カテゴリー「Music Talk」の132件の記事

2021年10月24日 (日)

テクノポップとテクノ派生の音楽

かすてら音楽夜話Vol.132

 

いきなりの「Rydeen」(作曲:高橋幸宏)でございました。終盤がカットされていますが、一応SONY MUSICの公式チャンネルからのアップです。

いうまでもないことですが、Yellow Magic Orchestra(イエローマジックオーケストラ、YMO)は、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏からなるテクノを主体とするグループです。

YMOの結成は1978年で同年にアルバムデビューするとともに、翌年にはワールドツアーを行っていて世界的な評価を受けたグループでもあります。

YMOのすごいところは、やろうと思えば打ち込みやサンプリングで演奏できそうなところを、しっかりと高橋幸宏のドラムを据え、細野晴臣のベースとでリズムを作り、その周りで坂本龍一のシンセやサポートメンバーのギターなどを絡ませた、ライヴも凄い「バンド」であったことですね。

Ymo

この「テクノ」という概念ですが、電子音を主体とする無機質なサウンドともいえますが、やや曖昧です。

1970年代後半になり、自由に音色を変化できるシンセサイザーが安価(それでも相当高額)に普及してきたことと、音をコンピューター処理できるサンプラーなどが登場してきたことで、日本ではYMOが、ドイツではクラフトワークが登場してきたのです。

YMOのワールドツアーの成功も大きな影響を生み、テクノのテイストを取り込んだバンドやグループも続々と登場します。ま、それ以前もシンセサイザーを使用した電子音楽はあり、その下地はすでに作られていたと思います。

 

いうまでもない、「Star Wars Theme」(作曲:John Williams)ですが、Mecoというグループのディスコヴァージョンです。1977年と映画と同じ年にリリースされ、インストゥルメンタルとしては異例のビルボード1位獲得曲でもあります。

個人的には、映画やジョン・ウィリアムズのオリジナルよりもインパクトあったかもしれません。

また、1979年にはこんな大物までが影響を受けております。

 

Wingsの「Goodnight Tonight」(作詞作曲:Paul McCartney)でした。英米ともに5位のシングルで、なぜかアルバム未収録ですね。

イントロはもろフラメンコですけど、ディスコシーンを意識していたような気もしますね。そして、これまでのポールにない電子音やヴォコーダーで声を加工するなど、明らかにテクノを取り入れた曲です。

でも、わたしゃ、この曲が好きですね。そのため、普段は購入しないポールのベストなども手に入れたほどです。

まあ、影響を受けたのは日本も同様です。

 

ここからは日本の派生曲ということになりますが、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」です。1981年のリリースでオリコンシングル7週連続1位を獲得。年間4位ですね。

イントロがもろ「ライディーン」なんですが、それもそのはずで作曲は細野氏。作詞は松本隆というはっぴいえんどでおなじみのコンビですね。細野氏は松本隆の詞をもらって30分で作ったとのことですが、長江健司の歌はともかく、ユーミンや坂本龍一からかなりの評価を受けたとのことです。

細野氏がその後さまざまな歌手へ曲を提供するようになったのは「ハイスクールララバイ」以降のことでした。

そして、テクノはひとりのフォーク歌手を変貌させてしまいます。

 

ヴァージンVS(ヴァージンヴィズ)の1981年のデビュー曲、「ロンリーローラー」(作詞作曲:A児)でした。映像はTVKのFighting 80より。

A児こと、あがた森魚(あがたもりお)は1972年に「赤色エレジー」という自作曲でデビューし、オリコン7位のヒットを記録しています。ですが、当時の印象は曲の印象もあり、とても暗いものでした。

それが長髪を切って、サングラスをかけてのイメージチェンジです。

とはいえ、このグループ、「ロンリーローラー」がフジテレビ系のドラマのテーマソングでもあり、その後もフジのタイアップが続き、さらに有名にしたのが「うる星やつら」の挿入歌やエンディングテーマなどに起用されたことですかね。

「ロンリーローラー」は中古シングルで購入しました。

そして最後はこちら。

 

1979年のPlasticsのデビューシングル、「Copy」(作詞:中西俊夫 作詞:立花ハジメ)でした。

彼らは最初はドラムもベースもいるバンドで仕事つながりのアマチュアバンドでしたが、ヴォーカル兼ギターの中西、ギターの立花、女性ヴォーカルの佐藤チカだけがバンドに残り、元四人囃子の佐久間正英(ベース)と作詞家でもあった島武実(高田みずえ「硝子坂」など)が加わり、ニューウェイヴ、テクノへとシフトしていきました。

佐久間は伝説のバンドのベーシストではあったものの、メンバーの演奏テクニックではほかのバンドとは太刀打ちできないと考え、自らがシンセサイザーに転向し、島さんはリズムボックス(ドラムの代わり)へ配置しました。このあたりからテクノ的な要素が加わっていったと思われます。

この、「Copy」はイギリスのインディーズレーベルからのシングルで、ファーストアルバム発表後にはアメリカツアーを行うという、海外での評価を受けるバンドでした。

しかし、1981年に突如の解散です。これは佐久間氏が期間限定の参加を事務所から申し渡されていたからともいわれています。

さて、この後は日本の楽曲ではあからさまなテクノは姿を消していくのですが、シンセサイザーはもはや欠かせないものとなり、打ち込みやサンプラーもどんどんと取り入れられていくことになります。

それでも電気グルーブとかPerfume、きゃりーぱみゅぱみゅなどに受け継がれていったことになりますかね。

★ご意見、リクエスト等、コメントでお願いします。高評価もお願いします。

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2021年10月13日 (水)

ドドンパ…富士急ハイランドにあらず

かすてら音楽夜話Vol.131

 

渡辺マリの「東京ドドンパ娘」(作詞:宮川哲夫 作曲:鈴木庸一)でした。1961年のシングルで、当時はオリコンがなかったので売り上げ実数は不明ですが、ミリオンセラーということですので相当売れた曲です。

この「ドドンパ」というリズム、都都逸とルンバ(もしくはマンボ)が融合したものといわれています。

前回も登場した『昭和レジデンス・赤盤』では知子のロックが、さらにアップテンポなイカしたカバーを収録しております。

んで、何がドドンパなの?といいますと、いささか「東京ドドンパ娘」ではわかりにくいので、次の曲を。

 

1964年、前回の東京オリンピックを挟み250万枚をうりあげたという、和田弘とマヒナスターズwith松尾和子の「お座敷小唄」(作詞・作曲:不詳 採譜:和田弘 編曲:寺岡真三)でした。

イントロ部分を除いて全編リズムがドドンパという曲ですね。音符のちゃんとしたフォントがないので、「トン」とか「ト」などで表現しますと、「♪トン トン トトト トント」の繰り返しです。

この曲、作者不明なんですが、なんでも某所の歓楽街で歌われていたものを無断で使ったということです。歌詞はさらにきわどいものだったようですが、そのあたりは発禁になってしまう恐れがあるので修正したといわれています。

この曲にドドンパのリズムを当てたということですね。

本来、マヒナスターズはハワイアンのバンドなんですが、デビュー後はムード歌謡に特化し、演奏のみはスティールギターも使うなど、ハワイアンの形をとっています。その音で、「小唄」ですからね。なんともシュールな世界です。

それにしても、作者不詳ということでのちに「自分が作った」という人が名乗り出て裁判沙汰にもなった曲ですね。

 

1962年の北原謙二のヒット、「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美 作曲:遠藤実 編曲:山路進一)でした。

これも、強調こそしてませんがリズムはドドンパです。

この1960年代はじめはドドンパがブームになり、ドドンパのダンスも作り出されたということですが、なんともドメスティック感が付きまといますね。そのブームも「東京ドドンパ娘」や「お座敷小唄」を超えることができず、ついには終息したとのことです。

でも、あの国民的歌手、美空ひばりも「ひばりのドドンパ」というシングルをリリースしているほどなので、とんでもない流行ではあったはずですね。

Sakuratamako

しかし、ドドンパのブームから約10年後、ドドンパが復活しました。

 

桜たまこの1976年のセカンドシングル、「東京娘」(作詞:石坂まさを 作曲:杉本真人)でした。映像は引退後のもので1988年の映像ですが、全然衰えを感じません。

彼女は1961年生まれなので中学3年でデビューしたことになります。歌はうまいですね。と、いうのも作詞を担当した石坂まさをの門下生だったんです。石坂まさをは作曲も行い、代表曲として藤圭子の「新宿の女」があります。

「東京娘」は40万枚のヒットを記録してます。現在ならば相当なヒットですが、当時といえば「およげ!たいやきくん」に「木綿のハンカチーフ」というメガヒットに埋もれたのでしょうかね。1976年の紅白出場者を見てみると伊藤咲子あたりに持っていかれたかと。

それにしてもいきなり「♪ お・じ・さ・ん」ですからねえ、結構インパクトあったと思いますよ。続くシングルは同じ作者による「おじさんルンバ」でしたが、こちらは見事にこけております。

そして、桜たまこですが、シングル4枚、アルバム1枚をリリースしたものの、1979年に引退しております。いったい何があったのか。

さて、ドドンパですが、これ以降新曲のリリースはない模様です。しかし、「東京ドドンパ娘」は相当な数のミュージシャンにカバーされていますので、やっぱりかなりのインパクトはあったのだと思いますね。

ちなみに、この記事は『昭和レジデンス・赤盤』を聴いていてひらめきました。

★ご意見、リクエスト等、コメント欄でお待ちしております。

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2021年10月 3日 (日)

昭和カルト歌謡

かすてら音楽夜話Vol.130

Tomorok

ワタクシの知り合いにミュージシャンをやっていた人がおります。ブログにも数回登場し、かつコメントも下さる「すずき銀座」さん、またの名を「トーマス」さんといい、かつてテレビ朝日で深夜に放送していた「えびす温泉」という勝ち抜きのオーディション番組に「知子のロック」として登場された方です。

初めて登場した時のインパクトはかなりのものでした。お揃いのパンタロンにフリルのついたシャツといういでたち。インタビューに対応するのはリーダーのトーマスさんでしたが、茨城訛りがロックというよりはのど自慢の出演者みたいでした。

また、ヴォーカルの知子はアニメ声ながら歌いだすとパワフルでど演歌調にもなるなど、未知の可能性を感じさせるグループでした。

そして、1年ほどが過ぎ知子のロックはついにCDデビューを果たします。当然ながらデビューアルバムの『ルートRockで待ってなよ』を購入し、渋谷の小さなライヴハウスに演奏を聴きに行ったものです。その時にメンバーと話すことができました。

また、新宿のライヴハウスの演奏では時間があったのでとある喫茶店に立ち寄ると、そこに知子のロックのメンバーが入ってきたのでした。不思議な縁でございます。

そんな彼らの演奏ですが、すでに解散してしまってますので公式なものはございません。削除覚悟でアップしてみましょう。

 

知子のロックで「サイケな街」(作詞:水木ひろし 作曲:桜井順)でした。

この曲は万里れい子という人の1968年のシングルのカバーです。昭和カルト物を集めた『昭和レジデンス・赤盤』というコンピレーションアルバムに収録されております。

さて、その万里れい子とは、のちに森田公一とトップギャランに加わった渡部玲子さんでした。

んでは、万里れい子オリジナルをどうぞ。

 

コーラス部分などが知子のロックに通じてますね。

もっとも、知子のロックは「平成のヤングに昭和のサウンドを聴かせるためにタイムスリップしてきたバンド」ですから、大いに昭和40~50年代の香りがプンプンなんですけど。

<2021/10/08追記>
作曲の桜井順さんですが、つい先日お亡くなりになりました。代表作として「黒の舟歌」「マリリン・モンロー・ノーリターン」などがあります。これまた、深堀したくなるお方ですね。合掌。

さて、『昭和レジデンス』(赤盤・青盤とあり)の収録曲をたどってみると、あの人がこんな曲をという例もあります。

 

西郷輝彦の1973年のシングル、「ローリングストーンズは来なかった」(作詞作曲:藤本卓也)でした。

1973年なんですがあのストーンズが初来日する予定で武道館のコンサートもありチケットも完売だったのですが、メンバーの麻薬不法所持などによる逮捕歴やビートルズ来日時の混乱が予想されるため、入国許可が出ませんでした。

それにしても「星のフラメンコ」で一世を風靡した大スターですから、ストーンズの話題にも敏感なんでしょうかね。それにしても、事務所はよくぞこの曲をリリースしたものです。しかもA面ですよ。

ちなみに作者の藤本さんは五木ひろしの「待っている女」などのヒット曲もある方です。

しかし、今でもそうですが日本の入管って非人道的ですよね。元ビートルズのPMさんや超大物俳優(パンツ事件)みたいに成田で不法所持が見つかったわけではないのに。

Snacky

さて、最後に紹介するのはこちら。

 

海道はじめの1968年のデビューシングル「スナッキーで踊ろう」(作詞:三浦康照 作曲:船村徹)でした。

いやあ、地獄の底で歌っているような独特のインパクトですね。

ちなみに、ジャケットに写るスナッキーガールズですが、小山ルミ(左)と吉沢京子(中)でございます。

この海道はじめという方、船村徹のお弟子さんなんですね。船村徹によるとこの曲は厄年を乗り切るために作ったともいってますね。

そして、この謎の「スナッキー」とは、プリマハムの新製品のソーセージの商品名で、このシングルを先行発売し、ジャケット裏のスナッキーダンスなどを流行らせてプロモーションをさせたかった狙いがありました。ジャケ写の海道さんの手つきもソーセージを思わせるようなものです。また、プリマの社員にはこの曲を密かにリクエストさせて、全国に「スナッキー」の名前を浸透させようという狙いもあったようです。

なお、リンクは張りませんがYouTubeには「スナッキーで踊ろう」の誕生秘話が3作上がっております。かつてNHKで放送された番組なので、きっちりしております。

なお、海道さんは民謡教室の師匠で中野で麦とろを出す店や喫茶店を経営しているそうです。

Sresidence

また、『昭和レジデンス・赤盤』には海道さんと知子のロックによる「新・スナッキーで踊ろう」ライヴ盤が収録されております。残念ながらYouTubeにはありませんが。

この手の話はものすごい好きで、話は尽きませんが今回はこのあたりで。

トーマスさん、なんとかネタを生かせました。

★ご意見・リクエストなどコメントでお待ちしております。

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2021年9月25日 (土)

高橋研プロデュースのふたり

かすてら音楽夜話Vol.129

 

いきなりの、中村あゆみ「翼の折れたエンジェル」でございました。

今回取り上げるのは女性シンガーでありながら、男性の視点だったり、男性の口調で歌う人ですね。

「翼の折れたエンジェル」ですが、中村あゆみの3枚目のシングルとして1985年にリリースされ、オリコンで4位になります。実は日清カップヌードルのタイアップが付き、中村あゆみとともに売れました。当時の印象ではオリコンのチャート以上にヒットしたように思ってますが、それはCMのタイアップがものをいってますね。

この曲はプロデューサーでもある高橋研が作詞・作曲・編曲を手掛けてます。中村あゆみも偶然に高橋研と出会い、デビューに結び付けました。ただし、中村あゆみはそれまでまったく音楽的な活動とは無縁で、デビューにこぎつけたのは高橋が中村あゆみに何かを感じていたからだと思われます。

それは何か?中村の枯れたようなハスキーヴォイスが高橋の温めていたイメージに結び付いたのではないでしょうか。そのイメージとは、女性が憧れるような頼れる姉さん、いや男気のある姐さんといったところでしょうか。

アイドルの例を取るとファン層はほぼ異性が多くなります。歌謡界とは一線を画すポップス/ロックの世界ではこの図式はあまり当てはまらず、男性のソロならばファンは男女関係なく半々くらいでしょうか。女性のソロであると、男性ファンのほうが多くなるようなイメージです。ま、これはほぼデビュー直後の傾向ですけど、売れてくるとファン層も男女半々くらいに落ち着いてきますかね。

それを高橋はシンガーにそれまでの女性の言葉ではなく、やや強いメッセージを歌わせたり、男性の言葉を使ったりして、圧倒的に女性のファンを獲得するような作戦に出たのではないかと思われます。あるいは単に高橋がボーイッシュな女性が好きだっただけかもしれませんが。でも、圧倒的に女性ファンが多かったですね。

中村と高橋のコンビはこの後しばらく続きます。

さて、高橋研ですが、1979年にシンガーソングライターとしてデビューしますが、ヒットには恵まれず、その後楽曲提供のほうが多くなります。作詞としてはアルフィーの「メリーアン」などが有名ですが、作詞・作曲とも提供する相手は圧倒的に女性が多いという人です。

Mihiroryu

さて、中村あゆみとの関係を解消した高橋ですが、美裕リュウ(デビュー直後の表記、のちにミヒロリュウ)という女性シンガーと出会い、デビュー時からプロデュースと楽曲提供を行います。1995年頃ではないかと思います。

実は彼女はシンガー小柳ゆきの実の姉です。本名、小柳裕美。単に読みを業界っぽくひっくり返した芸名なのでした。

1997年のことでしたが、ワタクシは小山卓治(おやまたくじ)というシンガーソングライターのライヴを日清パワーステーションに見に行ったのですね。小山はソロのコンサートを開くほど売れてないので、複数組がジョイント出演するイベントでした。そこにミヒロリュウが出ていたんです。

次の小山の出るイベントにもミヒロリュウが出演してました。当時のミヒロリュウは高橋がプロデュースしていることは中村あゆみと同じですが、フォークギターを手にしてバックのメンバーも付けていたんです。

きいたことのない名前でしたが、CDショップに足を運び、セカンドアルバムの『Gardenia』を購入し、のちにデビューアルバムの『Ryu』も手に入れます。特に『Gardenia』は高橋の楽曲が多かったものの、結構内容のよい構成でした。自作曲もあったと思います。

その後、サードアルバムの『Super Love』が出まして、これを購入するとともに、渋谷の狭いライヴハウスにミヒロリュウを見に行きました。『Super Love』ではよりロック色を強め、自作曲も増えてました。そして彼女の単独ライヴは狭い空間に人がびっしりで、酸欠状態とともにつんざくような音が鳴り響き、その後数日は聴こえる音がくぐもるような症状となりましたが、満足できる内容でした。ミヒロリュウ自身も満足できるような発言をして、客の多さにも感謝してました。

これは、さらに地道にやっていくと売れていくんじゃないかと思っていたら、ミヒロリュウはあっさりとメジャー活動から離れ「SOLT」というバンドでインディーズでやっていくということになり、非常に残念だった記憶があります。

高橋としては中村あゆみ以上に手ごたえのある理想像ができたと思っていたかもしれませんが、ヒットには結びつかない例です。

 

現在のミヒロリュウです。セカンドアルバムからのシングルカット、「Howlin' Wind」でした。結構いいでしょう。歳を重ねましたが、日清パワーステーションと渋谷屋根裏で見た彼女はボーイッシュでかっこよかったです。あ、オレも高橋研目線?

ま、「頼れる姐さん」みたいな存在とすれば葛城ユキとか渡辺美里あたりがあがってきますかね。和田アキ子もそんな感じかな。

★ご意見・リクエスト等、コメント欄でお願いします。

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2021年9月14日 (火)

シーナとシンディ

かすてら音楽夜話Vol.128

本日取り上げるのは英米のガールポップの二人です。それも、デビュー直後に売れたというインパクトのある二人ですね。共通点はないんですけど、ほぼ同時期ということで。

Seaston2

イギリス、スコットランド出身のSheena Easton(シーナ・イーストン)は1959年生まれで1980年にデビューしました。

そのデビューのきっかけもかなりラッキーなものです。彼女は演劇を学ぶ学生だったのですが、BBCのドキュメンタリーでスター歌手を目指すという番組に起用されてEMIから契約されたのです。

全く無名の二十歳そこそこの女子が下積みもなしにいきなりアメリカでも売り出されることになりました。

 

デビュー曲の「Modern Girl」でした。映像はテレビ番組みたいですが、音源はシングルそのものです。番組全体がやらせなんでしょうかね。

とはいえ、ライヴ映像もあって、来日時のものみたいですが、結構歌は上手いです。Tokyo Festival「Modern Girl」

とはいえ、鳴り物入りの前評判の割には、ビルボード18位、UKチャート8位に沈んでおります。

なんか「モダンガール」なんていかにも日本人が付けそうな邦題みたいですが、もちろん原題です。結構アップテンポでコーラスワークも凝ってまして、ワタクシ的にはイケてると思い、デビューアルバムの『Take My Time』(邦題「シーナ・イーストン」)を思い切って購入したほどでしたけどねえ。

 

しかし、こちらのセカンドシングル「9 To 5(Morning Train)」がビルボード1位に輝きました。UKチャートでは3位なんですが、その他の国では軒並み1位で、彼女の最も売れた曲となりました。

デビュー曲と異なり、ミディアムテンポになりますが、彼女の伸びやかな中高音が見事に生かされている曲ですね。アメリカ人ってこういうほうが好きなんだろうか。

まあ、BBCは見事に金の卵を発掘してきたことになりますね。

その翌年、007映画「For Your Eyes Only」の同名の主題歌を担当することになりデビュー僅か1年で世界的なトップスターとなるのですが、ワタクシの興味はここまででございました。

というのも、シーナ・イーストンはデビュー時にはすでに離婚していて「Easton」という姓も最初の夫のものだったのだそうで。なんか夢が壊れるじゃん。

シーナの快進撃もこのあたりまでで、その後はわずかなトップ10ヒットがあるだけになってしまいました。2001年以降は目立った活動もなく、音源のリリースもありません。ちなみに、曲は職業作家のものばかりです。

Cyndilauper

一方のアメリカのガールポップはこの人、Cyndi Lauper(シンディ・ローパー)です。

衝撃的なデビュー曲はこちら。

 

1983年の「Girls Just Want To Have Fun」でした。いきなりのビルボード2位というヒットで、このプロモーションビデオとシンディの奇抜な服や髪が話題となりました。

実は同じ年にMadonna(マドンナ)がデビューしてかなりの売り上げとなっていましたが、個人的には音源を持っていないし、あまりセクシー路線には興味がわかなかったので、今回は取り上げておりません。

さて、シンディですが、1953年生まれですのでこの時すでに30歳。まあ、そうは見えないのですが、下積みのキャリアもありバンドでデビューしていましたが、芽が出ずに職を転々としながらソロになりました。

いわばシーナ・イーストンと違って崖っぷちのソロデビューなんですが、おりしもミュージックビデオまたはプロモーションビデオが盛んになりMTVなどの番組が出てきたころとシンクロし、ヒットに結び付いたと思います。この低予算で作られたビデオはプロレスラーやシンディの母親を起用したりしています。

これだけでしたら、ちょっと変わったオンナ、あるいは素っ頓狂な一発屋という認識になると思います。その評価を見事に覆したのがこの曲です。

 

翌1984年リリースのセカンドシングル、「Time After Time」でした。こちらはシンディとのちにThe Hootersを結成するRob Hyman(ロブ・ハイマン)との共作です。

デビューシングルと違いしっとりと歌い上げるバラード。こちらは見事にビルボード1位となり、グラミー賞の最優秀楽曲賞にシンディとハイマンがノミネートされたほどです。

ファーストシングルとセカンドシングルを収録したアルバム『She's So Unusual』(1983年、ビルボード4位)はシングルカット6曲を含み、なかなかお得なアルバムですね。

なお、シンディはセカンドアルバム『True Colors』でもシングル「True Colors」がビルボード1位を記録しました。

また、新人ながら映画音楽にも起用されたり、「USA for Africa」の「We Are The World」でもインパクトのあるソロを任されております。

シンディ・ローパーは親しまれやすいキャラクターですね。来日した時、出演した番組で「昔のハリウッドスターの唇」(上のシンディの画像をもっと強調したような感じでした)を実演してくれるというスターではやりそうもないことを見せてくれました。また、当時ワタクシの職場のお姉さまが「落ち込んでいたんだけど、この人の生き方を見習いたいわ。私と同い年なのよ」とも仰っていましたし。また、日本にも愛着があるようです。

ホントにいくつになっても可愛いお姉さまという感じです。

つうことで、ワタクシとしてはシンディ・ローパー押しでございます。

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2021年9月 4日 (土)

男は顔じゃない

かすてら音楽夜話Vol.127

Toto

前々回でBoz Scaggsを取り上げ、「TOTOの生みの親」ということを書きました。

つうことで、TOTOからぼちぼち語っていきましょう。

 

1978年のTOTOのデビューシングル、「Hold The Line」でした。ビルボード5位のヒット曲です。

ボズの『Silk Degrees』に参加したDavid Paich(デヴィッド・ペイチ、key)、David Hungate(デヴィッド・ハンゲイト、bass)、Jeff Porcaro(ジェフ・ポーカロ、drums)を中心に、ギターのSteve Lukather(スティーヴ・ルカサー)、ポーカロ三兄弟の末弟のSteve Porcaro(スティーヴ・ポーカロ)をもうひとりのキーボードとして迎え、リードヴォーカルとしてBobby Kimball(ボビー・キムボール)を据えたのがTOTOです(初期メンバー)。

ボズの次のアルバム『Down To Then Left』以降はルカサーもレコーディングメンバーに加わってます。メンバーそれぞれが演奏が超絶に上手でボズ以外にも様々なところでレコーディングに起用されてます。

曲はもちろん自作で「Hold The Line」はペイチが作りました。全員が曲作りを行いますが、特に初期はペイチの曲がメインでした。

このようになかなかかっこいい、デビュー曲なんですが、気になりません?ヴォーカリストのルックスですよ。

Bkimball

<ルカサーとキムボール>

こんな感じで。

ロックバンドのヴォーカリストはバンドの華ですよね。ストーンズのヴォーカルはご存じMic Jaggerなんですが、第6のメンバー(結成時はメンバー)ともいわれたIan Stewart(イアン・スチュワート)という人がいまして、キーボーディストでした。ストーンズのデビューに際してイアンはメンバーから外され、以降はマネージャー兼サポートのキーボードという地位に甘んじたのですね。

それは、一説によるとイアンがロックバンドらしからぬ風貌であったからともいわれてます。若いころから見るからにおっさんでしたからね。

もし、ミスチルのヴォーカルが桜井和寿でなかったら。SPITZのヴォーカルが草野マサムネでなかったら。

ヴォーカリストはルックスじゃないとはいえ、バンドの正面で観客を受け止め、ギグを繰り返すうちに、ヴォーカリストは次第に顔つきが変わり、怪しさやカリスマ性を身に着けていくのです。

んー、しかし、ボビー・キムボールについては以上に挙げたヴォーカリストとは別のベクトルに向かってますよね。貫禄十分、この声があるんだから文句ないだろう、みたいな。

 

こちらは初のTop10ヒットとなる「Rosana」(1982年)です。最高位はビルボード2位です。これも、ペイチの曲ですね。

TOTOは前評判の割にはシングルヒットが出ず、アルバムセールスも絶対的ではありませんでした。ですが、4年ぶりとなるヒットがこの曲です。アルバム『TOTO IV』も彼らの最大のヒットとなります。

「Rosana」ではAメロをルカサーがちょろっと歌い、キムボールのハイトーンにつなげるというやり方ですね。ある程度、ヴィジュアルも考慮したってことなんですかね。

『TOTO IV』の快進撃はこれにとどまりませんでした。

 

TOTO初のビルボード1位獲得曲、「Africa」でした。曲はペイチとジェフ・ポーカロによるものです。

皮肉なことにリードヴォーカルはデヴィッド・ペイチでキムボールはサビで歌うのみ。実はTOTOはハンゲイトとジェフ・ポーカロ以外がヴォーカルができるというバンドでもあったのです。

そして、この『TOTO IV』の後に、方向性の違いからボビー・キムボールは脱退してしまいます。ま、後年復帰しているんですが。これにより、初期のバンド編成は終わり、以降はシングルヒットに恵まれませんでした。

なお、ベースのデヴィッド・ハンゲイトも収録後に脱退していて、後任はポーカロ三兄弟の次男、Mike Porcaro(マイク・ポーカロ)が担当しました。そのため、プロモーションビデオの音源はハンゲイトのものですが、映像ではマイクが映っております。

Ccross

もうひとり、なかなか顔をさらさなかった人がおります。それは、「南から来た男」、Christopher Cross(クリストファー・クロス)です。

 

こちら、デビューシングルの「Ride Like The Wind」(邦題「風立ちぬ」、1980年)で、ビルボードいきなりの2位です。

デビューアルバム『Christopher Cross』(邦題「南から来た男」)は1979年末にリリースされました。アルバムジャケットはフラミンゴの絵で本人の写真さえありません。そして、ライヴもなし、メディアに出てこないというのは戦略だったのでしょうか。でも、わたしゃ、このアルバム買いましたよ。

謎の男だったわけですが、次のシングル「Sailing」(1980年)がついにビルボード1位。そして、アルバムとともにこの曲で1981年のグラミー賞5部門を受賞するという快挙をなしたわけです。

また、映画「Arthur」(邦題「ミスターアーサー」)の主題歌、「Arthur's Theme(Best That You Can Do)」(邦題「ニューヨークシティセレナーデ」1981年)もビルボード1位。

これで、ようやく顔が割れたというわけです。

これまた美声でなんともAOR向き。でも、ルックスはどうよ。という例ですが、今思えばちょっとぽっちゃりしたミュージシャン程度ですかね。でも、当時のソロシンガーたちとは別のベクトルのルックスでしょうか。現代ならこういうタイプもメディアによく登場しますよね。

なお、デビューアルバムの『Christopher Cross』は新人にしてはとても豪華なバックで構成されています。詳細は省きますが、「Ride Like The Wind」のバックコーラスはMicheal McDonald(マイケル・マクドナルド、元Doobie Brothers)だということはよくわかりますね。

それにしても、最初にボビー・キムボールを見たときにはびっくりしたなあ。

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2021年8月25日 (水)

チャーリー、お別れだ

かすてら音楽夜話Vol.126

Cwatts

昨日、The Rolling Stones(ローリングストーンズ)のドラマー、Charlie Watts(チャーリー・ワッツ)が亡くなりました。享年80歳。

チャーリーはストーンズがレコードデビューして以来のオリジナルメンバーで、それ以前にもプロとしてのキャリアがありました。もともとジャズに傾倒していて両親からドラムセットをプレゼントされてドラムの腕を上げていきましたが、それはジャズの演奏を基にしたものといわれています。

その演奏スタイルも独特で、使用するセットもシンプルです。派手なアクションもなく淡々とドラムを叩き続けるという印象があります。

ストーンズはミックとキースの不仲説などもありましたが、チャーリーに関してはすべてのメンバーが信頼し、チャーリーなくてはストーンズは成立しなかったでしょう。

チャーリーのパート以外の音をミュートしたものがあります。

 

「Honky Tonk Women」(1969年のシングル、ビルボードおよび全英1位)でした。

こうして聴いてみると、チャーリーはほとんどスネア中心で、あまりバスドラムやシンバルも使わない演奏というのがわかります。そのシンプルなドラミングに、キースやミック・テイラーのギターが絡みつき、独特なサウンドが展開されるのがわかりますね。

さて、そんなチャーリーですがずいぶん前から咽頭癌の治療を行ってきました。そんな中でもバンドはワールドツアーに出たりしていましたが。

昨年レディガガの呼びかけで行われたバーチャルコンサート「One World:Together at Home」にもストーンズは参加しWeb会議のやり方でメンバー4人がそれぞれの自宅からライヴ配信を行いました。実際にはチャーリーの前にはドラムセットがなく、チャーリーはスティックを握って音に合わせているだけという(キースのアコースティックギターもほとんど音が流れず)だけでしたが、これが最後に我々が見た「動くチャーリー」だったわけですけど。

今年、ストーンズはツアーが予定されていて、これにはチャーリーが参加しないというアナウンスがされていたところなんですが。

ともかく、ストーンズの全曲のドラムを叩き続けてきた人です。キースがレコーディングでベースを弾いたりすることはありますし、ミックもキースのヴォーカルでは引っ込みますし。唯一無二の存在です。さて、この後、ストーンズはどうなってしまうのでしょうか。

それでは、最後にこの曲を聴いてお別れしましょう。

 

チャーリーは永遠だ。ライヴも経験できてよかったです。さよなら、チャーリー。

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2021年8月16日 (月)

TOTOの生みの親

かすてら音楽夜話Vol.125

タイトルを見て勘のいい方はわかったと思いますが、今回取り上げるのはBoz Scaggs(ボズ・スキャッグス)です。

Bozscaggs

画像はボズの最大のヒットアルバム『Silk Degrees』(ビルボード2位)で、このアルバムからバックのミュージシャンにDavid Paich(デビッド・ペイチ、key)、David Hungate(デビッド・ハンゲイト、bass)、Jeff Porcaro(ジェフ・ポーカロ、drums)を起用し、この3人はほぼ全曲で演奏しています。この3人はのちにTOTOというバンドを結成することになります。

さて、話はやや飛びます。

ワタクシが本格的にレコード(当時)を聴けるステレオのアンプ内蔵、カセットプレイヤー付きレコードプレイヤーを購入したのが1980年のことです。継続的に続けられてしかも高収入なアルバイトを見つけられたからです。それを買うとともに、アルバムも買えるようになりました。といっても、月にせいぜい2枚くらいで、ほとんどは友人のアルバムを借りるかレンタルしたものをカセットにダビングすることのほうが多かったですが。

購入するアルバムも和洋半々くらいで、購入するものも限られてきますね。特に洋楽では当時「AOR」と呼ばれていた「大人向けのロック」を中心に購入していたと思います。そんな時にボズが『Middle Man』というアルバムをリリースし、ワタクシも購入しました。

なんとアルバムジャケットは女性のフトモモに頭をのせて煙草の煙を吐き出すボズというものでした。これには仕掛けがあってアルバムを開くとその女性はおそらくローティーンと思われ、それが網タイツのレオタード(というかバニースタイルか)というのがわかるというものでした。これ、当時だからできたことで、今なら倫理規定などに引っ掛かりますね。もっと過激なのがスコーピオンズの『Virgin Killer』というものですが、こちらはさすがに差し替えになっているようです。

 

アルバム『Middle Man』の収録曲で「You Can Have Me Anytime」(邦題「トワイライトハイウェイ」)でした。

この曲は日本のみのシングルカットで、Toyota Crestaという乗用車のCM曲になりました。途中のギターソロはカルロス・サンタナです。

また、当時フジ系列で「笑ってる場合ですよ!」というお昼のバラエティ番組がありました。「笑っていいとも」の前の番組です。当時漫才ブームで東京の番組ながら関西のお笑い芸人(という言葉はなかったです。漫才師ですかね)が頻繁に登場し、その中に西川のりおがいたのです。

Nisikawanorio

あ、なんか似てるなと。誰もそういうことは本人も含めて指摘しないのですが、わたしゃ、そう思いましたよ。顔デカいと。

すごい余談でした。

ともかく、アルバム『Middle Man』はビルボード8位まで上昇。このアルバムを気に入ったワタクシはそれ以前の『Silk Degrees』と『Down To Then Left』(ビルボード11位)をレンタルしてきて、2 in 1のように90分テープにダビングし、ウォークマンで聴いていたものです。

その中でも『Silk Degrees』は名曲ぞろいです。

中でも「We're All Alone」はフランキー・ヴァリやリタ・クーリッジがカバーするほどのバラードで、これまた日本のみでシングルカットされた曲です。

 

1976年のシングルカットで「Lowdown」でした。ビルボード3位のボズの最大のヒットです。ちなみに、Cash Boxというもうひとつのアメリカで権威のあるチャートでは1位になっています。しかも、グラミー賞の最優秀リズム&ブルース楽曲賞を受賞しています。

こんな感じで、やや癖はあるものの自然に流していても心地いいサウンドです。すなわち、ドライブなどにぴったりですね。

でも、ワタクシが最もこのアルバムで好きなのがこちら。

 

「Georgia」のライヴ版でした。

こういった感じの心地いいサウンドが続くので、ボズはAORの二大巨頭といわれました。もうひとりはボビー・コールドウェルです。まあ、ボビー・コールドウェルは途中でフェイドアウトした感もあります。でも、1988年にボビー・コールドウェルと共作の「Heart Of Mine」という曲をヒットさせてます。

『Middle Man』の後に、ボズは長い沈黙に入り、「Heart Of Mine」を含む『Other Road』を8年ぶりにリリースしました。

すでに77歳という年齢ですが、今でも活動中のようです。

いろいろ書きましたけど、ボズはいいですよ。映像とかなくて十分です。音だけで勝負できます。

同じように音だけで勝負できる人に、クリストファー・クロスやTOTOの初代ヴォーカリスト、ボビー・キムボールがいますが、彼らはヴィジュアルは超がっかりですね。ボズはそこまで行っておりません。ダンディですし。とにかく、クルマで聴くのが合ってますね。

★かすてら音楽夜話ですが、更新の間隔を空けます。ま、ネタが増えたというのもありますけど。引き続き、ご意見・リクエスト等コメントでお待ちしております。記事が気に入りましたら「いいね」もぽちっとお願いいたします。

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2021年8月 4日 (水)

才色兼備かつミステリアス

かすてら音楽夜話Vol.124

Kadoasami

1979年という年は、現在死語ともなった「ニューミュージック」の全盛期で、そのニューミュージック系の新人が大量にデビューした年でもありました。

ざっと挙げると、桑江知子、石川優子、沢田聖子、大滝裕子、松原みき…。そんな中に混じって、そろそろ24歳になろうとする彼女もいたのです。そう、門あさ美です。

また、どう考えても現在ではニューミュージックにくくれないだろうという、SHOGUN、カシオペア、一風堂、スペクトラム、チャゲ&飛鳥も同年のデビューです。

ま、この翌年の1980年以降にはアイドルの逆襲が始まり、ニューミュージック勢は次第に影を潜めていくのですが。

 

こちら、門あさ美のデビュー曲にして代表曲の「Fascination(ファッシネイション)」(作詞:岡田富美子 作曲:門あさ美 編曲:戸塚修)です。

オリコンのデータが不明なんですが、シングルとしても10~20位あたりに顔を出したのではないかと思います。

彼女のデータはかなり不足してますが、1975年にポプコン中部グランプリに出場しているという記録は残ってます。出身は名古屋で金城学院大学というお嬢さん学校の出身ですね。映像では歌っているだけですが、デビュー前はピアノの弾き語りをしていたというエピソードが残っています。

デビューしたものの、従来のニューミュージック系の掟を守るかのようにほとんどテレビには出ず、極端にマスコミへの露出が少ない人でした。

この映像はポプコン系の「コッキーポップ」という番組に出演した時のもののようで、ライヴっぽいのですが、音源はレコードからですね。見ていただいてわかると思いますが、大変な美人なのにもかかわらず、もやがかかったような不鮮明な映像にしていて美人であることをアピールしておりません。

そして、1988年までに10枚のアルバムをリリースしているのですが、そのほとんどの楽曲を自作しています。ファーストアルバム『Fascination』ではジャケットは本人とは似ても似つかぬ女性のイラスト像でまったくアピール度に欠けているんですね。ま、それ以降は顔を出すようにはなりましたが。

ただし、アルバムタイトルや収録曲のタイトルは思わせぶりなものがずらっと並びます。

サードアルバム『セミヌード』、4枚目のアルバム『Hot Lips』、5枚目のアルバム『PRIVATE MALE』。「すねてご機嫌」、「お好きにせめて」とかですね。なんとも思わせぶりですよね。

 

こちら同じく「コッキーポップ」の映像と思われます。

「Fascination」のB面曲でアルバム『Fascination』収録の「Blue」(作詞作曲:門あさ美 編曲:戸塚修)です。

このけだるさが漂う中、無表情さとは真逆にある程度の感情の入ったヴォーカルが彼女の真骨頂なのではと思います。

それに彼女のファッション、ワンレン、ボディコンですよね。1979年ですよ。そんな言葉も出現しなかったときにこれですもん。まさに、なんでも経験してきた大人のお姉さんという色合いを出しております。

また、彼女はほとんどライヴ活動も行わなかったようです。ただし、曲のアレンジやプロデュースは一流どころを使ってますし、参加ミュージシャンもこれまたすごいんですね。なにしろ、サウンドが心地いい。

事実、露出度が少ないにもかかわらず、2~7枚目のアルバムはいずれもオリコン20位以内のセールスで、最高位が9位です。このカテゴリーの人としては相当売れたんですね。

 

こちら6枚目のシングルで東亜国内航空のキャンペーンソングに採用された1981年の「月下美人」(作詞作曲:門あさ美 編曲:松任谷正隆)でした。

映像は別の番組か何かでしょう。これまた、音源に合わせた映像です。

まったくミステリアスな人ですけど、写真集は出してますね。どのような類のものかはわかりませんけど。

もしかすると、普段はOLとかやっていて、年に1回アルバムを作るみたいな感じだったのかも。あるいは自分で起業していたとか。ラジオの番組は東海ラジオで持っていたみたいです。ここもテレビを避けてますね。

でも、彼女の作品はかなりいいので、これから後追いですけど、アルバム買い揃えてみようかな。

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2021年7月24日 (土)

青田買いにあっても

かすてら音楽夜話Vol.123

ジャニーズ事務所に所属のタレント、従来であれば安定の職業作曲家に依頼した曲をシングルに持ってくるのが普通でした。

事実SMAPの初期は馬飼野康二や筒美京平に依頼しています。ですが、思ったほどの成果が上がらず、専属作家ともいえる若手にシフトしていくことになります。ま、これは現在でもこのやり方で行うことが当たり前になっています。

このあたり、印税は作家に支払われず1曲いくらで契約しているものと思われます。

Yamazakimasayoshi

<山崎まさよし>

しかし、SMAPは順調に売れてきたというのに、どういうわけかジャニーズ事務所は売り出し中の若手、山崎まさよしの「セロリ」をカバーすることになります。

 

山崎まさよしの「セロリ」(作詞作曲:山崎将義 編曲:山崎将義・中村キタロー)でした。

山崎まさよしと水着の女性軍という今となっては貴重な映像です。こちらは山崎まさよしの3枚目のシングルで、1996年にリリースされ、オリコン68位と沈んでいます。

SMAP版はYouTubeに上がっても即座に削除されるものですから、ここでは映像はありません。SMAPは翌年の1997年に「セロリ」のカバーをリリースし、オリコン2位を記録しています。こちら、ドラマとのタイアップだったようです。

しかし、これにより山崎まさよしの知名度はアップし、映画とドラマに主演するということにもつながっていきます。その後も着実にアルバムをリリースし、中堅のアルバムアーティストとして活動しています。

ジャニーズに才能を青田買いされたわけですが、それを確実にその後のアーティスト人生に生かした例ですね。

さて、SMAPは「セロリ」の次「Peace!」を挟んで「夜空ノムコウ」を1998年にリリースし、初登場1位を記録します。

 

スガシカオの「夜空ノムコウ」(作詞:スガシカオ 作曲:川村結花 編曲:スガシカオ・森俊之)でした。

上記の通り、スガシカオと川村結花の共作になりますが、本来は川村結花による別の歌詞があり、それを男性の視点によるものに変えるためにスガシカオが起用されたそうです。

すなわち「夜空ノムコウ」は提供曲であり、SMAPのオリジナルということになります。

のちにスガシカオはベストアルバム『Sugerless』でカバーし、川村結花もシングルとしてカバーしています。川村は自身の歌詞を封印しスガシカオの歌詞で歌っています。

当時のスガシカオはメジャーデビュー2年目です。一度はサラリーマンを経験した苦労人なので、「夜空ノムコウ」を自分が歌ってもいいのかと悩むことになります。歌詞の依頼にしても真剣に悩みかなりの時間をかけたようです。

でも、スガシカオは「夜空ノムコウ」をしばらく封印することで、自身のファンクをルーツとする活動に没頭できたといえます。

ところで、山崎まさよしとスガシカオは当時同じ事務所(オフィスオーガスタ)に所属していて、よく共演していました。

 

福耳で「星のかけらを探しに行こう Again」でした。リードヴォーカルは元バービーボーイズの杏子ですね。

現在、スガシカオは独立し、インディーズ活動を経てメジャーと再契約し現在に至っています。

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