カテゴリー「Music Talk」の99件の記事

2020年11月20日 (金)

1977、ロックがテレビに進出した時

かすてら音楽夜話Vol.99

今でこそ、テレビの歌番組にロックバンドが出演するのもごく普通ですが、1970年代以前はまるで考えられないことでした。その禁を破るのが今回紹介する3組です。現在もバリバリで活躍する3組。テレビで見たときにはかなりの衝撃を受けました。

Char

Char

 

Charの「気絶するほど悩ましい」(作詞:阿久悠、作曲:梅垣達志、編曲:佐藤準)でした。

Charは早熟の天才ですね。1955年生まれで8歳でギターを手にします。そして高校1年の時にはすでにスタジオミュージシャンとして活動していました。

1973年にスモーキー・メディスンを結成し、1976年にソロデビューします。翌年の「気絶するほど悩ましい」はセカンドシングルとなります。ですが、自作ではなく職業作家の提供曲です。

Charはギターの腕を見込まれたこともありますが、ある意味ルックスでデビューできたようなところがあります。当然ながら自作曲で勝負する方法もあったでしょうが、それまで歩んできたロック界と異なるテレビや歌謡界では相当な違いがあり、Char自身も悩みぬいたと思います。しかし、彼はロックをメジャーにするため、この曲を受け入れました。

その後、数曲自身がヴォーカルを務めるシングルをリリースしますが、ソロ活動からバンド活動へと移行することになります。それ以降の活躍については割愛します。

ともかく、Charがテレビに出ることがなければその後の道もかなり遅れたと思われます。ソロデビュー時に21歳で柔軟な考え方があったことからこれは実現したといえましょう。「気絶するほど悩ましい」はオリコン12位まで上昇し、当時のロックとしては異例の大ヒットとなります。

原田真二

Haradashinji

 

原田真二のデビュー曲、「てぃーんず ぶるーす」(作詞:松本隆、作曲:原田真二、編曲:鈴木茂・瀬尾一三)でした。

原田真二は1958年生まれで、高校生の時に吉田拓郎らが設立したフォーライフレコードの新人オーディションの中から発掘された人材です。1977年に青学に入学するため上京しプロデビューが決まります。

この曲は原田が高校生の時に作っていたものですが、デビューに際して安パイ路線を行く吉田拓郎は吉田の曲で行こうとしていたようです。しかし原田は自作曲で行かせてほしいと懇願したようです。しかし、作詞は松本隆に依頼し、変更されました。

これも、デビューに不安のある吉田拓郎の親心みたいなものでしょうか。しかし、曲はオリコン6位となるヒットを記録し、その後の「キャンディ」、「シャドーボクサー」、「タイムトラベル」と続くいずれも、松本・原田のコンビでヒットを記録します。

YouTubeの映像は「夜のヒットスタジオ」のものですが、「ザ・ベストテン」にも出演しています。

当時18歳というルックスが受け、テレビにも引っ張りだこだったのですが、業界受けは悪かったようです。

というのも、テレビ用に用意されたバンドのサウンドではなくあくまでも自身のバンドにこだわる原田と音響スタッフが揉めていたとのことです。テレビ側も正論。また、原田も正論なんですが、まだティーンエイジャーの原田に意見されて誰もが気分を害するのも当然ですよね。

しかし、この原田のオピニオンがのちに生きてくるのです。そうでなければバンドサウンドをテレビで提供できなかったでしょうからね。なんにつけ、パイオニアは辛いですね。

その後の原田は自身のイメージするサウンドへとこだわり、作詞も自身で行い、ほぼセルフプロデュースの活動となりますが、ヒット曲は出なくなります。Charとは対極ですが、現在も活動は行っています。

世良公則&ツイスト

Sera

世良公則&ツイストのデビューのきっかけとなるのは、大学卒業記念に応募したポプコンであれよあれよという間にグランプリを取り、その後の世界歌謡祭でもフランプリを取った「あんたのバラード」ですね。

世良公則は1955年生まれでCharと同い年です。その風貌からは考えられませんが、バイオリンを習っていたそうです。小学生の頃は一度聴いたメロディをハーモニカや笛ですぐに演奏できたそうです。そして、洋楽、特にローリングストーンズやブルースに目覚め、地元広島で同級生たちとバンドを結成します(FBIバンド)。これが後のツイストになるのですが。

FBIバンドでの世良の担当はなんとヴォーカルではなくベースでした。それも、バイオリンをやっていたのだから同じ4弦のベースもできるだろうというものでした。

FBIバンドのメンバーは、高校卒業後も活動を続けたいと思い、全員が大阪の大学を受験し合格します。そして、大学でも活動を継続します。ある時、アマチュアのコンテストで審査員からヴォーカルの力が弱いといわれ、バンドはポジションを変更します。バンド内オーディションが行われついに世良がヴォーカリストとなったのですが、これはあくまでも臨時のものだったようです。

「そのうち、ヴォーカルかベースを入れるから」ということだったようですがそれは実現せず、卒業を前に記念で出たポプコンから火が付きデビューとなりました。

 

世良公則&ツイスト「あんたのバラード」(作詞作曲:世良公則、編曲:世良公則&ツイスト)でした。オリコン6位のヒットです。

彼らはこの曲をオリジナルメンバーで収録しますが、卒業を目前に控え、世良と2年後輩のキーボーディスト以外はプロ志向がなく(就職も決まっていたため)、セカンドシングルの「宿無し」からは世良の出身大学(大阪芸術大学)、でプロ志向のあったメンバーを集めて活動します。

ふとがね金太(ドラムス)や鮫島秀樹(ベース)は新ツイストのメンバーですね。

その後、「銃爪(ひきがね)」でオリコン1位を獲得。

アマチュア期のツイストで上京しテレビに出演した時には、スタジオセットに何気なく置いていた楽器のチューニングが、スタジオのスモークなどで狂ってしまい、見るも無残な演奏だったこともあったようです。

世良自身も「ロックがオリコンの左ページ(50位以下)に載るようなことがなかった。そこにCharが出てきてこうならなければならないと思った」とインタビューで後に語っています。

当時のテレビ界ではちょうどサザンオールスターズも出てきたころで(桑田佳祐と同い年)、二人で励ましあいながら切磋琢磨してきたようです。

ツイストは解散してしまいましたが、その後の世良の活動はご存じの通り。「太陽にほえろ!」にも俳優で出ましたね。

★引き続き、リクエストお待ちしています。次は記念すべき100回目。わたくしの敬愛するあの人にスポットを当てます。乞うご期待。

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2020年11月 9日 (月)

「みんなおいらが悪いのさ」

かすてら音楽夜話Vol.98

前回のエスニック歌謡のおまけで紹介した「東京ららばい」、松本隆&筒美京平による名曲ですけど、イントロがSanta Esmeraldaの「悲しき願い」に似ていると指摘しました。

ところで、「東京ららばい」やサンタエスメラルダ版の「悲しき願い」がリリースされた1970年代後半は空前のディスコブームでした。それは、映画『Saturday Night Fever』(1977年)で頂点に達し、日本にも上陸したものと思われます。

『サタデーナイトフィーバー』では、アメリカの有名どころが曲を提供し、劇中歌として使われております。Bee Gees(ビージーズ)の5曲のビルボード1位獲得曲をはじめ、Kool & The Gang、KC & The Sunshine Bandなどがディスコ調ナンバーを提供しています。

その翌年の映画『Thank God It's Friday』でも、Dona Summer、The Commodores等のブラック系かつソウル、ファンクっぽい楽曲で構成された劇中歌がかかりまくりで、日本に一気にディスコナンバーが押し寄せてきたように思います。ちなみに、『サンクゴッド・イッツフライデー』は見に行きました。

Santaesmeralda

<Santa Esmeralda>

ま、日本では本格的にディスコサウンドに挑戦した曲は具体的にはほぼないと思いますが、アメリカのブームがヨーロッパでも影響を受け1977年に結成されたのがサンタエスメラルダです。ま、ヨーロッパといってもリードヴォーカルはヒスパニック系アメリカ人、その他のメンバーやダンサーはフランスを中心とするヨーロッパ系という構成でした。

デビューアルバムに収録された「Don't Let Me Be Misunderstood(邦題「悲しき願い」)」が欧米のディスコチャートで火が付き、日本でも1978年にリリースされオリコン洋楽チャートで長らく1位を獲得しました。ビルボードのシングルチャートでも15位まで上がってます。

 

画像がいまいちですが、この時代にプロモーションビデオが作られていたようですね。

ま、ともかくこの曲がワタクシにインパクトを残したことは間違いありません。とはいえ、ディスコに通うということはまだなかったんですが。

Bitho

<尾藤イサオ>

その直後、「あしたのジョー」の主題歌を歌う尾藤イサオがカバーシングルをリリースしました。サンタエスメラルダを意識しているのか、バックに女性二人のダンサーを従えた「尾藤イサオ&ドーン」名義です。

 

なんで「あしたのジョー」の尾藤イサオがサンタエスメラルダに触発されるようにカバーヴァージョンを出したのかと思っていたんですが、実は1966年に一度「悲しき願い」をカバーしていたんですね。

それはなぜかというと、イギリスのバンドThe Animalsがシングルをリリースしていたからです。そちらは1965年です。

Animals

<The Animals>

ですが、アニマルズもオリジナルではなくて、アフリカ系アメリカ人シンガーのニーナ・シモンという人が1964年にアルバムの中で収録したのが世に出た初めてのものです。とはいえ、こちらは不発で、アニマルズによりヒットを記録してます。

The Animals版「Don't Let Me Be Misunderstood」 こちらはリンクのみつけておきます。なんか今聴くと古臭い感じですね。

尾藤イサオの映像は歌番組のライヴヴァージョンなんですが、尾藤イサオのすごいところは、シングルの音源もライヴも声にさほど変化がないということです。これはすごい。

1966年の曲となり、訳詞もタカオカンベ氏によるものが1966年版と1978年版で同じですので、「おいら」などあまり時代にそぐわない感じなんですが、ノリはアニマルズよりもいいんじゃないすかね。

尾藤イサオのキャリアは古くてロカビリー時代にまでさかのぼります。そこから俳優と歌手でやってきておりますので、アニマルズもサンタエスメラルダも恐くないぜみたいな思いを秘めていたのかも。

実際の音源、リンクつけておきます。

1966年版

1978年版

ちなみに、1966年のシングルはバックバンドがブルーコメッツですね。そして、明らかに1978年版のほうが上手くなってます。

「悲しき願い」は1966年当時よほど日本人の感性に合っていたのか、日本語カバーも競作でした。YouTubeで検索すると、布施明とスパイダース(リードヴォーカルは堺正章)ヴァージョンがヒットします。

ディスコ調のイントロ、中原理恵の「東京ららばい」(1978年)を含めると、京平さんがアレンジした「東京ららばい」が最も洗練されてますが。それは、やはり後出しの有利さでしょうか。(←決して筒美京平氏をディスるものではありません。)それにしても、尾藤イサオはインパクトありますね。

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2020年10月27日 (火)

エスニック歌謡事始めプラスワン

かすてら音楽夜話Vol.97

Ck1052

<クンバーコナム>K-7/DA16-50mm

ネタは結構たまっているでございますよ。ですが、4回に1回の音楽話をルーティンのように語っていきたいと思います。

画像はイメージでしかないのですが、今回のテーマは1970年代後半から1980年代前半にかけてリリースされた異国情緒のあるシングルなどを紹介します。

1978年4月

 

庄野真代「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀)でした。映像は「夜のヒットスタジオ」ですね。

この曲がリリースされた1978年頃は、一部のバックパッカーにはトルコやイスタンブールが知られていたと思います。ま、トルコと日本の関係は結構古いものの、そちらの事情を知る日本人はほぼいなかったでありましょう。

1977年に池田満寿夫(芸術家)が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞し(その後映画化)、にわかに脚光を浴びるようになってきたのがヨーロッパとアジアの間にあるこの地域ですかね。

なお、沢木耕太郎の「深夜特急」は新聞連載もされていなかった時期です。

ちょっとブームになり、さらにそれを推し進めたのがこの曲かもしれません。バックパッカー以外にもパッケージツアーなどで高額を支払いこの地を訪れた人も増えてくるころでしょうか。

Shonomayo

<庄野真代>

この曲は真代さんが所属していた日本コロムビアの担当ディレクターが「無国籍なイメージ」でと筒美御大に曲を発注しました。リサーチが得意な筒美さんですから、真代さんの過去の曲を聴き、野口五郎用に書いて没にしたこのメロディを採用したようです。そして作詞をちあき哲也氏に発注しますが、やりすぎのように「イスタンブール」の韻を踏むものでした。

御大にしては珍しく「曲先」なんですが、仕上げのために曲の一部を変える。または、ちあき氏に詞をメロディに乗るようアドバイスもあったのではなかろうかと推測します。さらに、アレンジの船山氏にギリシアの楽器「ブズーキ」の使用を提案するなど、プロデューサー的な役割も果たしています。

「夜のヒットスタジオ」の映像では「ダン池田とニューブリード」の他、印象的なイントロとアウトロのためにギターかマンドリンのソロ演奏者を使っております。残念ながらブズーキではなさそうですが。この演奏は比較的オリジナルに近いです。

この時代、ブズーキを使用するといってもまず日本で演奏できる人がいたのかどうか。そしてまた、楽器が存在したのか。個人的に推測するならば、マンドリンかアコースティックギターあたりで代用したのだと思います。製作費かさんじゃいますからね。

真代さんは元々はシンガーソングライターで、当時の言葉では「ニューミュージック」にカテゴライズされる人でした。「飛んでイスタンブール」のリリースまでにシングル4枚、アルバム3枚をリリースしてました。とはいえ、すべてを自分の曲で歌うことにはそれほどこだわっていなかったようです。

そこに、この曲が来まして、真代さん最大のヒット曲となった次第です。ちなみに、次のシングルも同じ作者で「モンテカルロで乾杯」と同じような路線を狙いました。こちらはアレンジも筒美御大が請け負ってます。

そして、同年の紅白歌合戦にも出場します。ちなみに、「♪こんなジタンの空箱」を「♪こんな煙草の空箱」と変えて歌いました。さすがNHK、商品名には厳しいです。

真代さんはニューミュージック系ですが、マスメディアにも出るタイプでしたね。それ以前のフォークを引きずっている人やユーミンなどは決してテレビには出ませんでしたからね。真代さん、おまけに曲に振り付けもあるんですね。おそらくですが、ロックやニューミュージックからテレビに出演する先駆けのひとりでしょう。(他にはサザンやツイスト、原田真二などがいます)

1979年

 

ジュディ・オング「エーゲ海のテーマ~魅せられて」(作詞:阿木曜子 作編曲:筒美京平)でした。

筒美御大の追悼ニュースでやたらと流れた曲ですね。ジュディ・オング最大のヒット曲でもちろん、オリコン1位かつレコード大賞受賞曲です。筒美京平作品としても最大のヒット曲となりました。

曲ももちろんですが、あの腕を上げると袖の下が扇形になり羽のようになるクライマックスも話題でした。ミッツマングローブも真似をしたらしいです。

映像は曲のリリースから20年以上経った2000年のものですが、クオリティが高いので採用しました。

この曲は前述の「エーゲ海に捧ぐ」の映画化のためのCM曲として企画されたようです。結局は没になったようですが、ワコールのCMに使われ、その中で映画の映像も使われたようです。

こちらも、筒美御大の曲になりますが、阿木曜子が作詞しているので「詞先」でしょう。でも、筒美御大はすでに「飛んでイスタンブール」で実験済みなんですね。こちらも、ブズーキ風のフレーズが印象的です。

阿木さんの歌詞ですが、英語が含まれております。現在では歌番組で歌詞が出ますが、1979年当時はそんなものはありませんね。「♪Wind Is Browing From The Aegean」、はて?エイジアン?アジアじゃないんかい?などと思う人もいたはずですね。

Judyong

<スクリーンドレス>

ちなみに、羽を広げたような衣装、「スクリーンドレス」というそうです。ヒントは来日したダイアナ・ロスの衣装にあったそうですが。

これがなかったら、美川憲一と小林幸子の派手な衣装はなかったかもしれませんが。

日本人の作家が作った日本語の曲を中国人が歌い、そこに広がる世界観はエーゲ海やギリシアだという無国籍ぶり。本当に金のあるOL(今や死語)さんなんか本当に個人旅行であっちに行ってきた人もぼちぼち出てくるころかも。

ちなみに、レコード大賞ですが、西城秀樹の「ヤングマン」が外国曲ということで受賞資格がないため、「魅せられて」となったとのことです。

そして、この年はもう1曲あるんですよ。

 

久保田早紀「異邦人ーシルクロードのテーマ」(作詞作曲:久保田早紀 編曲:萩田光雄)でした。

「魅せられて」が1979年前半のヒット。それからおよそ半年後にリリースされ、デビュー曲であるにもかかわらず、オリコン1位を獲得することになります。

久保田さんはアイドル発掘のオーディションに間違って応募し、水着審査の代わりにピアノ弾き語りをしたところCBSソニー(当時)のディレクターの目にとまり、デビューまでこぎつけたそうです。

デビューも三洋電機(当時)のタイアップが決定しました。そのイメージ映像がアフガニスタンで撮影されたことで、タイトル「白い朝」から「異邦人」へと変更し、アレンジも萩田氏に依頼。思いっきりシルクロード風の曲になったのですね。

ここに絡んでいたプロデューサーが「魅せられて」を担当していた人で、エスニックなものを持ち込んだのですね。そして、萩田氏のアレンジが曲をここまで変えてしまう。久保田さんはもともと、自宅のある多摩地区で曲をイメージして作ったとのことで、こんな感じの曲になるとは思ってもいなかったようです。

企画とアレンジの勝利ですかね。

Kubotasaki

ちなみに久保田さん、現在は結婚後の本名久米小百合として活動しております。

1979年、まだまだアフガニスタンには普通に行けたんですね。もちろん、ソ連侵攻前のことですし、危ないところじゃなかったと思うんですが。カブールも日本人パッカーがたくさんいたっていうしね。

おまけ

Nakahararie

エスニックでも何でもないんですが、紹介した3曲に先駆けてリリースされた中原理恵、「東京ららばい」(作詞:松本隆 作編曲:筒美京平)が印象的なんです。

 

東京という無国籍な世界を感じさせる松本隆の世界。「東京湾」と書いて「東京ベイ」と歌わせるのは松本隆だからできたことなんじゃないすかね。そんなことする作詞家いませんでしたから。

そして、1978年のデビュー時、19歳ですよ。すごく大人に見えます。そして美人ですね。

これは依頼が来たから引き受けたんでしょうけど、筒美御大がデビューしたての新人のファーストシングルのアレンジまで担当するのは異例なのではないでしょうか。

ま、そのアレンジ、イントロのフラメンコギターが印象的ですが、その前年1977年にサンタエスメラルダというグループの「悲しき願い」(原題:「Don't Let Me Be Misunderstood」)というヒット曲のパクリっぽいんですけど。ま、若気の至りってことで。

この曲もまた東京とうたってながらも、どこかエスニック系に聴こえるのはワタクシだけでしょうか。

それにしても、中原さん、「欽ドン」であのようになるとは。

★引き続きリクエスト、ご意見、コメントお待ちしております。今回、筒美京平トリビュートでもありましたね。

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2020年10月20日 (火)

デンデケデケデケ歌謡

かすてら音楽夜話Vol.96

いきなりですけど、The Ventures(ザ・ヴェンチャーズ)です。YouTubeの映像は貴重な東京公演のものです。

ま、わたしゃ、詳しく知りませんが、エレキのインストゥルメンタルバンドであり、日本においては間違いなく彼らの影響でエレキブームが起きました。

この流れから加山雄三とランチャーズ~ザ・ワイルドワンズ~GSあたりへと流れていったのではないかと推測しますが。ちなみに、日本のエレキの元祖、寺内タケシはヴェンチャーズ以前からエレキを弾きだしております。なんでも幼少期から弦楽器に興味を持ち、第二次世界大戦中にエレキを自作したとのことです。ま、寺内タケシも少なからずヴェンチャーズの影響は受けているでしょう。

Hw0375

<サーフボード>KP/DA21mm

日本と違い、アメリカではサーフィンサウンドの元祖ととらえられているようです。彼らの楽曲には「Diamond Head」や「Pipeline」といったサーフィンを連想させるものもあります。

デビューは1960年で、デビューシングルの「Walk Don't Run」はビルボード週間シングルチャート2位まで上がりました。彼らは数回メンバーチェンジしてますが、YouTube映像のラインナップ、Don Wilson(G)、Norkie Edwards(G)、Bob Bogle(B)、Mel Taylor(D)が最強かもしれません。

まあ、日本で影響を与えたといっても所詮金持ちの子女あたりしか、エレキギターをはじめとする楽器は手に入らないわけで、その様子は東宝映画「エレキの若大将」あたりが何となく伝えているかと。この映画で主演の若大将こと加山雄三は老舗料理屋の跡取り。助演の青大将こと田中邦衛はええとこのボンボン。蕎麦屋の出前持ち役の寺内タケシはいきなり触れたエレキギターでとんでもないフレーズをいきなり弾いてしまうという役でしたが、父親は土浦市議会議長で実業家でもあったわけです。ちなみに、内田裕也が「エレキ合戦」の司会役でした。

日本においてはビートルズよりも早く来日し、間違いなくビートルズよりも音楽界には影響を与えたはずです。

ヴェンチャーズですが、1960年代に数回来日していて、いたく日本が気に入ったようです。

と、いうことで、ここからが本日のテーマ。ヴェンチャーズが曲提供した日本の歌謡曲であります。

1曲目

 

記念すべきヴェンチャーズの提供曲第1作です。山内賢と和泉雅子「二人の銀座」(作詞:永六輔 作曲:The Ventures 編曲:川口真)でした。

1966年のヒット曲で、100万枚以上のセールスがあったといわれています。当時、オリコン(1967年創業)がありませんで、正確な集計ができておりません。この二人、日活映画で共演が多かったとのことです。当初は越路吹雪に提供されるはずでしたが、イメージに合わないとのことでこの二人に回ってきましたが、正解でしたね。

とはいえ、永六輔が歌詞を書き、川口真のアレンジでこの二人がデュエットするとどこがヴェンチャーズなんだという味わいになります。思いっきりドメスティックですね。ちなみに、和泉さんはのちに北極探検しちゃった人です。面影ないけど、どっちもすごい昔。

提供曲と書きましたが、ヴェンチャーズがオリジナルシングルのB面曲「Ginza Lights」としてアメリカでも発売されております。

 

ヴェンチャーズ版「Ginza Lights」、全然違いますね。

2曲目

 

渚ゆう子「京都慕情」(作詞:林春生 作曲:The Ventures 編曲:川口真)でした。

渚ゆう子さんはハワイアンのシンガーから歌謡界に転向してきた人です。実質的なデビュー曲ともいえるのがこの前作、「京都の恋」(1970年)で見事にオリコン週間シングルチャート1位を獲得してます。そちらも、ヴェンチャーズ(「二人の銀座」当時のメンバーではありません)の作曲です。

その、第2弾でいわば「二匹目のドジョウ」を狙ったものですけど、こちらもオリコン2位を獲得するヒットです。こちらの選曲をしたのは、まあ、個人的に好みだからですね。京都でありながらロードムービー的な味付けがなされ、独特の味わいがありますね。それに、キャリアが長いので、歌も上手いです。それにしても、外国人がよくぞこんな曲を作ったなという感じがします。

渚ゆう子さんですが、アルバム曲にはやはりヴェンチャーズ作曲の「長崎慕情」という曲もあります。この後、「三匹目のドジョウ」を狙った「さいはて慕情」というシングルをリリースしましたがオリコン6位とそこそこのヒットとなりました。ちなみに、作曲は筒美京平御大です。

ちなみに、ヴェンチャーズ版もあります。

 

原題は「Refrections In A Palace Lake」です。1970年代ともなると、ヴェンチャーズもアメリカではノスタルジックなバンドという認識でしょうか。とはいえ、各国には根強いファンがいて、この曲も日本でシングルとしてリリースされています。

以前はキーボードを入れてませんでしたが、1960年代のようなエレキのテクだけでは進展がないと感じたのか、1960年代後半からはキーボーディスともメンバーに加わってます。

こちらのオリジナル版も味わいありますね。演奏はスローになりましたが。

3曲目

 

再び登場の欧陽菲菲姉さんです。もう説明はいらんでしょう。日本デビュー曲にしてオリコン1位獲得の「雨の御堂筋」(作詞:林春生 作曲:The Ventures 編曲:川口真)です。

歌が上手いのは当然ですが、来日直後で日本語を当てるのが無理やりな感じもします。でも、それがよかったんでしょうかね。

 

ヴェンチャーズ版「Stranger In Midosuji」でした。当然こちらがオリジナルなんですが、バンドとしての躍動感は今一つなような。

こうしたインストゥルメンタルであるならば、特にヴェンチャーズでなくともいいかも…。つーか、ヴェンチャーズらしさがほぼ失われてますかね。

ともかく、ヴェンチャーズは1970年から1972年にかけてかなりの数の楽曲を日本の歌謡界に送り込んでいるのでした。

現在もヴェンチャーズは活動を続けています。しかし、1960年代前半の全盛期のメンバー中3名が亡くなり、残ったオリジナルメンバーでリーダーでもあるドン・ウィルソンはツアーからは退いたそうです。それでも、彼らは毎年のように来日し、オールドファンを楽しませてますね。

★引き続き、リクエスト、ご意見、コメントお待ちしております。お気軽にどうぞ。

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2020年10月 9日 (金)

追悼、Edward Van Halen

かすてら音楽夜話Vol.95

アメリカのハードロックバンド、Van Halenのギタリスト、Edward Van Halen(エドワード・ヴァンヘイレン)が咽頭がんのためお亡くなりになりました。

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かつて、ここでもヴァンヘイレンを取り上げました。その時彼が癌の治療を継続していることはわかっていたのですが、あまりにも若い死です。享年65歳。

エディはギター(エレクトリックギター)を両手の指を使って弾くいわゆる「ライトハンド奏法」で知られます。ただ、この呼び方は和製英語というか日本だけの呼び方で、あちらでは「タッピング」(弦を弾くのではなく、指で押さえつけるようにすることにより音を出すこと)の一つとして理解されていますね。

タッピングはギター演奏中にギタリストがフレーズの合間に取り入れることはありますね。ただ、エディの場合はこれをすさまじい速さで連続して行いました。そういう弾き方をそれまで行う人がいなかったわけで、いわばギター演奏の革命ともいえます。(この奏法はアコースティックギターのようにヘビーゲージの弦では音がほとんど出ないため、エレクトリックギターのように、ピックアップで音を拾い、アンプで音を増幅することでしか実現しません。)

また、エディは普段の演奏では右手にピックを持っているので、そこからライトハンドに切り替えるとき、親指と人差し指の間にピックを挟んでいるのでしょうか。これまた、技術がいりますよね。

それでは、エディの演奏を映像から偲びましょうか。

 

1978年のデビュー曲「You Really Got Me」でした。

これはイギリスのバンド、Kinksのカバーですが、もはやヴァンヘイレンの曲ともいっていいほどです。映像はおそらく、アメリカのテレビ番組でのライヴですが、デビュー当時日本では音源は入ってきていたものの、映像となるとさっぱりです。ま、それはほとんどどのミュージシャンやシンガーについてもいえるのですが。

そのころ、真冬でしたが、月食だったか流星群だったかの天体観測のため、仲間内で市内の某所にテントを張り、夜通し空を見ていたことがありました。寒くてたまりませんでしたが。それを凌ぐのにラジオをかけFENだったか、ラジオ関東(当時)のアメリカントップ40だったかを流している最中にこの曲がかかったのを覚えています。

今なら、迷惑行為で通報されるところです。当時は人気もないような荒れ地でテントを張っていたので大丈夫だったんですね。やあ、いい時代ですね。

 

1982年のシングル、「(Oh) Pretty Woman」でした。

こちらも、Roy Orbison(ロイ・オービソン)の1964年のビルボード1位獲得曲のカバーです。のちにリチャード・ギアとジュリア・ロバーツ主演の映画「プリティ・ウーマン」の主題歌としてロイ・オービソンの曲が使用されました。結果的にかつてのスター、ロイ・オービソンが復活するきっかけともなった曲です。

こちら、プロモーションビデオになってますね。すでに、アメリカではMTVというミュージックビデオを流すテレビ局もできていましたし、日本でも「ベストヒットUSA」という番組が映像とともに英米のヒット曲を紹介するようになっていました。つまり、ヴァンヘイレンも顔がわかるようになってきたのですね。

ただ、当時のプロモーションビデオはこのようにストーリー性を持たせたものが多く、バンドが演奏しているシーンがないというのが残念です。特にこの映像、二分脊椎の人物を登場させるなど、現在ではテレビでは流せませんね。

 

1984年のビルボード1位獲得曲、「Jump」でした。こちらは、メンバー4名の共作となります。ついに、オリジナル曲でトップに輝くことができたのです。

映像はライヴ風ではありますが、プロモーション用のもので、音源はオリジナルシングルと同じです。この曲が収録された『1984』からはシンセサイザーも取り入れられました。担当するのはエディでしたが、実際に演奏するときはどうするのか興味がありますね。まあ、サポートプレイヤーを入れるんでしょうが。

「You Really Got Me」と「Jump」ではエディの「ライトハンド奏法」が映ります。それをもっと堪能できるのが次の映像です。

 

マイケル・ジャクソンの「Beat It」という曲のギターソロです。画質悪いですが。

当時のマイケル・ジャクソン、飛ぶ鳥を落とす勢いです。この曲を含むアルバム『Thriller』はオリコンアルバムチャート1位になりましたが、同時期にリリースされたヴァンヘイレンの『1984』はマイケルにずっと阻止され2位どまりという話も付け加えておきましょう。

「Beat It」にエディが起用されたのはやはりそのギターテクニックがあったからでしょう。しかし、エディはこの依頼をほとんどボランディアのような形で無報酬で行ったそうです。いやあ、もったいない。

ジミ・ヘンドリクスや三大ギタリスト(クラプトン、ベック、ペイジ)以降、スティーヴ・ルカサーやブライアン・メイ、ピーター・フランプトンなどのスーパーギタリストが出現しましたが、エディは新しいタイプのギターヒーローですね。もしかしたら、エディ以降のギタリストで彼を超えるものはいないのではないか。唯一無二の存在でしょう。

最後に、エディとアレックス(ドラムス)のヴァンヘイレン兄弟ですが、オランダ系アメリカ人ということになってますが、母親はなんとインドネシア人なんです。エディのあの親しみやすい微笑みは我々に近いアジアにルーツがあったのですかね。

そして、エディを失ったヴァンヘイレンですが、存続は難しいんじゃないかな。ヴォーカルやベースのメンバーチェンジが可能でも、エディのギターがなくてはヴァンヘイレンというバンドのサウンドは成り立ちませんからね。あるいは息子のウォルフガング(ベース)がそのDNAを継いで頑張る…無理だと思うけど。

唯一できるとしたら、エディのフレーズをサンプリングし、後任のギタリストはリズムだけに徹するくらいでしょうか。ホント、エディを失ったことは大きいよ。

★今回急遽エディを取り上げました。2020年になってから追悼企画多いですね。引き続きコメント、ご要望、ご意見受け付けております。お気軽にどうぞ。

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2020年10月 6日 (火)

スパイダース!

かすてら音楽夜話Vol.94

今回はThe Spidersについてでございます。

カテゴリーとしてはグループサウンズ(GS、思いっきり和製英語です)にカテゴライズされると思いますが、リーダーの田辺昭知がビッグバンドやロカビリー系のスウィングウエスト出身ですので、のちにGSの中心となるタイガースやテンプターズたちよりは1世代前からキャリアを積んだ、いわば実力派であるといえましょう。

Spiders

ここではスパイダースじたいの活動についてはそれほど触れません。スパイダースの解散は1970年ですが、その後の彼らの活動が凄いんです。ここでは、解散後の彼らを追ってみることにします。全員ではありませんがね。

田辺昭知

スパイダースのリーダーであり、ドラムス担当です。スパイダースの解散前にホリプロ(当時の社長はスウィングウエストのメンバー)から独立し、スパイダクションを設立しました。そして自身もマネージメントに専念するためミュージシャンから引退しました(後任のドラマーと交代)。

スパイダクションが大きくなり、1973年に田辺エージェンシーと改称。所属タレントにはタモリと堺正章がいます。のちに小林麻美と結婚し、現在も社長業を継続しております。

スパイダースのメンバーはほとんどが田辺氏がヘッドハンティングする形でメンバーに引き入れています。当初からマネージメントに優れた才能があったのですね。

堺正章

現在素人カラオケ番組などでMCをしているマチャアキですが、「チューボーですよ」等のMC、「西遊記」「時間ですよ」等の俳優などのマルチタレントとして活躍も知られます。

もともとは喜劇役者、堺駿二の次男で、子役として活動後、1962年に16歳でスパイダースに加入します。これは、田辺氏が堺駿二のもとに通い続け実現したとのことです。

バンドではヴォーカルを担当します。音楽的キャリアはまったくないので、タンバリンも担当していました。代表曲として「夕陽が泣いてる」のリードヴォーカルを担当しました。

 

堺正章「さらば恋人」(作詞:北山修 作編曲:筒美京平)でした。

この曲はマチャアキの実質ソロデビューシングルです。オリコンシングル週間チャートでは2位止まりでしたが年間チャートでは10位にランクしているマチャアキの代表曲です。

シンガーとしてのマチャアキは「さらば恋人」以外には「時間ですよ」の劇中歌「街の灯り」があるくらいで、あまりヒットには恵まれていませんが、1980年代の終わりくらいまで年間2~3枚のシングルをリリースしていました。

歌手としての活動よりも俳優やMCとしての活動が多忙であり、「新春かくし芸大会」での個人芸を毎年披露するなどの多才ぶりを発揮します。まあ、芸能界になくてはならないマルチタレントなんでしょう。

「さらば恋人」ですが、ジャケットがいかにも時代を感じさせますね。ヒッピームーヴメントは終わりかけていましたが、ジャケット写真のベルボトムのジーンズに太いベルトは当時流行りました。何を隠そう、ワタクシも少ない小遣いを握りしめて、このシングルを買いに行きましたよ。1枚450円だったかな。

なお、後年の1999年にはかまやつひろし、井上堯之と「ソン・フィルトル」を結成し紅白にも出場しました。まあ、これは余興みたいなものです。

井上順

現在、TVKだったかTOKYO MXだったかのテレビショッピングなどにたまに出てくるおじさんですね。彼は1963年に自らスパイダースに加入を申し出ています。

それまでにも、遊び人グループ「六本木野獣会」の最年少メンバーであり、のちのジャガーズの前身バンドにも加わっていたことがあったようです。まあ、いいとこの坊ちゃんで目立ちたがりであったということでしょう。

スパイダースでは同学年(井上順は早生まれ)の堺正章とツインヴォーカルを担当します。やはり、担当楽器はタンバリンだったりします。スパイダース時代の代表曲は「なんとなくなんとなく」です。セリフもあります。

 

井上順「お世話になりました」(作詞:山上路夫 作編曲:筒美京平)でした。

井上順もスパイダース解散後の1971年、堺と歩調を合わせるようにソロデビューします。ソロデビュー曲は「昨日・今日・明日」(作詞:阿久悠 作編曲:都倉俊一)で、堺よりやや早いシングルリリースでした。このあたりは、二人とも「スパイダクション」所属でしたので、社長の田辺氏の戦略もあったと思われます。

なお、ソロデビュー時には井上順ではなく、「井上順之」(いのうえじゅんじ)と名乗っていました。「お世話になりました」はセカンドシングルです。井上順もコンスタントにシングルをリリースするのですが、なかなかヒットに結び付きません。その間にも当時存在したコニカのカメラなどのCMに起用され、現在も誰もが自然に使う「ピースサイン」を「ピース!」といって流行語となるなど、お茶の間の好感度は高かったと思います。

井上順の最も偉大な仕事としては「夜のヒットスタジオ」の司会を吉村真理とともに長年務めたことでしょう。出演者について些細なエピソードを駄洒落などで紹介しつつも、絶対に出演者を持ち上げる姿勢は、スパイダース時代にMCで培った賜物でしょう。

実を申せば、わたしゃ、マチャアキよりも井上順のファンだったことがあり、シングルを4枚くらい購入しました。

かまやつひろし

残念ながらお亡くなりになったかまやつさんですが、晩年は「ムッシュかまやつ」名義の活動が多かったです。

スパイダース加入前からウエスタンやロカビリー系のソロ活動を行っていて、田辺氏とともにメンバーの中では最も長いキャリアを持っていました。そして、田辺氏がスパイダースを結成するにあたって一番最初に声をかけたのがかまやつさんで、かまやつさんがその人脈の中からスパイダースのメンバーを集めたといわれています。

担当楽器はギターで、サイドギターに回りました。実力的にはもうひとりのギタリスト、井上堯之(スパイダース在籍時は井上孝之)よりもテクニックがありましたが、あえて井上を鍛え上げるためにサイドに徹したようです。

また、スパイダースの楽曲のソングライターでもあり、この人がいなければスパイダースは成り立たないポジションでもありました。メンバー中いかにもミュージシャンという感じです。

 

かまやつひろし「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」(作詞・作曲:かまやつひろし)でした。

かまやつさんもスパイダース解散後、ソロ活動に打って出ますが、堺正章や井上順と違いいわゆる歌謡界とは違うノリで独特の存在感を発揮していきました。かまやつさんの代表曲としてはまず上がるのが「我が良き友よ」(作詞・作曲:吉田拓郎)です。こちらはバンカラという古風なスタイルで本来のかまやつさんとはかけ離れた曲ではありますが、オリコン週間シングルチャート1位を獲得し、90万枚のヒットとなりました。

「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」は「我が良き友よ」(1975年)のB面曲です。本来の自分と違うノリでA面が制作されたことで、B面は好きなようにやらせてもらおうと、ダメもとでアメリカのホーンセクション、Tower Of Powerにオファーを出し、Tower Of PowerもOKを出したという、A面よりも製作費を使った珍しいパターンの曲です。

なお、YouTubeの映像は「セブンスターショー」で荒井由実と共演した時のものです。バックバンドはティンパンアレーですね。この映像は貴重でして、いつ削除されるかわかりません。

念のため、別テイクもリンクを付けておきます。

女性バンドとのテイク オリジナルシングル

スパイダース時代後半からのかまやつさんのヘアスタイルですが、ロッド・スチュワートを真似たものだそうです。ただ、これはカツラ疑惑もあります。

井上堯之&大野克夫

井上堯之はスパイダースのリードギタリストです。なんと、前職が板前という経歴があり、テレビのオーディション番組から芸能の世界に入り、ギターも独学しスパイダースでリードギターも担当するようになった努力の人です。

大野克夫はスパイダースのキーボード担当です。ハワイアンバンドからスパイダースに勧誘を受け加入しました。スティールギターやオルガンなどを担当していました。

スパイダース解散後、井上と大野はタイガース、テンプターズのメンバーらとPYG(ピッグ)を結成しますが、沢田研二のソロ活動、萩原健一の俳優業が多忙になるにあたり、解散することになります。

そして、次に結成されたのが井上堯之バンドです。誰もが知っているインストナンバーがこちら。

 

「太陽にほえろ!」(作曲:大野克夫)でした。

ドラマ「太陽にほえろ!」は萩原健一が出演していました。このテーマ曲はインストゥルメンタルとしては異例のオリコン24位を記録しています。

その後も萩原主演の「傷だらけの天使」、「前略おふくろ様」のテーマソングを手がけました。

また、沢田主演の「悪魔のようなあいつ」のテーマも手掛けています。

そして、沢田研二のバックバンドとしても活躍してます。大野は「時の過行くままに」以降しばらくは沢田の曲の作編曲を任せられてました。

井上堯之バンド解散後は大野克夫バンドとして引き継がれ、「太陽にほえろ!」や「名探偵コナン」のサウンドトラックを担当しています。

やあ、それにしても多彩なスパイダースの面々でした。こういうバンドも今後現れることはないでしょうね。

★引き続きリクエスト、ご要望、ご意見等募集しております。

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2020年9月19日 (土)

史上最強の職業作曲家

かすてら音楽夜話Vol.93

Tsushumi

<筒美京平氏>

今回のテーマは日本の歌謡史においてこの人を抜きには語れないという人物です。

今年のNHKの朝ドラ「エール」では古関裕而氏を取り上げております。そのほか、国民栄誉賞の古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実等々、昭和の有名作曲家は数多くいますが、1940年生まれの存命人物である筒美京平さんをワタクシとしては「史上最強の職業作曲家」と言い切ってしまいたいです。

今すぐ国民栄誉賞をあげてもいいと思うぞ。

なんと、自身の手掛けた曲の総売り上げが7560万枚で1位です。ちなみに2位は7148万枚の小室哲哉ですね。

京平さんは東京生まれで中学から大学まで青山学院に在籍していました。大学ではジャズバンドでピアノを弾いていたそうです。音楽的教育は幼少期から習っていたピアノだけです。そのバンドの1年先輩(やはり青学在学)のウッドベース担当が橋本淳氏でした。

卒業後はレコード会社に就職し洋楽ディレクターになりました。一足先に作詞家として活動していた橋本氏の紹介ですぎやまこういち(フジテレビ社員、作曲家)に出会い、作曲・編曲の道に入ることとなりました。

初めて世に送り出した作品は1966年の「黄色いレモン」(作詞:橋本淳)でした。1968年には早くもいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」(作詞:橋本淳)でオリコンシングル週間チャート1位を獲得します。年代別で見ると、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とオリコン1位を獲得していて、10位以内の曲を含めると、2010年代まだ記録が伸びているのですね。

日本レコード大賞は尾崎紀世彦の「また逢う日まで」とジュディ・オングの「魅せられて」で2度受賞しています。

1960年代は橋本淳氏との名コンビでほとんどの曲を様々な人に提供していました。そんな中でも橋本氏以外の作詞でしかもテレビアニメの主題歌というものがあります。お聴きください。

 

テレビアニメ「怪物くん」のテーマソング、「おれは怪物くんだ」でした。

作詞は藤子不二雄です。これ、コンビ解消以前の名義ですが、正確にいうと我孫子さんのほうですね。リードヴォーカル(といっていいのか)は声優の白石冬美さんです。

アニメではやはり藤子不二雄作品(今回は藤本さんのほう)で「パーマン」の劇中歌「パーマン2号はウキャキャのキャ」も担当しています。作詞は藤本さんです。

そして現在も放送されている「サザエさん」のオープニング曲「サザエさん」とエンディング曲「サザエさん一家」(それぞれ作詞は林春生、歌は宇野ゆう子)も京平さん作品です。「怪物くん」が1968年、「サザエさん」が1969年となります。

1970年代になると、橋本氏以外ともコンビを組むようになります。

 

太田裕美で「木綿のハンカチーフ」でした。作詞は松本隆で、松本の初のヒット曲です。発売は1975年です。

こちらは150万枚のミリオンセラーとなりましたが、同時期にリリースされた「およげ!たいやきくん」に阻止され、オリコンシングルチャートでは2位どまりでしたが、名曲ですよね。

京平さん自身も後年のインタビューで「また逢う日まで」「さらば恋人」(堺正章)と「木綿のハンカチーフ」が気に入っているとの発言がありました。

松本の作詞も男女の掛け合いを女性アイドルひとりが表現するという、それまでになかった作品になりました。ちなみになんですが、あの宮本浩次もシングル「P.S. I Love You」のカップリングでこの曲を収録しましたし、「木綿のハンカチーフ」を含む全曲カバーのアルバム(しかも全部女性の曲)を近々リリースします。

1980年代に入ると、男女を問わずアイドルへの提供が増えてきます。

 

松本伊代で「センチメンタル・ジャーニー」でした。作詞は湯川れい子で1981年の作品です。

こちらの詞は「自分を名前で呼ぶ」、「♪伊代はまだ、16だから」というところですかね。ま、京平さん自身とは直接関係ないんですが。ちなみに、2020年現在、「♪伊代はもう、55だから」とのことです。

「センチメンタル・ジャーニー」はオリコンチャート9位どまりでしたが、インパクトありますよね。なにしろ、40年近くなっても松本伊代の代表曲としてだれもが覚えていますしね。

それ以前にも、新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)、新三人娘(小柳ルミ子、天地真理、南沙織)等には曲を提供してきましたが、80年代からは期待の新人に曲を提供するようになります。

すなわち、柏原芳恵や早見優、中山美穂などなど。また、C-C-Bや少年隊などからも依頼がありました。

これは、京平さんの曲なら大丈夫という、いわば安全パイ状態ですね。でも、京平さんからしてみれば「絶対にこけることができない」ものすごいプレッシャーですよね。

しかし、京平さんは曲を依頼してきた相手(事務所やプロデューサー、シンガー)のことをしっかりとリサーチして、相手が自分の曲にふさわしいか判断するようなこともあったそうです。そして、曲を提供してもたまにレコーディングスタジオにやってくることもあったそうです。また、作詞家との間で、言葉を手直しするようなアドバイスもあったそうです。そこまでして、曲を完璧に近づける執念のようなものを感じますね。

1990年代からはドラマとのタイアップ曲が多くなりました。2000年代、2010年代に入ると提供曲は確実に少なくなってきます。それでも、2003年にTOKIOの「Ambitious Japan!」をオリコン1位に送り込んでいます。

冒頭で手掛けた曲の総売り上げのことを書きました。2位の小室哲哉ですが、安室奈美恵やglobe、華原朋美などの売り上げがでかいです。また、彼はレコード大賞を4回受賞していますが、一過性のものであり、筒美京平作品と比べると薄っぺらであるといい切ってしまいましょう。筒美作品は心に刻まれていますが、小室作品はほとんどどこにも残ってないです。せいぜい美里姐さんの「My Revolution」くらいだな。

京平さんの作品は年々少なくなってくるのは仕方ないことかもしれませんが、これからも年に数曲でいいので、珠玉の作品を送り込んでもらいたいものです。

今回取り上げたのは3曲だけでしたが、個人的に好きな曲はもっとあるし、その中で新しいテーマも見つかっておりますので、京平ワールドがまた顔を出すと思います。

ちなみに、かすてら音楽夜話で取り上げた筒美京平作品は次の通りです。リンクもつけておきます。

桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」
尾崎紀世彦「また逢う日まで」、ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」
弘田三枝子「渚のうわさ」
欧陽菲菲「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」

★引き続き、リクエスト、ご要望等お待ちしています。

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2020年9月12日 (土)

中華圏からの輸入歌姫

かすてら音楽夜話Vol.92

本日取り上げるのは1970年代に日本にやってきて、成功を収めた歌姫です。

ただの輸入歌手ということになると、古くはベッツィ&クリス、インド人演歌歌手のチャダ、そして韓国の歌手もいますが。リンリンランランも忘れちゃいけませんが。ですが、今回取り上げる3名の歌姫は日本での活動も長く、そして誰もが知っている人物であります。

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<九份>K-7/DA16-50mm

まずは欧陽菲菲さんです。

日本にやってきたのは1971年、「雨の御堂筋」で日本デビューし、大ヒットしました。

ルーツは台湾生まれの台湾育ち。確証はありませんが、顔立ちからは少数民族の血も入っているのではないかと思います。台湾でのデビューは1967年だそうです。

中華系民族の2文字の姓ですが、数は少ないものの、いることはいますね。有名どころでは諸葛孔明、現在の香港の長官もそうかな。在日中国人YouTuberの李姉妹によれば3文字の姓もあるとか。

「雨の御堂筋」はデビュー曲にしてオリコンシングル週間チャート1位を獲得しました。この曲は彼女を有名にしたばかりでなく、御堂筋も全国に知られるようになりましたね。

セカンドシングルは二匹目のドジョウを狙ったのか、「雨のエアポート」という曲をリリースします。こちらもトップ10に入るヒットです。彼女はその後拠点を日本に移したようなところがありますが、それは元レーシングドライバーの式場宗吉氏と結婚したためでしょう。

さて、台湾での成功というものがありながら、なぜ日本で歌手活動をすることになったのでしょうか。それは、台湾のマーケットがあまりにも小さいからではないでしょうか。

そして、彼女の父親はパイロットで生活も何不自由なくできたはずです。台湾にとどまらなかったのはより大きな成功を夢見てというより、このショウビズの世界が大好きだったから、苦労もいとわずやってきたのではないかと思います。

彼女の代表曲として、「Love Is Over」があまりにも有名で、カラオケなどに行くと歌に自信のありそうな女性が歌う曲のひとつですね。この曲は初めはB面曲でしたが、彼女が歌い続けることでじわじわと火が付き、ついにシングルA面として発売されたものです。

でも、取り上げるのはこちら。

 

「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」でした。

「雨のエアポート」に続くサードシングルです。作者は橋本淳・筒美京平というゴールデンコンビです。当時「Chase」というアメリカのブラス編成のバンドがあり、それを意識させるようなアレンジがされてます。ちなみに、編曲も筒美さんですね。

そして、まだ日本語もたどたどしかったはずの彼女の歌いっぷり、ため息を織り交ぜながらのヴォーカルは和田アキ子にも負けていません。なんと、来日後まだ半年もたたないうちの曲です。

1972年の紅白歌合戦にはこの曲で初出場しました。その時の映像もありますので、ぜひご覧ください。ダイナマイトぶりがよくわかります。

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<香港の夜景>K-7/DA21mm

ふたり目はアグネス・チャンです。

彼女は香港出身で、本名、陳美齢(チャン・メイリン)。アグネスは洗礼名で当時の香港人の持つイングリッシュネームですね。

1971年に姉のアイリーン・チャン(陳依齢)とデュエット曲をリリースし、香港での芸能活動を開始します。翌年香港のテレビ番組に出演した平尾昌晃によって日本に紹介され、「ひなげしの花」でデビューしました。「ひなげしの花」の作曲は森田公一ですが、平尾昌晃とはセカンドシングルで仕事してます。

彼女の場合、もともとの中華圏での知名度は高くないでしょう。欧陽菲菲さんがより大きなマーケットを狙って来日したのに比べると、日本でやってみるかといったほとんど華僑にも通じる大胆さがあったのではないかと推測します。

日本で上智大学に進学後、トロント大学に留学しますが、レコードは出し続けていました。比較的最近までシングルをリリースしているものの、主な活動はユニセフの親善大使などに移行していきます。その間に中国でのチャリティコンサートを行うなど、ただの歌手とはいえないようなことにも手を染めていきます。

彼女の場合、香港人であり香港の中国返還ということも相まって活動を大陸にまで広げることができたと思いますが、現在の香港の状況を考慮すると、芸能活動をするにしても(もはやあり得ないと思いますが)、今のユニセフ親善大使として活動するにせよ、下手に動くことができませんね。

アグネスは自作曲もあり、今回取り上げる人の中では最も芸能色が薄い感じです。代表曲としては、ほとんどがティーンエイジャーであった70年代のものがほとんどです。

 

「ポケットいっぱいの秘密」でした。

のちに柏原よしえがカバーした「ハローグッドバイ」(柏原よしえ盤は「ハローグッバイ」♪紅茶のおいしい喫茶店~の歌い出し)という隠れた名曲もありますが、中華歌謡っぽくない、「ポケットいっぱいの秘密」にいたしました。

この曲は作詞:松本隆、作曲:穂口雄右なんですが、アレンジを東海林修とともに、キャラメルママが担当しています。ということは、演奏も担当しています。これまでのアグネスの曲調とはどこか違う軽快さを持つ曲です。のちに、ティンパンアレーと改名するキャラメルママですが、ティンパンアレー時代に別のシンガーを起用し、この曲をカバーしてます。

また、松本隆の作詞家転向第1作なんですね。

ま、今後どうなっていくかわからない香港と中国、それに付随する世界の情勢ですけど、アグネスはしぶとく生き残っていくんじゃないすかね。

そして最後はテレサ・テンです。

 

ほぼ説明いりませんね。「時の流れに身をまかせ」です。作詞:荒木とよひさ、作曲:三木たかしです。

欧陽菲菲、アグネス・チャン、テレサ・テンという順番ですが、来日順です。

テレサ・テン、本名、鄧麗君(デン・リージュン)。台湾出身で、日本デビュー時にはすでにアジアの中華圏の大スターでした。その人気に目を付けた日本人が日本に招いたのですが、欧陽菲菲やアグネスほど爆発的に売れませんでした。

当初はアジアでのポップ路線を引き継いだものの、路線変更して演歌調の曲をリリースしたことで、ヒットの兆しが見えてきました。ですが、何度目かの来日時に所持していたパスポートが問題視され(当時は偽造パスポートと報道されました)、しばらくは日本での活動ができなくなります。

活動が再開されたのは1984年のことです。荒木・三木コンビの「つぐない」、「愛人」と続く1985年のこの曲で200万枚を売り上げる大ヒットとなります(「つぐない」、「愛人」もそれぞれ150万枚のヒットでした)。彼女のこれらの曲はオリコンのチャートではトップ10入りしたにすぎませんが、じわじわと売り上げを伸ばしていったのです。

それにしても歌が上手いです。台湾で10歳の時に歌唱コンテストで優勝後、14歳でプロデビューを果たしたのですから、テイストは違うものの、台湾の弘田三枝子とでもいえましょうか。

ですが、彼女は台湾生まれであるものの、父母は大陸からやってきた国民党の人物でありました。つまり、外省人であったわけです。この辺りは、蒋介石がやってくる前後の台湾の事件と結びつくわけです。台湾から日本が引き揚げた後に大陸からやってきた国民党はそれ以前から台湾に居住していた中国人(内省人)のインテリ層をことごとく弾圧していたんですね。

蒋介石・蒋経国の時代は戒厳令が敷かれ、大っぴらな外省人と内省人との対立はなかったものの、深い溝ができていました。つまりは、テレサ・テンの歌は外省人の歌ということで、台湾でのテレサの人気はいま一つだったのではないでしょうか。そういうこともあり、テレサは台湾と香港で活動し、台湾事情がそれほど伝わらない、アジアの中華圏、つまりシンガポールやマレーシアなどでも人気が拡大していったのでしょう。

個人的な話になりますが、台湾で「時の流れに身をまかせ」を口笛で吹いていた時、近くの爺さんが近づいてきて、何やらいうんです。決して肯定的な態度ではなかったので、上記のような外省人の曲をやるんじゃないよみたいな注意だったのではないでしょうか。

と、いうような台湾の事情は抜きにして、中国本土でもテレサの歌は放送禁止処置を受けていたにも関わらず、人々の間で秘かにテープがダビングされ、誰でも知っていたとのことです。のちに中国本土でもテレサの歌は解禁されました。しかし、1989年の天安門事件後、テレサは香港でそれに対する抗議活動を行います。とうとう中国本土でのコンサートは実現しませんでした。

その後、チェンマイで謎の死を遂げます。亡くなったのはインペリアル・メーピンだったかな。現在テレサの墓は金山というところにあります。ここは公共交通機関はないものの、誰でも行くことができます。ワタクシも訪れました。

もしかしたら、歌で中国に何らかの影響を与えたかもしれない、テレサ・テン、残念ですね。

1970年代からおよそ半世紀が過ぎ、日本を取り巻く環境も変化してきました。中国が国連に加盟し、台湾は入れ替わりに脱退し、国連の常任理事国も中国に譲ることになります。そして、香港が中国に返還され、中国も経済的な結びつきを台湾と取っていた時期もありました。カルチャー面では体制の違いを超えて結びつきそうになっていましたが。

香港があのような状況になってきたので、香港の映画や芸能はほぼダメになっていくんじゃないでしょうか。テレサ・テン以降わざわざ日本に活路を求めなくとも中華圏で頑張ることができたのですが、台湾あたりから日本語で歌う新しいシンガーがまたやってくるかもしれませんね。今は、その役割はK-Popが一手に引き受けてますけど。

★ご要望リクエスト、引き続きお待ちしています。

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2020年9月 1日 (火)

グループの裏方、実はすごい

かすてら音楽夜話Vol.91

本日はThe Beatles(ビートルズ)とThe Rolling Stones(ローリングストーンズ)の地味な存在を取り上げます。

まずはビートルズから。

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<ジョージ・ハリスン>K-7/DA16-50mm

ビートルズのリードギタリストにして、最年少、George Harrison(ジョージ・ハリスン)です。

ロックグループの花形というと、リードヴォーカルとギタリストですね。当然ヴォーカリストは常にスポットライトを浴びていて、曲の合間にギタリストは印象的なソロを弾きます。この時はギタリストにスポットライトが当たります。要約するとボーカリストはバンドの花であり、ギタリストはバンドのまとめ役やリーダー的な扱いを受けます。

ところがビートルズにはふたりのヴォーカリストがいて、ジョージがスポットをあてられることはほぼありませんでした。そのふたりとはもちろん、John Lennon(ジョン・レノン)とPaul McCartney(ポール・マッカートニー)です。曲もふたりの作品がほとんどで、ジョンかポールのどちらかが単独で作っていても、「Lennon-McCartney」という表記で共作の形をとっていました。

ジョージはせいぜいコーラスに参加する程度。これは彼がグループ最年少ということもあり、主導権を握れなかったことが原因なんじゃないですかね。残るRingo Starr(リンゴ・スター)は曲を作りませんが、ドラムという特別なパートで、代役がききませんからグループの主導権を握れなくとも重宝されたんじゃないすかね。それに、リンゴはビートルズに最後に入ってきた外様みたいな存在でしたから、あまり関係なかったのかもしれません。

しかし、ジョージは12弦ギターを取り入れたり、インドでラビ・シャンカールに師事し、シタールを習得するなどしました。特にシタールはサイケデリックなサウンドを生み出し、中期から後期のビートルズに大きな影響を与えました。次第に存在感の増してきたジョージですが、グループ内での不満はだんだん大きくなってきたようです。アルバム中せいぜい2曲がジョージの曲で、リードギターにもけっこう注文が入ったようです。

 

こちら、「Here Comes The Sun」はシングルカットされてませんが、ジョージの曲としてあまりにも有名です。このレコーディングにはジョンが参加していません。ジョージはギターのほかにシンセサイザーなども担当するマルチな奮闘ぶりでした。

 

もう1曲は「Something」です。「Come Together」との両A面シングルとして、ビルボードで1位を獲得しています。なお、YouTubeの映像ですが、この2曲は2019Mixということで、原曲には登場しない音が入ってますし、古い映像も差し替えられています。

こういう曲を聴くと、ジョージの才能は自分でも埋もれてしまうんじゃないかという危機感が出てくるんじゃないすかね。

そして、ビートルズは解散し、ジョージはソロに転じますが、ソロでビルボード1位を獲得した「My Sweet Road」が盗作訴訟にあったりします。一方、バングラデシュ救済コンサートなどを行い、社会派としての声を上げることはこの時代なかなかできなかった、いわば先駆者でもありますね。

晩年、ボブ・ディラン、ジェフ・リンなどと組んだ覆面グループ、Traveling Wilburys(トラベリング・ウィルベリーズ)などで活躍しますが、2001年、脳腫瘍と肺がんのため亡くなりました。享年58歳でした。

もし、ジョン・レノンがもう少しジョージに寛容であったら、ビートルズももう少しキャリアを長くできたかもしれません。

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<ビル・ワイマン>

次はストーンズのベーシスト、Bill Wyman(ビル・ワイマン)です。出生名は異なりますが、後に改名して芸名が本名になりました。

もともとベースという楽器はリズムの要ではあるのですが、いかんせん地味でして、ロックバンドで見ていっても派手に目立つという人はなかなかいません。当時ビートルズの陽に対して、ストーンズは陰。いいとこのお坊ちゃん風なビートルズに対して、ワルのイメージのストーンズ。という図式がファンの間では抱かれていました。実際にはビートルズは低所得者層の出身で、ストーンズは中流家庭出身ではあるのですが。

酒に女にドラッグという絵にかいたような負のイメージのストーンズの中で、ビル・ワイマンはいかにも地味でSilent Stoneと呼ばれていました。ストーンズ加入時のエピソードとして、当時ストーンズが持っていなかった大きなアンプを持ち込んためという話があります。つまり、ビルの演奏ではなくアンプに惹かれ誰でもよかったと。

ま、これはかなり怪しい話で、実際1962年から1992年までの30年間、ビルはストーンズ唯一のベーシストとして活動していました。ビルの脱退後、ストーンズはパーマネントメンバーのベーシストを置かず、ツアーのときのみ外部のベーシストのサポートをつけるという具合です。

Charley Watts(チャーリー・ワッツ)のドラミングとビルのベースのフレーズは、とても安定していて、これにKeith Richards(キース・リチャーズ)のギターが絡み合い、独特のうねりのあるビートを生み出すのです。ビルの抜けた穴はとても大きく、ビル脱退後のストーンズのサウンドは別物という人もいるほどです。

 

この曲はビルのファーストソロアルバム『Monky Grip』収録の「I Want To Get Me A Gun」という曲です。ストーンズの楽曲とはほとんど重ならないような感じです。

このアルバムは1974年にリリースされほぼ不発に終わりましたが。なんと、ストーンズのメンバーの中で一番最初にソロアルバムをリリースしたのがビルなのです。同じ年にRon Wood(ロン・ウッド)もソロアルバムを初めてリリースしましたが、まだロニーはストーンズのメンバーではありませんでした。

そんなビルなんですが、機会があったら自分も前に出てみたい願望が常にあったのではないでしょうか。

ストーンズの場合、ほとんどの楽曲がMick Jagger(ミック・ジャガー)とキースの共作です。このシステムはほとんどビートルズと同じですね。初期のリーダーであったBryan Jones(ブライアン・ジョーンズ)は曲を作らず、演奏だけにのめりこむタイプでした。チャーリーもバンドの要で自作曲には興味がありません。そうなると、バンドの権力構造はミックとキースに握られていくことになりますね。

そんなストーンズですが、『Their Satanic Magesties Request』というコンセプトアルバムの中でビル・ワイマンが自作しリードヴォーカルも担当した「In Anothe Land」がなんとアメリカではシングルカットされ、ビルボード8位に入りました。ストーンズのヴォーカリストはミックです。アルバムやツアーではキースがごくわずかにリードヴォーカルを取ることもありますが、それらはシングルカットされたことはありません。

異例中の異例ですね。

 

つまり、ミックとキース以外がヴォーカルを担当したことはないし、曲のクレジットもジャガー=リチャーズが99%(ロン・ウッドの追加クレジットはあります)。ま、ヴォーカル部分にかなりのサウンドエフェクトをかけていますので、だれでもよかったとはいえます。ただ、作者がビルなので、そのままビルがヴォーカルを担当したということでしょうか。

ビルは、やはりソロ志向があり誰よりもたくさんのソロアルバムをリリースしています。ま、売れないのですが。

ストーンズの特徴として、長時間に及ぶレコーディングというものがあります。長期間でもあるのですが、レコーディング自体に終わりが見えないのですね。朝スタジオ入りし、深夜どころか翌朝までレコーディングが及ぶのは日常茶飯事です。こういう時、ビル・ワイマンは予定の時間が来ると帰ってしまうんだそうです。ビルが帰った後はベースはキースやロニーが弾くこともしょっちゅうでした。

かくして、アルバムリリース時に、一部の曲ではビルのクレジットがどこにもないということが起こります。ツアーなどではそのパートをビルが弾くことができないなんてことはないのですが、こうしたことが長年蓄積してくると、ビルの不満も高まってくるでしょうね。かくして脱退するに至ります。

ストーンズ脱退後はBill Wyman & His Rhysm Kingsというバンドを作り、現在も活躍中です。このバンドはメンバー固定ではなく、ビル以外のメンバーがランダムに集められ、時にはソロヴォーカリストも参加します。

 

ということで、リズムキングス、「Honky Tonk Women」でした。ストーンズよりはノリが緩いですけど、味はありますね。

ところで、ビルは1936年生まれなので今年84歳です。ビルがミックにもキースにも遥かに勝っていたことがありまして、それは彼らにも負けない性豪であったことといわれます。ま、セックス依存症なんじゃないすかね。もういい加減なおったろ。

今回、lastsmileさんのリクエストにお答えしました。

★引き続きリクエスト、ご要望お待ちしています。

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2020年8月25日 (火)

Topを張り続けるということ

かすてら音楽夜話Vol.90

Yuming

<デビュー直後>

このカテゴリーもめでたく90回目を迎えました。本日は満を持しましてユーミンこと松任谷由実です。

デビューは1971年、加橋かつみ(元タイガース)のシングル「愛は突然に…」の作曲としてでした。この時、わずか17歳。

1954年1月生まれ。八王子の老舗呉服店、荒井呉服店の二女として生を受けます。生まれながらのお嬢さんですね。この荒井呉服店は八王子駅の西側、甲州街道沿いに今でもあります。

実家を継がなくてもいい立場ですので、自由奔放に生きることができたでしょう。立教女学院から地元の多摩美術大学に進学したのは、染色を学ぶためだったようで、ある程度家業のことも視野に入れていたのでしょうか。立教女学院時代には学祭でバンド活動もやったとテレビで語っていました。

17歳でデビューというコネを作ったのは、わずか中学生にして当時文化人の集うイタリアンレストラン、「キャンティ」に出入りしていたからともいわれます。1972年にかまやつひろしのプロデュースによって、「返事はいらない」(作詞作曲:荒井由実、基本的に自作はすべて本人です。)でレコードデビューし、翌1973年アルバム『ひこうき雲』をリリースします。

当時は全く売れませんでしたが、1975年のシングル、「あの日に帰りたい」がオリコンシングル週間チャート1位を獲得します。

 

映像は1996年のものです。印象的なコーラスは山本潤子(元赤い鳥、元ハイファイセット)ですね。この曲の直前、バンバンに提供した「いちご白書をもう一度」がやはりオリコンシングル週間チャート1位を獲得しています。

そして、1976年にアレンジャー、松任谷正隆氏と結婚します。それからわずかなブランクを作りますが、1977年のシングル「潮風にちぎれて」と1978年のアルバム『紅雀』で松任谷由実としてカムバックします。

松任谷正隆氏ですが、ユーミンのデビュー以来ずっと寄り添ってきたといえましょう。セカンドシングル、「きっと言える」の演奏をキャラメルママが担当しますが、このキーボードが松任谷氏でした。後のメンバーは細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)という面々です。このバンドで、しばらくは演奏を担当します。

3枚目の「やさしさに包まれたなら」からは、アレンジも松任谷氏になり、以降現在までユーミンの楽曲アレンジは一貫して松任谷氏ということになります。この夫唱婦随ぶりは山下達郎・竹内まりや夫婦以上に続くもので、今後も不変でしょう。でも、松任谷正隆氏は本人のソロ活動はほぼなく、40年以上にわたりユーミンをサポートしていくことになります。

 

1994年のシングル、「Hello, my friend」でした。ユーミンのオリコンシングル週間チャート1位獲得曲としてはこの曲と次のシングル「春よ来い」が今のところ最後となります。

ユーミンはシングルリリースも多いですが、基本アルバムアーティストです。1983年の『Voyager』から1999年の『Frozen Roses』まで、毎年の年末にアルバムをリリースするのがお約束のようになっていました。これがほとんどミリオンセラーとなります。

この間のタイアップもかなりのもので、数多くの楽曲がCM等で使われました。

このユーミン現象というものですが、1980年代の一億総中流からバブル期にかけてのものだったのではないでしょうか。

ユーミンが10代から20代あたりに行っていたスキーやサーフィン、海外旅行といったものが時代に追いついてきて、普通の若者でも「ちょっと頑張れば手が届く」ようになってきたのです。

このあたりを見事に体現したのが、1980年にリリースされたコンセプトアルバム、『Surf & Snow』で、「灼けたアイドル」という曲ではかっこいいサーファーと再会してみたらみずぼらしいフリーターだったとかの名曲ぞろいです。あの、ファンファン大佐(岡田真澄)とのデュエット、「恋人と来ないで」なんてのも収録されています。

その中で、「サーフ天国、スキー天国」と「恋人がサンタクロース」が1987年の映画「私をスキーに連れてって」で効果的に使われました。ちなみに、この製作チームは「ホイチョイプロダクション」といい、大半のメンバーが成蹊大学というお坊ちゃま学校で、代表の馬場康夫氏は例のマスクの首相と同期です。

時代がユーミンに追いついてきたというか、当時のファンも共感度が高かったのではないかと思います。

今の若者と真逆ですね。クルマも必要ないから免許も取らない、スキーもスノボもしない、金があったら近くで楽しいことをするとかね。

このバブル期のユーミンが取り組んだことの一つに、苗場でのコンサートとか、葉山マリーナでのコンサート、大規模なアリーナツアーなどがあります。とくに、アリーナツアーでは、水中バレエ団、空中バレエ団、ロシアのサーカス団と共演し、ステージに象が登場するなど、豪華さを示しました。おそらく億単位の金がかかっているでしょう。このあたりのコンセプトも松任谷夫妻で考え抜いたことなんじゃないかと思います。さぞ、儲けたとも思われがちですが、これは赤字になるでしょうね。必要以上に金を貯めこまないで、ファンに還元することを優先したのではないでしょうか。

2000年代に入ってからは派手な活動はあまりしなくなりました。これからは、時代に受ける曲ではなく、自身が楽しめる曲を作っていくことにシフトしたのではないでしょうか。それでも、デビュー40周年の2012年には『日本の歌と、ユーミンと』がオリコンアルバム週間チャート1位を記録し、その後も『宇宙図書館』、『ユーミンからの、恋の歌。』が1位を獲得しています。いわば、レジェンドになったということでしょうか。

ちょっとした都市伝説のようなものがありまして。それは、あるバックパッカーがカトマンズの安宿にチェックインしたら、ユーミンがいたというものです。なんかありそうな気もしないではないです。ワタクシ、1回だけユーミンのコンサートに行ったことがありまして、それはそれは年齢層の幅広いファンが来ていました。後方から見ていると、禿げ頭や白髪頭が目立つほどです。そして、コンサートが始まり、ユーミンが歌いだすと、曲の合間などに最前列のファンが差し伸べる手に握手し続けるユーミンがいました。必要以上に威張ってないし、人間性あふれる人だなと思ったものです。

テレビの歌謡番組には出ない、そんな「ニューミュージック」の先駆けで、思いっきり個性を打ち出してきたユーミンです。確かニューミュージックでひとくくりにされるのは嫌だという発言もあったような。それでも、彼女には『Neue Musik』というベストアルバムがあるんですね。嫌っていたテレビにもついに紅白に登場し、数回「SONGS」にも出演しました。

最後にワタクシがユーミンを知るきっかけになった曲でお別れしましょう。

 

1975年リリースのシングル、「ルージュの伝言」でした。映像は2016年のものです。当時、62歳ですか。ほぼ風貌は変わりませんが、二の腕あたりはまあしょうがないかな。

当時のチャートは45位というものですが、ラジオで流れてきたものと思います。原曲ではキャラメルママは使われてませんが、バックコーラスに山下達郎、吉田美奈子、大貫妙子らを起用しています。ビッグになるユーミン以前の曲ですが、この曲も後年「魔女の宅急便」で使用され見事に日の目を見たと思いますね。

なお、今回の記事はスクムビットさんがご自分のブログでつぶやいていたことからインスパイアされたものです。長らくお時間いただきました。

★引き続きリクエスト、ご要望等募集いたしております。

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