カテゴリー「Music Talk」の147件の記事

2022年5月11日 (水)

資生堂 VS カネボウ 1978年夏

かすてら音楽夜話Vol.147

1970年代後半から1980年代前半あたりの話です。当時の女性は成人したら化粧をする…少なくとも就職し世の中に出たら化粧をするのが当たり前みたいな考えが世の中を支配していたように思います。

そして、当時の化粧品メーカーは、資生堂とカネボウが競い合っていました。その販売促進のため、それぞれがキャンペーンソングを依頼し、さらに販促が過熱していったのでした。それも、春夏秋冬と徹底していてその季節向けにキャンペーンソングをリリースしあうという具合でした。

ちなみに、第三のメーカー、コーセー化粧品もキャンペーンソングは出していたようですが、さすがに資生堂とカネボウの競争には追随できなかったようです。

さて、今回取り上げるのは1978年夏のキャンペーンソングです。

資生堂

 

矢沢永吉の「時間よ止まれ」(作詞:山川啓介 作曲:矢沢永吉)でした。

こちら、資生堂アクエア・ビューティケイクというファンデーションのCMに使用されておりました。ちなみに、前年夏の同製品はダウンタウンブギウギバンドの「サクセス」(作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童)でしたが、メガヒットには結び付きませんでした。

「時間よ止まれ」は6月12日、19日、26日と3週連続の1位を獲得しています。永ちゃんにとっても初めての1位です。ついに「成りあがった」のですね。

このキャンペーンソングですが、のちには起用されればヒット間違いなしとまでいわれました。しかし、それは「時間よ止まれ」から始まったように思います。

ちなみに、「サクセス」はダウンタウンブギウギバンドのイメージ(「スモーキンブギ」の青少年の喫煙とか、ツナギにリーゼントというスタイル)がよくないという意見もあったそうです。であるならば、元キャロルの永ちゃんのイメージも同じようなものでしょうが、当時のソニーのプロデューサーであった酒井政利氏が山川啓介氏に作詞を依頼し、永ちゃんのマネージャーがそこに乗って、このタイアップが実現したとのこと。曲自体はキャロルの面影はまるでないし、世の中でもまさか矢沢永吉がこのような曲を書くような認識はなかったと思います。

ただ、当の永ちゃんは引き受けるに際して「この曲は一生歌わない」というものだったそうです。また、当時の風潮として永ちゃんもテレビには出ないとしていたのですが、今やBOSSやらモルツやらCMには出まくってますし、「時間よ止まれ」も自分の代表曲であると思うようになりりました。

カネボウ

 

サーカスの「Mr.サマータイム」(作詞:Pierre Dolanoe 作曲:Michel Fugain 編曲:前田憲男 日本語詞:竜真知子)でした。

こちらはカネボウのサンケーキというやはりファンデーションのタイアップです。資生堂との真向対決ですね。どちらもファンデーションながら、夏の太陽の下でも日に焼けないというコンセプトも同じです。

「Mr.サマータイム」はフレンチポップスをそのまま持ってきたものですが、ほとんど新人でこれが2作目のシングルとなるサーカスに歌わせました。当時のサーカスは兄弟と従妹からなる男女4人組でアルファレコード期待の新人グループでした。やはり、親族でグループ、特にコーラスワークを売りとするグループには相性がぴったりというところでしょうか。

こちら、「時間よ止まれ」と入れ替わるようにして7月3日付のオリコンシングルチャート1位を獲得しています。この1978年はあのピンクレディが全盛で、タイアップとはいえ新人グループが割って入ったというのは1週のみとはいえやはりすごいこと。

資生堂もカネボウもどちらも成功というものでした。

こちらのCMには服部まこ(現在は服部真湖、よみは同じ)というタレントを起用しております。この映像が出てこなかったんだな。ちなみに、前年1977年のサンケーキのCMにはあの夏目雅子を起用し、女性用の製品ながらも男どもの目をくぎ付けにしたものです。そちらの曲は「OH! クッキーフェイス」という外タレが歌っております。しかし、曲はそれほど売れませんでした。

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<夏のイメージです>

ちなみに、「時間よ止まれ」の資生堂アクエア・ビューティケイクのCM映像、見つけたので貼っときます。

 

こちら、5人のモデルが登場しますが、アップになった最後のモデルは堀川まゆみといいまして、その後も女優業のほか作詞・作曲もこなすマルチタレントぶりを発揮した人です。

その妹が麗美になります。

この2曲が売れに売れたもので、資生堂やカネボウのタイアップに選ばれれば、ヒットするという法則みたいなものができてしまったんですね。しかし、依頼された作家陣は大いなるプレッシャーにさらされたことでしょうね。もちろん、ヒットしなかった曲もあるんですけど。

資生堂は世界的メーカーになりましたが、カネボウは解体されてクラシエになったのではと思っていたら、ちゃんと「カネボウ化粧品」として生き残っていたのでした。カネボウグループで唯一「カネボウ」を名乗る企業だそうです。

この企画、ちょっと続けたいと思います。

プーさん追い込まれてる?

対独戦勝記念日だったとか。それにしてもしつこいですね。これ以上やると国が破滅しちゃいますぜ。

 

曲はRCサクセションの「明日なき世界」、カバーです。

反原発を歌い原子力発電事業を展開していた東芝というレコード会社からリリースできなくなった『Covers』というアルバムに収録されています。アルバムは元の所属のキティレコードから発売され、アルバムはRC唯一のオリコン1位を獲得している作品です。

このあたりから忌野清志郎は社会問題を歌にするようになりましたね。

★今回の記事がよかったらイイネを。コメント、ご意見、リクエストなどよろしくお願いします。


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2022年4月20日 (水)

控えめな「ファラン」

かすてら音楽夜話Vol.146

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<パタヤのファラン>KP/DA50-200mm

音楽話でファランとは…。

タイでいう「ファラン」とはヨーロッパ系の欧米人を指す言葉ですね。アフリカ系の欧米人は「ファラン・ダム」と呼ばれるそうですが、あまりきいたことはないです。まあ、便利な言葉ですね。

画像のようにいわゆるファランはパタヤなんかで金にものをいわせてファランになびく女子をはべらせていたりします。あるいはカオサンなどで周囲への配慮もなく飲んで(あるいはラリって)騒ぐという、イメージ的にはよくないですね。

ある時、わたしゃBTSに乗っていたんですが、日本の満員電車には程遠い混み具合(それでもバンコクでは混んでると思われる)の車両で、ひとりのこわもて風ファラン男性(あまり女性はファランとはいわれないような気もします)が、タイ人を怒鳴りつけているシーンに遭遇したことがあります。

こういう態度を取るのは国力の差なのか経済力の差なのか。ま、高度成長期に日本人も金に任せてアジア諸国で狼藉三昧だった人もいるようですけどね。

さて、本題です。音楽界でもミュージシャンは尊大な態度を取る人は少なくないのですが、今回取り上げる二人はその真逆。

では、ひとり目。

 

Gilbert O'Sullivan(ギルバート・オサリバン)の「Alone Again(Naturally)」でした。

1946年にアイルランドで生まれ、育ちはイギリス。この曲は1972年にリリースされビルボードのシングルチャートで4週連続1位を獲得し、その後いったん陥落するものの、再び返り咲いて2週連続の1位となり、合計6週1位となり、1972年の年間チャートでも1位となった曲です。

ギルバート・オサリバンは本名ではなく、ヴィクトリア朝時代に劇作家と作曲家のコンビがギルバート&サリバンであることから付けたもので、本名はレイモンド・エドワード・オサリバンといいます。

「Alone Again(Naturally)」の内容は、自殺が出てきたり、両親の死別なども出てくる内省的なもので、およそポップスシーンにはありえないような内容なんですが、やはりメロディラインが秀逸だったので、メガヒットに結び付いたのでしょう。

映像はおそらくテレビ収録のライヴです。音源的にはかなりオリジナルに近いのですが、ギルバート・オサリバンは曲間にアドリブを入れていますし、原曲にかなり忠実な演奏なのであると致しましょうか。

続くシングルは「Clair」で、ややもするとロリコン趣味なところもあるのですが、こちらもビルボード2位を記録します。

個人的に気に入っているのはその次の1973年のシングル。

 

「Get Down」でした。こちらは、ビルボード7位を記録しています。

歌詞の「Get Down」は「おすわり」、「Dog」を彼女に例えています。でも、アメリカでは「Get Down」も「Dog」も性的あるいは侮蔑的なスラングとして用いられていることを、ギルバート・オサリバンは知らなかったとのことです。

でも、そんなことは関係なくまじめにピアノを弾き歌うギルバート・オサリバンの受けはよかったのではと思います。

ギルバート・オサリバンは日本受けするタイプで、来生たかおというフォロワーもいます。

また、「Alone Again(Naturally)」は、草刈正雄九重佑三子(元祖コメットさん)のカバーも存在します。どういうわけか、九重さんのカバーは1971年リリースとギルバート・オサリバンよりも早いんですよね。

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アメリカ代表、しかも女性はこちら、Karla Bonoff。

彼女のソロデビューは1977年のセルフタイトルアルバム、『Karla Bonoff』です。1951年生まれのため、デビューはかなり遅めといえますが、Bryndle(ブリンドル)というグループを組んでいました。そのメンバーは結構すごいメンツだったのでしたが、デビューシングルをリリース後、レコード会社とそりが合わず、解散してしまいます。

その後、ブリンドルのリーダーでもあったKenny Edwards(ケニー・エドワーズ)の仲介で、カーラ・ボノフらブリンドルのメンバーがLinda Ronstadt(リンダ・ロンシュタット)のバックのメンバーに起用され、カーラの曲もリンダのアルバムに採用されることになります。

ちなみに、ケニー・エドワーズはリンダがかつて組んでいたStone Poneysのリーダー的存在でした。

 

1979年のセカンドアルバム『Restless Night』(邦題「ささやく夜」)のオープニングナンバー「Trouble Again」(邦題「涙に染めて」)でした。

このアルバムからは「When You Walk In The Room」という曲が唯一シングルカットされているのですが、おそらく「Trouble Again」の方がよく知られていますね。アルバム自体はビルボードのアルバムチャートで31位と、それほど売れたわけではありません。

ですが、このアルバムはタイトルとは真逆の名曲ぞろいで、カーラのしっとりとした声が聴く人を優しく包み込む内容です。リンダ・ロンシュタットもそうなんですが、アルトの声はアルファ波を誘導するそうで、カーラ・ボノフはリンダよりもアルファ波を出すような気もしますね。

なお、同タイプの人にはカレン・カーペンターなどを上げたいですね。

 

まるで商売っ気のないカーラ・ボノフですが、1984年の映画「Footloose」のサウンドトラックに参加しています。こちらは「Somebody's Eyes」ですが、作者はカーラではありません。

その後のカーラはブリンドルを1990年に再結成し、スタジオアルバム2枚をリリースしました。しかし、エドワーズもアンドリュー・ゴールドも亡くなり、現在は活動停止状態です。

という出しゃばらないファランのお話でした。どう考えてもギルバート・オサリバンなどドラッグとは無縁ですよね。もちろん、カーラ・ボノフも。

ロシアのプーさん

しつこいですよね。中村逸郎氏が説明しているように、ロシア人の価値観とプーさんの価値観はやっぱり違うんだろうね。

 

佐野元春の「Shame-君を汚したのは誰」でした。

★リクエスト、ご意見、コメントお待ちしております。記事が気に入りましたら、イイネをくださいませ。

 
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2022年3月31日 (木)

日本のRAP事始め

かすてら音楽夜話Vol.145

ヒップホップ・カルチャーはニューヨークが発祥ともいわれます。それを象徴するものはクラブ、DJ、ブレイクダンスなどがありますが、クラブでDJもしくはMCが音楽にのせて韻を含ませつつ、喋るようにリズムと同調するようなものをラップといいます。

今でこそ、日本でもたくさんのラッパーが活躍するようになりましたが、残念ながら日本に導入された初期のラップは、ヒップホップ文化とはあまり関係ないところから始まったのです。

 

つうことで、1981年の山田邦子、「邦子のかわい子ぶりっこ(バスガイド篇)」(作詞:山田邦子 作編曲:渡辺直樹)でした。

半分がネタで半分がラップ。おそらくこれが、日本の音楽史で音源として初めて登場した、日本人による日本語のラップではないかと思います。

当然ながら、80年代初期、日本にはヒップホップなどもまるで出現しておらず、ストリートのカルチャーといえば、竹の子族でしたかね。なお、山田邦子は素人参加の物真似番組からフジテレビの「笑ってる場合ですよ!」のコーナーに抜擢され人気に火が付いたという時期で、ネタをもとについにレコードデビューしてしまったのですね。

ちなみに、作曲の渡辺直樹氏はSPECTRUMのベーシストであり、この時期ちょうどSUPECTRUMが解散したあたりですね。それ以前も渡辺プロ所属のシンガーたちのバックを担当していたり、スタジオミュージシャンとしても活躍していて、そのベースプレイには定評がありました。その後もAB'sに参加しております。

その関係もあるのか、バックのブラスはもしかしたら新田一郎が関係するHorn Spectrumあたりである可能性も考えられます。山田邦子はともかく、バックの演奏力はかなりレベルが高いです。山田と絡む男性の声はビートきよしです。このあたりは、当時山田の所属していた太田プロの関係もあるでしょう。

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1983年5月、それまで地道にライヴ活動をやっていて、人気も絶頂に達するかと思われていた佐野元春が突然渡米します。

ニューヨークでアパート生活をし、現地のカルチャーに触れていくというもので、元春の現地報告はNHK FMの「Motoharu Radio Show」で本人のDJによって毎週伝えられました。そして、1年後に帰国。

次にリリースしたアルバム『Visitors』が衝撃の内容でした。

 

1984年リリースのアルバム『Visitors』収録の「Come Shining」(作詞作曲:佐野元春)でした。

なんと、ニューヨーク生活でヒップホップカルチャーを見事に吸収し、アルバム収録曲8曲中、「Complication Shakedown」、「Wild On The Street」、「Come Shiing」、「New Age」と4曲もがラップなのでした。

この方向転換ともとれるスタイルの変更に、デビュー以来の元春ファンの一部は確実に離れていったと思われます。ですが、このアルバム『Visitors』はオリコンアルバムチャートで2週連続1位を獲得。年間チャートでも24位を記録しました。

新しいスタイルの佐野元春の誕生ともいえます。とはいえ、もともと佐野元春の楽曲は「アンジェリーナ」にせよ、「Someday」にせよ、メロディに極端な抑揚が少ないのが特徴でもあります。

そして、早い段階からポエトリーリーディングなどにも取り組み、どうしたら短いメロディの合間にできるだけ多くの言葉を詰め込めるかということを試行錯誤してきた人でもあります。

そうしたことから、言葉をビートに乗せていくという取り組みがやりやすかったのではないでしょうか。

ちなみに、映像は1984年から1985年にかけての「Visitors Tour」でのものですが、打ち込みも使わず、DJも不在でスクラッチなどを利用せず、すべての音をバックバンドのThe Heartlandとともに、演奏するというレベルの高いものです。余談になりますが、1984年という段階で、元春の着こなし、シャツの裾を出しているとか、襟足にウィッグをつけているなど革命的であったと思います。あの時代、ジーンズでもベルトの位置がかなり高く、Tシャツ愛用者であっても決してシャツの裾を出すことはなく、いかに足を長く見せるかというような時代でしたから。

次のアルバム『Cafe Bohemia』では従来の佐野元春に少し回帰していますが、「Indivisualists」、「99 Blues」ではさらにヒップホップ色を強めた作品も収録しました。

日本のミュージシャンではおそらく初めてきっちりとしたヒップホップまたはラップを我々に伝えた功労者であると断言したいです。

さて、この直後の1984年11月に吉幾三が「俺ら東京さ行ぐだ」をリリースします。こちらも、日本語ラップの元祖ともいえますかね。こちら、作詞作曲が吉幾三本人、そして千昌夫プロデュースという組み合わせというのが、想像を超越してますね。

吉幾三も長らくヒットに恵まれず、アメリカのラップ音楽に着目してこれが生まれたそうで。

それでは最後に最も気に入っている元春のラップを。

 

「Wild On The Street」(作詞作曲:佐野元春 編曲:佐野元春)でした。公式のものではないので削除されてしまうかもしれませんが。

なお、バックのコーラスはアフリカ系アメリカ人女性で「Jungle People」というフレーズを歌ってもらうのにものすごくディスカッションしたそうです。

<まだやってるよ>

ロシアによるウクライナへの戦争です。

 

Billy Joelの「Goodnight Saigon」でした。

もちろん、ベトナム戦争を扱った曲です。ビリーによると、「あの曲は究極の反戦歌。隣のやつが死んでいく若者の地獄を歌った」(wikiより)とあります。

ロシアのヤングも無意味に死んでいくんですよね。もちろん、ウクライナ側も。

毎日伝えられる映像、一部はフェイクであるともいわれますが、ウクライナに仕掛けてきたのはあの独裁者であって、ゼレンスキーではないことだけははっきりしていますよね。

★今回の更新、めちゃくちゃ遅れました。来月の半ばくらいまでは面倒なことを抱えておりますので、下手すると週1くらいの更新になるかもしれません…ということだけお知らせしておきます。リクエスト、ご意見もお待ちしております。

 
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2022年3月10日 (木)

贅沢なバックコーラス

かすてら音楽夜話Vol.144

 

いきなりの「All You Need Is Love」(邦題「愛こそはすべて」)でございます。

The Beatles(ビートルズ)の1967年のシングルで英米両国で1位に輝いております。この曲は「Our World」という全世界に衛星中継された番組で放送された楽曲です。番組は日本でも放送されたそうで、司会は宮田輝だったとのことです。当然、見ておりません。(YouTubeの映像も当時のものがアップされていましたが、どうやらバグがあるようで、自分のPC環境では再生できませんでした。)

曲のおおもとは、その時のAbby Road Studioでライヴ収録されたものですが(一部のバックトラックは事前録音し収録時にそれを流していた)、のちにリードヴォーカルのJohn Lennon(ジョン・レノン)のパートを録り直したものと差し替えられてリリースされました。

そのライヴ中継ですが、バッキングヴォーカルのメンバーが豪華なんですね。

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<Mick Jagger>

Mick Jagger(ミック・ジャガー、The Rolling Stones)、Keith Richard(キース・リチャード、The Rolling Stones、当時の表記)、Eric Clapton(エリック・クラプトン、Cream)、Marianne Faithfull(マリアンヌ・フェイスフル、シンガー、女優、ミックの当時の交際相手)、Patty Boid(パティ・ボイド、当時のGeorge Harrison夫人)、Keith Moon(キース・ムーン、The Whoのドラマー)、Graham Nash(グラハム・ナッシュ、The Hollies)などが参加してました(所属はいずれも当時)。

今回のタイトル、「贅沢なバックコーラス」なんですが、確かに豪華なメンバーを揃えたものといえます。しかし、なんとも緩い60年代ともいえます。そのためのギャラが発生したかどうか、いずれも友情出演だったような気もしますが。

さて、ここまでは前振りです。

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<Carly Simon>

Carly Simon(カーリー・サイモン)というアメリカのシンガーがおります。1945年生まれで、ニューヨーク出身。1964年に姉とSimon Sistersを結成し、1971年にソロデビューしました。翌年のグラミー賞で最優秀新人賞を獲得しています。

彼女、サイモン&シュスターという大手出版社の創業者の家庭に生まれたバリバリのお嬢さんなんです。テイストは違いますが、アメリカ版ユーミンとでもいいましょうか。

翌年の1972年にリリースした3枚目のアルバム『No Secrets』(ビルボード1位)から、本題に入ります。画像はそのアルバムジャケットをデジカメで撮ったものなんですが、胸のあたりに注目していただきたい。当時のワタクシの周辺では、小学生ながらに洋楽を好むガキどもがおりまして、普段はT.RexにイカれていたNというやつがこのジャケットを話題にしたのですね。「あれ、見た?」なんてね。

つまりはノーブラやないかい。つうことなんですが、後年、あちらのブラには突起のついたものもあるということを知った次第でございます。さて、真相はいかに?

 

アルバム『No Secrets』からの最初のシングル、「You're So Vain」(邦題「うつろな愛」、作詞作曲:カーリー・サイモン)でした。アルバムでは3曲目に収録され、1973年1月に3週連続のビルボード1位を獲得した曲です。

YouTubeの映像は動かない音声のみ(オリジナル)のものでしたが、こちらのバックコーラスがミック・ジャガーなんです。ミックの登場は2コーラス目からで、聴けばすぐにわかりますね。「All You Need Is Love」は豪華メンバーでしたが、コーラス部分にまるで癖がなく、だったらあのメンバーは単にビジュアルのために集められたのかとも思ってしまいます。

実はミックに関してのクレジットはどこにも見当たりません。それもなぜかはわからないんですが。アルバム自体はクレジット関係はきちんとしています。

この曲の男性のコーラスは当初はHarry Nilson(ニルソン)だったといいます。曲の収録中にたまたまミックからプロデューサーに電話がかかってきたそうで、その時に依頼したともいわれています。そして、ミックのコーラスが収録されたのですが、当初のニルソンは自ら降りたとのことですね。

ま、これだけ存在感のある声を聴かされれば誰もが納得ですわな。日本で例えれば、佐野元春の「The Vanity Factory」におけるジュリーのコーラスみたいなものですかね。

さらにもうひとつ。

 

アルバム『No Secrets』の9曲目、「Night Owl」でした。こちら、のちに夫となるJames Taylor(ジェームス・テイラー)の作品です。

こちらにはコーラスでPaul McCartney(ポール・マッカートニー)と妻のLindaが参加しています。でも、ミックほどの存在感はありませんね。ちなみに、ポールとリンダはWingsで活動中でしたね。

ちなみに、ジェームス・テイラーとはのちに離婚。インタビューでは初めて出会った時のことをかなり大胆な際どい発言をしております。内容は『No Secrets』の日本盤の解説に書かれております。

Linda Ronstadt(リンダ・ロンシュタット)にも、「Tumbling Dice」(1978年)というストーンズのカバーがあるんですが、こちらはミックはまったく関わってませんでした。だがしかし、リンダとミックは当時関係が噂されてましたが。

<おまけ>
ウクライナ侵攻に反対ということで、しばらくかすてら音楽夜話で、「反戦メッセージ」性のある曲を取り上げていこうと思います。

 

Joan Jett(ジョーン・ジェット)姐さんの、「Have You Ever Seen The Rain」。1990年のシングルで、バックバンドのThe Blackhearts(全員男性)を従えてのパフォーマンスです。

元歌はCreedence Clearwater Revival(CCR)ですので、カバーですね。雨を当時のベトナム戦争での米軍の空爆(ナパーム弾)に例えたものといわれていましたが、作者のCCRのJohn Fogerty(ジョン・フォガティ)は否定してます。

とはいえ、世の中では反戦歌として認識されてますね。CCRヴァージョンは取り上げてますので、こちらで。Rod Stewart(ロッド・スチュワート)やBonnie Tyler(ボニー・タイラー)もカバーしている名曲。

★ご意見やリクエスト募集中です。是非ともコメントくださいませ。

 
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2022年2月23日 (水)

どてらい男

かすてら音楽夜話Vol.143

本日は歌謡界の御三家のおひとり、西郷輝彦氏を悼みまして急遽記事にいたします。

西郷さんというとどうしても取り上げられるのが「星のフラメンコ」(作詞作曲:浜口庫之助)ですよね。

この曲は西郷さんがスペインで鑑賞したフラメンコに感銘を受けて、浜口氏の自宅でその経験を話したところ、西郷氏の新曲としてフラメンコのリズムを取り入れることになったそうです。

ま、正式のフラメンコはカンテ(歌)が中心だそうですが、西郷氏の見たフラメンコはいわゆる観光用でギター演奏もダンサーもいるものだったでしょうが。

とはいえ、1960年代以降の日本人が感じるフラメンコ像はこの曲に集約されているのかもしれないです。もっとも、フラメンコの興行は夜もかなり遅い時間に始まり、シエスタも取らずに観光するような人(特に日本人)ばかりでしたので、最も盛り上がる時間帯に日本人のツアー客は集団で舟を漕いでいるという事態に陥っていることが多かったですね。いちお、ワタクシもグラナダで見に行きました。

さて、西郷氏ですがデビュー当時はクラウンレコードの期待の大型新人であるわけで、2か月に1枚というシングルのリリースでした。デビュー曲の「君だけを」、4枚目のシングル「十七才のこの胸に」で第6回日本レコード大賞新人賞を都はるみとともに受賞しております。ですが、「御三家」の橋幸夫が2度のレコード大賞を受賞しているのと比べるとメガヒットにやや弱さがあるかもしれませんね。ま、橋さんの場合は西郷さんがデビューするまでにすでにシングルを46枚もリリースしているんですけどね。ちなみに1年早いデビューのもうひとりの御三家、舟木一夫は7枚のリリースでした。

その後、西郷さんの代名詞ともいえる「星のフラメンコ」はなんと26枚目のシングルなのでした。ま、その前に「星娘」というスマッシュヒットもありましたが。

さて、いつもならばYouTubeで「星のフラメンコ」…となるわけですが、それじゃ面白くないわけで、ややひねったものを見つけてきました。以前紹介した「ローリングストーンズは来なかった」も秀逸なんですけどね。

 

西郷輝彦で「メキシコ娘」(作詞作曲:浜口庫之助 編曲:小杉仁三)でした。1967年5月1日リリースの35枚目のシングル「願い星叶い星」のB面曲となります。

なんで、メキシコなの?となりますよね。実は同日発売の橋幸夫「恋のメキシカンロック」という曲がありまして、なんと橋さん、これを主題歌にして映画出演までするという人気ぶりでした。

翌1968年はメキシコオリンピックが開かれるということで、日本でもにわかにメキシコブームが起こったようです。オリンピック前の1968年4月にはハナ肇とクレージーキャッツ主演の映画「クレージーメキシコ大作戦」が封切りになってますし。ま、西郷さんのメキシコはB面ということで控えめだったのですけどね。

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<メキシコ>*イメージです

ですが、この次のシングルでもメキシコを持ってくるんですね。

 

1967年7月1日リリースの36枚目のシングル「この雨の中を」のB面、「悲しいソンブレロ」(作詞作曲:米山正夫 編曲:小杉仁三)でした。

作者が異なるんで、リズムはともかく言葉などがラテンとはかけ離れている感じはしますね。

ええ、もちろん、このあたりは西郷さんの格別なファンでもなければ知りえないことですけど、今は便利な時代で有名人ほど調べられるという。

さて、順調にシングルをリリースしていた西郷さんですが1973年にドラマ主演(「どてらい男」)を果たします。そのちょっと前からシングルのリリース間隔も年間4枚くらいに減ってきてはいたのですがね。

この年偶然かどうか、例の「ローリングストーンズは来なかった」を66枚目のシングルとして発売していますが、その直前のシングルが「俺たちの明日」というどこかできいたことのあるタイトルです。そして、この曲のアレンジャーがボブ佐久間という人で、大沢たかお主演の「劇的紀行・深夜特急」の音楽を担当した人なんですね。まあ、大いなる偶然なんすけどね。

追悼ついでに。

 

松鶴家千とせさんもお亡くなりになりました。この曲、左とん平「ヘイユウブルース」よりも売れているんですよね。ジャジーでブルースしてますよね。ジャズシンガー志望だったそうで。言葉は若干東北訛りが入るんですけどね。それがまたいい。一時代を築いた人でした。わっかるかな、わかんねぇだろうな。イェー!昔、中古で探して買いましたよ。

ともかく、お二人に合掌。

★リクエスト、ご意見、コメントをお待ちしております。

 
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2022年2月 7日 (月)

影のホリコシ

かすてら音楽夜話Vol.142

「ホリコシ」ってなんだ?ですよね。

もちろん、東京都中野区にある私立堀越高等学校のことです。この学校には芸能コースというものがありました(現在はトレイトコースという名称です)。当然ながら芸能人も多く、タレントやシンガーも数多く輩出しています。

さて、ここで紹介する「影の」ホリコシですが、東京都世田谷区にある東京都立松原高等学校のことです。当然ながら普通科しかないごく普通の高校ですが、1975年から1982年にかけて現在も活躍するミュージシャンが相次いで入学しているんです。

ちょっと年表にしてみます。

1975年 清水信之入学(1959年生まれ)

1976年 佐藤栄子入学(1960年生まれ)

1977年 佐橋佳幸入学(1961年生まれ)

1982年 渡辺美里入学(1966年生まれ)

清水信之は在学中からプロのバンドに参加するものの、バンドとしては売れずにスタジオミュージシャン(キーボード)をやっていたり、他のミュージシャンのサポートに回る仕事から、アレンジャーなども行う裏方の仕事が多い人です。

佐藤栄子は後にEPOとしてデビューするシンガーソングライターですね。

佐橋佳幸は松たか子の旦那ですが、日本を代表するトップギタリストで、曲作りとアレンジも行います。

ちょっと遅れての入学となった渡辺美里はいうまでもなく、この中では最も有名なJ-Pop系の大物シンガーですね。

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<EPO>

松原高校時代、清水、EPO、佐橋の3人は1学年ずつ違いはあるもののバンドを組んでいたことがあるといいます。それは1977年ということになりますね。

EPOはRCAレーベルから1980年、まだ19歳の時にSugar Babeの「Down Town」(作詞:伊藤銀次 作曲:山下達郎 編曲:林哲司、清水信之)のカバーでデビューします。この曲は2か月後に「オレたちひょうきん族」のテーマソングとして使われ、知名度がアップします。

しかし、彼女の名前は1979年に竹内まりやのシングル「September」(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)のコーラスをプロデューサーの宮田茂樹とともに参加し、コーラスアレンジも担当したことが知られています。ワタクシは大学の生協でこの曲が収録された『Love Songs』(1980年)のLPを購入し、印象的なコーラスワークが気になっていたものです。当時のRCAが偉いのは、きっちりとクレジットが記されていたことです。EPOって誰だ?と、なったのですが、その後、ひょうきん族とともにEPOが前面に出てきたことで、ちょっと嬉しくなりました。

ただ、コーラスアレンジについては宮田茂樹の配慮で、実際は宮田氏自身が行ったとのことです。EPOは竹内まりやに続くRCAの秘蔵っ子ということで、デビュー前から大事にされていたのですね。

先輩の清水信之とはデビューアルバムからしばらくはアレンジを任せるという関係を続けていました。

では、EPOの曲を。

 

アルバム『う・わ・さ・に・な・り・た・い』(1982年)収録曲の「雨のめぐり逢い」(作詞作曲:EPO 編曲:清水信之)でした。

シングルカットにはなっていない珠玉のバラードです。

ちなみに、同期の堀越に在籍していた有名人として浅野ゆう子がおります。神戸から単身上京してきて梅ヶ丘中学校出身なんだそうで。

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<UGUISS>

佐橋佳幸のデビューは1983年にバンド、UGUISSのギタリストとしてですが、中学生くらいからバンドを組み、ポプコンの予選で入賞して大学生が主催するアマチュアコンサートなどに出入りしていたといいます。その大学生の中に佐野元春がいたといいます。

UGUISSは基本的に佐橋の曲に友人などが詞をつけて、それを発表するバンドが母体になったものですが、わずか1年でプロ活動を停止することになります。画像の左下が佐橋佳幸です。

その後はセッションギタリストとしてレコーディングやツアーに同行するという生活を送っていましたが、清水信之の紹介で渡辺美里の楽曲政策のサポートを経て、彼女のバックバンドのバンドマスターを務めるようになります。

これと並行して様々なミュージシャンからギタリストとしてバンドに起用されることになります。また、数は少ないものの楽曲提供(ほとんど作曲)とアレンジも引く手あまたという業界人気ぶりでした。とりわけ、ワタクシが傾倒していた佐野元春と1996年のアルバム『Fruit』から2004年の『The Sun』までThe Hobo King Bandとして長く活動を共にしていたことで、佐橋のことを知るようになりました。

この間に小倉博和とのギターデュオ、山弦を結成したり、山弦にヴォーカル(平松八千代)を入れたSOY(佐橋、小倉、八千代の頭文字を並べたもの)を結成していました。

スタジオミュージシャンというよりはセッションギタリストとして露出することの多い人ですが、あくまで控えめでありながら、すごいギターを弾く人ですね。

それでは、幻のバンドUGUISSをお聴きください。

 

UGUISSで「Cause Of Love(夢を抱きしめて)」(作詞:福島浩・山根栄子 作曲:佐橋佳幸)でした。ちなみに、ヴォーカルは山根栄子といい、山根麻衣の妹です。若き日の佐橋のギターソロもなかなか。つのだひろはいらんな。

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<渡辺美里>

さて、最後は渡辺美里です。彼女も高校時代はアマチュアバンドを組んでいたといいますが、ミスセブンディーンコンテストに出場するなど、芸能的な志向が強いタイプではないかと思います。

それでも、デビュー後はコンスタントにシングル・アルバムをリリースし、頻繁にライヴを行い、楽曲(主に作詞)にも携わるようになります。これを繰り返しているうちに、ただのシンガーからアーティスト色の強い日本を代表するシンガーへと変貌していきます。

前述の清水信之や佐橋佳幸がかかわってきたのは、さすがに先輩・後輩の間柄とはいえ、直接の知り合いということはなかったでしょうが、そこは可愛い後輩であるからやはり放っておけないということが、あるでしょうね。

また、実際に彼女に接してみるとずっと若いのに全身をぶつけてくるような歌に才能を感じ、サポートしたいシンガーと感じたのでしょうね。「俺たちの妹分、みさっちゃん」つうことで。

 

渡辺美里で「10 Years」(作詞:渡辺美里 作曲:大江千里)でした。

1988年の夏の恒例、西武球場でのライヴ映像です。当時は22歳でステージ衣装も可愛い風に振ってます。ですが、すでに貫禄ありますね。

現在はもっと貫禄あるはず。友近っぽいけど、友近のほうが若いのでした。

ちなみに、この時の演奏ではギターは佐橋佳幸です。まあ、ソロシンガーのライヴ映像なので、全然映ってないんですけど。なお、UGUISSにいたドラムの松本淳とキーボードの柴田俊文もバンドに加わってのものでした。

影のホリコシ、なかなか奥が深いですね。ちなみに、同校でとある研修があってわたしゃ迷わず参加したことがあります。せめて、雰囲気でも感じてみたくて。でも、ごく普通でしたけどね。

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2022年1月26日 (水)

ラフマニノフに魅せられた男

かすてら音楽夜話Vol.141

Ericcarmen

今回はこの人、Eric Carmen(エリック・カルメン)についてです。

もう半世紀も前になりますが、洋楽で2枚目に買ったシングルがThe Raspberries(ラズベリーズ)の「I Wanna Be With You」(邦題「明日を生きよう」)でした。ビルボードのシングルチャートで16位というスマッシュヒットを記録しました。作者はエリック・カルメンでリードヴォーカルもエリックです。

それにしてもですね、当時英語に付き合う初めのころでしたが、「Wanna」ってなんだ?と思いましたよ。辞書には載ってないしね。笑い話ですが。

 

こちらの映像は、シングルの音源ではなくその時に収録されたいくつかのテイクのひとつだと思われます。ギターの鳴り方が違いますし、リズムが途中緩くなってしまうところがありますので。

この時の映像ですが、セカンドアルバム『Fresh』を収録したスタジオのものだと思われます。同アルバム収録の5枚目のシングル、「Let's Pretend」のヴォーカルとバックコーラスだけの収録映像も上がっていますので。

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<ラズベリーズ>

ラズベリーズの4人です。右下がエリック・カルメン。バンドではリードヴォーカルとリズムギター、キーボードを担当しました。結成当初はリズムギターではなく、ベースを担当していましたが、右上のDavid Smally(デヴィッド・スモーリー)とセカンドアルバムから担当をチェンジしました。

左上がWally Bryson(ウォリー・ブライソン)で、担当はリードギター。ラズベリーズのポップでありながらハードなサウンドはこの人のギターによるものですね。彼はジミー・ペイジやドン・フェルダー(イーグルス)のように12弦と6弦のダブルネックギターを「Go All The Way」では弾きこなすテクニシャンでもあります。

左下がドラムのJim Bonfanti(ジム・ボンファンティ)。

ラズベリーズのシングル曲A面はすべてのリードヴォーカルがエリック・カルメンですけど、ジム以外の3人が曲を書き、リードヴォーカルも担当するという多様性に富んだグループでした。アルバムの中では必ずデイヴとウォリーの曲とヴォーカルも入っています。リリースするシングルのB面はエリック以外の曲とヴォーカルでした。エリック・カルメン中心のように見えるグループですがなかなかに民主的ですね。そして、コーラスも全員が取れるので、声に厚みがあるのです。

とはいえ、エリックのリードヴォーカルはなかなかに強力でキャッチーです。実はエリックは幼少時からクラシックの教育を施され、ヴァイオリンからピアノも習得していたのですね。そして、ハイスクール時代にギターに目覚め、こちらは独学で習得したとのことです。それだけ、何でもできた器用な人なんですが、なぜ、デイヴと担当を入れ替えたのかがよくわかりませんでした。

ラズベリーズの母体となったオハイオのローカルバンドがThe Choir(クワイア)というものでしたが、エリック以外の3人が所属していた時期があり、そこではデイヴもギターであったことが理由のひとつでしょう。

そして、ラズベリーズ結成時(1970年)にはデイヴはベトナムに徴兵されており、別のメンバーがベースを担当していました。そのメンバーが辞め、そこにデイヴが帰還し(1971年)、デイヴがギターとしてメンバーに加わり、エリックがベースに回ったということになります。

理由のその2はこの曲をお聴きください。

 

デビューアルバム『Raspberries』収録のラストナンバー「I Can Remember」でした。

そう、エリックがピアノを担当するのでその間ベースが不在ということになり、そのたびにデイヴがベースに回るのではなにかと不便があるため、そのままデイヴをベースに回したということでしょう。それにしても、印象的なピアノソロです。エリックの憧れはラフマニノフでした。ちなみにエリックの一族はユダヤ系ロシア人の移民でした。

さて、ラズベリーズは1975年にあっけなく解散してしまいます。エリックはすぐにソロシンガーとして再出発します。

 

1975年のソロでのファーストシングル、「All By Myself」でした。全体で7分以上という長い曲でしたが、ビルボード2位というキャリア最高のヒットを記録した曲です。そして、ビルボードでは残念ながら1位に届きませんでしたが、アメリカでもうひとつの権威のあるチャート、Cash Boxでは1位を獲得しています。

そして、1997年にはセリーヌ・ディオンがカバーし、ビルボード4位。

メインの旋律は憧れのラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の第二楽章をオマージュしたものです。とはいえ、演奏はラズベリーズ時代には感じられなかった迫真のものがありますね。

また、セカンドシングル「Never Gonna Fall In Love Again」(邦題「恋にノータッチ」…なんて無粋な)もラフマニノフの第二交響曲を元にサビのフレーズを作ったものでした。こちらはビルボード11位でした。

 

こちら、アメリカのアイドル、Shaun Cassidy(ショーン・キャシディ)が1977年にリリースした「That's Rock'n Roll」(邦題「すてきなロックンロール」)で、ビルボード3位を記録しておりますが、作者はエリック・カルメンです。エリックも1976年にリリースしたカバーということになり、本家のほうはチャート圏外に沈んでおります。

1977年のショーン・キャシディの活躍は結構なもので他の曲でビルボード1位も獲得していて、同じくエリック提供の「Hey Deanie」もビルボード7位(エリックは1978年のアルバム『Change Of Heart』でセルフカバーしてます)。翌年のグラミー賞新人賞にノミネートされました。しかし、新人賞は当時最も強力なヒットを持つデビー・ブーンに持っていかれたものの、ノミネートだけでも大変な栄誉でして、これもエリックの貢献度が高いですね。

ソロ転向後のエリックはデビューシングルこそ好調でしたが、アルバムをリリースするごとにチャートの低下を見せ始めます。シングルも以前ほどは売れなくなりました。そのような中、映画音楽として提供したこちらがスマッシュヒットを記録します。

 

1984年の映画「Footloose」の劇中歌で「Almost Paradise」でした。デュエットしているのはAnn Wilson(アン・ウィルソン、Heartのヴォーカル)とMike Reno(マイク・レノ、Loverboyのヴォーカル)です。ビルボード7位を記録しています。

そして、エリック本人も映画に救われることになります。

1987年の「Dirty Dancing」という映画の劇中歌「Hungry Eyes」を担当することになり、ビルボード4位を記録します。しかし、この曲はエリックが書いたものではありませんでした。

実はこの映画の音楽担当のエグゼクティブ・プロデューサーはJimmy Ienner(ジミー・アイナー)という人で、かつてラズベリーズを手掛けた人だったのです。

 

そして、最後の曲は1988年の「Make Me Lose Control」でした。こちらは「Hungry Eyes」越えのビルボード3位。どうやら、「Hungry Eyes」のヒットを受けてすぐさま曲作りをしたようです。ただし、共作ですね。プロデュースは引き続きジミー・アイナーが担当しています。

冒頭でラジカセから「Hungry Eyes」がちょこっと流れ、スタジオのシーンに切り替わるところ、エリック・カルメンの隣にいるDJ役がジミー・アイナーではないかと思います。

また、このあとエリック自身はアルバムを本格的に作らなくなってきました。その代わりといっては何ですが、ラズベリーズを短期間再結成してアメリカでツアーを行ったのです。これが好評でオリジナルアルバムも期待されるところでしたが、それはかなわず、現在に至ります。

実はラズベリーズのファンは業界にもかなりいて、あのジョン・レノンがラズベリーズのTシャツを着ていたことがあるとか。英語版のwikiには影響を与えたミュージシャンも多く、エリックやラズベリーズの曲をカバーしたシンガーやグループも結構多かったりします。

今回は話が長くなったのは、昔から好きだったからでもありますね。真剣に英語版のwikiも読んだし。また、ラズベリーズとエリック・カルメンになると日本発売盤の解説に登場する音楽評論家、八木誠さんの文章も参考にいたしました。ちなみに、八木さん、2011年にお亡くなりになっていたんですね。

個人的にはラズベリーズの再々結成キボンヌ。


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2022年1月14日 (金)

サングラスの向こう側

かすてら音楽夜話Vol.140

サングラス、かっこいいですよね。僭越ながらワタクシもいくつか所有しております。

裸眼状態が「大人に成長」(つまりローガンでござる)してからは、コンタクトレンズから眼鏡に変えましたが、度の入ったサングラスもこれまたいくつか持っているほどでございます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、ミュージシャンにとってもサングラスは見栄えをよくする小道具ともいえます。サングラスと切っても切れないミュージシャンといえば、鈴木雅之、サンプラザ中野(最近は「くん」をつけているようです。めんどくせぇ、旧称でいきます)、桜井賢(アルフィー)、井上陽水などなど、男ばかりですが。

上記の人たち、デビュー前の画像や初期のころは素顔も結構出てきます。また、Ray Charles(レイ・チャールズ)やStevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)のように、視力に障害を持つ人はサングラスをつけたままです。日本のミュージシャンでも関ジャニの安田章大やcannaの周水のように、眼に多くの光を浴びると日常生活に支障をきたす人はサングラスを欠かせません。

ですが、ほぼ素顔をさらさない人がこの人ですね。

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そうです。浜田省吾のことを語りたいのですね。サングラスを絡めて。

浜省のデビューは1975年、愛奴(あいど)というグループでドラムスを担当しておりました。しかし、愛奴はのちに浜省のサポートギタリストとなる町支寛二らが高校生時代に結成していたバンドが母体となったもので、後から加わった浜省はじゃんけんにより慣れないドラムスを担当することになります。

愛奴時代はメインのソングライター兼ヴォーカルという立ち位置にいましたが、担当はドラムス。バンドの最も後ろに控える位置にいるため、どうしても目立ちたくてサングラスをかけるようになったとのことです。

しかし、ドラムとしての限界を感じていた浜省は同年、愛奴を脱退し、翌1976年にソロとしてデビューします。

 

デビューシングル「路地裏の少年」ですね。オリコン圏外に沈んでおります。

映像ですが、今から15年くらい前のものですが、オリジナルシングルの雰囲気に近いので採用しました。

この、「路地裏の少年」を含むデビューアルバム『生まれたところを遠く離れて』(オリコン圏外)のライナーノートにサングラスを外した浜省の写真が1カット使われているのですね。このアルバムは46年も経った現在でも発売されていますが、再発のCD仕様ではそのカットはなくなっているはずです。ま、それほど不自然ではないと思うし、ネットを検索すれば見ることはできますね。

また、この頃の浜省は小さなライブハウスでの活動をしていましたが、その時は一瞬サングラスを外してまたかけるということもやっていたと、後年のライヴで本人自ら語っております。

 

1987年リリースの「二人の夏」、オリコン25位です。

ホリプロ時代、なかなか自身の曲がセールスに結びつかず、ホリプロ所属のシンガーたちに曲提供を多数行うことで、食いつないでいた浜省ですが、セールスも安定してきて1985年にはアルバム『J.Boy』がオリコン1位を獲得します。

こちら、「二人の夏」は愛奴のデビューシングルですが浜省もリメイクしたのですね。

これを取り上げたというのは、この1987年、写真週刊誌「FRIDAY」に素顔の写真が載ってしまったのですね。もちろん、盗撮です。こちらはどうやらネットでは抹殺されているようですが、わたしゃ拝見しております。これはですね、はっきり申し上げてサングラスを外した浜省は、誰も気づかないのではないかと…という程度に留めておきます。

いやそれにしても、浜省もサングラスというイメージが定着しすぎてしまって外すに外せなくなってしまったのですかね。このフライデー事件で決定的にサングラスを外さないことが決められたのかどうか。すでに今年の年末には古希を迎える浜省ですからね。確実に老眼であろうし、ステージでのサングラスは辛いですよね。

レコーディングは素のままで行っていると思われます。人前ではサングラスを外さないと伝えられますが、もともとテレビ出演が極端に少なく、メディアに登場するのは音楽雑誌のインタビューや写真撮影などだけ。そういった一般大衆が目にするところではサングラスを付けるのでしょうけど。

ホリプロに同時期に所属して曲提供を受けていた和田アキ子や山口百恵は果たして素顔を見ているのか。ま、どうでもいいですけど。

さて、浜省になくてはならないサングラスですが、初期から愛用していたのはRay-Banのアヴィエイターというタイプです。ティアドロップ型のもの。映画「トップガン」でのトム・クルーズなどパイロットが使用しているものですね。確かこの型、昔はシューターという射撃用だったような気もしますけど。お笑い界でいえばたむけんがかけてますね。

そして、アルバム『J.Boy』ではクラシックなセルフレームのウェイファーラーという型に変わりました。とはいえ、ツアーなどでは元のアヴィエイターを使うことが多かったようです。

 

2000年リリースの32枚目のシングル「…to be "Kissin'you"」のプロモビデオでした。オリコン16位です。

この頃からサングラスも現代風になり、縦が薄く横に長いタイプに変わってきています。レイバンでいうと特にモデル名は付いておりません。型番はありますが。

この時期レイバンはイタリアの企業と協力してデザインがヨーロッパ化されたものも多く発売されてます。また、浜省の着用モデルはレイバンではなくなったという情報もあるんですが。

結論としてサングラスがあろうがなかろうが、浜省は浜省。これ以上は詮索するのはやめにしましょう。

浜田省吾は2015年以来アルバムはリリースしてません(シングルはあり)。限定的なライヴは行っているようなので、今再びその姿を見てみたいものです。もちろん、サングラス姿で。

それでは、最後に17年前の石田ゆり子の映像を眺めつつお別れいたしましょう。浜省、センスいいよね。

 

そういえば、Ronettsのロニー・スペクターさんがお亡くなりになりましたが、浜田省吾も「Be My Baby」をカバーしているんだった。合掌。

 
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2022年1月 4日 (火)

イーグルスを支えた男たち

かすてら音楽夜話Vol.139

今日からは通常更新です。

 

ご存じEaglesのデビューシングル、「Take It Easy」です。

1972年デビューのイーグルス、このシングルはビルボード12位と新人バンドとしてはまずまずの出来ですかね。

映像にはLinda Ronstadt(リンダ・ロンシュタット)とJackson Browne(ジャクソン・ブラウン)が加わっております。

リンダがギターを弾いている映像というのもなかなか珍しいと思います。実はイーグルスはリンダのバックバンドとしてメンバーが集められたところから、発展的にできたバンドでもあります。映像では、オリジナルメンバーの他にDon Felder(ドン・フェルダー)が加わっていますので、1974年のアルバム『On The Border』以降のものと思われます。

Jacksonbrowne

さて、もうひとりギターとコーラスに参加しているジャクソン・ブラウンですが、この曲の作者のひとりです。リード・ヴォーカルのGrenn Frey(グレン・フライ)との共作ですね。

「Take It Easy」収録のデビューアルバム『Eagles』では「Nightingale」という曲を単独で提供し、2作目のコンセプトアルバム『Desperado』ではオープニングの「Doolin-Dalton」をDon Henley(ドン・ヘンリー)、グレン・フライ、J.D.Souther(J.D.サウザー)と共作してます。同じく3作目の『On The Border』でも「James Dean」を同じメンツで作りました。

イーグルスへの曲提供や共作はここまでですが、ジャクソン・ブラウンも「Take It Easy」はセルフカバーしています。

では、ジャクソン・ブラウン自身の活動です。彼はグレン・フライと同じく、1948年生まれで、ソロデビュー前にNicoという、Velvet Undergroundに参加していた女性シンガーに1967年に曲を提供しています。これはニコもジャクソン・ブラウンもドイツにルーツがあるということと関係しているのではないでしょうか。あくまでも推測ですが(ジャクソン・ブラウンはハイデルベルク生まれでその後家族でロスに移住)。

他にも彼の曲を取り上げたバンドやミュージシャンはいました。特にNitty Gritty Dart Bandにはわずかな参加期間でしたが、のちにニッティ・グリッティ・ダートバンドも彼の曲をカバーしています。

ソロデビューはイーグルスと同じく1972年で同じレーベルのアサイラムでした。

ジャクソン・ブラウンは爆発的なシングルヒットには恵まれませんでしたがアルバムは着々とヒットを積み重ねます。1976年の『The Pretender』が5位、1978年の『Running On Empty』が3位、そして1980年の『Hold Out』がついに1位となります。

 

同年のシングルカットで「Boulevard」(ビルボード19位)でした。

 

同じく『Hold Out』収録曲でタイトルナンバーの「Hold Out」です。こちらはシングルカットされていませんが、ワタクシがアルバムの中で最も好きな曲です。

Jdsouther

さて、もうひとり、イーグルスを支えてきたのがこの、J.D.サウザーです。ジャクソン・ブラウンのところでもイーグルスとの共作に名前が出ました。

彼はジャクソン・ブラウンよりもイーグルスのヒットシングルに絡んだ人で、「Best Of My Love」、「New Kid In Town」、「Heartache Tonight」と3曲もナンバーワンヒットを送り出しています。いずれも、ドン・ヘンリー、グレン・フライとの共作で、「Heartache Tonight」にはBob Seager(ボブ・シーガー)という人も加わってますが。

彼はデトロイト出身ですが、ロスに移住し、グレン・フライとルームシェアをしていました。グレン・フライもデトロイト出身です。その階下に住んでいたのがジャクソン・ブラウンであったとのことです。

さて、彼もアサイラムから1972年にソロデビューしているのですが、長らく日本では知られず、1979年のこの曲で有名になりました。

 

ビルボード7位という曲で、いまだに日本ではテレ東などで曲が使われますね。映画音楽にも使用されているので、曲自体はジャクソン・ブラウンよりも知られているでしょう。

ですが、この曲はアサイラムからコロンビアに移籍した直後のものというのが皮肉ですね。

つうことで、2022年の音楽話はここからスタートです。

 
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2021年12月25日 (土)

「せっちゃん」のおっさん力

かすてら音楽夜話Vol.138

2021年も押し詰まってきました。かすてら音楽夜話も年内ラストになるかあるいはラスイチかといったところです。

今回取り上げる「せっちゃん」とはこの人。

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斉藤和義です。

彼がなぜ「せっちゃん」と呼ばれているのか。それは山梨学院大学(中退)時代にさかのぼり、ことあるごとに「あー、セ〇〇スやりてぇ」と呟いていたからだといわれております。

せっちゃんは1966年生まれで、今年55歳。節目(でもないけど)の35歳、45歳の時それぞれ『35 Stones』、『45 Stones』というアルバムをリリースしてます。当然今年も『55 Stones』をリリースしました。これがなかなか入手困難で地元のタワレコ(Tower Record)でも置いてなくて、結局通販を利用したと。

27歳の1993年のことで、シングル「僕の見たビートルズはTVの中」でデビューしました。かなりの遅咲きなんですが、デビュー前は東京に出てきて、アマチュアの身でライヴハウスに出演していたともいわれてます。デビューのきっかけとなったのは三宅裕司のやっていた「天下御免ね」という番組内のオーディションで5週勝ち抜いたためともいわれています。

そのあたりの活動ではWikiなどには載っていないのですが宮城伸一郎(チューリップ)のボーヤ(付き人あるいはローディ)をやっていたという話をニフティ時代のFBEATという音楽フォーラムつながりのオフ会などで伺ったことがあります。あるいは宮城ではなく初期のアルバムに相当関わっている松尾一彦だったか。

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デビュー時、こんな長髪だったんですね。

そして、1994年に子供番組である「ポンキッキーズ」のオープニング曲に「歩いて帰ろう」が使用され徐々に名前が知られるようになってきました。

その頃の映像がこちら。

 

1994年の3枚目のシングル、「君の顔が好きだ」でした。「歩いて帰ろう」はこの次のシングルですね。今はなき、日清Power Stationのライヴ映像です。

後半、歌詞に「♪君の顔」以外、「尻」などが登場しますが、このあたりはアドリブで、せっちゃんのライヴのお約束みたいになっています。さらに過激な放送禁止用語を使うこともありました。さらに詳しく解説しますと、結婚後奥さんがいるにもかかわらず自宅で「XXXX」(自主規制)を行うことが趣味であると公言したり、ミュージックフェアでは「親父のエッチな本を隠す場所が自分と同じ」という発言もありまして、なかなかにエロな人間なんですね。

さて、ワタクシが斉藤和義を知るきっかけとなったのは1997年のことで、前述のFBEATの会議室で当時リリースされた『Because』というニューアルバムを紹介されたためです。すぐさま気に入りましたね。この時すでに31歳になっていたせっちゃんですが、いたく気に入りまして、すべてのアルバムを購入いたしました。

そればかりでなく、ライヴにも足を運び、これまた打ちのめされたわけです。

「君の顔が好きだ」の映像ではキーボードを演奏していますが、せっちゃんのメインとする演奏はギターです。そのギターも、アコースティックからエレキまで、ギターソロもできるし、もちろんリズムだけに徹することもでき、バックのメンバーをつけない弾き語りだけのライヴも行ったりしています。それだけ、ギターの演奏は上手です。

また、楽器演奏自体が好きということで、キーボードだけでなく、ドラムもベースも演奏でき、後にはせっちゃんひとりでほとんどのパートを収録するアルバムを作ることが当たり前になってきています。また、ユニット「カーリングシトーンズ」(奥田民生、浜崎貴司、トータス松本、Yo-King、寺岡呼人:年齢順)ではドラムスも担当しています。

さて、20代、30代の斉藤和義なんですが、アルバム、シングル収録曲やライヴパフォーマンスは抜群であったものの、それがなかなかセールスには結び付かず、特に30代後半あたりはファンであるワタクシから見ても、なんとなくマンネリ化してきたかなという感じがしてきました。

しかし、40代に入ってから、シングルもオリコン10位台をキープするようになり、アルバムはTop10入りが当たり前みたいになってきました。セールスが安定してきたんですね。きっかけはゼクシィで使われた「ウェディング・ソング」からタイアップが急増したこともあったでしょう。

しかし、NHK「Songs」での本人の語りから、「40歳になって世の中から中年ってことの太鼓判押されて、そうか’おっさん’だなと思ったとき、変に格好つけてもしょうがないし、自由になれたなという感じですよね」という発言がありました。

 

2010年の38枚目のシングル、「ずっと好きだった」でした。この曲でオリコン8位を獲得してます。こちら資生堂とのタイアップが付いていますが、めちゃくちゃ大掛かりなものではなく、曲自体が持つ力が大きいと思います。

映像はわかる人にはわかると思いますが、The Beatlesの「Get Back」のルーフトップコンサートをモチーフにしたものです。せっちゃんはポール役で、リリー・フランキーがジョン、濱田岳がリンゴを演じてます。

そして、50代。

 

2020年配信のデジタルシングル、「純風」です。テレビ朝日系列で放送されている「じゅん散歩」オープニング曲ですね。

映像からして「せっちゃん」らしさが溢れ出てます。

この力の抜けた感じで次の60代でも何かやってくれそうな期待を持たせてくれますね。

世の中、若い奴が年配者を見てオワコンだなんだといってますけど、それは次にアンタに返ってくるんだぜ。こんな感じでワタクシも力を抜いて世の中漂って行きたいものです。

ちなみに、1966年生まれ、丙午(ひのえうま)ということで、出生率が著しく低いんですよね。そんな中でも音楽業界では、宮本浩次とトータス松本など頑張っている人も多数おります。

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