット作品を生み出しております。「Love Will Keep Us Together」はセダカもリリースしましたが、全米的なヒットはキャプテン&テニールによるものが最初です。

この曲は1975年のビルボード年間シングル1位にもなり、18回グラミー賞のRecord Of The Yearにも輝きました。この「最優秀レコード賞」は曲の作り手ではなく、演奏者とプロデューサーに贈られますので、キャプテン&テニールとプロデュースのダリル・ドラゴンが受賞したことになります。

こうしてデビュー曲で大ブレークした彼らは同年に結婚します。

しかし、その後はトップ10シングルが続いた後、低迷してしまいます。

雌伏の4年。レーベルもA&Mからカサブランカに移籍し、13枚目のシングルがじわじわと売れていきます。

 

「Do That To Me One More Time」でした。曲はトニ・テニールによるものです。

リリースされたのは1979年ですが、1980年2月にビルボード1位を獲得。これはMichal Jackson(マイケル・ジャクソン)の「Rock With You」を追い落としてのものです。1位の座はわずか1週のみで、Queenの「Crazy Little Thing Called Love」(邦題:愛という名の欲望)にその座を譲ります。

しかし、ビルボードの100位圏内に27週チャートインし、1980年の年間シングルでは5位を記録しました。

残念ながらその後のヒットには恵まれませんでしたが、マイケルとクイーンに立ち向かったのですから、大したものですよね。

さて、おしどり夫婦に見えたキャプテンとトニ・テニールですが2014年に離婚し、夫であったダリル・ドラゴンは2019年に死去してます。うーん、何があったのでしょう。ともあれ、短期間に2曲もビルボード1位を出し、下積みからトップへとなれたのですから、幸せな人生だったのかもしれません。なお、ダリル・ドラゴンが亡くなるときにはトニ・テニールも付き添っていたそうです。

若く見えるトニ・テニールですが、誕生日が来れば81歳になるんですよね。いやー、月日が経つのは早いよ。

★ご意見・リクエスト、その他もろもろ受け付けております。いいねとコメントもいただけるとすごく嬉しいでございます。

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2021年3月27日 (土)

逆輸入モノで大成功

かすてら音楽夜話Vol.109

Kcsun2

<KC & The Sunshine Band>

1970年代後半から1980年代初頭にかけてのディスコブームについてはBee Geesの記事で触れました。チャート上ではビージーズの曲が最もヒットしたのですが、ディスコでかかる曲は必ずしも大ヒットした曲ではなく、踊るためにノリのいい曲であればチャート上位ではなくともガンガンとかかるものでございます。

ブラックミュージックのモータウンレーベルが最も知られていると思いますが、いわゆる白人系のミュージシャンにもディスコサウンドは影響を与えました。あの、Paul McCartney(ポール・マッカートニー)でさえ、「Good Night Tonight」なんていう曲も作ってしまうほどでした。

さて、そのような状況において、人種を超え、ディスコサウンドに特化したバンドがいました。それが、KC & The Sunshine Band(ケーシー&ザ・サンシャインバンド)でした。

 

曲は1975年のビルボード1位、「That's The Way(I Like It)」でした。

この曲はディスコの定番でして、映画「サタデーナイトフィーバー」登場以前に最もディスコでかかった曲なのではと思います。いまだに、この曲はテレビのBGM等に使用されるし、聴いたことのある方も多いのではないでしょうか。

さて、人種を超えたバンドと申しましたが、中心人物はヨーロッパ系アメリカ人のふたりです。ヴォーカル兼キーボードのKCこと、Hurry Wayne Casey(ハリー・ウェイン・ケーシー)とベースのRichard Finch(リチャード・フィンチ)です。

KC & The Sunshine Bandの5曲のビルボード1位獲得曲はすべて、KCとフィンチの共同作業によるものです。バンドの成り立ちはKCが半分バイトのような形でレコード会社とかかわりがあり、KCが誘う形でレコード会社のエンジニアであったフィンチを加え、ドラムとギターはスタジオミュージシャンで固めたものです。バンドに欠かせないホーンセクションは正式メンバーではないかもしれません。

彼らは当初アメリカでは全く売れませんでしたが、イギリスのR&B(リズムアンドブルース)チャートから火が付き、1975年に「Get Down Tonight」で初のビルボード1位を獲得してからは、1979年まで毎年のようにヒットを記録してきました。

 

こちら、1979年の最後となるビルボード1位獲得曲、「Please Don't Go」です。明らかに路線が違いますね。

この直後、KCはTerri De Sario(テリー・デサリオ)というイタリア系女性シンガーとデュエットソングをリリースします。ちなみに、テリーはKCの高校の同級生だそうです。

 

Terri De Sario with KCで「Yes, I'm Ready」でした。この曲はビルボード2位というヒットを記録しています。

KC、以前の弾けた様子がまるでありません。一転マジになってしまったかのようです。もっとも、「Yes, I'm Ready」はテリー用の曲で、KCは関わってないのですが。

その後、このようなKCの振る舞いに嫌気がさしたのか、リチャード・フィンチがバンドを去ります。

 

こちら、1983年のビルボード18位、「Give It Up」です。こちらは、フィンチが関わらない曲で、KC & The Sunshine Band最後のビルボード100位圏内に入った曲です。

当時のワタクシにはKCたちは「That's The Way(I Like It)」のイメージが強くて、この曲がリリースされたときは何ともずっこけたものです。

Kc

<KC>

こちら、全盛期のKCです。なんとなく、狩野英孝に似ているかな。

その後のKC & The Sunshine Bandですが、活動休止期間はあったものの、現在も活動しているようです。そして、YouTubeを検索すると、でっぷりと太ってしまい、髪の毛が後退し、髭面のKCが引っかかってきます。

なんか寂しいですけどね。

★引き続き、リクエスト、ご要望お待ちしております。いいねとコメントもよろしくお願いします。

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2021年3月18日 (木)

追悼・村上ポンタ秀一

かすてら音楽夜話Vol.108

Ponta

村上ポンタ秀一氏が、お亡くなりになりました。まだ、70歳という若さでした。

若すぎる死はとても残念ですが、ポンタさんが関わった音楽でにぎやかに送り出そうと思います。

ポンタさんはドラマーで、音楽業界にかかわりだしたのは赤い鳥からです。ギターの大村憲司氏に惹かれ、赤い鳥のオーディションを受けてドラマーとしてデビューします。

 

赤い鳥で「翼をください」でした。

今や、音楽の教科書にも載る「翼をください」ですが、ロックのアレンジをされたヴァージョンです。このようなセッションができるのも大村氏とポンタさんが入っていたからですね。

オリジナルメンバーでは絶対に無理です。

ちなみに、この映像を初めて見たのは、2000年の元旦に放送されたTVK(テレビ神奈川)の「ライブ帝国」第二部でした。もっとも、ワタクシは当時香港に出かけていて、予約録画(もちろんビデオテープによる録画)いたしました。

後年、この番組をレコーダーのハードディスクにダビングし、現在ではDVDに焼き直して保存しております。この番組にはかなり古いライヴ映像が放送され、お宝物です。年に1度でいいので、またやってくれないでしょうかね。

さて、ワタクシが村上ポンタ秀一という名前を知るきっかけとなったのが、1989年に放送が始まったTBS「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称「イカ天」)でした。ポンタさんはここで審査員を務めていたんですね。

番組自体は10組のアマチュアバンドからその週のチャレンジャーを決め、前週の「イカ天キング」と対決するという、勝ち抜きの番組でした。当時の審査員には伊藤銀次、吉田健、中島啓江などの辛口審査員がいて、応募してきたGLAY(デビュー前)などもばっさりと切り捨てるという具合でした。

決して商業ベースに寄り添った番組ではないのですが、そんな中からもデビューが決まったバンドもかなり多かったです。

イカ天関連のイベントもあり、そんな中なら審査員による演奏というものもありました。

 

司会の三宅裕司と相原勇も参加してます。

メンバーはPANTA(Vocal)、田中一郎(甲斐バンド、Guitar)、鳴瀬喜博(カシオペア、Bass)、難波弘之(Keyboard)、森雪之丞(作詞家、Keyboard)、斎藤ノブ(Percussion)、今野多久郎(Kuwata Band、Percussion)。ドラムはもちろんポンタさんです。

楽しそうですね。天国でも大村さんとセッションしてくださいね。

★リクエストご意見お待ちしております。いいねとコメントもよろしくお願いします。

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2021年3月13日 (土)

卒業ソング

かすてら音楽夜話Vol.107

3月は別れの季節ですかね。学校を卒業する、というケースが最もポピュラーかと思います。

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<チュラロンコン大学の卒業生>KP/DA18-50mm

卒業をテーマにした定番の曲というと、ユーミンの「卒業写真」ということになりますかね。この曲は1975年の荒井由実時代にアルバム『Cobalt Hour』に収録された曲で、シングルカットはされておりません。

ですが、フォークグループ「赤い鳥」から派生したハイ・ファイ・セットのデビューシングルとしてリリースされた曲でもあります。残念ながらチャート記録は不明ですけど、今や誰もが知る曲でございます。ちなみに、赤い鳥から分裂したもうひとつのグループは「紙ふうせん」です。

ハイ・ファイ・セットは男女3人組で、山本潤子、山本俊彦、大川茂というメンバーです。二人の山本さんは夫婦ですが、グループ解散後、夫の俊彦氏はお亡くなりになりました。大川氏については、wikiで調べてください。音楽活動からは離れているはずです。

 

現在ユーミンの公式YouTubeチャンネルに「卒業写真」は上がっておりませんで、ではハイ・ファイ・セットかとも思いましたが、すでに解散し音楽活動から離れた人たちですので、公式的な映像はありませんでした。

その中でも比較的コンディションのいいものが、山本潤子氏のソロ映像でした。ハイ・ファイ・セット時代も彼女がリードヴォーカルです。現在、無期限活動停止中といいますが、「赤い鳥」時代の「翼をください」では個人的には歌よりもその美貌にたまげたでございます。

ま、「卒業写真」はかなり前の曲なので、このブログの読者はともかく、一般的には次の曲が広く浸透してきたのではないでしょうか。

 

と、いうことで、レミオロメン「3月9日」(作詞作曲:藤巻亮太 編曲:レミオロメン)でした。

リリースは2004年とかなり前で、オリコンチャートでは11位となっております。ただし、この曲は翌年のテレビドラマで使用されたため、再びチャートインするというロングヒットになりました。

映像では卒業式と結婚式のシーンがあるのですが、レミオロメンの3人の友人の結婚式をテーマにした曲なんだそうです。

映像で出てくる女子高生は堀北真希です。それも、今となっては貴重ですね。

なんかもう、すっかりと「3月9日」が卒業ソングとして定着している感じですけど、自分の場合を振り返ると、3月初旬に卒業式やってたっけという思いはあります。もう1週間は遅かったような。

さて、あなたの卒業ソングは何ですか?

★引き続き曲のリクエストやテーマを募集しております。いいねとコメントもお願いしますね。

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2021年3月 9日 (火)

歌うドラマー

かすてら音楽夜話Vol.106

ロックバンドの花形は何といってもリードヴォーカルですね。Led Zeppelinでいえば、Robert Plant(ロバート・プラント)です。日本のGS、ザ・タイガースでいえばジュリーこと沢田研二(たとえが古くてすいません)。

もうひとり目立つ人間は、リードギター。ツェッペリンでいえば、Jimmy Page(ジミー・ペイジ)。ザ・タイガースでいえば加橋かつみ。

残ったベースとドラムス、キーボード担当は淡々と演奏する人というイメージです。

ではあるのですが、ドラムスという存在、意外と目立つのです。なぜならバンドのリズムの中核であり、奥ではありますがバンドの中央にどっしりと構えております。また、演奏中はずーっと叩き続けているわけですよね。それも、力仕事ですから、汗を滴らせながら。ましてや、ドラマーがリードヴォーカルを担当すると、誰もがドラマーから目を離せなくなります。

Donhenry

この、Don Henley(ドン・ヘンリー)、Eagles(イーグルス)のドラマーにして、Glenn Frey(グレン・フライ)と並ぶ二大ヴォーカリストです。最も有名なのが、「Hotel California」でございます。

イーグルスの公式YouTubeチャンネルは存在しないようで、数多くのライヴ映像が上がっているものの、やがて削除される運命。ここでは取り上げませんけど、全盛期の演奏はもう完璧です。

Grandfunk

こちらは、Grand Funk(グランド・ファンク)。かつては、Grand Funk Railroadとも名乗っておりました。彼らは2曲のビルボード1位曲を生み出しましたが、カバーの「Loco Motion」ではなく、初の1位に輝いた「We Are An American Band(邦題:アメリカンバンド)」では、ドラムがリードヴォーカルでした。

とはいえ、「ホテル・カリフォルニア」に匹敵する日本での知名度というと、この曲でしょう。

 

ということで、1975年の全米3位、jigsaw(ジグソー)で「Sky High」でした。

この曲は香港・オーストラリア合作のアクション映画「The Man From Hong Kong」の主題歌です。それよりも、日本では全日本プロレスに参戦していたメキシコ人覆面プロレスラー、ミル・マスカラスの入場曲で使用されて一気に有名になったと思います。

ジグソーのヒット曲はこれだけなんですが、40年以上たった現在でもイントロを聴けば「スカイハイ」とわかるくらいです。それだけインパクトがありますし、曲がいいですよね。プロレス以外でも野球選手の選手紹介時のBGMに使用されたりしております。

Hamadashogo

一方、日本では、浜田省吾がドラマー出身として有名です。

浜省は愛奴(あいど)というグループでデビューしました。しかし、生粋のドラマーというよりは、愛奴のメンバーには青山徹、町支寛二などの上手なギタリストがいたため、泣く泣くドラムに回ったというのが真相です。彼らは吉田拓郎のバックバンドを一時期務め、後年のコンサートでは浜田がドラムを務め、「浜田、ドラムが上手くなったな」といわれています。

ですが、愛奴はメンバーチェンジでドラムに岡本あつおを起用し、浜田はパーカッションに転向後、愛奴を脱退し、ソロミュージシャンとなりました。

その他、山崎まさよしがアマチュア時代はドラマーだったり、鈴木祥子が原田真二のバンドでパーカッションを担当していましたが、1983年のヤマハのEastWest地区大会で女性最優秀ドラマー賞を受賞しています。

生粋のドラマーというと、ジャニーズ事務所に所属していてのちにCharのバックでドラムを叩いていた、辻野リューベンという人がいます。日英のハーフでそのルックスに目を付けた芸能事務所が彼をドラムス兼リードヴォーカルに起用した「リューベン&カンパニー」というバンドもあるのですが、ここでは割愛します。

おそらく、日本で歌うドラマーとして最も有名なのがこのバンドではないでしょうか。

 

1985年のオリコン2位、C-C-Bの「Romanticが止まらない」(作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀・C-C-B)でした。

この曲は作曲の筒美がドラムの笠浩二の透明感のある声を気に入って、バンド内であまり目立つ存在ではない笠を起用しました。また、本来のサビの部分を笠が歌いやすいように勝手に変えてしまったのですが、筒美は「それで行こう」とOKを出しました。

ピンクに染めた髪とピンクのメガネ、シンセドラムと、今にして思えばかなり際立った存在ですけど、このあたりくらいから「二枚目キャラ」が影を潜め、個性的な人物が台頭してきたように思います。

と、いうことで、洋の東西の「歌うドラマー」でした。

★取り上げてほしい曲やシンガー、グループなど洋楽・邦楽問わずリクエスト受け付けます。また、記事が心に残りましたら、イイねとコメントもお願いいたします。待ってます。

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2021年2月17日 (水)

竹内まりや、ついに解禁

かすてら音楽夜話Vol.105

Takeuchimariya

遂に登場の竹内まりやです。

彼女の所属するスマイルカンパニーという事務所は夫である、山下達郎とともに非常に著作権にうるさいところでした。それはスマイルカンパニーの同族会社ともいえるジャニーズエンターテイメントにもいえることなんですが。

ミュージシャンの著作権や肖像権等について、それらが直接彼らの収入源となります。著作権・肖像権等を守るのは当然の姿勢であります。これまで、デビューの1978年から42年間の間、いわゆるサブスクリプションについてかたくなに拒まれてきたわけですが、昨年ようやくごく一部が解禁になりました。ということなので、今回の登場となったわけです。

★これは期間限定だったようで、すでに2本の動画とも削除されてます。ワーナーのチャンネルだっていうのに。元記事自体は修正しませんが、映像は別な形で上げてみたいと思います。<2021/05/07追記>

では、その一部をさっそく取り上げましょう。

 

竹内まりやで「Plastic Love」(作詞作曲:竹内まりや 編曲:山下達郎)でした。

<追記>
困ったときのRainychさん。オリジナルとやや異なるカバーですが、こちらは消されることはないと思いますので差し替えでどうぞ。

こちらの曲はアルバム『Variety』(1984年)収録の3曲目のシングルカットです。このアルバムは山下達郎との結婚、休業後の復帰作でアルバムはオリコン初登場1位となりましたが、シングルは3曲とも20位以下、この曲に至っては86位に沈むという有様でした。

それは、ちょうど山下家の長女の出産と重なり、プロモーションをほとんどやらなかったためでしょう。と、いうか、結婚後は他のシンガーへの曲提供は行っていたものの、自身の活動は皆無で、「記念に出してみた」というようなノリだったともいわれています。

しかし、松原みきの記事で取り上げたRainychさんをはじめとするシンガー系YouTuberも、「Plastic Love」を取り上げ、海外でもこの曲がバズるようになってきたのです。

竹内まりや自身は山下との結婚前にアメリカ録音でTOTOらと共演などをしていたのですが、この時期本気でアメリカ進出などする日本人はいなかったわけです。それは、松原みきの「真夜中のドア」にも通じることなんですが、40年くらい埋もれていた日本のニューミュージック~J POPという流れをYouTubeを介して、それが違法アップロードであろうとも世界に受け入れられたということなんじゃないでしょうか。

実際、松原みきや竹内まりやの映像には海外からものすごい数のコメントがついております。ふたりとも日本語で歌っていて(一部英語訳もあるみたいですが)ほぼ日本語を理解しない人たちには何が何だかわからないはずなのに。これは、我々が洋楽を聴くのと同じことなんでしょうかね。サウンドとヴォーカルの重なり具合が言葉を超えて気持ちいいという。

竹内まりやは1985年に長女を出産してからは家事と育児に追われていたものの、職業作家として曲提供を行うとともに、アルバム・シングルをぽつぽつとリリースし続けます。山下達郎曰く「シンガーソング専業主婦(または兼業主婦)」とのことです。

以上2曲を聴いてお判りと思いますが、全面的に山下達郎がバックアップしており、かなりのクオリティです。そこに目を付けたのがマスメディアでして、ほとんどのシングルにタイアップが付くのです。シングルとしては1998年の「カムフラージュ」と2020年の「いのちの歌(スペシャルヴァージョン)」の2曲がオリコン1位となっていますが、山下との結婚後にリリースした5枚のオリジナルアルバムはすべて1位。公式ベスト及びカバーアルバム4枚も1位ということで、山下以上に売れるどころか、J POPのクイーン、松任谷由実にも迫る勢いです。と、いうか対等といっていいでしょう。

子育ても一段落した2000年に竹内まりやは18年ぶりとなるライヴに登場しました。これはワタクシも見に行きましたが、素晴らしかったです。ライヴでもまったくオリジナル音源のクオリティを維持しているんです。これなら、いつでもライヴに復帰しても大丈夫だという気がしましたが、竹内まりや自身は相変わらず以前と同じペースで作品をたまにリリースする程度なんです。でも、いずれもヒット確実ですもんね。

これについては、夫の山下自身のリリースとかつての作品のリマスター、そして竹内まりやのプロデュースとかつての作品のリマスター等に関わるため、曲がある程度たまらないとアルバムもリリースできないことに起因しているでしょう。

Takeuchimariya1

今や、出す作品は確実に売れるし、クオリティもいうことなしなんですが、残念なのが結婚前の作品についてサブスクが許可されてないことでしょうか。

デビューの1978年からしばらくはテレビにも生出演し、歌謡番組で歌うということもありました。そればかりか、芸能人運動会にも出場したことがあったほどです。

別にそれを期待しているわけではないのですが、デビュー直後は竹内まりや自身が作った曲はアルバム中せいぜい3曲程度で、シングルには全く使われていません。まあ、それほど期待度の高い作家とは思われていなかったともいえます。

ですが、他人からの提供曲であってもいい味を出している作品はアルバム中にも多数あります。惜しむらくはシングルになっていないので、テレビでは流れていなかったりします。

独身時代のシングルで最も売れた曲は1980年の「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 編曲:加藤和彦・清水信之)の3位が最高です。この曲は資生堂の春のキャンペーンソングで、売れて当然。

サブスクになってないのでリンクだけでご紹介しましょう。

「September」(1980Live Version)

こちらは、1979年の3枚目のシングルです(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)。デビューシングルとセカンドシングルはタイアップが付いたのですが、こちらは何もなし。オリコンチャートでは39位に沈んでます。

この曲が収録されたサードアルバム『Love Songs』はその頃ようやくアルバイトで金を貯め、やや本格的なコンポーネントステレオを購入できたので、邦楽のアルバムとして初めて購入したという思い出があるんです。

学校の新入生顔合わせでも、この曲を歌った女子がいたし。

林哲司氏が本格的に売れる前に書いた曲です。それは「真夜中のドア」にもいえることですが。杏里や菊池桃子、オメガトライブなどで売れっ子になる前の作品。それは自身の才能を出し切った渾身の2曲なのではと思います。

竹内まりやも今では貫禄ついちゃってますが、このころはピチピチ。それにしても細いですよね。歌謡番組(化粧がひどくてえらく老けて見える)ではなく、どこかのライヴを流したものなので、等身大の25歳ということですね。

まあ、プロモーションビデオもない時代なので無理かもしれませんが、RCA時代のサブスクも音源だけでいいので流してほしいですね。

<追記>
期間限定ならそうアナウンスしてほしいです。ものすごく残念。

おそらくは、竹内まりやの映像作品を直接購入して見てほしいという意図なんだと思います。

でも、1980年代のクオリティの高いJ Pop作品群が海外でも再評価されたきっかけとなった「Plastic Love」ですから、竹内まりやあるいはスマイルカンパニーでYouTubeチャンネルを作り、映像なんか簡単なものでいいので、アップしていただきたいですね。これは、世界からリスペクトされているわけですから、竹内まりやとしてのその答えだと思うんですが。

おまけ。

 

竹内まりや自身の声で「不思議なピーチパイ」の一部。

資生堂のキャンペーンソングのCMです。モデルは当時「メアリー岩本」と名乗っていたマリアンです。

★引き続きリクエスト、ご意見、ご要望受け付けております。いいねとコメントもお待ちしております。

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2021年1月30日 (土)

ギブ四兄弟

かすてら音楽夜話Vol.104

 

いきなりYouTubeの映像を登場させましたが、Bee Gees(ビージーズ)の1977年末のビルボード1位獲得曲、「How Deep Is Your Love」(邦題「愛はきらめきの中に」)でした。映画「Saturday Night Fever」の劇中歌です。

この年は映画「サタデーナイトフィーバー」が大ヒットし、ディスコや洋楽に興味がなくとも、テレビとラジオで繰り返し曲が流れたものです。ビージーズはそのサウンドトラックを担当し、自ら演奏するばかりでなく、他のシンガーやグループにも曲を提供しいずれも大ヒットしてしまう現象が起こりました。

ジョン・トラボルタもここからビッグスターになっていったし、「フィーバーしてる?」なんつー意味不明のあいさつもあったほどです。パチンコのフィーバーもここから来てるんだろうね。わたしゃ、やりませんが。

Beegees

それだけ、この「How Deep Is Your Love」はインパクトがあったわけで、ディスコってなんだよというワタクシでさえ、「いい曲だ」となったものです。

あまりにもビージーズの影響が大きかったもので、FM放送などではビージーズの特集を組むほどでした。たしか、エアチェックしてカセットに録音したと思います。てなことで、それ以前のリアルタイムな記憶はないのですが、ビートルズ並みにビージーズの過去や来歴が頭に入ってきております。

ビージーズですが、ギブ三兄弟からなるバンドです。画像の中心が長兄のBarry Gibb(バリー・ギブ)。左が次男のRobin Gibb(ロビン・ギブ)。右が三男のMaurice Gibb(モーリス・ギブ)。ロビンとモーリスは二卵性双生児です。

彼らはイギリス出身ですが、一家でオーストラリアに移住し、オーストラリアで音楽活動を始めました。オーストラリアでは彼らはトップグループになっていたそうですが、世界的には無名です。やがてビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインにスカウトされる形でイギリスに帰国し契約を結びます。

デビュー時のビージーズは完全なファミリーバンドではなく、5人編成でした(のちに三兄弟だけとなります)。本格的なデビューは1967年の「New York Mining Disaster 1941」(邦題「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)でした。それ以降、トップ10ヒットが数曲、後のシングルはトップ100に入るのがやっとくらいのグループでした。

映画「Melody」(邦題「小さな恋のメロディ」)のサウンドトラックを担当したこともありましたが、英米で映画がコケ(日本ではマーク・レスター人気もありそこそこヒット)、デビュー5年目の1971年、ようやくナンバーワンヒットが生まれます。

 

ビージーズで「How Can You Mend A Broken Heart」(邦題「傷心の日々」)でした。ビージーズは9曲のナンバーワンヒットを持っていますが、これが初めての1位曲でした。

もう完全にソフトロック、メロウな路線ですね。この曲、冒頭では次男のロビンがリードヴォーカルなんですが1コーラス目の途中から長男のバリーがリードになりそのまま終わるというよくわからない展開です。ま、兄弟なので声質が似てますから聴いている分にはあまり関係ないのかな。

ビージーズもデビュー当初はロビンがリードヴォーカルであることが多かったのですが、どうやらこのあたりから立場が逆転していったのかもしれません。三男モーリスはどちらかというと、楽器演奏(ギターもキーボードもこなすマルチプレイヤー兼アレンジャー)とコーラスに回る役割でした。これは終始変わりません。

ちなみに楽曲はバリーを中心とし、三人で作ったものが多いです。

さて、ようやく1位を獲得したビージーズですが、またもやメガヒットからは遠ざかることになります。そこで、彼らが取った手段は路線の変更でした。

1975年アルバム『Main Course』がリリースされ、「Jive Talkin'」が4年ぶりとなるビルボード1位となりました。これがリズム主体のディスコミュージックで、これまでの曲調とは一変するのです。ただ、この曲はまだまだソフト調のディスコサウンドだったのです(現実的には「Jive Talkin'」がディスコで取り入れられたといったほうが適切でしょうか)。しかし、ビージーズはこのアルバムとシングルのヒットでこれまでにない手ごたえを感じていたのでしょう。

翌1976年、アルバム『Children Of The World』からの「You Should Be Dancing」が、ファルセットボイスを使用したいわばハードなディスコサウンドとしてリリースされ、これまたビルボード1位(3曲目)を獲得します。バックのサウンドやリズムもディスコに特化したようなアレンジです。果たして、この段階で映画「サタデーナイトフィーバー」の構想があったのかどうか。その点は不明ですが、「You Should Be Dancing」は映画にも使われ、ジョン・トラボルタの印象的なシーンのバックで流れることになったのです。

 

映像は映画のシーンです。当時の中高生はディスコとは何ぞやでしたから、トラボルタのダンスソロを呆気に取られて見ていたはずですね。ま、実際ワタクシはこの映画を見ていないのですが、このシーンだけは映画のプロモーションで何回もテレビで流れていました。

ま、振り返ってみると、今時こんなダンスをするヤツはいないですけど。かなり滑稽ですし。ファッションもダッセーとか思うでしょう。シャツの第2ボタンは外しているものの、シャツの裾がパンツにしっかり入れられているし、パンツのウエスト部分がかなり高いです。しかもかかとの高い「シークレットブーツ」を履いてますね。ちなみに彼の身長は188cmだそうですが。

 

ともあれ、映画「サタデーナイトフィーバー」はビージーズ所属のRSOレコードによって製作されました。この映画の中でビージーズは冒頭の「愛はきらめきの中に」に続き、「Stayin' Alive」、「Night Fever」(邦題「恋のナイトフィーバー」)と3曲続けてのビルボード1位を獲得しています。そればかりでなく、サウンドトラックのアルバムは24週連続1位。ビージーズの「Jive Talkin'」と「You Shoul Be Dancing」も使用され、イヴォンヌ・エリマンに提供した「If I Can't Have You」も1位を獲得したほどです。

何はともあれ大成功のビージーズは1979年にアルバム『Spirits Having Flown』(邦題『失われた愛の世界』)をリリースし、シングルカットされた3曲、「Too Much Heaven」(邦題「失われた愛の世界」)、「Tragedy」(邦題「哀愁のトラジディ」)、「Love You Inside Out」を連続1位に導きます。ちなみに、『Spirits Having Flown』はビージーズのキャリア唯一のアルバムチャート1位となりました。あれだけヒットを連発していたというのに。

あからさまなディスコ路線ではなかったものの、バリーを中心とするファルセット路線は継続されました。しかし、ここまでくるとリスナーも「お腹一杯」だったのではないでしょうか。これ以降の目立ったヒットは1989年の「One」(7位)が最高という凋落ぶりになってしまいます。

Andygib

さて、タイトルが「ギブ四兄弟」なんですが、末弟のAndy Gibb(アンディ・ギブ)がビージーズの隠し玉でした。

1977年にアメリカデビュー。それ以前はオーストラリアでドメスティックな活動をしていました。これは、本格的なワールドデビューの準備だったと考えられます。当然ながら所属はビージーズと同じくRSOレコードです。

 

実質的なアメリカデビュー曲の「I Just Wanna Be Your Everything」(邦題「恋のときめき」)でした。

作者はもちろん、ビージーズ(バリー)です。この曲もビルボードの1位を獲得します。

ビージーズは髭面の男がファルセットボイスでディスコ調の曲をやっていたのに対して、アンディのこのルックスと若さです。たちまちファンがつくのも当然といえば当然。

次作の「(Love Is)Thicker Than Water」(邦題「愛の面影)も1位。その次の「Shadow Dancing」も1位です。アンディもまたビージーズの隙間を埋めるようにしてメガヒットを連発していたのですが。

実はこのアンディ、この時期にすでにコカイン中毒だったのです。彼もその後ヒットが出ず、1988年、わずか30歳にしてお亡くなりになりました。長兄のバリー・ギブはアンディをビージーズの4人目のメンバーにしようとしていたようなんですが。

ビージーズの悲劇はこれにとどまらず、三男モーリスが2003年に腸閉塞で急逝。次男ロビンも同じ病気で2012年に亡くなりました。

こうして残されたのは長男、バリーだけになり、ビージーズとしての活動はほぼ不可能になっています。

兄弟だけで12曲の1位。それにとどまらず、フランキー・ヴァリ、バーブラ・ストライザンド、ケニー・ロジャース&ドリー・パートンに提供した曲が1位に輝くなど、バリーのソングライターとしての才能はその後も続いていきました。

ディスコ期のビージーズ、癖強いですが、どこか残るんですよねえ。

<2021/02/05訂正および追記>
ちなみに、「愛はきらめきの中に」のビルボード1位を追い落としたのはPlayerの「Baby Come Back」なんですが、なんと彼らもRSOレコード所属でありました。
その後もRSOレコード所属のシンガー・グループで1位を獲得し続けたというのは、後にも先にも例がございません。

★引き続き、ご意見・リクエスト受付中です。心の琴線に触れたなら、いいねとコメントもお願いします。この記事書くのに、数日かかったです。

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