カテゴリー「Music Talk」の122件の記事

2021年7月15日 (木)

退屈な1976年上半期

かすてら音楽夜話Vol.122

1976年といいますと、自分は何をしていたかというと受験の年です。

Shimonmasato

なので、音楽を聴くどころじゃなかったのですが、聴いている意識はなくともこの2曲はいやが上でも耳に入ってきたのですね。

まずは年明けの1月からオリコン1位を11週も維持し、とてつもないメガヒットとなった子門真人の「およげ!たいやきくん」があります。

シングルの売り上げ450万枚ともいわれ、シングルとしてはいまだに破られておりません。また、この曲はチャート初登場1位の最初のものですね。

音楽の媒体としてもはやCDは売れなくなり、ネット配信などに移行してますからこの記録はおそらく未来永劫に破られることはなさそうです。

そんな曲もシンガーには印税が一銭も支払いがないというのもすごいことです。一説によると、その売り上げ手でレコード会社であるポニーキャニオンの社屋が新しいものになったともいわれておりますが。

さて、1月から「およげ!たいやきくん」のヒットは続きまして、(一応)勉強の傍ら「どーせ、ガキの曲だろ」とか思っていたんです。この陰に泣いて「木綿のハンカチーフ」も2位どまりであったし。

そのヒットもそろそろ終わりが見えてきたころ、受験も終わりまして次はどうなるかと思っていたのですが。

Danielboone

珍しく洋楽の曲がチャート上位に顔を出します。

それが、Daniel Booneの「Beautiful Sunday」です。この曲は当初、ポニーキャニオンから発売されたのですが、まったく問題にならず、廃版扱いになりました。

それがTBSの朝の番組で使われると、問い合わせが殺到しTBS系のディスコメイトレコードから発売されるとたちまちヒットしました。

ダニエル・ブーンはイギリス人ですが1972年のUKチャートでは21位、アメリカのビルボードでも15位を記録し、100万枚は売れたといわれています。まあ、ヒットする要素はあったのですね。

 

ポニーキャニオンという会社はなかなかにビジネスライクで廃版にするのも早いのですが、この時ばかりは廃版にしたのを悔やむ幹部もいたことでしょう。でも、「およげ!たいやきくん」で十分に元は取ったと思いますがね。

この「ビューティフルサンデー」は「およげ!たいやきくん」と入れ替わるようにしてオリコン1位となり、なんと15週も1位の座を維持しました。なんと、3月後半から6月いっぱいまでです。

つまりはたった2曲が1976年の前半ずーっと1位であったわけです。

「ビューティフルサンデー」は聴き心地がよくて、英語であっても日本人の耳にすっと入り込むわかりやすさがあったと思います。

売り上げは200万枚ともいわれ、「およげ!たいやきくん」には及びませんが、洋楽史上の売り上げは断トツの1位です。ビートルズもマイケル・ジャクソンも及びません。

Seijitanaka

<田中星児>

これに乗じて田中星児という人が日本語版「ビューティフルサンデー」をリリースします。

この方は初代の「うたのおにいさん」だったのですが、「ビューティフルサンデー」はある曲のB面として発売されたのですが、ダニエル・ブーンのヒットにあやかり、A面とB面を入れ替えてリリースしたところ、案の定オリコン4位というヒットを記録しました。

 

アレンジはほぼ同じですね。

歌詞も韻を踏むあたりが工夫されてまして、サビのラスト、ダニエル・ブーンは「♪My My My It's A Beautiful Day」となっているところ、田中星児は「♪まー、まー、まー、おお、待ってる」と本家のノリを踏襲していますね。

ところで、1976年はメガヒット連発の年でして、オリコン1位獲得曲はたったの8つだけです。年の瀬に都はるみの「北の国から」が1位となりレコード大賞も獲得しているのですが、この曲は1975年リリースのロングヒットですので、「たいやき」と「ビューティフルサンデー」に阻まれながらも辛抱強くその時を待っていたともいえます。

まあ、子門真人がレコード大賞じゃ業界も立つ瀬がないんだろうけど。ちなみに、ダニエル・ブーンは外国曲のため受賞資格なしです。

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2021年7月 7日 (水)

ユーミンの詞の世界

かすてら音楽夜話Vol.121

 

オープニングはおなじみ「中央フリーウェイ」でした。ユーミンこと松任谷由実ですが、独身時代の荒井由実名義です。

映像は1996年のもので、珍しくいつもはプロデューサーでブースで音の調整などを行っている、旦那の松任谷正隆がキーボード。斉藤ノブがパーカッション、鈴木茂がギターですね。

今回もlastsmileさんのお題で行きますが、この曲は中央自動車道を山梨方面に走っていくと現れる風景に、恋愛中の男女を女性の視線で語るというもの。非常にまっとうでストンと収まるプロの仕事です。

個人的なことを申しますと、中央自動車道には上り方面は稲城大橋から、下りは国立府中から利用するので、調布基地も府中競馬場もサントリー府中工場も縁がないのですが。また、近年では騒音対策として高速道の側面には防音壁が取り付けられてますので、クルマの正面方向くらいしか見えないことも付け加えておきます。でも、「♪この道は まるで滑走路 夜空に続く」という最後のフレーズは見事ですね。

といっても、今回取り上げるのは「中央フリーウェイ」ではないのです。

Bangbang

<バンバン>

画像はこのふたり、ばんばひろふみ(左)と今井ひろし(右)のフォークデュオです。デビュー時には3人組で現在演歌歌手の高山巌が所属していました。途中4人組になったこともあるようです。

当時わたしゃ中学生雑誌をとっていたのですが、芸能情報も載っていてバンバンが3人組であったことを知っておりました。それが後述する曲の時にはこの二人になっていたのを印象深く思っておりました。

なにしろ、ビートルズは4人。グループの絆は絶対だなんて思い込んでいたんですね。ま、ただの融通の利かないガキですけど。

でも、ゴールデンハーフが3人になったのはもっと早かったし、ドリフも荒井注の脱退・志村けんの加入ということもありました。が、それは芸能界のことで自分たちの音楽をやる、フォークやロックの人たちは固い絆で結ばれていたんだなと。

さて、バンバンですがなかなかヒットが出ず、思い悩んだばんばが才能を見抜いていた年下のユーミンのもとに頼み込んで書いてもらったのが次の曲です。しかも女性のユーミンが男性の主人公からの視線で描いたものです。

 

「『いちご白書』をもう一度」(作詞作曲:荒井由実 編曲:瀬尾一三)でした。

映像は1975年の「夜のヒットスタジオ」ですが、三波伸介が司会をやっているという貴重な映像。

この曲に登場する「♪いつか君と行った映画」が「いちご白書」で、アメリカのコロンビア大学の学園紛争を描いたものです。

曲の背景として日本の学園紛争があります。日本の学園紛争とはおそらく学費値上げに反対といったあたりから、学生の自治を求めて大学当局と実力行使を含めての長期にわたる闘争が繰り広げられていったものですかね。これが、日本のほとんどの大学で行われていたのですね。

学生でありながらヘルメットを被り教室の机や椅子でバリケードを設置して構内に立てこもる。最終的には警察が介入してきて闘争はむなしく終わるのですが。時代的にいうと、学園内の紛争は東大安田講堂事件の終息が1969年と1970年ごろまでということになりますか。

1947年生まれの沢木耕太郎は学園紛争のあおりを受けて横浜国大の卒業が7月にずれたといっております。1950年生まれのばんばはかろうじて立命館のキャンパスで体験してきたことかもしれません。

ですが、1954年生まれのユーミンはまだ立教女学院の高校生ですので直接の経験ではないはず…。お嬢さん学校ですし。ちなみに、学園紛争は高校にも風が吹いているんです。現在数は少なくなりましたが、制服なしという都立高校もあるのですが、これは高校生が勝ち取った自由であるときいております。ワタクシの卒業した高校がそうでした。

で、学園内の闘争はその後セクト化し三里塚に出かけちゃったり、学校とは無縁の話になっていきます。ヘルメットだけでなく、ゲバ棒や火炎瓶という武器も持って。ですが、大学構内には独特の文字を書いた立て看板が残り、戦う学生もまだまだ残っておりました。浜田省吾も神奈川大学正門前の下宿からセクト間の争いで学生同士がやりあう現場を見ていたということです。

「♪就職が決まって髪を切ってきたとき」順番が逆だろうという話もありますが。当時短髪の学生なんて運動部か応援団くらいですからね。ユーミンも多摩美のキャンパスでくすぶっている学生運動をある程度目撃し、美術系の学生がサラリーマンになるのを見てきたことでしょう。

さて、この曲はバンバンの最大のヒット曲となりました。時はすでに1975年でしたが、学生運動に身を投じていない人も共感するものだったのではないでしょうか。オリコンでは6週1位を獲得しました。ユーミン自身にとっても提供曲ではありましたが、初の1位を獲得しました。彼女自身の初めてのシングル1位は「あの日に帰りたい」ですが、「『いちご白書』をもう一度」の直後でした。

ユーミンはその他に大事な人を亡くした時の思いを込めた「ひこうき雲」など様々な詞の世界がありますが、今回はこれくらいで。

やあ、今回のlastsmileさんのお題、難しいです。

その他、アメリカ民主党支持者のBruce Springsteenが書いた「Born In The U.S.A.」が、ネオコンにアメリカ賛美と誤解されて大統領選挙の共和党候補者のテーマソングに取り上げられそうになったこと。同じ英語を話す人たちも内容が理解できなかったり。

大事な仲間をバイクの交通事故で亡くした思いをつづった佐野元春の「Rock & Roll Night」。

などなど取り上げれば限りなくあるのですが、小市民であるワタクシが書けば書くほど、筆者の思いとずれも生じて陳腐なものになっていくでしょうからね。

それでもいつか「これ!」という曲が現れたり、もっと確信をもって書けるようになったらやりましょうか。

お粗末様でした。

★完璧にやられましたけど、リクエスト、ご要望受け付けております。記事が気に入りましたら「いいね」をいただけると幸いです。また、コメントもお待ちしております。

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2021年6月27日 (日)

浜田省吾「八月の歌」を読み解く

かすてら音楽夜話Vol.120

Hamadashogo

本日はlastsmileさんのからのお題、「小説のような心に残る詞の名曲」におこたえいたします。

とはいえ、全面的に筆者であるワタクシ個人の解釈であります。

取り上げるのは浜田省吾の「八月の歌」です。しかし、現在浜田省吾公式YouTubeチャンネルには「八月の歌」がアップされておりません。いくつか上がっているものは個人の違法アップロードですので、リンクのみ付けておきましょう。

浜田省吾「八月の歌」

この曲は1986年リリースの2枚組アルバム『J.Boy』に収録されたものです。シングルカットはされておりません。

一応歌詞を引用しておきます(公式の映像があった場合引用はやめます)。

砂浜で戯れてる 焼けた肌の女の子達
おれは修理車を工場へ運んで渋滞の中
TVじゃこの国豊かだと悩んでる
だけどおれの暮らしは何も変わらない
今日もHard rain is fallin'
心にHard rain is fallin'
意味もなく年老いてゆく
報われず裏切られ
何ひとつ誇りを持てないまま

八月になるたびに
”広島…ヒロシマ”の名のもとに
平和を唱えるこの国
アジアに何を償ってきた
おれ達が組み立てた車が
アジアのどこかの街角で
焼かれるニュースを見た
(後略)

曲のバックグラウンドは2つあります。

1つは「どうあがいても現在の状況を脱しきれないやりきれなさ」です。

水着の女子を見かけながら壊れた車を工場に運ぶ主人公。どんなに頑張ってもサラリーが上がらない閉塞感がある。

ただし、1986年ということを考えると、高度成長時代末期とはいえ、サラリーはちょっと我慢すれば上がっていく傾向にあって、曲の主人公が語るほどひどい状況ではありません。そのあたりは、フィクションであるので絶望的な人物を描いたと思ってください。

もう1つは「原爆を落とされた広島とその後の日本を取り巻くアジアの状況」ですね。

浜田省吾は広島出身で1952年生まれですので戦前戦中のことはリアルな体験をしておりません。しかし、浜省の父親は警察官をしていて被災活動中に原爆の後遺症があったといわれています。

そして、おそらく田中角栄が(首相として)東南アジアを訪問したころ、日本製品のボイコット運動が起き、日本車も焼き討ちにあったニュースをモチーフにしているのでしょう。広島といえば当時の東洋工業、現在のマツダですが、マツダの車が当時アジアを席巻していたかは不明。とはいえ、身近にクルマの部品を作ったり、組み立て工場で働いていた知り合いも多数いたはずで、ひときわ浜田省吾にはインパクトのあった事実でしょう。これも1986年の状況ではありませんけど。

同じ『J.Boy』収録のオープニング曲、「A New Style War」では「飽食の北を支えている/飢えた南の痩せた土地」という歌詞もあるように、浜田省吾はある種のメッセージを発信する人です。ただし、政治的な立場はBruce Springsteen(民主党支持者)のように明らかにしていません。

そんな浜田省吾のスタイルに1980年代の若者はなびいていったことも事実です。『J.Boy』は二枚組にもかかわらず、オリコンのアルバムチャートで1位を獲得しています。浜田自身にも初の1位でした。

当時の若者はそのような状況にはおかれている人はごく少数で、ちょっと頑張れば定期的に給料は上がるし、社会からドロップアウトした人も積極的にアジアにバックパッカーとして出かけていたんですけどね。

これはすべて浜田省吾の描いた世界観で、リスナーはそれをわかっていて浜田省吾という人を追いかけていたのではないでしょうか。

さて、違法アップロードした「八月の歌」には映像を作った人がバックに広島原爆の日の式典映像、しかも前首相まで登場させる演出を行っているものもありました。

こちらのコメントの一部には「浜田省吾と長渕剛は政治を語らないほうがいい」とか「日本はアジアがどうなろうと放っておくべきですよね」というものまであります。まったくもって現代の若者らしいコメントだなと思います。そういうことはいいので、曲について書けよと思いますが。

むしろ、現代の状況、むしろ悪化してないでしょうか。どんなに頑張ってもサラリーが上がらない。気が付けばG7諸国の中で生活レベルは最低限に近く、軽自動車が大ヒットする。100円ショップはいつも混雑。こんな日本に誰がした!でございますよ。このあたりは時空を超えて「八月の歌」の1番の歌詞にまたリンクしているのではないでしょうかね。

むしろそのあたりは共感できることではないかと。

さて、長くなりましたのでこのあたりでお終いにします。あと数曲、気になる曲もありますので、lastsmileさんのお題、もう少し続けさせていただきます。

今回動画がありませんでしたので、同じ浜田省吾でこちらをお楽しみください。

 

後半の「恋は魔法さ」は阪神大震災へのチャリティソングです。収益はすべて寄付されました。

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2021年6月18日 (金)

ふたりの「A」は星になった

かすてら音楽夜話Vol.119

Asei

今回緊急ってことで。

作曲家の小林亜星さんが先日お亡くなりになりました。享年88歳。

マルチタレント的な方でテレビにもよく出演されておりました。作曲家としては都はるみの「北の宿から」(作詞:阿久悠)でレコード大賞を受賞しております。

俳優としてはテレビドラマから映画まで。なおかつバラエティ番組から司会までと、なかなか表に顔を出さない筒美京平さん、都倉俊一さんとは真逆のスタンスでしたが、彼は多数のCM楽曲を担当するというあまり知られていない一面もあります。

CM曲というと、売れない時代の大瀧詠一さんが思い浮かびます。彼も多数のCM楽曲を手掛けていたのです。…と、いうわけでこの二人は同じ作曲家であるので相まみえることはありませんでしたが、小林亜星さんより少し前にお亡くなりになった伊藤アキラさんとコンビで作った曲もかなりあります。

伊藤アキラさんというと、フォーリーブスの「ブルドッグ」(作曲:都倉俊一)、「南の島のカメハメハ大王」(作曲:森田公一)などで知られ、独特の韻を踏むような言葉の使い方により、人々にインパクトを与えたものです。

伊藤さんは大滝御大と「アンアン小唄」(山田邦子など)や「三ツ矢サイダー」、「出前一丁」などを手がけました。彼もCMにかなりかかわっていますし、子供番組の楽曲などにも大きくかかわっています。

さて、この星になったふたりがタッグを組んだのがこちら。

 

老若男女、だれでも覚える「ぱっと!さいでりあ」でした。

この手の曲はもちろんオリコンのチャートには上がってきませんが、日本中に浸透しますよね。これこそ、CMの真骨頂です。でも、「さいでりあ」の会社って新興産業というのですが、悪徳商法といわれ後年倒産の憂き目にあっております。

そして、2021年現在も流れている企業CM曲がこちら。

 

「世界ふしぎ発見」の番組中に流れる「日立の樹」です。

いつも気になるのですが、テレビで流していて作詞家、作曲家、歌手への印税が支払われているかという問題です。まあ、それがあったら、これ以外にも多数の曲を担当しているので、相当な金額が入ってくると思いますけど、それだけ多作ということは、印税は買い取りなんでしょうね。1曲いくらということで。

小林亜星さんの場合、初期のCM曲では作詞も担当しています。レナウンの「ワンサカ娘」やブリヂストンの「どこまでも行こう」などです。自分で何でもできちゃうから、後年の俳優・タレントなどでも「あいつなら何とかなるんじゃない?」ってことになったのかも。

個人的に亜星さんの曲で最も好きなのはこちら。

 

シモンズで「チェルシーの唄」(作詞:安井かずみ)でした。ベーシストの某Gという男がいなかったらシモンズはもっと長く活動できたと思います。

伊藤アキラさん作詞で最も好きなのはこちら。

 

渡辺真知子で「かもめが翔んだ日」(作曲:渡辺真知子)でした。1978年のオリコンシングル5位。この年のレコード大賞最優秀新人賞に輝いた曲でもあります。

今頃ふたりの「A」はあっちの世界で曲作りにディスカッションしているのかもしれませんね。

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2021年6月13日 (日)

The Policeの消したい過去

かすてら音楽夜話Vol.118

Police

イギリスで結成されたThe Police(ポリス)というバンドがありました。

短期間の活動に終わりましたが、スリーピースバンドとしては最も成功したバンドかもしれません。

 

曲はデビューアルバムの『Outlandos d'Amour』から「Roxanne」でした。曲自体は英米ともに中ヒットに終わっております。

ポリスのメンバーですが、Sting(スティング、Vo & Bass)、Andy Summers(アンディ・サマーズ、Guitar)、Stewart Copeland(スチュワート・コープランド、Drums)で、スチュワート・コープランドだけはアメリカ人です。ただ、スチュワート・コープランドは父親の仕事の関係でアメリカに定住しておらずイギリスで教育を受けています。そして、その兄がレーベルを開設しそこからデビューしております。

「ロクサーヌ」を聴いておわかりかと思いますが、レゲエを取り入れた新しいタイプのロックバンドです。そして、セカンドアルバムもフランス語表記の『Regatta de Blanc』(邦題「白いレガッタ」)であり、直訳すると「白人のレゲエ」なんです。

こんな感じでなかなかにスノッブな人たちであり、どことなく近寄りがたいカリスマ性を持っているバンドだと思っていました。2度目の来日をするまでは。

3枚目のアルバムが『Zenyatta Mondatta』(ゼニヤッタ・モンダッタ)というタイトルで意味不明です。Wikiの英語版によれば禅とケニアの初代大統領ケニヤッタから名付けたようなことが書いてありますが。

ともかくその頃にはアメリカでも名が知られ始め、日本でもかなり知られるようになってきました。その、2度目の来日時に「夜のヒットスタジオ」に出演した映像が残っております。

 

これ、リアルタイムで見ていましたけど、自分が勝手に思い込んでいたポリスのイメージを見事にぶち壊してくれました。

なんでも武道館公演直後だったようで、よくぞポリスも出演をOKしたものです。

スティングはステージでは決して演奏しないサックスを持ち込むわ、MCの井上順はメンバーとコントのようなやり取りをするわ、挙句の果てにスティングは当時出始めたカシオのデジタルウォッチ(決してG Shockではありません)を見せびらかすわという有様です。

おまけに、ザ・ぼんちのおさむちゃんもちゃっかり世界的アーティストと絡んでますけど。

演奏曲は「De Do Do Do, De Da Da Da」というこれまた意味不明なもので、ビルボードで10位、UKチャートで5位のスマッシュヒットです。しかも、演奏自体が明らかな口パク。スティングはベースさえ持ってないし、スチュワート・コープランドはドラムセット自体をたたいてないです。アンディ・サマーズだけはギターを弾いてますが、これまた本体とアンプがつながれていないと。

ま、これはポリス自身も口パクなのがわかっていたからわざとこのようにふるまっていたと。でも、このように後世に証拠が残っちゃうんですよね。

ちなみに、流れていた音源はシングル・アルバムと同一です。

それにしても、当時のフジサンケイグループってすごかったんですね。

さて、ポリスの隠したい過去はこれだけではありません。

なんと、日本語版の「ドゥ・ドゥ・ドゥ・デ・ダ・ダ・ダ」でございます。この日本語訳詞はあの湯川れい子御大が手掛けているのです。

湯川さんというと同時期に稲垣潤一の作詞も担当し、シャネルズ~Rats & Star、果てはあの大ヒット曲の「恋に落ちて」も担当しているのですが、このやっつけ感はないでしょう。

スティングの日本語も誰か発音指導してよというレベルですけど、すべてを入れなおすわけですからそれなりの時間は必要だったと思われます。

まあ、世界的なプロモーションのため英語以外の言葉でリリースするという戦略は結構昔からありました。

あのビートルズでさえ、ドイツ語版の「Sie Liebt Dich」(「She Loves You」)とか「Komm, Gib Mir Deine Hand」(「I Want To Hold Your Hand」邦題「抱きしめたい」)もあるくらいですから。

でもねえ、日本語版のこれはなくてもそれなりに売れたんじゃないかな。でも、このシングルを持っている人はかなり貴重ですね。

その後のポリスは1983年のアルバム『Synchronicity』でビルボードのアルバムチャートも1位を獲得し、シングルカットされた「Every Breath You Take」(邦題「見つめていたい」)でもシングルチャート1位のダブル制覇となりました。でも、直後に解散しちゃいましたが。

スティングはその後ソロアーティストとして成功しています。

やあ、誰にでも黒歴史はあるもんだわ。

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2021年6月 5日 (土)

山田洋次へのヒントとなった曲

かすてら音楽夜話Vol.117

Yamadayoji

<とあるシーン>*画像はネットから拾いました

山田洋次監督映画「幸せの黄色いハンカチ」のスクリーンショットです。

シナリオはいうまでもないんですが、出所した健さんが妻の元へ戻り、前と変わらず自分のことを受け入れられる気があるならば、木に黄色いハンカチを結んでおいてほしいという手紙を書くというもの。

その妻の元に戻るロードムービーですね。

これはかなり有名なんですが、元ネタがあります。

それは次の曲をお聴きください。

 

Dawn featuring Tony Orlandoの「Tie A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Tree」でした。

この曲は1973年のビルボード1位獲得曲(4週)で、1973年の年間シングルでも1位でした。大ヒット曲です。そして、邦題は「幸せの黄色いリボン」というのです。

歌詞はもちろん英語ですけど、内容は「幸せの黄色いハンカチ」とほぼ同様です。結びつけるものがハンカチではなくリボンになるくらいのもの。

これはアメリカではかなり有名な話のようで古くから語り継がれているようです。ところがこれにかみついた人間がいまして、ピート・ハミルが自分のコラムに基づいたものとして訴訟になったのですが、古くからの伝承であると認められ訴訟は取り下げになりました。

有名になるとこうした風評被害のようなものも起きてきますね。George Harrisonの「My Sweet Road」という曲も盗作騒ぎに巻き込まれましたし。

「幸せの黄色いハンカチ」は1977年の作品で、原作はそのピート・ハミルの「Going Home」ということになっています。

ですがね、ニューヨークポストにちょこっとだけ載ったコラムとビルボード年間シングル1位とでは、どちらがきっかけになったものだか。しかも邦題も酷似してますし。

Todawn

Dawnとは、実態としてTony Orlando(トニー・オーランド)のバックコーラスです。この3人、単に「Dawn」だったり「Tony Orlando & Dawn」だったり、名称もよく変わっております。

余談ですが、「悲しき願い」(新しいほう)の尾藤イサオもバックに「ドーン」をつけて尾藤イサオ&ドーンでございました。

ともあれ彼らはアフリカ系女性ふたりにメインヴォーカルはヒスパニック系、おそらくメキシコ系アメリカ人ですね。

トニー・オーランドも下積みが長く、スタジオシンガーとしてやっていたのですが、「Candida」という曲をリリースしたところ、ビルボードのTop10シングルとなり、「幸せの黄色いリボン」の前には「Knock Three Times」(邦題「ノックは三回」)という曲でビルボード1位を獲得してます。

その後も「He Don't Love You(Like I Love You)」(邦題「恋のシーソーゲーム」)でも1位になっております。いわば、一世を風靡したアメリカ版歌謡界のスターです。

その後、リメイクされたテレビドラマ版「幸せの黄色いハンカチ」では「幸せの黄色いリボン」が劇中歌として使われました。めでたし、めでたしです。

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2021年5月27日 (木)

レノンの凶弾に隠れた曲

かすてら音楽夜話Vol.116

 

冒頭の曲はJohn Lennon(ジョン・レノン)の1980年の曲で「Starting Over」です。

1980年12月8日(日本時間で翌日)、ニューヨークのダコタハウス(ジョンの自宅)前で狂信的なファンであるMC(イニシャル)により、ジョンは銃撃され、その後亡くなりました。

「Starting Over」はアルバム『Double Fantasy』からの先行シングルで、10月にリリースされました。

しばらくの間ジョンはハウスワイフ、つまり主夫生活(息子のショーンを養育するため)をしていて、ミュージックシーンに復帰するのはほぼ5年ぶりでした。「Starting Over」もどちらかというとジョンの復帰ということのほうが話題になっていた曲です。

もともとビッグアーティストですからビルボードのシングルチャートが上昇するのはわかっていたことと思います。現在と違いたとえジョンでも初登場1位という勢いがあったわけではありません。

とりわけ、この曲の前に1位だった曲は、Kenny Rogers(ケニー・ロジャース)というカントリー系シンガーの「Lady」が6週連続の1位を保っていたのです。

ですが、ジョンの悲劇を受け、「Starting Over」は12月27日についに1位を獲得し、5週連続1位となりました。ジョンの生涯売り上げ(ビートルズを除く)でも「Starting Over」が最大となりました。

さて、その陰で5週間ビルボード2位のままだった曲があります。

 

Leo Sayer(レオ・セイヤー)の「More Than I Can Say」(邦題「星影のバラード」)でした。

レオ・セイヤーはイギリス人のシンガーソングライターですが、この曲は自作ではなくクリケッツというバンドのカバー曲です。でも、レオ・セイヤーのヴァージョンが最大のヒットとなりました。

アメリカ進出に際しても「The Show Must Go On」(こちらはレオの自作)という曲がアメリカのバンドThree Dog Nightに取り上げられたのがきっかけです。

1980年当時、ワタクシは週末になると深夜ラジオを流し、ビルボードのチャートをチェックしておりました。で、ケニー・ロジャースの「Lady」の次は「More Than I Can Say」が絶対次の1位になるだろうと思っていたんです。

この曲、直接ビルボードのチャートには影響しないんですが、日本人の心をちょっと揺さぶるような感じがありませんか?。邦題は「バラード」となっており、バラードには違いはありませんが、節の回し方などが演歌チックだったりします。

でも、ジョン・レノンの悲劇を耳にし、「ああ、これでレオ・セイヤーは1位になれないな」とも思いました。

Leosayer

ところで、レオ・セイヤーはそれ以前に2曲のビルボードシングル1位を獲得しています。

ひとつは「You Make Me Feel Like Dancing」(邦題「恋の魔法使い」)で自作曲、もうひとつは「When I Need You」(邦題「はるかなる想い」)で、こちらは「カリフォルニアの青い空」のAlbert Hammond(アルバート・ハモンド、イギリス人)とCarol Bayer Sager(キャロル・べイヤー・セイガー)による曲です。しかも、この2曲は連続のものです。

余談ですが、キャロル・べイヤー・セイガーは竹内まりやの「Fly Away」という曲の作詞を担当しております。

ただのバラード歌手ではないレオ・セイヤーを堪能してください。

 

「You Make Me Feel Like Dancing」、1976年のビルボード1位でした。

1976年というとディスコブームの1年前。レオ・セイヤーはファルセットまで駆使し、ひとりビージーズ状態ですね。

と、いうことでレオ・セイヤーでした。現在オーストラリア在住でこのコロナ禍の世界についての曲を発表したとか。

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2021年5月20日 (木)

文化庁長官はポップスの達人なのである

かすてら音楽夜話Vol.115

Tokura

察しのいい人はお気づきでしょうが、今回は先月文化庁長官に就任された、作編曲家の都倉俊一氏を取り上げます。

1948年生まれ。デビューは中山千夏の「あなたの心に」(作曲のみ)です。この時わずか21歳ですのでかなりの早熟であったといえます。

というのも、父親が外交官でひとりでドイツにわたり音楽の基礎を学んだ経験もあるのですね。

そのようにして徐々に歌謡界で名を広めていき、ほとんどの曲でアレンジも手掛けるようになりました。

さて、都倉氏というと山口百恵のキャリア前半とピンクレディのほとんどの曲を手掛けたことで知られています。トピックとなるような代表曲はこの中から出てくることでしょうが、ワタクシ的にはさらにインパクトのあるものを紹介しましょう。

Linday

都倉俊一氏は山本リンダの本格的カムバックで作詞の阿久悠氏とともに一連の曲を提供しています。

「どうにもとまらない」、「狂わせたいの」、「じんじんさせて」、「狙いうち」…というお色気路線。どこか一本筋の通ったコンセプトではあるのですがね。これは、のちのピンクレディの時にも発揮されたものにも通じます。

 

つうことで、取り上げたのはカムバック第1弾、「どうにもとまらない」(作詞:阿久悠 作編曲:都倉俊一)でした。1972年リリースのオリコン3位です。

これほどインパクトのある曲はないでしょう。曲の構成から行くと、Aメロ、Bメロ、Aメロ、Bメロ、サビとなります。従来のAメロ、Bメロ、サビとは違いひとひねりしてます。

山本リンダも1966年の「こまっちゃうナ」以来の大ヒットで、曲以外にも「ヘソ出し」「パンタロン」「激しい振り付け」と必死のアピールなのであります。この時代、テレビも平気でお下劣なことをやっていたはずですが、歌謡番組で歌手がお腹を出して歌うなんてことは一切なかったわけです。

曲の購買層はティーンエイジャー以上の男性でしょうけど、オリコン3位止まりだったのは、中高生あたりがこのシングルを買ってくると、「おかんにどやされる」危険性があったからかもしれません。

山本リンダ、こう見えても都倉氏より2学年下のまだ21歳でした。めっちゃ大人に見えます。

都倉氏のアレンジは曲構成だけにとどまらず、曲の間のラテンパーカッションが秀逸です。

紅白出場時の映像もありますので、リンク張っておきます。こちらは曲間だけでなく、ダン池田とニューブリードのパーカッショニストが終始叩きまくりという。

「ヘソ出し」についてですが、うだるように暑い内陸部の中国とかバンコクの中華街などでは、ランニングシャツの裾をまくり上げたおっさんがいまして、これを秘かに「山本リンダ」と名付けていたのはワタクシでございます。

また、曲は変わりますが、「狙いうち」は自分の通っていた学校の野球部の試合でチャンスになると応援団が流していたのをよく覚えております。その後、高校野球でも使われるようになりました。これが当時のプロ野球でも導入されていたら、助っ人外人の元大リーガーなどが「Oh!リンダヤマモト!」などと感銘して本国にも多少の影響が出たかも…なんちゃって。

 

続いての曲はペドロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」(作詞:阿久悠 作編曲:都倉俊一)でした。1973年リリースでオリコン24位。とはいえ、かなりのロングヒットとなり累計売上が50万枚ともいわれています。

ペドロ&カプリシャスとは、名前でも想像できるでしょうが、ラテンテイストのバンドです。デビュー曲「別れの朝」(外国曲のカバー)はオリコン1位を取りましたが、この曲からヴォーカルが前野曜子から髙橋まりに変わりました。

髙橋まりとは現在の髙橋真梨子のことです。

曲についてですが、アレンジ自体は平凡です。ですが、ラテンバンドにリズムを強調せず、髙橋まりのヴォーカルをじっくり聴かすつくりになってますね。

曲の構成も独特で、Aメロ、Bメロ、サビ。続けてそのリフレインから大サビとなります。特にAメロ、「♪ジョニィがきたなら教えてよ、二時間待ってたと」の部分ですね。1音ずつ上がっていき見事に「ドレミファソラシドレ」(Cまたはハ長調の場合)を実現させております。大胆ですよね。

そしてBメロではポップスの王道ともいえそうな弾むような展開でサビにもっていくのですね。それで終わりかと思ったら大サビの「♪今度のバスで行く…」ですから、都倉ワールド全開の独創的な作りになっております。

続くシングル「五番街のマリーへ」も阿久悠・都倉俊一コンビでこちらもロングヒットを記録しました。今度はさらに和風にまとめられ、ラテンテイストはどこへといった感じです。ペドロ&カプリシャスはしばらくはこの阿久悠・都倉俊一とのコラボで活動していましたが、髙橋まりとメンバーのヘンリー広瀬(髙橋真梨子ののちの旦那)の脱退により方向性も元に戻っていったようです。

 

3曲目は桑江知子の「私のハートはストップモーション」(作詞:竜真知子 作曲:都倉俊一 編曲:萩田光雄)でした。1979年リリースの曲でオリコン12位のスマッシュヒットです。

YouTubeの映像は桑江さんのライブなんですが、バックの演奏はシングルによるものでいわばカラオケ状態です。とはいえ、桑江さんの歌もシングルと遜色なく、貴重ですので採用しました。

アレンジを年長者の萩田氏に任せているのは、同時期に活動していたピンクレディの方に専念したい気持ちがあったからでしょうか。とはいえ、曲の構成は手を抜いておりません。

こちらは、いきなりサビから始まります。しかも、サビがかなり長い。歌唱力が求められます。これはインパクトありますね。そして、続くAメロ、Bメロは短く、しかしなかなか歌い辛そうなメロディです。そして、再びサビにもっていくという展開。もう全体的に歌唱力がなければ歌いこなせない曲ともいえましょう。

桑江さんですが、これがデビュー曲です。そして、年末のレコード大賞最優秀新人賞を獲得しています。この時のライバルには竹内まりやもいたのですが、桑江さんの圧勝ですね。

桑江さんの所属は渡辺プロで、ニューミュージック系のプロモーション活動をナベプロで行った先駆けです。そのナベプロ、桑江さんのデビューを1979年1月に設定し、年末に照準を合わせて賞を取らすという見事な戦略でした。ちなみに竹内まりやはいち早く1978年にデビューしサードシングルの「September」で賞レースに参加するという具合でしたので、新人というフレッシュさには欠ける部分もあったのかもしれません。

ナベプロではニューミュージック部門ということになっていましたが、その時はニューミュージック風に歌うシンガーでした。そういう意味では後輩(年齢は逆転しますが)の山下久美子と同じような立ち位置の人でした。吉川晃司も同様ですね。ですが、本格的なブレイクはしませんでしたねえ。この曲大好きだったけどね。

都倉氏の残念だったことはひとつあります。それは、ピンクレディのアメリカ進出時に都倉氏の曲が採用されなかったことです。都倉氏であれば、アメリカ人の言葉に曲を乗せるなど朝飯前だったろうに、くれぐれも残念です。

ということで、都倉俊一の3曲を自分なりに選んでみました。はたして、現在の文化庁長官という身分と作編曲家が両立するかどうか。微妙な立場ですね。曲をリリースしたところで、クレーム入ったりしますからね。「何やってんだ」とか。

早いところ、今の身分は解除してあげて、大衆に受け入れられるような曲を長く作っていただきたいところです。

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2021年5月12日 (水)

京平さん追悼番組に物申す

かすてら音楽夜話Vol.114

Tsushumi

昨年、「史上最強の職業作曲家」という記事を書きました。

まだその時は筒美京平さんはご存命でしたが、10月にお亡くなりになり、直後から追悼番組がいくつか放送されました。

NHKでは盟友ともいえる松本隆のインタビューなどを盛り込んだ内容でした。テレビ朝日の林修の番組では、どういうわけか爆笑問題の田中裕二がMCで彼の選んだベスト20という内容でした。

1960年代から昨年までという長いスパンでの活動でしたので、各年代をまんべんなく取り上げたものといえます。

ですがね、マスコミや芸能界全般にいえることなんですけど、某事務所所属のタレントの楽曲を異様に持ち上げすぎなんじゃないかとこの記事を書くことにしたのですね。

例えば、Kです。別に彼が不倫をした、事務所を辞める時の態度がどうこうは申しません。はっきり申し上げると、Kは歌が下手です。まあ、芸能界には能瀬慶子という致命的に音程の取れない人はいましたけど、Kの場合、そこらの素人とそれほど変わらないんじゃないかと思っております。

テレ朝のMCの田中裕二も1965年生まれで、Kと同級生。思い入れもあるといいますが。Top20の選曲では田中ひとりで独断的に選んだとは思えないですが、彼が高校から大学くらいの時の曲が盛り込まれていたんですね。

ちなみに、テレ朝の番組放送時点ではKの曲はTop20にもちろん入っていましたが、不倫発覚後の放送だったためか、曲の音声・映像とも流れませんでした。

また、1980年代に出現し始めたアイドルたちも曲の評価以上に取り上げられすぎだったような。京平さんはヒットメーカーで任せておけば大丈夫というところもありますが、この人を絶対売るという超プレッシャーのかかったところでは本来の京平さんの自由奔放さが制限されているとワタクシは感じます。そのような下心の感じられないところの曲を評価したいです。

長くなりました。つうことで、あれを外してこっちを評価しろという記事。

 

野口五郎で「青いリンゴ」(作詞:橋本淳 作曲:筒美京平 編曲:高田弘)でした。

この曲は野口五郎のセカンドシングル(1971年)なんですが、彼のデビュー曲は「博多みれん」というモロ演歌だったわけです。ですが、まったくヒットせず、ポップス路線に転向したのがこの曲だったというわけです。

オリコンチャートでは14位でしたが、この時わずか15歳(高1)。若い男性アイドルが不在であった芸能界ではものすごく注目された存在となったのですね。翌年の1972年に西城秀樹と郷ひろみがデビューするきっかけでもある曲ですので、これはひときわ評価したいです。

また、1974年の「甘い生活」(作詞:山上路夫 作編曲:筒美京平)で野口五郎は初のオリコン1位を獲得しています。野口五郎のポップスセンスを見事にくみ取った京平さんの能力が発揮されていると感じますね。

これがなかったら、「新御三家」は存在しなかったかもしれない曲です。

 

榊原郁恵で「ROBOT」(作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀)でした。

こちら、1980年のリリースで、オリコンチャートでは17位というスマッシュヒットです。

全面的にシンセサイザーのピコピコ音が耳につくところです。当時は海外ではクラフトワークなど、国内ではYellow Magic Orchestraの楽曲が「テクノポップ」として出てきた頃です。ちょうど、テクノロジーの世界でもまともなシンセサイザーが使い物になってきたところで、海外・国内の楽曲ウォッチャーでもある京平さんが、シンセを使ってみようという冒険作品でもあるのです。

例のTop20ではテクノ歌謡ということで、早見優の「夏色のナンシー」(作詞:三浦徳子 作曲:筒美京平 編曲:茂木由多加)を取り上げていましたが、「夏色のナンシー」は1983年。郁恵さんのほうが早いんです。

京平さん、実験好きですから。庄野真代の「飛んでイスタンブール」でヨーロッパとアジアの狭間を体現して、その後「魅せられて」でレコード大賞を取るという。

ま、こちらはいち早く「TOKIO」(沢田研二)という曲もありましたけど。

 

稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」(作詞:秋元康 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀)でした。

1982年リリースのオリコン8位のスマッシュヒットです。

稲垣潤一もまた、歌うドラマーですね。彼の武器は独特の声で、ドラムは付け足しともいえます。スカウトされたのもドラムじゃなくてこの声なんです。ほとんど歌謡界の匂いのしない人物ですが、リリースするシングルはほとんどが提供曲です。ま、それだけ歌がうまいともいえます。

歌謡界とかけ離れた稲垣潤一ですが、シングル曲はアルバムからのシングルカットということになります。デビューアルバムはオリコン22位と、ポップス・ロック寄りの新人としては健闘の部類に入るでしょう。ですが、このアルバムからの2曲のシングルは見事にこけ、いよいよ、京平さんの出番が回ってきます。

こちら、曲先で作詞は3人の作詞家のコンペが行われ、秋元康のものが採用されました。アレンジは京平さんの弟子のような関係の船山氏が手がけました。イントロ部分に「セーラー服と機関銃」がかすかに感じられますが、ぼぼ完璧ですね。

こうして、稲垣潤一のアダルトなポップロックが誕生したというわけです。京平さんの曲でこの立ち位置のものは初めてではないでしょうか。ま、以前に桑名正博に提供した曲はありますけど。これほど、歌謡界と距離を置いたテイストの曲はないんじゃないかな。

さて、作詞の秋元氏ですが、これが初のヒットで実質2曲目ということになります。この曲がなければ秋元氏もただの放送作家で、その後のおニャン子クラブもAKB48も、「川の流れのように」もなかったわけで、意外に見落とせないエポックな「ドラマティック・レイン」なのでした。

さあ、どうだ某事務所に、爆笑の田中(および番組スタッフ)!

★引き続きご要望、リクエスト募集しております。記事が気に入りましたら、「いいね」をください。また、コメントもよろしくお願いします。

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2021年5月 3日 (月)

フィンガー5とイアン・ギラン

かすてら音楽夜話Vol.113

 

突然でしたが、フィンガー5の「学園天国」(作詞:阿久悠 作編曲:井上忠夫)でした。

「学園天国」はのちにカバーされた小泉今日子ヴァージョンもありますが、冒頭の「♪ヘ~イ、ヘイ、ヘイ、ヘ~イ、ヘイ!」のぶっ飛び方は、とてもじゃありませんが、晃くんにはかないません。

フィンガー5というグループ名からわかるように、アメリカのJackson 5(ジャクソン5、のちのジャクソンズ)に倣った、元祖沖縄アイドルの兄弟グループです。

Finger5

ま、晃くんと書きましたが、今年還暦でございます。それにしてもリリース時12歳で小学生。声変わり前なのか、それにしても異様なハイトーンでございます。そして、歌のうまさは天才的ですし、「ガキのくせしてサングラスかよ」っちゅうイメージなので、非常に鼻につく存在として見えた方も多いのではないでしょうか。ま、ジャクソンファイヴのMichael Jackson(マイケル・ジャクソン)的な立ち位置の人です。

こちらの「学園天国」ですが、1974年のリリースで、オリコンシングルチャートは2位まで上がった曲です。それ以前にも、「個人授業」(阿久悠・都倉俊一作品)と「恋のダイヤル6700」(阿久悠・井上忠夫作品)が連続の1位を獲得していて、当時のトップスターですね。現在であれば妹の妙子さん(11歳で小学生)も含め、夜の番組には出演できないことになりますが。

で、印象的な冒頭の「♪ヘ~イ…」なんですが、もとになった曲があります。

 

Gary U.S. Bondsの「New Orleans」(Frank J. Guida-Joseph F. Royster)でした。

1960年のリリースでビルボードの6位を記録したヒット曲です。

この方、1961年にビルボード1位を獲得したことがあるのですが、それ以降はヒットに恵まれず、突如1981年に復活しビルボードのチャートにも顔を出すという復活を遂げたことがあります。

この曲の冒頭の「♪Hey~」を井上忠夫がいただいたのですね。リスペクトした表現ですと、Gary U.S. Bondsをオマージュして「学園天国」で使ったということになります。なにしろ、元ブルーコメッツですから、1960年の曲くらいコレクションしていたと思いますよ。

どちらの「ヘイ」も作詞じゃないのかという話も出てくるでしょう。ですが、職業作詞家の阿久悠さんはそんな下世話な言葉を書かないでしょう。まずは、阿久悠氏が詞先で井上忠夫氏にバトンタッチし、井上氏が曲を作りますが、アレンジも担当した井上氏が「そうだ、あれがあった!」と「New Orleans」を引っ張り出してきたのだと考えます。それを阿久悠氏がOKを出し、インパクトのある曲となったのですね。

この手法、筒美京平氏のやり方にも似ています。

で、「New Orleans」の冒頭の「♪Hey~」ですが、フィンガー5と比べるとやや控えめな感じがします。これは、井上氏が晃のハイトーンを生かして、Gary U.S. Bondsよりも強調した感じに仕上げたのでしょう。

さて、「学園天国」から7年後、イギリスで「New Orleans」をカバーしたバンドがいました。

 

Gillan(ギラン)の「New Orleans」でした。1981年のUKチャートで17位と、ハードロックとしては異例のシングルヒットを記録しています。

ヴォーカリストのIan Gillan(イアン・ギラン)はDeep Purple(ディープパープル)のヴォーカリストです。

Iang

この曲の冒頭の「♪Hey~」なんですが、フィンガー5の「学園天国」に近いものがあるように思えてなりません。ま、Gary U.S. Bondsのヴァージョンをハードロックやメタル寄りにアレンジすればこんな風になるという話もありそうですけど。

イアン・ギランはパープル時代も含めて何度も来日していて、その際にフィンガー5の演奏をテレビで見たとか、はたまた、レコード収集していた、中古レコード屋で偶然見つけたなどの可能性がなくはないですね。

ディープパープルの来日としては1973年で、「学園天国」リリース前です。ですが、Ian Gillan BandとGillanとしては1977年、1978年、1981年に来日してます。

その時にレコ屋を漁るイアン・ギランの図というのもなんか夢があるじゃないすか。

日本人アーティストというと洋楽のパクリという話も出ますけど、逆パターンがあってもいいんじゃね?

★この記事は、昨日facebookにアップされた元「知子のロック」のトーマスさん(すずき銀座さん)の記事からインスパイアされて書きました。トーマスさん、ありがとうございます。

★引き続き、リクエスト等ありましたらお願いいたします。高評価の「いいね」とコメントもいただけるととても嬉しいです。

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