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2021年2月17日 (水)

竹内まりや、ついに解禁

かすてら音楽夜話Vol.105

Takeuchimariya

遂に登場の竹内まりやです。

彼女の所属するスマイルカンパニーという事務所は夫である、山下達郎とともに非常に著作権にうるさいところでした。それはスマイルカンパニーの同族会社ともいえるジャニーズエンターテイメントにもいえることなんですが。

ミュージシャンの著作権や肖像権等について、それらが直接彼らの収入源となります。著作権・肖像権等を守るのは当然の姿勢であります。これまで、デビューの1978年から42年間の間、いわゆるサブスクリプションについてかたくなに拒まれてきたわけですが、昨年ようやくごく一部が解禁になりました。ということなので、今回の登場となったわけです。

では、その一部をさっそく取り上げましょう。

 

竹内まりやで「Plastic Love」(作詞作曲:竹内まりや 編曲:山下達郎)でした。

こちらの曲はアルバム『Variety』(1984年)収録の3曲目のシングルカットです。このアルバムは山下達郎との結婚、休業後の復帰作でアルバムはオリコン初登場1位となりましたが、シングルは3曲とも20位以下、この曲に至っては86位に沈むという有様でした。

それは、ちょうど山下家の長女の出産と重なり、プロモーションをほとんどやらなかったためでしょう。と、いうか、結婚後は他のシンガーへの曲提供は行っていたものの、自身の活動は皆無で、「記念に出してみた」というようなノリだったともいわれています。

しかし、松原みきの記事で取り上げたRainychさんをはじめとするシンガー系YouTuberも、「Plastic Love」を取り上げ、海外でもこの曲がバズるようになってきたのです。

竹内まりや自身は山下との結婚前にアメリカ録音でTOTOらと共演などをしていたのですが、この時期本気でアメリカ進出などする日本人はいなかったわけです。それは、松原みきの「真夜中のドア」にも通じることなんですが、40年くらい埋もれていた日本のニューミュージック~J POPという流れをYouTubeを介して、それが違法アップロードであろうとも世界に受け入れられたということなんじゃないでしょうか。

実際、松原みきや竹内まりやの映像には海外からものすごい数のコメントがついております。ふたりとも日本語で歌っていて(一部英語訳もあるみたいですが)ほぼ日本語を理解しない人たちには何が何だかわからないはずなのに。これは、我々が洋楽を聴くのと同じことなんでしょうかね。サウンドとヴォーカルの重なり具合が言葉を超えて気持ちいいという。

 

続いての曲は1992年のシングル「家に帰ろう(マイ・スウィート・ホーム)」(作詞作曲:竹内まりや 編曲:山下達郎)でした。

竹内まりやは1985年に長女を出産してからは家事と育児に追われていたものの、職業作家として曲提供を行うとともに、アルバム・シングルをぽつぽつとリリースし続けます。山下達郎曰く「シンガーソング専業主婦(または兼業主婦)」とのことです。

以上2曲を聴いてお判りと思いますが、全面的に山下達郎がバックアップしており、かなりのクオリティです。そこに目を付けたのがマスメディアでして、ほとんどのシングルにタイアップが付くのです。シングルとしては1998年の「カムフラージュ」と2020年の「いのちの歌(スペシャルヴァージョン)」の2曲がオリコン1位となっていますが、山下との結婚後にリリースした5枚のオリジナルアルバムはすべて1位。公式ベスト及びカバーアルバム4枚も1位ということで、山下以上に売れるどころか、J POPのクイーン、松任谷由実にも迫る勢いです。と、いうか対等といっていいでしょう。

子育ても一段落した2000年に竹内まりやは18年ぶりとなるライヴに登場しました。これはワタクシも見に行きましたが、素晴らしかったです。ライヴでもまったくオリジナル音源のクオリティを維持しているんです。これなら、いつでもライヴに復帰しても大丈夫だという気がしましたが、竹内まりや自身は相変わらず以前と同じペースで作品をたまにリリースする程度なんです。でも、いずれもヒット確実ですもんね。

これについては、夫の山下自身のリリースとかつての作品のリマスター、そして竹内まりやのプロデュースとかつての作品のリマスター等に関わるため、曲がある程度たまらないとアルバムもリリースできないことに起因しているでしょう。

Takeuchimariya1

今や、出す作品は確実に売れるし、クオリティもいうことなしなんですが、残念なのが結婚前の作品についてサブスクが許可されてないことでしょうか。

デビューの1978年からしばらくはテレビにも生出演し、歌謡番組で歌うということもありました。そればかりか、芸能人運動会にも出場したことがあったほどです。

別にそれを期待しているわけではないのですが、デビュー直後は竹内まりや自身が作った曲はアルバム中せいぜい3曲程度で、シングルには全く使われていません。まあ、それほど期待度の高い作家とは思われていなかったともいえます。

ですが、他人からの提供曲であってもいい味を出している作品はアルバム中にも多数あります。惜しむらくはシングルになっていないので、テレビでは流れていなかったりします。

独身時代のシングルで最も売れた曲は1980年の「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ 作曲:加藤和彦 編曲:加藤和彦・清水信之)の3位が最高です。この曲は資生堂の春のキャンペーンソングで、売れて当然。

サブスクになってないのでリンクだけでご紹介しましょう。

「September」(1980Live Version)

こちらは、1979年の3枚目のシングルです(作詞:松本隆 作曲:林哲司 編曲:林哲司)。デビューシングルとセカンドシングルはタイアップが付いたのですが、こちらは何もなし。オリコンチャートでは39位に沈んでます。

この曲が収録されたサードアルバム『Love Songs』はその頃ようやくアルバイトで金を貯め、やや本格的なコンポーネントステレオを購入できたので、邦楽のアルバムとして初めて購入したという思い出があるんです。

学校の新入生顔合わせでも、この曲を歌った女子がいたし。

林哲司氏が本格的に売れる前に書いた曲です。それは「真夜中のドア」にもいえることですが。杏里や菊池桃子、オメガトライブなどで売れっ子になる前の作品。それは自身の才能を出し切った渾身の2曲なのではと思います。

竹内まりやも今では貫禄ついちゃってますが、このころはピチピチ。それにしても細いですよね。歌謡番組(化粧がひどくてえらく老けて見える)ではなく、どこかのライヴを流したものなので、等身大の25歳ということですね。

まあ、プロモーションビデオもない時代なので無理かもしれませんが、RCA時代のサブスクも音源だけでいいので流してほしいですね。

★引き続きリクエスト、ご意見、ご要望受け付けております。いいねとコメントもお待ちしております。

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2021年1月30日 (土)

ギブ四兄弟

かすてら音楽夜話Vol.104

 

いきなりYouTubeの映像を登場させましたが、Bee Gees(ビージーズ)の1977年末のビルボード1位獲得曲、「How Deep Is Your Love」(邦題「愛はきらめきの中に」)でした。映画「Saturday Night Fever」の劇中歌です。

この年は映画「サタデーナイトフィーバー」が大ヒットし、ディスコや洋楽に興味がなくとも、テレビとラジオで繰り返し曲が流れたものです。ビージーズはそのサウンドトラックを担当し、自ら演奏するばかりでなく、他のシンガーやグループにも曲を提供しいずれも大ヒットしてしまう現象が起こりました。

ジョン・トラボルタもここからビッグスターになっていったし、「フィーバーしてる?」なんつー意味不明のあいさつもあったほどです。パチンコのフィーバーもここから来てるんだろうね。わたしゃ、やりませんが。

Beegees

それだけ、この「How Deep Is Your Love」はインパクトがあったわけで、ディスコってなんだよというワタクシでさえ、「いい曲だ」となったものです。

あまりにもビージーズの影響が大きかったもので、FM放送などではビージーズの特集を組むほどでした。たしか、エアチェックしてカセットに録音したと思います。てなことで、それ以前のリアルタイムな記憶はないのですが、ビートルズ並みにビージーズの過去や来歴が頭に入ってきております。

ビージーズですが、ギブ三兄弟からなるバンドです。画像の中心が長兄のBarry Gibb(バリー・ギブ)。左が次男のRobin Gibb(ロビン・ギブ)。右が三男のMaurice Gibb(モーリス・ギブ)。ロビンとモーリスは二卵性双生児です。

彼らはイギリス出身ですが、一家でオーストラリアに移住し、オーストラリアで音楽活動を始めました。オーストラリアでは彼らはトップグループになっていたそうですが、世界的には無名です。やがてビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインにスカウトされる形でイギリスに帰国し契約を結びます。

デビュー時のビージーズは完全なファミリーバンドではなく、5人編成でした(のちに三兄弟だけとなります)。本格的なデビューは1967年の「New York Mining Disaster 1941」(邦題「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)でした。それ以降、トップ10ヒットが数曲、後のシングルはトップ100に入るのがやっとくらいのグループでした。

映画「Melody」(邦題「小さな恋のメロディ」)のサウンドトラックを担当したこともありましたが、英米で映画がコケ(日本ではマーク・レスター人気もありそこそこヒット)、デビュー5年目の1971年、ようやくナンバーワンヒットが生まれます。

 

ビージーズで「How Can You Mend A Broken Heart」(邦題「傷心の日々」)でした。ビージーズは9曲のナンバーワンヒットを持っていますが、これが初めての1位曲でした。

もう完全にソフトロック、メロウな路線ですね。この曲、冒頭では次男のロビンがリードヴォーカルなんですが1コーラス目の途中から長男のバリーがリードになりそのまま終わるというよくわからない展開です。ま、兄弟なので声質が似てますから聴いている分にはあまり関係ないのかな。

ビージーズもデビュー当初はロビンがリードヴォーカルであることが多かったのですが、どうやらこのあたりから立場が逆転していったのかもしれません。三男モーリスはどちらかというと、楽器演奏(ギターもキーボードもこなすマルチプレイヤー兼アレンジャー)とコーラスに回る役割でした。これは終始変わりません。

ちなみに楽曲はバリーを中心とし、三人で作ったものが多いです。

さて、ようやく1位を獲得したビージーズですが、またもやメガヒットからは遠ざかることになります。そこで、彼らが取った手段は路線の変更でした。

1975年アルバム『Main Course』がリリースされ、「Jive Talkin'」が4年ぶりとなるビルボード1位となりました。これがリズム主体のディスコミュージックで、これまでの曲調とは一変するのです。ただ、この曲はまだまだソフト調のディスコサウンドだったのです(現実的には「Jive Talkin'」がディスコで取り入れられたといったほうが適切でしょうか)。しかし、ビージーズはこのアルバムとシングルのヒットでこれまでにない手ごたえを感じていたのでしょう。

翌1976年、アルバム『Children Of The World』からの「You Should Be Dancing」が、ファルセットボイスを使用したいわばハードなディスコサウンドとしてリリースされ、これまたビルボード1位(3曲目)を獲得します。バックのサウンドやリズムもディスコに特化したようなアレンジです。果たして、この段階で映画「サタデーナイトフィーバー」の構想があったのかどうか。その点は不明ですが、「You Should Be Dancing」は映画にも使われ、ジョン・トラボルタの印象的なシーンのバックで流れることになったのです。

 

映像は映画のシーンです。当時の中高生はディスコとは何ぞやでしたから、トラボルタのダンスソロを呆気に取られて見ていたはずですね。ま、実際ワタクシはこの映画を見ていないのですが、このシーンだけは映画のプロモーションで何回もテレビで流れていました。

ま、振り返ってみると、今時こんなダンスをするヤツはいないですけど。かなり滑稽ですし。ファッションもダッセーとか思うでしょう。シャツの第2ボタンは外しているものの、シャツの裾がパンツにしっかり入れられているし、パンツのウエスト部分がかなり高いです。しかもかかとの高い「シークレットブーツ」を履いてますね。ちなみに彼の身長は188cmだそうですが。

 

ともあれ、映画「サタデーナイトフィーバー」はビージーズ所属のRSOレコードによって製作されました。この映画の中でビージーズは冒頭の「愛はきらめきの中に」に続き、「Stayin' Alive」、「Night Fever」(邦題「恋のナイトフィーバー」)と3曲続けてのビルボード1位を獲得しています。そればかりでなく、サウンドトラックのアルバムは24週連続1位。ビージーズの「Jive Talkin'」と「You Shoul Be Dancing」も使用され、イヴォンヌ・エリマンに提供した「If I Can't Have You」も1位を獲得したほどです。

何はともあれ大成功のビージーズは1979年にアルバム『Spirits Having Flown』(邦題『失われた愛の世界』)をリリースし、シングルカットされた3曲、「Too Much Heaven」(邦題「失われた愛の世界」)、「Tragedy」(邦題「哀愁のトラジディ」)、「Love You Inside Out」を連続1位に導きます。ちなみに、『Spirits Having Flown』はビージーズのキャリア唯一のアルバムチャート1位となりました。あれだけヒットを連発していたというのに。

あからさまなディスコ路線ではなかったものの、バリーを中心とするファルセット路線は継続されました。しかし、ここまでくるとリスナーも「お腹一杯」だったのではないでしょうか。これ以降の目立ったヒットは1989年の「One」(7位)が最高という凋落ぶりになってしまいます。

Andygib

さて、タイトルが「ギブ四兄弟」なんですが、末弟のAndy Gibb(アンディ・ギブ)がビージーズの隠し玉でした。

1977年にアメリカデビュー。それ以前はオーストラリアでドメスティックな活動をしていました。これは、本格的なワールドデビューの準備だったと考えられます。当然ながら所属はビージーズと同じくRSOレコードです。

 

実質的なアメリカデビュー曲の「I Just Wanna Be Your Everything」(邦題「恋のときめき」)でした。

作者はもちろん、ビージーズ(バリー)です。この曲もビルボードの1位を獲得します。

ビージーズは髭面の男がファルセットボイスでディスコ調の曲をやっていたのに対して、アンディのこのルックスと若さです。たちまちファンがつくのも当然といえば当然。

次作の「(Love Is)Thicker Than Water」(邦題「愛の面影)も1位。その次の「Shadow Dancing」も1位です。アンディもまたビージーズの隙間を埋めるようにしてメガヒットを連発していたのですが。

実はこのアンディ、この時期にすでにコカイン中毒だったのです。彼もその後ヒットが出ず、1988年、わずか30歳にしてお亡くなりになりました。長兄のバリー・ギブはアンディをビージーズの4人目のメンバーにしようとしていたようなんですが。

ビージーズの悲劇はこれにとどまらず、三男モーリスが2003年に腸閉塞で急逝。次男ロビンも同じ病気で2012年に亡くなりました。

こうして残されたのは長男、バリーだけになり、ビージーズとしての活動はほぼ不可能になっています。

兄弟だけで12曲の1位。それにとどまらず、フランキー・ヴァリ、バーブラ・ストライザンド、ケニー・ロジャース&ドリー・パートンに提供した曲が1位に輝くなど、バリーのソングライターとしての才能はその後も続いていきました。

ディスコ期のビージーズ、癖強いですが、どこか残るんですよねえ。

<2021/02/05訂正および追記>
ちなみに、「愛はきらめきの中に」のビルボード1位を追い落としたのはPlayerの「Baby Come Back」なんですが、なんと彼らもRSOレコード所属でありました。
その後もRSOレコード所属のシンガー・グループで1位を獲得し続けたというのは、後にも先にも例がございません。

★引き続き、ご意見・リクエスト受付中です。心の琴線に触れたなら、いいねとコメントもお願いします。この記事書くのに、数日かかったです。

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2021年1月 9日 (土)

一発屋ぶるーす・洋楽編

かすてら音楽夜話Vol.103

国内編に続きまして、洋楽での一発屋です。今回紹介するのはビルボードシングルチャートで1位を獲得しながら、その後ヒットに恵まれなかった4組です。

年代順に紹介します。

Debby Boone

Debbyboone

Debby Boone(デビー・ブーン)はアメリカのポピュラーシンガー、Pat Boone(パット・ブーン)の娘です。パット・ブーンも「砂に書いたラブレター」という曲でビルボード1位を獲得してます。

デビー・ブーンの実質的なデビュー曲となる「You Light Up My Life」(邦題「恋するデビー」)ですが、1977年の映画「My Song」(これは邦題で原題は曲と同じ)の劇中歌です。ですが、デビー・ブーン自身はこの映画には出演してなく、劇中の同曲も別の人物が歌ってます。

 

オリジナルの曲はこの曲の作者でもあり「My Song」の監督でもあったジョセフ・ブルックスによるものです。しかし、男女関係のもつれから、この曲を歌った吹き替え歌手(彼女も映画に出演していました)のリリースを妨害し、ヴォーカル部分をデビー・ブーンが録りなおし、同年8月にリリースされました(劇中の曲はオリジナルのまま)。

しかし、この曲は10月にビルボード1位を獲得すると、その後10週にわたって1位になるという、未曽有の大ヒットとなるのでした。

それにしても、「恋するデビー」の邦題はあり得ないな。センス悪いし。ちなみに、映画は「スターウォーズ」や「未知との遭遇」など、映画の当たり年だったためか、「You Light Up My Life」がアカデミー歌曲賞を取っただけです。それも、歌ったのはデビー・ブーンじゃないし。

その後のデビー・ブーンですが、まったくヒットが出ません。これ、究極の一発屋なのかもしれませんが。代役だったから、何ともラッキーすぎました。

それにしても、アメリカ人ってこういう暗い曲でも好きみたいですね。なんでも、失恋したりひどく落ち込むことがあったときは、部屋を暗くしてろうそくの明かりの元、暗い曲を聴くんだそうで。

Player

Player

1978年1月に3週連続ビルボード1位を獲得した「Baby Come Back」がデビュー曲のPlayer(プレイヤー)。その前週の1位はBee Gees(ビージーズ)の「How Deep Is Your Love」(邦題「愛はきらめきの中に」)で、こちらも映画「Saturday Night Fever」の劇中歌というわけで、1977年から1978年にかけては映画のメガヒットも量産された年でした。

その合間を縫うようにして、新人グループがデビュー曲で輝きを放ったのです。

 

この時代、ビルボード1位を取るバンドやシンガーでも日本のメディアに登場することはほぼありませんでした。

ワタクシの情報源はもっぱらラジオで、FENとラジオ関東(現ラジオ日本)でやっていた「American Top 40」がすべてです。ということで、なかなかビジュアルがわからなかったです。ま、深く洋楽に傾倒していたり、ギターを弾いていた人は「Music Life」や「ギターマガジン」などの雑誌を購入してつかんでいたとは思うんですけどね。

「明星」や「平凡」などでも、付録の歌本があって、ここにモノクロの写真が出ることもあったかもしれません。

トップの画像では4人だけですが、実際はYouTubeの映像の通りの5人組です。この時代、めちゃくちゃ金をかけてプロデュースしまくったビージーズとその周辺に勝つにはやっぱり曲がいいことに尽きますかね。「Baby Come Back」も新人離れしたコーラスワークと、どこか切なくなるようなメロディ、テクニックも感じさせる演奏と粒ぞろいです。

YouTubeの映像はライヴ風ではありますが、実際の音源をこれに被せてますね。

「Baby Come Back」はその後、ビージーズの「Stayin' Alive」に1位を明け渡し、返り討ちに会います。そのあと、トップ10ヒットを1曲。次第にジリ貧となり、フェイドアウトします。メンバーチェンジし、再結成を2回。デビュー1発目で才能を開花しすぎたのでしょうか。それでも現在まで細々とではありますが、活動はしているようです。

Exile

Exile

同じく1978年にブレイクしたのが、Exile(エグザイル)です。なんか日本でもそっくりそのまま名前をいただいたグループがいますけど。ネーミングライツはあるのかという問題ですけど、これは本家エグザイルが何もいわないからですよね。

山本恭司というギタリストがいまして、この方昔、「BOWWOW」(バウワウ)というバンドをやってましたが、イギリスのバンド「Bow Wow Wow」からクレームが来まして、「VOWWOW」に変えたという記憶があります。もっとも、早くから名乗っていたのは日本のバウワウなんですけどね。

ジャニーズ事務所のSixTONES(ストーンズ)というのも、The Rolling Stonesと紛らわしいです。ファンとしては名前を変えろといいたい。

さて、本家エグザイルですが、結成は古く1963年のことです。彼らは長らく他のバンドのツアーに同行し、ライヴ会場でオープニングアクトなどの「前座」を務めていました。

日本での公演はジョイント等を除き、ほぼ単独公演ですよね。7時ごろ開演で9時くらいには終了です。

アメリカは違いますよ。まだ陽が高い時間から前座が延々と出てきます。2~3曲演奏して次と交代するんですが、聴衆は黙って聴いているわけではありません。「俺たちが待ってるのはこんなくそバンドじゃねえ!」とばかりにブーイングの嵐です。それだけではなく、「早く引っ込め!」と、コーラやビールの瓶など様々なものを投げ込んできます。

前座も頑張るのですが、せいぜい2曲で、「覚えてやがれ!Fuck You !」と引き下がるわけです。これの繰り返しだとか。ま、ラスト前の前座当たりでは割と聴ける連中が登場し、会場も盛り上がるわけで、大御所登場が9時あたりで、すべてが終わるのは日付も変わる頃だとか。

 

こちら、苦節15年、初めてのヒット曲「Kiss You All Over」が1978年9月に4週連続の1位を獲得したのです。

エグザイルはその前の1976年にイギリスからやってきたオーストラリア人の音楽プロデューサー、Mike Chapman(マイク・チャップマン)に見いだされます。チャップマンは既成の商業音楽ではないものを求めてやってきたのですが、エグザイルにそれを見つけました。彼らはタッグを組み、チャップマンのこの曲をリリースすると見事に大当たりしたというわけです。

YouTubeの映像はおそらくテレビのライヴですね。このあたりの落ち着きぶりはさすがにベテランというか、ライヴの前座で鍛えられてきただけはありますね。

彼らはその後トップ40に1曲送り込んだだけで、方向転換し、カントリーミュージックをやることにしました。活動は現在も継続中で、メジャーシーンとは疎遠になりましたが、ビルボードのカントリーチャートでは何曲も1位を獲得しています。

The Knack

The_knack

1979年に鳴り物入りで登場したのが、The Knackです。彼らも、マイク・チャップマンがプロデュースしています。

今となっては全然違うのとわかるのですが、当時はビートルズの再来ともいわれ、デビューアルバム『Get The Knack』はビルボードアルバムチャート6週連続1位でした。

 

こちら、彼らのデビュー曲にしてビルボード5週連続1位獲得曲の「My Sharona」でした。

なんと、この曲1979年度のビルボード年間シングル1位にも輝いています。

YouTubeの映像ですが、これまた演奏に実際の音源を被せたものです。当時MTVも出てきた頃だったので、もちろんプロモーション用ですね。このあたりになってくると、ワタクシにも実際の動くThe Knackを見ることができました。

イントロのドラムソロとベースがかっこいいですよね。それに、曲間の「♪Ma Ma Ma My Sharona」のリフレイン。「Ma Ma Ma」などという単語でもないフレーズを曲に取り入れるというのはおそらくThe Knackが初めてのことではないでしょうか。これは斬新だったですね。

曲の展開も工夫がされていますね。曲自体はヴォーカルとギタリストによるものですが、マイク・チャップマンの指示もかなり入っていると思います。でも、これがよかったんじゃないですかね。

セカンドシングルはチャート10位まで行ったものの、その後のヒットには恵まれず、ドラムスとヴォーカルの死去により活動はできなくなりました。

いやホントに、デビューで才能と運を使い果たしちゃったんじゃないすかね。

デビュー曲だったりメジャー1曲目が大ヒットするってのは、その後が厳しいんですかね。ユーミンや松田聖子もオリコン1位ではないですし。NijiUの皆さんも、シングルがリリースされてないのに、あんな騒ぎになっちゃって…。どこまでいけますかね。

★引き続き、リクエストご意見等受け付けております。気に入りましたら「いいね」をクリック。コメントもお待ちしております。つけてくれたらすごく嬉しいです。

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2020年12月31日 (木)

一発屋ぶるーす・国内編

かすてら音楽夜話Vol.102

おそらく、2020年最後の更新かと思います。ラストを飾るのは音楽で締めたいなと。

Shimonmasato

「一発屋」という言葉があります。音楽界で申しますと、たった1枚のシングル曲が大ヒットするのですが、その後は何を出してもヒットしないというシンガーやグループですね。

典型的な例で申しますと、この人、子門真人ですかね。1975年に子供番組の中で使われた「およげ!たいやきくん」(作詞:高田ひろお 作編曲:佐瀬寿一)は、オリコン史上初となる初登場1位を記録し、売り上げ450万枚(500万枚という説もあります)とのことで、いまだにこの記録は破られておりません。

その子供番組はフジテレビでしたので、リリースされたのはキャニオンレコード(のちのポニーキャニオン)でした。この売り上げにより、キャニオンの本社は新しく建て替えられ、「たいやきビル」とも呼ばれたそうです。

シンガーやグループが収入を得るためには、メディアへのの出演、公演のギャランティなどなど、そして印税というものがあります。シングル1枚につき、わずか数円ということらしいですが、たとえ、本人が生で歌ったり演奏したりしなくとも、放送で使われると歌唱印税も発生するのですね。これは、カラオケにも適用され、それを厳格に適用できるようになったのが現在の通信システムを使ったカラオケなのです。

しかし、これには歌手やグループの印税放棄、すなわち買い取りというやり方もありまして、1曲いくらで事務所などと契約するのですね。この曲がこんな大ヒットするとは思わなかった子門真人は買い取りを選んだのだそうです。これ、印税契約をしていたらとんでもない収入が得られたはずなんですが。

買い取りの場合、比較的安定した事務所に所属していて、毎月給料をもらっているのだと思います。それでも印税だと結構入ってくるみたいですよ。あの、宮本浩次も初めて購入したクルマがポルシェですからね。

ちなみに、「およげ!たいやきくん」のカップリング(当時はB面)は、なぎら健壱が歌う「いっぽんでもニンジン」でした。印税というものは、それがB面であってもそのシングルが売れれば支払われるものなんですが、なぎらさんも買い取りにしていたそうです。

ちなみに、子門真人はこの曲以外にも「仮面ライダー」「ガッチャマン」など、特撮物・アニメの主題歌や挿入歌を歌っていましたので、「およげ!たいやきくん」の印税が入ってこなくとも、生活には困らなかったようです。つーか、けっこう歌一本で勝負できた人ともいえます。

さて、前振りが長くなりました。ここからが本題です。

狩人

Karyudo

1977年にデビューした狩人。兄弟デュオです。立ち位置左(向かって右)が弟。た立ち位置右が兄です。

 

デビュー曲の「あずさ2号」(作詞:竜真知子 作編曲:都倉俊一)でした。オリコンチャート4位という記録を残しています。この曲、厳密にいうと演歌の範疇でしょうが、曲はすごく流行りましたね。イントロのマンドリンがとても印象的で、当時はフルオーケストラの演奏が当たり前なところ、いきなり哀愁を帯びたメロディから始まるというのは、さすがは都倉俊一です。

このあたりは復活後の山本リンダのパーカッションを強調した「どうにもとまらない」、ポップス調の名曲「五番街のマリーへ」(ペドロ&カプリシャス)など、対応力の広さが「あずさ2号」にも生かされてますね。また、ピンクレディの一連の曲も手掛けていまして、筒美京平には売上等で及ばないものの、ワタクシとしては好感の持てる職業作曲家ですね。

古い話ですが、学生時代のコンパ等ではカラオケもないのに、ど素人の男二人が「あずさ2号」をほぼ歌うという悪夢のようなシーンが必ず展開されたほどです。

そして、具体的な列車名です。「あずさ」は当時の中央本線特急。2号というのは下り列車の偶数番号です。つまりは、新宿発白馬行き。現在もそちら方面には新幹線はないのですが、「あずさ」はなくなりました。

これ、同じ長野方面でも当時の上越本線・信越本線で長野市方面に向かうと「あさま2号」になるんですが、途中にオサレな軽井沢はあるものの、善光寺の長野とか、上田温泉あたりになると、哀愁とは逆にじいさんばあさんの旅行みたいになっちゃいますね。

「あずさ2号」の行先となると、松本、上高地、安曇野あたりが入ってきます。これ、海外旅行が一般的ではなかった当時としては、女子大生や20代独身OLが目指していたあたりともろ被りで、これもヒットの要因ではないかと。そのあたりは、作詞の竜真知子がしっかりと女性心理を受け止めて作ってますね。こちら、間違いなく詞先でしょう。

この後の狩人は二番煎じの「コスモス街道」がオリコン5位。その後失速します。それでも現在まで活動しているのですから、この1曲の影響は計り知れません。ちなみに、その後マネジメント会社の名称を有限会社あずさ2号(現在は離脱)とするほどでした。

円広志

Madokahiroshi

現在はタレント活動が主体の円広志。この人は1978年のポプコンと世界歌謡祭でグランプリを取った「夢想花」(作詞作曲:円広志 編曲:船山基紀)でデビューしました。オリコン4位のヒットを飛ばしましたが、その後はまるでヒットに恵まれませんでした。

 

高音の伸びが素晴らしいですね。また、「♪とんで、とんで、とんで…」と、「とんで」の9回のリフレインと「♪まわって、まわって、まわって、まわる」の連続リフレインというサビは独創的で誰もやってない手法です。

ちなみに、円広志は大学在学中から卒業後もしばらくはロックバンドのヴォーカリストでプロデビューはしていなかったものの、ライヴハウスで活動していましたし、万博記念公園でも演奏したことがあるそうです。ちなみに、当時のローディ(楽器運搬やチューニング等を担当する人。大昔の芸能界ではボーヤ。)に世良公則がいたようです。

しかし、バンドは解散し、円広志は妻帯者ながらバイト生活へ。当時のバイト先にはコンサート会場の警備などをやっていたといいます。その会場では世良公則&ツイストの公演もあったそうで、完全に立場が逆転しました。

ちなみに、そのバイト先でヤマハの関係者に再会してポプコンへの道が開けたそうです。

ちなみに、ポプコンも世界歌謡祭もフジサンケイグループが関係していて、そのまま青田買いですから、所属はポニーキャニオンとなります。中島みゆき(「時代」)もツイスト(「あんたのバラード」)もポニーキャニオンですね。

その後、ヒットに恵まれなかった円広志ですが、ポニーキャニオンから演歌を作るよう要請がありました。それが森昌子の「越冬つばめ」(作詞:石原信一 作曲:篠原義彦=円広志の本名 編曲:竜崎孝路)でした。

円広志は遅れてきた元ロックスターともいえましょう。時代が追い付いていなかったんでしょうね。ポップスの「夢想花」が売れましたが、この時点で次がないことはわかっていたようです。それでも、現在もこの業界で生き残っているのですから、一発ヒットの影響はすごいですね。

堀江淳

Horiejun

1981年、「メモリーグラス」(作詞作曲:堀江淳 編曲:船山基紀)でデビューした堀江淳です。

北海道出身で札幌のライヴハウスで活動していました。1979年にソニーのオーディションに合格し2年後にデビューします。

ハイトーンな声、か細い中性的な印象の容姿などから話題を集め、オリコン3位、70万枚のセールスを記録します。オリジナルのシングルでは船山基紀のアレンジがムード歌謡あるいは演歌風であり、曲の第一声が「♪水割りを下さい」ですから、そういう風にとらえてしまう人も多かったのではないでしょうか。

一説によると、「おネエ疑惑」もあったようですが。この当時、そっち方面の人はほとんどマスコミ等に出ることはなく、たまに美輪明宏(当時は丸山明宏)やピーターが出てくるくらいで、「おすぎとピーコ」が市民権を得るのももっと後だし、フレディ・マーキュリーがあっちの人だとは誰も気づいていなかったくらいです(あくまでも日本ではです)。ま、堀江氏は結婚し娘もいるようなので、あっちの人ではないのですが、こうした中性的な容貌でも、若い女性はしっかりとファンになったのですね。

「メモリーグラス」は堀江淳のオリジナルで、シングルとは異なりテレビ番組などではギターをつま弾きながら歌っていたようです。

狩人がしっかり計算して女性心理を歌っていたものの、シンガーソングライターが女性目線で曲を歌うというのは、当時のマッチョな男性社会からすると、「ナヨナヨしてんじゃねぇよ」みたいに思われていたはずです。ということで、圧倒的にファンは若い女性でしょうね。炎上覚悟でいうならば一部ゲイの人とかですかね。

で、堀江淳氏ですが、その後のシングルはすべて不発。それでも現在はメジャーのレコード会社には所属しておらず、インディーズのようですが現在も活動中です。

何かのインタビューを読んだことがありますが、「メモリーグラス」の印税がやっぱりすごいんだそうで。現在も細々と印税収入があるのだとか。こちらはカラオケでしょうね。

 

こちら、「メモリーグラス」の替え歌ですが、現在の堀江氏が歌っております。クオリティ高いので採用しちゃいました。

まだまだ、一発屋いらっしゃるんですけどね。特にポプコン・世界歌謡祭でグランプリを取った曲は前評判が高いものの、不発に終わるケースも結構あるんです。ま、そのデビューシングルさえ、誰も知らないなんてことになりますけど。

レコード大賞を取っている人でも、尾崎紀世彦(「また逢う日まで」)やジュディ・オング(「魅せられて」)は厳密にいえば一発屋ですよねぇ。

年が明けたら、洋楽の一発屋行きます。

★2021年もかすてら音楽夜話は続きますよ。月に2本は書きたいです。でも、これ、めちゃくちゃ時間がかかります。心の琴線に触れましたら、イイねとコメントくださいまし。リクエストも待っております。

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2020年12月20日 (日)

二世タレントの走り、加山雄三

かすてら音楽夜話Vol.101

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<加山雄三>

本日取り上げるのは予告通り加山雄三です。

1937年生まれ。俳優、上原謙の息子として生まれ、茅ケ崎で育ちます。私事ですが、茅ケ崎出身の友人がおり、茅ケ崎には「加山雄三通り」があると、自慢しておりました。また、茅ケ崎出身者としてはサザンの桑田佳祐もいますが、こちらもさりげなく自慢してました。でも、奴の傾倒度は加山雄三でしたね。

高校・大学と慶應義塾で過ごし、卒業後の1960年に東宝に入社し、俳優として活動を始めます。その年に映画デビューし、翌1961年に早くも若大将シリーズの第1作「大学の若大将」に出演します。ちなみに、若大将シリーズはその後10年にわたって製作され、東宝のドル箱映画の一つでした。なお、俳優としては青大将役の田中邦衛とともに1962年の黒澤映画「椿三十郎」にも出演しています。

すでに「大学の若大将」の劇中歌として加山雄三が歌ってシングルカットもされていますが、この時点では職業作家による提供曲です。

まさに、若大将としての経歴を記しましたが、加山雄三はいい意味で上原謙の息子という立場を思う存分享受し、そこから学んだことを歌手・俳優として生かしてきました。いまでいう、二世俳優の先駆けみたいな存在ですが、一応芸名は上原謙とは無関係になってます。

二世で学んできたことなんてあるかというと、あるんです。それはですね、遊びや趣味に学生では使えないような資金が十分にあったために、当時の庶民ではやりたくてもできなかったことをたくさん、やってきたのです。金持ちの道楽ともいいますが。

すなわち、慶応の時には国体にも出場するほどのスキーの腕前がありました。その後、映画「アルプスの若大将」でも自身が滑り(「澄ちゃん」役の星由里子は助演の江原氏がスタント役)、のちに自身の名前を冠したスキー場まで所有(現在は閉鎖)するほどでした。

また、船舶免許を所有し、光進丸を設計・建造するなど、これもまた「海の若大将」で使われました。スキューバ、サーフィン等のマリンスポーツなども同様です。

そして、彼のキャリア上最も重要なのが、楽器演奏と曲作りですね。まだ、ビートルズが来日していなかった時にはすでにエレキギターを手にし、曲作りも始めます。加山雄三の作詞作曲家名は「弾厚作」です。団伊玖磨と山田耕筰からいただいたものとのことです。金持ちの道楽ながら、取り組んだほとんどのものを確実に身に着けていますので、能天気に見えて努力もしているし、器用なんだと思いますね。→こういう人間が傍目の男性庶民から見たら、「コンチクショウ」とか思いますね。いっぽう、当時のハイティーンから20代前半くらいの女子はあこがれの対象ですね。

さて、その加山雄三の最大のヒットがこちらです。

 

加山雄三「君といつまでも」(作詞:岩谷時子 作曲:弾厚作 編曲:森岡賢一郎)でした。この曲は、1965年の映画「エレキの若大将」の劇中歌でもあり、劇中では星由里子と日光レークサイドホテルでデュエットしております。ただし、アウトロのラスト「♪二人の思いは変わらないいつまでも」(太字部分)がシングルとは違っております。森岡賢一郎のアレンジで曲が生きたともいえましょう。

そして、この曲は300万枚を売り上げたともいわれてます。ですが、レコード大賞は売り上げでははるかに及ばない、橋幸夫の「霧氷」に持っていかれました。加山雄三はこの時点でシンガーソングライターの走りでもあり、何でもできちゃう加山に審査員も「この野郎」とか思ったのかもしれませんが。

また、曲としては今きくととってもクサい台詞入りなんですが、そのような曲も日本では初めてだった可能性があります。

ワタクシとしては「君といつまでも」より評価の高い曲がこちらです。

 

加山雄三「夜空の星」(作詞:岩谷時子 作編曲:弾厚作)でした。(加山雄三とハイパーランチャーズLive)

こちらも、映画「エレキの若大将」の挿入歌で、「君といつまでも」のB面です。オリジナルの演奏は寺内タケシとブルージーンズが担当してます。実質的なアレンジャーは寺内タケシでしょうね。

映画では「勝ち抜きエレキ合戦」で勝ち抜いた「石山新次郎とヤングビーツ」(オーナー青大将=石山新次郎、役は田中邦衛)が10週目でジェリー藤尾の「シャークス」と対戦するときの曲です。なお、この時の司会者役は内田裕也でした。

映画ではほとんどをインストゥルメンタルとして演奏され、後半で加山雄三(若大将=田沼雄一)が歌う設定です。

 

映像はブルージーンズのカバー演奏に近い「夜空の星~青い星屑」メドレーです。

一応、寺内タケシとブルージーンズでも、「夜空の星」をリリースしてます。映画では加山の演奏シーンは吹き替えのような気がします。映画でのエレキ演奏は全面的にブルージーンズが担当していたのではないでしょうか。

実際、寺内タケシも「エレキの若大将」に出演していて、出前持ちからスカウトされてプロバンドに加わり、加山を加えて日光で演奏旅行をすることになってます。そのバンドはもちろん、ブルージーンズですね。

こちらのほうがスピード感もあり、ギターの超絶テクニックも存分にちりばめられてます。ま、こういってしまうと、作詞の岩谷時子はなんなのさということになってしまいますが。

実際、「君といつまでも」や「夜空の星」は古臭い表現もありまして、「̪褥」(しとね)なんて言葉も出てきます。

加山雄三が岩谷時子と関係なく、作詞も自身で行った佳曲があります。のちの「サライ」などとは真逆ののびのびとしたストレートな表現。まるで、力がこもってなく一般人がイメージする加山雄三とはかけ離れた曲がこちら。

 

「Boomerang Baby」でした。この英語詞も弾厚作によるものです。

これは、シングルになってないと思います。

この曲を知ることになったのは、山下達郎のアルバム『Cozy』(1998年)でカバーしていたからです。その前年の1997年、加山雄三60歳の記念として、トリビュートアルバム『60 Candles』が製作されました。ここには参加していなかった山下達郎は、ここで加山の還暦を祝ったのでした。

山下達郎はこれまで他人の曲をカバーするということを一切してこなかった人です。山下の加山への思いがわかると思います。

これまた消されると困るので、山下達郎の「Boomerang Baby」は映像を埋め込まず、リンクを貼っておきます。

加山雄三、上原謙のおかげで好き放題やってこられたと思いますが、もはや彼を「二世だから」という人もいないでしょう。実際上原謙をよく知らないので、不確実だとは思いますが、「上原謙はきっかけであって、加山雄三は親を超えている」といい切りましょうか。

果たして現在83歳の加山雄三は再び我々の前に現れるのでしょうかね。

★コメントご意見、お気軽にどうぞ。こんなことを取り上げてほしい、この曲をまた聴きたいなど、リクエストも随時受け付けています。

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2020年12月12日 (土)

41年目の大ブレーク、埋もれた天才シンガー松原みき

かすてら音楽夜話Vol.100

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<松原みき>

久しぶりの音楽話でございます。

100回を記念して取り上げるのはこの方です。松原みき。

ざっと音楽的な経歴を記しておきます。

1979年、シングル「真夜中のドア/Stay With Me」(作詞:三浦三浦徳子 作編曲:林哲司)でデビュー。この時わずか19歳。オリジナルアルバム10枚、シングル15枚をリリースし、シンガーから職業作曲家に転身します。そして、2004年に癌のため44歳という若さでお亡くなりになっております。

デビューシングルの「真夜中のドア/Stay With Me」は、オリコンによると総売り上げ10.4万枚、シングルチャート28位なんだそうですが、そういわれるとほとんど売れてなかったように感じます。しかし、個人的にはとても印象に残る曲だし、当時の歌謡番組にも何度か出演していて、チャート以上にヒットしたという印象があるんです。オリコンチャートには随分と長く入っていたという記事も見つけました。

ともあれ、こちらをお聴きください。

 

こちらはインドネシア人女性のYouTuber、Rainychさんが歌う「真夜中のドア」でございます。バックの演奏などは多少アレンジが加えられていますが、歌唱のほうはほぼ原曲に忠実で、最後のアウトロ部分のアドリブまで忠実にやってます。ちなみに、Rainychさん、日本語は話せないとのことで、しっかり耳からコピーしたのですね。

Rainychさんの映像も本日の時点でおよそ76万回再生され、彼女のフォロワーはなんと130万人です。そして、それだけではなく、今や世界中で「真夜中のドア/Stay With Me」が大ヒット、つまりはバズっているわけです。(ビルボードニュース

これは原曲の良さ、アレンジの素晴らしさ、松原みきのとても新人かつシングル発売時に19歳とは思えない歌の上手さがあるでしょうね。

☆松原みき本人のYouTube映像はたびたび上がるのですが、ご遺族のご意向なのかどうか、上がるたびに削除の憂き目にあっているんですね。個人的にも削除されてしまうのは残念ですので、ここでは映像をブログ記事に埋め込むことはせず、YouTubeに飛ぶようなリンクを貼っておきます。

「真夜中のドア/Stay With Me」オリジナルシングル

「真夜中のドア/Stay With Me」松原みき&カステラムーンLive

ここで、彼女のバックグラウンドをご紹介します。

生い立ち
・1959年11月28日生まれ。堺市の良家の子女です。父は実業家。母はかつてジャズシンガーをしていたそうで、クレージーキャッツとも共演したことがあるとか。3歳からピアノを習い、ジャズがいつでも流れるような環境で育ったとのこと。

・中学・高校は大阪のプール学院に進学し、ここでバンドを組みます。中学時には「愚麗」、高校では「吉野家バンド」でキーボードを担当しており、京都のライヴハウス「磔磔」での演奏も経験しています。

・そして、高校3年でお嬢様への道を振り切り、単身上京し文化女子大学附属杉並高校に転校します。そしてライヴハウスや米軍キャンプなどで演奏していたようです。どうもこの時期、米軍キャンプで暮らすアフリカ系アメリカ人家族のもとに住まわせてもらっていたようです。

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<世良譲氏と>

・この時に六本木にあったバードランドというクラブで飛び入り演奏した際にジャズピアニストの世良譲氏に絶賛されたことからデビューが決まったみたいです。

と、いうことから、もともとはシンガーソングライターとして活動をしたかったと思います。ですが、デビュー曲、デビューアルバム『Pocket Park』とも、自作曲はなく、職業作家たちの曲を歌うことになりました。

とはいえ、無名の新人に対して、林哲司、芳野藤丸、佐藤健など当時新進気鋭の作家に曲を発注させ、バックの演奏陣もSHOGUNやパラシュートを起用するなど、異例の待遇を取ったのです。所属のレコード会社はポニーキャニオンというフジサンケイグループのレーベルですが、ミュージシャンに対してはなかなかシビアな姿勢を見せるところです。

松原みき自身の評判も業界受けはかなり良かったようです。すごいシンガーがいると。スタジオミュージシャンもどんなシンガーなのか、共演してみたいという人が多かったようです。

「Cryin'」(作詞:森田由美 作編曲:佐藤健)アルバム『Pocket Park』収録オリジナル曲

「青いボールペン」(作詞:三浦徳子 作曲:佐藤健 編曲:大村雅朗)アルバム『-Cupid-』収録オリジナル曲

これまたリンクだけ貼っておきました。わかりますかね。オリジナルの歌詞にはない、感嘆符のついた短いアドリブがところどころ顔を出すのですが、これってプロデューサーから「やれ」といわれてできるようなものじゃないんですよ。これはもはや天性のものです。

そして、1981年、資生堂春のキャンペーンソングに松原みきが抜擢されます。

「ニートな午後3時」(作詞:三浦徳子 作曲:小田裕一郎 編曲:大村雅朗)オリジナルシングル

この曲は無茶苦茶難しいですね。並みのシンガーでは歌いこなせないと思います。Rainychさんは相当聴きこんでないと、このグルーブ感は出せないでしょうね。

資生堂というとその対抗メーカーがカネボウ(当時)です。それぞれ、季節ごとにキャンペーンソングを出していて、この時は矢野顕子の「春咲小紅」と競い合っていたのですが、どういうわけか「ニートな午後3時」も「春咲小紅」も大ヒットしなかったんですね。ちなみに、今でいう「ニート」という言葉は当時出来上がってなく、「Neat」という形容詞です。

さて、その後の松原みきですが、1983年に日立マクセル(カセットテープ)のCMとタイアップで「Paradise Beach(ソフィーのテーマ)」(作詞:松本隆 作編曲:細野晴臣)というシングルをリリースしたものの、自然とフェイドアウトしていきます。

その要因
・弱小事務所であったこと。所属はヤングジャパン傘下のポケットパークでした。松原みきの売り出しについて、アルバムごとにコンセプトを変えるという迷走具合でした。

・また、新人にしては異例なくらいのバックバンド(カステラムーン)を付けていたのですが、そのリーダーでもある伊藤銀次(ギター)をヤングジャパンにいた佐野元春にさらわれた形でバンドは解消することになります。

・1980年までは松原みきがカテゴライズされる「ニューミュージック」の勢いはあったのですが、この年デビューの松田聖子を始めとするアイドル勢がニューミュージック関連の作家を起用しヒットを連発します。その後もアイドルは男女を問わずデビューを続け、一部の大物を除き、ニューミュージック勢不遇の時代を迎えたというのも大きいですね。

ともかく、40年以上たち、ここにきての再注目なんですが、ワタクシとしては松原みきのCDを再リリースしてもらいたいです。ある程度は所有しているのですが、まだ抜けているアルバムもありますので。ポニーキャニオンは数年前にアルバムを出してくれたのですが、枚数限定で現在市場には出回っておりません。ダウンロード版ならあるようですけど、個人的には半永久的に聴けるアルバムは是非とも欲しいところです。

最後に。現在は更新をストップした松原みき関連のホームページを実は作っておりました。よろしかったらご覧ください。大阪遠征の記録もあります。

とにかく、このブームに乗って全アルバムを再リリースしてくれないですかね、ポニーキャニオンさん。お願いしますよ。

<2021/01/29追記>
ブームに乗っかってか、ついにPony Canyon公式YouTubeチャンネルで正式に松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」オリジナルシングルがアップされていました。
残念ながら映像はアニメですけど、プロモーションビデオのない時代でしたからこれは仕方ないです。

それでは、どうぞ!

 

ついでに彼女の全シングルもアップしてくれないすかね。

★また、引き続きリクエスト・ご意見お待ちしております。高評価の「いいね」とコメントもお待ちしてます。

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2020年11月20日 (金)

1977、ロックがテレビに進出した時

かすてら音楽夜話Vol.99

今でこそ、テレビの歌番組にロックバンドが出演するのもごく普通ですが、1970年代以前はまるで考えられないことでした。その禁を破るのが今回紹介する3組です。現在もバリバリで活躍する3組。テレビで見たときにはかなりの衝撃を受けました。

Char

Char

 

Charの「気絶するほど悩ましい」(作詞:阿久悠、作曲:梅垣達志、編曲:佐藤準)でした。

Charは早熟の天才ですね。1955年生まれで8歳でギターを手にします。そして高校1年の時にはすでにスタジオミュージシャンとして活動していました。

1973年にスモーキー・メディスンを結成し、1976年にソロデビューします。翌年の「気絶するほど悩ましい」はセカンドシングルとなります。ですが、自作ではなく職業作家の提供曲です。

Charはギターの腕を見込まれたこともありますが、ある意味ルックスでデビューできたようなところがあります。当然ながら自作曲で勝負する方法もあったでしょうが、それまで歩んできたロック界と異なるテレビや歌謡界では相当な違いがあり、Char自身も悩みぬいたと思います。しかし、彼はロックをメジャーにするため、この曲を受け入れました。

その後、数曲自身がヴォーカルを務めるシングルをリリースしますが、ソロ活動からバンド活動へと移行することになります。それ以降の活躍については割愛します。

ともかく、Charがテレビに出ることがなければその後の道もかなり遅れたと思われます。ソロデビュー時に21歳で柔軟な考え方があったことからこれは実現したといえましょう。「気絶するほど悩ましい」はオリコン12位まで上昇し、当時のロックとしては異例の大ヒットとなります。

原田真二

Haradashinji

 

原田真二のデビュー曲、「てぃーんず ぶるーす」(作詞:松本隆、作曲:原田真二、編曲:鈴木茂・瀬尾一三)でした。

原田真二は1958年生まれで、高校生の時に吉田拓郎らが設立したフォーライフレコードの新人オーディションの中から発掘された人材です。1977年に青学に入学するため上京しプロデビューが決まります。

この曲は原田が高校生の時に作っていたものですが、デビューに際して安パイ路線を行く吉田拓郎は吉田の曲で行こうとしていたようです。しかし原田は自作曲で行かせてほしいと懇願したようです。しかし、作詞は松本隆に依頼し、変更されました。

これも、デビューに不安のある吉田拓郎の親心みたいなものでしょうか。しかし、曲はオリコン6位となるヒットを記録し、その後の「キャンディ」、「シャドーボクサー」、「タイムトラベル」と続くいずれも、松本・原田のコンビでヒットを記録します。

YouTubeの映像は「夜のヒットスタジオ」のものですが、「ザ・ベストテン」にも出演しています。

当時18歳というルックスが受け、テレビにも引っ張りだこだったのですが、業界受けは悪かったようです。

というのも、テレビ用に用意されたバンドのサウンドではなくあくまでも自身のバンドにこだわる原田と音響スタッフが揉めていたとのことです。テレビ側も正論。また、原田も正論なんですが、まだティーンエイジャーの原田に意見されて誰もが気分を害するのも当然ですよね。

しかし、この原田のオピニオンがのちに生きてくるのです。そうでなければバンドサウンドをテレビで提供できなかったでしょうからね。なんにつけ、パイオニアは辛いですね。

その後の原田は自身のイメージするサウンドへとこだわり、作詞も自身で行い、ほぼセルフプロデュースの活動となりますが、ヒット曲は出なくなります。Charとは対極ですが、現在も活動は行っています。

世良公則&ツイスト

Sera

世良公則&ツイストのデビューのきっかけとなるのは、大学卒業記念に応募したポプコンであれよあれよという間にグランプリを取り、その後の世界歌謡祭でもフランプリを取った「あんたのバラード」ですね。

世良公則は1955年生まれでCharと同い年です。その風貌からは考えられませんが、バイオリンを習っていたそうです。小学生の頃は一度聴いたメロディをハーモニカや笛ですぐに演奏できたそうです。そして、洋楽、特にローリングストーンズやブルースに目覚め、地元広島で同級生たちとバンドを結成します(FBIバンド)。これが後のツイストになるのですが。

FBIバンドでの世良の担当はなんとヴォーカルではなくベースでした。それも、バイオリンをやっていたのだから同じ4弦のベースもできるだろうというものでした。

FBIバンドのメンバーは、高校卒業後も活動を続けたいと思い、全員が大阪の大学を受験し合格します。そして、大学でも活動を継続します。ある時、アマチュアのコンテストで審査員からヴォーカルの力が弱いといわれ、バンドはポジションを変更します。バンド内オーディションが行われついに世良がヴォーカリストとなったのですが、これはあくまでも臨時のものだったようです。

「そのうち、ヴォーカルかベースを入れるから」ということだったようですがそれは実現せず、卒業を前に記念で出たポプコンから火が付きデビューとなりました。

 

世良公則&ツイスト「あんたのバラード」(作詞作曲:世良公則、編曲:世良公則&ツイスト)でした。オリコン6位のヒットです。

彼らはこの曲をオリジナルメンバーで収録しますが、卒業を目前に控え、世良と2年後輩のキーボーディスト以外はプロ志向がなく(就職も決まっていたため)、セカンドシングルの「宿無し」からは世良の出身大学(大阪芸術大学)、でプロ志向のあったメンバーを集めて活動します。

ふとがね金太(ドラムス)や鮫島秀樹(ベース)は新ツイストのメンバーですね。

その後、「銃爪(ひきがね)」でオリコン1位を獲得。

アマチュア期のツイストで上京しテレビに出演した時には、スタジオセットに何気なく置いていた楽器のチューニングが、スタジオのスモークなどで狂ってしまい、見るも無残な演奏だったこともあったようです。

世良自身も「ロックがオリコンの左ページ(50位以下)に載るようなことがなかった。そこにCharが出てきてこうならなければならないと思った」とインタビューで後に語っています。

当時のテレビ界ではちょうどサザンオールスターズも出てきたころで(桑田佳祐と同い年)、二人で励ましあいながら切磋琢磨してきたようです。

ツイストは解散してしまいましたが、その後の世良の活動はご存じの通り。「太陽にほえろ!」にも俳優で出ましたね。

★引き続き、リクエストお待ちしています。次は記念すべき100回目。わたくしの敬愛するあの人にスポットを当てます。乞うご期待。

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2020年11月 9日 (月)

「みんなおいらが悪いのさ」

かすてら音楽夜話Vol.98

前回のエスニック歌謡のおまけで紹介した「東京ららばい」、松本隆&筒美京平による名曲ですけど、イントロがSanta Esmeraldaの「悲しき願い」に似ていると指摘しました。

ところで、「東京ららばい」やサンタエスメラルダ版の「悲しき願い」がリリースされた1970年代後半は空前のディスコブームでした。それは、映画『Saturday Night Fever』(1977年)で頂点に達し、日本にも上陸したものと思われます。

『サタデーナイトフィーバー』では、アメリカの有名どころが曲を提供し、劇中歌として使われております。Bee Gees(ビージーズ)の5曲のビルボード1位獲得曲をはじめ、Kool & The Gang、KC & The Sunshine Bandなどがディスコ調ナンバーを提供しています。

その翌年の映画『Thank God It's Friday』でも、Dona Summer、The Commodores等のブラック系かつソウル、ファンクっぽい楽曲で構成された劇中歌がかかりまくりで、日本に一気にディスコナンバーが押し寄せてきたように思います。ちなみに、『サンクゴッド・イッツフライデー』は見に行きました。

Santaesmeralda

<Santa Esmeralda>

ま、日本では本格的にディスコサウンドに挑戦した曲は具体的にはほぼないと思いますが、アメリカのブームがヨーロッパでも影響を受け1977年に結成されたのがサンタエスメラルダです。ま、ヨーロッパといってもリードヴォーカルはヒスパニック系アメリカ人、その他のメンバーやダンサーはフランスを中心とするヨーロッパ系という構成でした。

デビューアルバムに収録された「Don't Let Me Be Misunderstood(邦題「悲しき願い」)」が欧米のディスコチャートで火が付き、日本でも1978年にリリースされオリコン洋楽チャートで長らく1位を獲得しました。ビルボードのシングルチャートでも15位まで上がってます。

 

画像がいまいちですが、この時代にプロモーションビデオが作られていたようですね。

ま、ともかくこの曲がワタクシにインパクトを残したことは間違いありません。とはいえ、ディスコに通うということはまだなかったんですが。

Bitho

<尾藤イサオ>

その直後、「あしたのジョー」の主題歌を歌う尾藤イサオがカバーシングルをリリースしました。サンタエスメラルダを意識しているのか、バックに女性二人のダンサーを従えた「尾藤イサオ&ドーン」名義です。

 

なんで「あしたのジョー」の尾藤イサオがサンタエスメラルダに触発されるようにカバーヴァージョンを出したのかと思っていたんですが、実は1966年に一度「悲しき願い」をカバーしていたんですね。

それはなぜかというと、イギリスのバンドThe Animalsがシングルをリリースしていたからです。そちらは1965年です。

Animals

<The Animals>

ですが、アニマルズもオリジナルではなくて、アフリカ系アメリカ人シンガーのニーナ・シモンという人が1964年にアルバムの中で収録したのが世に出た初めてのものです。とはいえ、こちらは不発で、アニマルズによりヒットを記録してます。

The Animals版「Don't Let Me Be Misunderstood」 こちらはリンクのみつけておきます。なんか今聴くと古臭い感じですね。

尾藤イサオの映像は歌番組のライヴヴァージョンなんですが、尾藤イサオのすごいところは、シングルの音源もライヴも声にさほど変化がないということです。これはすごい。

1966年の曲となり、訳詞もタカオカンベ氏によるものが1966年版と1978年版で同じですので、「おいら」などあまり時代にそぐわない感じなんですが、ノリはアニマルズよりもいいんじゃないすかね。

尾藤イサオのキャリアは古くてロカビリー時代にまでさかのぼります。そこから俳優と歌手でやってきておりますので、アニマルズもサンタエスメラルダも恐くないぜみたいな思いを秘めていたのかも。

実際の音源、リンクつけておきます。

1966年版

1978年版

ちなみに、1966年のシングルはバックバンドがブルーコメッツですね。そして、明らかに1978年版のほうが上手くなってます。

「悲しき願い」は1966年当時よほど日本人の感性に合っていたのか、日本語カバーも競作でした。YouTubeで検索すると、布施明とスパイダース(リードヴォーカルは堺正章)ヴァージョンがヒットします。

ディスコ調のイントロ、中原理恵の「東京ららばい」(1978年)を含めると、京平さんがアレンジした「東京ららばい」が最も洗練されてますが。それは、やはり後出しの有利さでしょうか。(←決して筒美京平氏をディスるものではありません。)それにしても、尾藤イサオはインパクトありますね。

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2020年10月27日 (火)

エスニック歌謡事始めプラスワン

かすてら音楽夜話Vol.97

Ck1052

<クンバーコナム>K-7/DA16-50mm

ネタは結構たまっているでございますよ。ですが、4回に1回の音楽話をルーティンのように語っていきたいと思います。

画像はイメージでしかないのですが、今回のテーマは1970年代後半から1980年代前半にかけてリリースされた異国情緒のあるシングルなどを紹介します。

1978年4月

 

庄野真代「飛んでイスタンブール」(作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀)でした。映像は「夜のヒットスタジオ」ですね。

この曲がリリースされた1978年頃は、一部のバックパッカーにはトルコやイスタンブールが知られていたと思います。ま、トルコと日本の関係は結構古いものの、そちらの事情を知る日本人はほぼいなかったでありましょう。

1977年に池田満寿夫(芸術家)が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞し(その後映画化)、にわかに脚光を浴びるようになってきたのがヨーロッパとアジアの間にあるこの地域ですかね。

なお、沢木耕太郎の「深夜特急」は新聞連載もされていなかった時期です。

ちょっとブームになり、さらにそれを推し進めたのがこの曲かもしれません。バックパッカー以外にもパッケージツアーなどで高額を支払いこの地を訪れた人も増えてくるころでしょうか。

Shonomayo

<庄野真代>

この曲は真代さんが所属していた日本コロムビアの担当ディレクターが「無国籍なイメージ」でと筒美御大に曲を発注しました。リサーチが得意な筒美さんですから、真代さんの過去の曲を聴き、野口五郎用に書いて没にしたこのメロディを採用したようです。そして作詞をちあき哲也氏に発注しますが、やりすぎのように「イスタンブール」の韻を踏むものでした。

御大にしては珍しく「曲先」なんですが、仕上げのために曲の一部を変える。または、ちあき氏に詞をメロディに乗るようアドバイスもあったのではなかろうかと推測します。さらに、アレンジの船山氏にギリシアの楽器「ブズーキ」の使用を提案するなど、プロデューサー的な役割も果たしています。

「夜のヒットスタジオ」の映像では「ダン池田とニューブリード」の他、印象的なイントロとアウトロのためにギターかマンドリンのソロ演奏者を使っております。残念ながらブズーキではなさそうですが。この演奏は比較的オリジナルに近いです。

この時代、ブズーキを使用するといってもまず日本で演奏できる人がいたのかどうか。そしてまた、楽器が存在したのか。個人的に推測するならば、マンドリンかアコースティックギターあたりで代用したのだと思います。製作費かさんじゃいますからね。

真代さんは元々はシンガーソングライターで、当時の言葉では「ニューミュージック」にカテゴライズされる人でした。「飛んでイスタンブール」のリリースまでにシングル4枚、アルバム3枚をリリースしてました。とはいえ、すべてを自分の曲で歌うことにはそれほどこだわっていなかったようです。

そこに、この曲が来まして、真代さん最大のヒット曲となった次第です。ちなみに、次のシングルも同じ作者で「モンテカルロで乾杯」と同じような路線を狙いました。こちらはアレンジも筒美御大が請け負ってます。

そして、同年の紅白歌合戦にも出場します。ちなみに、「♪こんなジタンの空箱」を「♪こんな煙草の空箱」と変えて歌いました。さすがNHK、商品名には厳しいです。

真代さんはニューミュージック系ですが、マスメディアにも出るタイプでしたね。それ以前のフォークを引きずっている人やユーミンなどは決してテレビには出ませんでしたからね。真代さん、おまけに曲に振り付けもあるんですね。おそらくですが、ロックやニューミュージックからテレビに出演する先駆けのひとりでしょう。(他にはサザンやツイスト、原田真二などがいます)

1979年

 

ジュディ・オング「エーゲ海のテーマ~魅せられて」(作詞:阿木曜子 作編曲:筒美京平)でした。

筒美御大の追悼ニュースでやたらと流れた曲ですね。ジュディ・オング最大のヒット曲でもちろん、オリコン1位かつレコード大賞受賞曲です。筒美京平作品としても最大のヒット曲となりました。

曲ももちろんですが、あの腕を上げると袖の下が扇形になり羽のようになるクライマックスも話題でした。ミッツマングローブも真似をしたらしいです。

映像は曲のリリースから20年以上経った2000年のものですが、クオリティが高いので採用しました。

この曲は前述の「エーゲ海に捧ぐ」の映画化のためのCM曲として企画されたようです。結局は没になったようですが、ワコールのCMに使われ、その中で映画の映像も使われたようです。

こちらも、筒美御大の曲になりますが、阿木曜子が作詞しているので「詞先」でしょう。でも、筒美御大はすでに「飛んでイスタンブール」で実験済みなんですね。こちらも、ブズーキ風のフレーズが印象的です。

阿木さんの歌詞ですが、英語が含まれております。現在では歌番組で歌詞が出ますが、1979年当時はそんなものはありませんね。「♪Wind Is Browing From The Aegean」、はて?エイジアン?アジアじゃないんかい?などと思う人もいたはずですね。

Judyong

<スクリーンドレス>

ちなみに、羽を広げたような衣装、「スクリーンドレス」というそうです。ヒントは来日したダイアナ・ロスの衣装にあったそうですが。

これがなかったら、美川憲一と小林幸子の派手な衣装はなかったかもしれませんが。

日本人の作家が作った日本語の曲を中国人が歌い、そこに広がる世界観はエーゲ海やギリシアだという無国籍ぶり。本当に金のあるOL(今や死語)さんなんか本当に個人旅行であっちに行ってきた人もぼちぼち出てくるころかも。

ちなみに、レコード大賞ですが、西城秀樹の「ヤングマン」が外国曲ということで受賞資格がないため、「魅せられて」となったとのことです。

そして、この年はもう1曲あるんですよ。

 

久保田早紀「異邦人ーシルクロードのテーマ」(作詞作曲:久保田早紀 編曲:萩田光雄)でした。

「魅せられて」が1979年前半のヒット。それからおよそ半年後にリリースされ、デビュー曲であるにもかかわらず、オリコン1位を獲得することになります。

久保田さんはアイドル発掘のオーディションに間違って応募し、水着審査の代わりにピアノ弾き語りをしたところCBSソニー(当時)のディレクターの目にとまり、デビューまでこぎつけたそうです。

デビューも三洋電機(当時)のタイアップが決定しました。そのイメージ映像がアフガニスタンで撮影されたことで、タイトル「白い朝」から「異邦人」へと変更し、アレンジも萩田氏に依頼。思いっきりシルクロード風の曲になったのですね。

ここに絡んでいたプロデューサーが「魅せられて」を担当していた人で、エスニックなものを持ち込んだのですね。そして、萩田氏のアレンジが曲をここまで変えてしまう。久保田さんはもともと、自宅のある多摩地区で曲をイメージして作ったとのことで、こんな感じの曲になるとは思ってもいなかったようです。

企画とアレンジの勝利ですかね。

Kubotasaki

ちなみに久保田さん、現在は結婚後の本名久米小百合として活動しております。

1979年、まだまだアフガニスタンには普通に行けたんですね。もちろん、ソ連侵攻前のことですし、危ないところじゃなかったと思うんですが。カブールも日本人パッカーがたくさんいたっていうしね。

おまけ

Nakahararie

エスニックでも何でもないんですが、紹介した3曲に先駆けてリリースされた中原理恵、「東京ららばい」(作詞:松本隆 作編曲:筒美京平)が印象的なんです。

 

東京という無国籍な世界を感じさせる松本隆の世界。「東京湾」と書いて「東京ベイ」と歌わせるのは松本隆だからできたことなんじゃないすかね。そんなことする作詞家いませんでしたから。

そして、1978年のデビュー時、19歳ですよ。すごく大人に見えます。そして美人ですね。

これは依頼が来たから引き受けたんでしょうけど、筒美御大がデビューしたての新人のファーストシングルのアレンジまで担当するのは異例なのではないでしょうか。

ま、そのアレンジ、イントロのフラメンコギターが印象的ですが、その前年1977年にサンタエスメラルダというグループの「悲しき願い」(原題:「Don't Let Me Be Misunderstood」)というヒット曲のパクリっぽいんですけど。ま、若気の至りってことで。

この曲もまた東京とうたってながらも、どこかエスニック系に聴こえるのはワタクシだけでしょうか。

それにしても、中原さん、「欽ドン」であのようになるとは。

★引き続きリクエスト、ご意見、コメントお待ちしております。今回、筒美京平トリビュートでもありましたね。

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2020年10月20日 (火)

デンデケデケデケ歌謡

かすてら音楽夜話Vol.96

いきなりですけど、The Ventures(ザ・ヴェンチャーズ)です。YouTubeの映像は貴重な東京公演のものです。

ま、わたしゃ、詳しく知りませんが、エレキのインストゥルメンタルバンドであり、日本においては間違いなく彼らの影響でエレキブームが起きました。

この流れから加山雄三とランチャーズ~ザ・ワイルドワンズ~GSあたりへと流れていったのではないかと推測しますが。ちなみに、日本のエレキの元祖、寺内タケシはヴェンチャーズ以前からエレキを弾きだしております。なんでも幼少期から弦楽器に興味を持ち、第二次世界大戦中にエレキを自作したとのことです。ま、寺内タケシも少なからずヴェンチャーズの影響は受けているでしょう。

Hw0375

<サーフボード>KP/DA21mm

日本と違い、アメリカではサーフィンサウンドの元祖ととらえられているようです。彼らの楽曲には「Diamond Head」や「Pipeline」といったサーフィンを連想させるものもあります。

デビューは1960年で、デビューシングルの「Walk Don't Run」はビルボード週間シングルチャート2位まで上がりました。彼らは数回メンバーチェンジしてますが、YouTube映像のラインナップ、Don Wilson(G)、Norkie Edwards(G)、Bob Bogle(B)、Mel Taylor(D)が最強かもしれません。

まあ、日本で影響を与えたといっても所詮金持ちの子女あたりしか、エレキギターをはじめとする楽器は手に入らないわけで、その様子は東宝映画「エレキの若大将」あたりが何となく伝えているかと。この映画で主演の若大将こと加山雄三は老舗料理屋の跡取り。助演の青大将こと田中邦衛はええとこのボンボン。蕎麦屋の出前持ち役の寺内タケシはいきなり触れたエレキギターでとんでもないフレーズをいきなり弾いてしまうという役でしたが、父親は土浦市議会議長で実業家でもあったわけです。ちなみに、内田裕也が「エレキ合戦」の司会役でした。

日本においてはビートルズよりも早く来日し、間違いなくビートルズよりも音楽界には影響を与えたはずです。

ヴェンチャーズですが、1960年代に数回来日していて、いたく日本が気に入ったようです。

と、いうことで、ここからが本日のテーマ。ヴェンチャーズが曲提供した日本の歌謡曲であります。

1曲目

 

記念すべきヴェンチャーズの提供曲第1作です。山内賢と和泉雅子「二人の銀座」(作詞:永六輔 作曲:The Ventures 編曲:川口真)でした。

1966年のヒット曲で、100万枚以上のセールスがあったといわれています。当時、オリコン(1967年創業)がありませんで、正確な集計ができておりません。この二人、日活映画で共演が多かったとのことです。当初は越路吹雪に提供されるはずでしたが、イメージに合わないとのことでこの二人に回ってきましたが、正解でしたね。

とはいえ、永六輔が歌詞を書き、川口真のアレンジでこの二人がデュエットするとどこがヴェンチャーズなんだという味わいになります。思いっきりドメスティックですね。ちなみに、和泉さんはのちに北極探検しちゃった人です。面影ないけど、どっちもすごい昔。

提供曲と書きましたが、ヴェンチャーズがオリジナルシングルのB面曲「Ginza Lights」としてアメリカでも発売されております。

 

ヴェンチャーズ版「Ginza Lights」、全然違いますね。

2曲目

 

渚ゆう子「京都慕情」(作詞:林春生 作曲:The Ventures 編曲:川口真)でした。

渚ゆう子さんはハワイアンのシンガーから歌謡界に転向してきた人です。実質的なデビュー曲ともいえるのがこの前作、「京都の恋」(1970年)で見事にオリコン週間シングルチャート1位を獲得してます。そちらも、ヴェンチャーズ(「二人の銀座」当時のメンバーではありません)の作曲です。

その、第2弾でいわば「二匹目のドジョウ」を狙ったものですけど、こちらもオリコン2位を獲得するヒットです。こちらの選曲をしたのは、まあ、個人的に好みだからですね。京都でありながらロードムービー的な味付けがなされ、独特の味わいがありますね。それに、キャリアが長いので、歌も上手いです。それにしても、外国人がよくぞこんな曲を作ったなという感じがします。

渚ゆう子さんですが、アルバム曲にはやはりヴェンチャーズ作曲の「長崎慕情」という曲もあります。この後、「三匹目のドジョウ」を狙った「さいはて慕情」というシングルをリリースしましたがオリコン6位とそこそこのヒットとなりました。ちなみに、作曲は筒美京平御大です。

ちなみに、ヴェンチャーズ版もあります。

 

原題は「Refrections In A Palace Lake」です。1970年代ともなると、ヴェンチャーズもアメリカではノスタルジックなバンドという認識でしょうか。とはいえ、各国には根強いファンがいて、この曲も日本でシングルとしてリリースされています。

以前はキーボードを入れてませんでしたが、1960年代のようなエレキのテクだけでは進展がないと感じたのか、1960年代後半からはキーボーディスともメンバーに加わってます。

こちらのオリジナル版も味わいありますね。演奏はスローになりましたが。

3曲目

 

再び登場の欧陽菲菲姉さんです。もう説明はいらんでしょう。日本デビュー曲にしてオリコン1位獲得の「雨の御堂筋」(作詞:林春生 作曲:The Ventures 編曲:川口真)です。

歌が上手いのは当然ですが、来日直後で日本語を当てるのが無理やりな感じもします。でも、それがよかったんでしょうかね。

 

ヴェンチャーズ版「Stranger In Midosuji」でした。当然こちらがオリジナルなんですが、バンドとしての躍動感は今一つなような。

こうしたインストゥルメンタルであるならば、特にヴェンチャーズでなくともいいかも…。つーか、ヴェンチャーズらしさがほぼ失われてますかね。

ともかく、ヴェンチャーズは1970年から1972年にかけてかなりの数の楽曲を日本の歌謡界に送り込んでいるのでした。

現在もヴェンチャーズは活動を続けています。しかし、1960年代前半の全盛期のメンバー中3名が亡くなり、残ったオリジナルメンバーでリーダーでもあるドン・ウィルソンはツアーからは退いたそうです。それでも、彼らは毎年のように来日し、オールドファンを楽しませてますね。

★引き続き、リクエスト、ご意見、コメントお待ちしております。お気軽にどうぞ。

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