「ベティ・デイビスの瞳」ですが、ビルボードで5週1位を続けたのち、オランダの企画グループStars On 45の「Stars On 45(Medley)」に首位を明け渡し陥落しました。しかし、2週後に返り咲き、4週1位を保ちました。つまりは、9週1位を獲得し、1981年の年間チャート1位になったばかりか、その年のグラミー賞、のSong Of The Year(最優秀楽曲賞)とRecord Of The Year(最優秀レコード賞)との二冠に輝いたのです。
この頃、個人的には日本で唯一ビルボードのチャートが掲載されている雑誌、「FM fan」を毎週購入しておりました。それを知る前はラジオ関東の「American Top 40」(湯川れい子がパーソナリティで、複数いたアシスタントはその後音楽評論家になってます)を聴いて手書きでチャートをつけていたりしました。ま、眠ったら終わりだし、自宅にいないときはつけられないので、購入したようなものです。
また、アルバム『Living In The U.S.A.』はこれまで提供を受けていたウエストコースト系の周辺のミュージシャンの曲をできるだけ抑え、チャック・ベリーからプレスリー、モータウン系のミラクルズなどのカバー曲を散りばめた意欲作でもありました。ですが、リンダにとってこれが最後のアルバムチャート1位となったのでした。
さて、アルバム『Goats Head Soup』のリリースに先立ち、先行シングルとしてリリースされたのが「Angie」です。1973年10月20日付のビルボードHot 100で1位を獲得します。来日を中止に追い込んだ奴ら、ざまあみやがれといったところですが、残念ながら翌週には首位を明け渡しました。ストーンズは1週だけの1位という曲が多いんですよね。Eaglesもそうなんだけど。
「Angie」と『Goats Head Soup』はダブルでビルボード1位とセールスはよかったのですが、これ以降アルバム1位はキープするものの、1978年の「Miss You」と『Some Girls』まで、シングル・アルバムのダブルの1位は獲得できませんでした。つまり、売り上げが落ちたということになります。キースのおクスリ問題もあったからですかね。
この他、アル・ヤンコビックはHeuy Lewis & The Newsの「I Want A New Drug」のパロディ、「I Want A New Duck」、Queenの「Another One Bites The Dust」のパロディ、「Another One Ride Tne Bus」、Madonnaの「Like A Virgin」のパロディ、「Like A Surgeon」などもあります。
そして、この「Every Night & Day」はふたりの共作です。作詞作曲:門あさ美・岡本一生 編曲:松岡直也となっています。
岡本一生氏はシンガーソングライターとして渡辺プロと契約し、シングル3枚、アルバム3枚を1978年から1982年にかけてリリースしたのみ。ですが、昨年、ファーストアルバム『Moonlight Singing』とセカンドアルバム『MOONLIGHT MYSTERY』が2 in 1の形で、タワーレコードから再発されました。なんと、これが、初のCD化です。
「Every Night & Day」は門あさ美の名義ながら、歌いだしは男性が先です。この曲が収録されたアルバム『Hot Lips』(1982年7月5日リリース)は一昨年タワーレコードの協力の下、紙ジャケット仕様で再発されました。シティポップの仕掛人であり、あまたのシティポップの再発に取り組んできた金澤寿和氏が解説を手掛けております。その中で、岡本氏の声を「ちょっと谷村新司似のスケベ声(←褒めてます)が、男女の濃ゆいムードを盛り上げている」と書いております。
The Knackの演奏スタイルやファッションを見ていると、「ビートルズの再来」と評価されたのがよくわかりますね。プロモーションビデオではありますが、「Good Girls Don't」で1本のマイクを二人で使うなど、明らかに影響が見て取れます。
このあたりも、チャップマンの強い指示があったのではないでしょうか。
Exileの「Kiss You All Over」の下りでもわかるように、チャップマンはミュージシャンにかなり高圧的に接するところがあるので、ミュージシャン側からも強い反発があったのではないかと思われます。The Knackも3枚目のアルバムからはプロデューサーを変更してしまい、そして、1981年という早い段階で最初の解散をしてしまいました。
それにしても、The Knackのデビューアルバム、『Get The Knack』(アルバムチャート1位、1979年の年間チャート16位、ダブルプラチナ)はかなり出来のいいアルバムで、たったの2枚しかシングルカットがないのが謎です。
腐れ縁
チャップマンが最も多くのプロデュースをしたのがBlondie(ブロンディ)です。
1978年のアルバム『Pararell Lines』(6位、年間9位)、1979年の『Eat To The Beat』(17位、1980年年間8位)、1980年の『Auto American』(7位、1981年年間28位)、1982年の『The Hunter』(33位)まで仕事を共にしました。
Styxは1990年に再結成しますが、トミーがDamn Yankees(ダム・ヤンキース)に所属していて不参加となります。この活動は短期間に終わりました。1995年にトミーも復帰します。このころ、ドラムのジョンが過度の飲酒による不調で参加が難しくなり翌年亡くなります。また、ベースのチャックもHIVによる影響で活動が制限されツアーではほぼ演奏できなくなっていきます(ただし、現在もメンバーではあります)。そして、1999年に『Brave New World』というアルバムをリリースしますが、デニスがインフルエンザなどによる体調の不良でその後のツアーへ参加できなくなったことから、ついにバンドから解雇されます。
松原みきさんは将来を期待されて、渡辺プロダクションの寮に住んでいたスター候補生でした。その後、渡辺プロダクションのマネージャーの菊地哲榮(きくち・あきひで)さんが会社をやめてからポケットパークという事務所を新たに作り、松原みきさんのマネージメントを始めたんです。 (伊藤銀次著『伊藤銀次自伝 MY LIFE, POP LIFE』シンコーミュージックより引用)
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